「自由」平成13年6月号掲載
国債累増の危機について考える
−唯一の救国策を「禁じ手」と考えるな−
大阪学院大学教授 丹羽春喜

将来世代の負担の有無
わが国の政府財政が、巨額の国債発行残高をはじめ政府債務の膨大化や政府金融資産の不良債権化などによって、現在、きわめて危険な状態に陥っており、そのことが一つの重大な要因となってわが国の経済全体も危機的な推移をたどっているということを、今では、ほとんどすべての人が指摘してやまない状況です。しかし、そのようなわが政府財政の破綻と国債発行残高の累増が内含する意味や、それがもたらす帰結を明確に把握している人は、意外に少ないようです。
私自身も、わが政府財政の破綻状況を憂えている点では、人後におちる者ではありません。しかし、私は、この重要問題について世に流布されている俗論の多くが、しばしば、きわめてミス・リーディングなものに堕しがちであることを、非常に遺憾にも思っています。本稿では、以下、この点について深く掘り下げ、それを平易に解説してみることにします。
まず、最もポピュラーな議論、すなわち、「国債発行は、将来世代の国民の負担になるからいけない!」という意見を取り上げて考えてみましょう。
「将来世代の国民の負担」は、財産をもらい損ねることを意味する
この意見は、国民の将来の世代が、いま発行されている国債の利息を支払ったり元本を償還したりしなければならないということを、指摘しているわけです。しかし、ちょっと考えればすぐにわかるように、この国債の利息や償還金を受け取るのも将来世代です。つまり、将来世代は、いわば、右のポケットからお金を出して左のポケットに入れなおすのと同じで、将来世代の全体としては負担になるわけではありません。この議論は経済学の教科書には必ず書いてあって、ケインジアンの基本的な立場になっています。この議論は疑う余地なく正しいわけで、私もケインジアンですから、基本的には、私日身もこの議論に立脚しています。
しかし、ここで考察を止めてしまってはなりません。そもそも、国債は有価証券です。将来世代の国民は、この有価証券を親の世代から遺贈されて持っていることになるはずです。ところが、親の世代から相続したこの国債という有価柾券の利息や償還金を、将来世代は、自分たちで自分たちに支払わねばならないことになるわけですから、相続し損ね、もらい損ねたのと同じです。「負担しなければならぬ」ということと、「もらい損ねる」ということとは、かなり内容が違うことではありますが、とにかく、これが、「将来世代の負担」なるものの一つの意味です。
「将来世代の国民の負担」は貧富の差の拡大を意味する
いま一つの重要な点は、所得分配への影響です。今後、国債を持っていない人たちからも徴収した税金から、国債を持っている人たちに利息や償還金を支払うことにならざるをえないでしょうが、そのことは、必然的に、「所得の逆進的な再分配」−−つまり、貧富の差の拡大−−をもたらします。もちろん、高速道路や空港や新幹線といった社会資本が建設されえたのは、国債を買って資本を提供してくれた人たちのおかげなのですから、社会がそれらの人たちに利息や償還金を支払うのは当然のことではあるのですが、なにしろ、現在、わが国における国債の発行残高が超膨大なものになってしまっていますので、今後のわが国の社会においては、このような国債の利子や償還金の友払いにともなう「所得の逆進的再分配」の影響が、きわめて激烈なものとなり、無事にはすまなくなるわけで、これも、「将来世代の負担」の、重要な側面でしょう。
「将来世代の国民の負担」は累積国債発行額が政府財政を破綻させ、不況を招き、それがシステマティックに作動して不況を永続させること
しかし、そういった「将来世代の負担の有無」などといった議論の次元を超えて、現在では、わが国の事態は、もっともっと深刻で緊迫したものとなっています。つまり、周知のごとく、現在、わが国においては、六百数十兆円にものぼる国債と地方債の発行残高をはじめとして諸種の政府・地方自治体などの公的債務(ないし不良債権)は膨大な額に達してしまっており、その返済・償還のめどを立てるといったことは、まったくなしえない状況です。実のところは、これらの公的債務の太部分は、年々、借り替えられつつ累増してきており、毎年のネットの償還額は僅かでしかありません。しかし、そのように借り換えに大部分を依存しているにもかかわらず、毎年の国家財政(および地方財政)においては、既発の国債(および地方債)や諸種の政府負債への利子支払額や償還額がどんどんふくれあがり、したがって財政赤字が拡大の一途をたどり、それをまかなうためにも、さらにまた、国債(および地方債)の新規発行や新規の借入金が、年々、ますます大きな額で必要になるという、「いたちごっこ」のような悪循環が発生して、いつはてるともなく続いています。しかも、国家財政の「一般会計」における「国債費」(国債・国家債務の利子・割引料支払額ならびに償還費)の累増だけではなく、最近では、地方財政を支える大きな役割を持つ「交付税および譲与税配布金特別会計」においても、巨額の借入金と利子支払瀬とが「いたちごっこ」の形で、爆発的に増えつつあります。
