まちづくり私論ー長野市周辺の場合ー
| 私は、平成2年〜6年の間、信州大学経済学部大学院で主に長野市周辺の地域計画の研究をしていました。 長野市という都市は、明治維新後県都になってから急速に発達した都市で、それ以前は、松代城下町と善光寺門前町、そして上田藩の飛び領だった交易地稲荷山がそれぞれ栄えていました。現在の旧長野市街地に県都が置かれてから、松代や稲荷山など周辺の都市の集積を吸収しながら発達したのが、現在のの姿の原型です。その後、モータリゼーション(車社会)が普及した昭和50年代以降、長野の都市集積の方向は、求心的なものから外に向かって転換しました。「中間地帯」と仮に名づけた川中島・若槻などの新興集積地が出現したのです。この結果、長野駅前や中央通りなどの商店街は衰退をはじめます。地価の高騰による用地取得の利便性と、全国有数のマイカー交通の普及率に対応した駐車場の必要性が、既存市街地の衰退と「中間地帯」の都市集積の増加に拍車をかけました。 このとき書いた学位論文では、既存の商店街などの「まち」を存続させながら都市としての発展を続けるためには、この「中間地帯」の都市集積を抑制し、イギリスの衛星都市(田園都市)のように旧市街地と松代や篠ノ井の市街地がそれぞれ独自の発展を保ち共存する政策をとることが望ましいという提唱をして終わりました。が、その後のようすをみますと、「中間地帯」はオリンピック開催を機に造られた環状道路に増殖し、その存在を抜きには、もはや都市生活が成り立たないといって良いほどの存在になりつつあlります。 商業立地の利便性の観点からみますと、こうした集積地の変化には、必然の流れがみてとれます。 |
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さて、では「まち」はどこへゆくのでしょう。米国地方都市のような、均一で、車で何キロ走っても変化のない都市と変化し、地方都市の「まち」は消失してゆくのでしょうか。私は、これからの「まち」は商業の集積地から住むための「まち」へと変化することで生き延びてゆくように思えます。 手近な例をあげます。作品紹介のなかの「表参道の家」は、自立して間もなくの頃コンサルタントをしていた有名住宅会社との協作なのですが、実は、商店街の中に専用住宅を建てたということで話題となり、新聞でもとりあげられました。この施主は、一流企業の勤め人なのですが、どうしても「まち」にすみたいということで、生家のあるこの土地に三世帯住宅を建てることになりました。前からあった家は、古くは商家、いわゆる町屋造りだったのですが、貸し倉庫になっていて奥におじいちゃんとおばあちゃんが住んでいました。建てかえるにあたり、貸し店舗のスペースや奥さんがクリーニング屋を始めるかなどといろいろ検討しました。そうしているうちに最初に話があってから3年余りが過ぎ、ようやく、具体的な設計となったのでした。店舗をつくらなかったのは、貸し店舗は、前の貸し倉庫のときに立ち退きで苦労したからで、また、自前でやるのはリスクを考えると尻込みするとのことでした。 ライフスタイルや建築には、理解とこだわりのある施主で、道路に面して設けたオープンスペースなどにも気品が保たれています。その新聞で取り上げられたときも、商店街のつながりがうんぬんという批判もあるなかで、自分たちは「まち」に住みたいのだと毅然と答えておられました。
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![]() 長野市全景 |
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そこで、いわゆる繁華街とよべる種類の「まち」は、東京都心の駅前でもほんの一角にしかなく、しかもほとんどが隣接して良好な住宅街をもっていることを思い出しました。長野の中心街でも大型店舗が移転する必然性を嘆くより、「まち」にすみたい人を増やすことが大切なのだと考えます。商業振興に偏ることなく、暮らしやすい「まち」、住みたくなる「まち」をつくることが大切だという発想の転換が必要です。 どうやら私たちは「まちづくり」について、商業を中心に考えすぎて大切なことを忘れていたようです。地方の都市では、都市の求心力を取り戻すために、ビジネス街・商店街が自然発生して繁華街になるような「まち」ではなく、農村部に住まなくなった若者たちやお年寄りが暮らしやすく、そして、歩いてもぼんやりと楽しく時間を過ごせるような「まちづくり」を考えてゆくことが大切なようです。 私が経済学を学ぼうとしていたころは(ほんの10年ほど前ですが)、売上収入の見こめない「文化」などと言い出すと異星人のように見られたものでした。が、ごく最近は経済学の世界でも「経験経済学」といって、「まち」の景観やぼんやりと時間をすごせる「空間としての機能」を評価する研究が、米国のほうからはじまりつつあるようです。「まち」に文化の香りを取り戻すことが、「まちづくり」の第一歩だといえるでしょう。
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