景気テコ入れのための国債発行額は、きわめて厳しく制限される
こういった政府財政破綻の圧力で、今後は、景気テコ入れのための財政政策の財源としての国債や地力債の新規発行額は、きわめて厳しく制限されざるをえないでありましょう。ということは、景気を支えるための総需要喚起型の財政政策が、いよいよもって貧弱になっていくということであり、わが国経済の不況・停滞は、いやがうえにも、ひどくなる危険性が濃いわけです。そのことは税収をいっそう落ち込ませ、それが、さらなる緊縮財政と、さらなる不況激化をもたらすことが不可避です。政府や地方自治体の公的債務の返済・償還や財政再建といったことは、ますます絶望的になり、不況→財政破綻→緊縮財政→不況という悪循環が、まさに、とどまるところを知らないのが隠しようも無い現状です。
増税、緊縮財政、財政構造改革、行革、等々で財政再建は無理
今日のこのような状況になってしまっては、増税、緊縮財政、財政構造改革、行革、等々、といった手段でわが国の国家財政や地方財政を再建するなどということは、実際問題としては、もはや、まったく不可能になってしまっています(ですから、いま提唱されている「官庁会計に複式簿記を! 貸借対照表の導入を!」といった改革などは、現在の危機を脱出するためには何の役にも立ちません)。また、このように、この問題が重大化してくると、政府の資産額との比較で「ネット(正味)で考えれば、わが国の国債発行残高の対GDP比率は、まだ、米国などよりも低い!」などと言っても、あまり慰めにはなりません。それに、なんといっても、政府の資産の大部分は、事実上、換金できないようなものばかりなのですから・・・。
「総需要」の拡大が重要な解決策である
要するに、いま、わが国では、経済の不況・停滞と政府財政収入の低迷が続いていて、しかも、景気テコいれのための財政政策はごく姑息な程度にとどめられているような状況であるにもかかわらず、国債・地方債をはじめ政府の負債がどんどん大きくなり、それへの利子や償還額の支払いもふくれ上がって、それをまかなうために、さらに国債や地方債などを巨額に発行しなければならないという「いたちごっこ」の悪循環プロセスが、急速に進行しているのです。
経済が不況・停滞を脱却して、力強い成長をはじめれば、財政収入も増え、この「いたちごっこ」の悪循環から脱出することができるようになりますが、そのように経済を力強く成長させはじめるためには、「総需要」が十分に拡大することが必要です。つまり、現在のわが国の経済では「デフレ・ギャップ」という形で生産能力の余裕は十分にありますので、「総需要」が十分に拡大しさえすれば、それで万事うまく解決しうるわけです。しかし、それが、従来の政策オプションの範囲内で考えるかぎりでは、事実上、不可能になっているのが現状です。
簡単な経済用語の知識
「総需要」とは、国民経済計算のGDP勘定における(1)「民間最終消費支出」(その大部分は家計消費支出)、(2)「民間投資支出」、(3)「政府支出」(中央政府に地方自治体をも加えた「一般政府」による公的投資および政府最終消費)、(4)財貨・サービスの「純輸出額」(すなわち輸出額から輸入額を控除した輸出超過額)の四項目の合計額のことです。この意味での「総需要」の額はGDP額に一致します(ただし、分析作業の都合によっては定義をすこし変えて、(4)の「純輸出額」を、輸入額を控除しないままの「輸出額」に換えて算定し、分析に用いるときもあります)。なお、この(3)「政府支出」には、国債・地方債の利子支払額や償還額は含まれません。また、(2)の「民間投資支出」と(3)のなかに計上されている「公的投資支出」は、ともに現物投資(用地買収費を含まず)のみを示しており、金融資産への投資額は含まれていません。
「民間投資支出」と「政府支出」の支出額が経済成長を決定する
上記の四項目のうちの(1)「民間最終消費支出」(その大部分は家計消費支出)は、事実上、ほとんど全面的にGDPによって決定されるのが現状です。もっと厳密に言うと、(2)(3)(4)の三項目から発生・作動する「乗数効果」によって(1)の民間消費(家計消費)は誘発されるわけです。現在、わが国の経済では、(2)が年率90〜110兆円、(3)が年率約90兆円、(4)が年率10兆円程度、したがって(2)(3)(4)三項目の合計額が、およそ年率200兆円前後(ぃずれも名目値)です。そして、この約200兆円から発生・作動する乗数効果によって年率約300兆円の「民間最終消費支出」(家計消費支出)が誘発され、結局、総需要=GDPが年率500兆円前後(200+300=500)となっているわけです。つまり、GDPの動きを決定するのは、この(2)(3)(4)の三項目のいわゆる「自生的有効需要支出」であり、そのうちの(4)「純輸出額」が比較的小さな額ですので、結局、主として、(2)「民間投資支出」と(3)「政府支出」の二項目の支出額が大きいか小さいかで、経済成長率の高低は決定されるのです。
従来の発想では経済成長は不可能
従来の考え方に固執しているかぎり、(3)の「政府支出」を増やすための財源は国債発行ということになるでしょうが、上述のごとく、今後、それが、きわめて姑息な程度に抑えられ、したがって、「政府支出」が伸びえなくされてしまうことになるのは、不可避でしょう。(2)の「民間投資支出」も、長く続いてきた不況・停滞によって企業投資の予想利潤率(ケインズの言う「資本の限界効率」)がすっかり低くなってしまっており、利子率が極端に低くなっているにもかかわらず、企業の投資活動は落ち込んでいて、このままでは、この「民間投資支出」が大幅に回復・増大するような見込みはたちません。
しかも、全般的に「不良債権」の処理をいそがせようとする政策が強行されているため、銀行による「貸し渋り」や「貸し剥がし」がひどくなり、企業倒産もますます多発するような状況ですので、民間投資は、むしろ、さらに落ち込んでいく危険が大きいと考えるべきでしょう。ということは、従来パターンの政策運営のままでは、今後もわが国のGDPは伸びることができない(経済は成長しえない)ということです。にもかかわらず、国債・地方債の発行額は、利子支払額の膨張との「いたちごっこ」で、ますます大幅に増大していくいっぽうだというわけです。
貯蓄額が国債購入に充当されても、経済成長のための「政府支出」は増加しない
ここで、誰もが心配になることは、この「いたちごっこ」で発行額が膨れ上がっていく国債・地方債を、わが国の資金市場が消化し続けていく(つまり買い続けていく)ことができるだろうかということでしょう。
よく知られているように、GDPから上記の(1)である「民間最終消費支出額」を差し引いた残額は「納税額」と「貯蓄額」です。したがって、「納税額」と「貯蓄額」の合算額が、上記の(2)「民間投資支出」と(3)「政府支出」および(4)「純輸出額」の三項目の合計額に等しくなるわけです。正常な状態では、(2)(3)(4)の「自生的有効需要支出額」が増やされていけば、すぐにGDPも増大し、(1)の民間消費も大きくなりますが、それと同時に納税額も貯蓄額も増えて、上記の均衡状態が保たれながら、経済は成長していきます。しかし、今後のわが国では、貯蓄額が国債や地方債を購入するのに充当されたからといっても、それによって、(3)のような意味での「政府支出」が増えるわけではありません。なぜならば、上記でふれましたように、国債・地方債の利子支払額や償還額は「総需要」に含まれるものではないからです。
国債大量発行による市中金利の高騰は制御可能だが・・・
このように、利子支払いや償還をまかなうべく発行される国債・地方債の消化のためにGDPのうちの貯蓄額が充当された場合には、そのぶんだけ、資金市場では、民間投資に向かうべき資金供給が減少し、市中金利が高騰して、民間投資支出がいっそう落ち込み、不況をますます激化させることになります。いわゆるクラウディング・アウト現象の発生です。また、そのような市中金利の高騰は、政府が支払わねばならない国債・地方債の利子の額をも増加させることになり、それが、さらに巨額の国債・地方債の発行を必要とさせるという悪循環を生じさせます。
しかし、わが政策当局がいくら無為・無策を習いとしているといっても、クラウディング・アウト現象が上述のごとく猛威を振るいはじめたとなれば、何か、対策を講じようとするはずです。日銀による「買いオペ」がそれでしょう。つまり、新規に発行された国債・地方債を消化しうるだけの余裕資金が資金市場で不足しているようなときには、日銀が、民間から既発の国債・地方債などの有価証券を買い取って、その代金の形で、資金市場に資金を供給し、それによって新規発行の国債・地方債が消化されうるようにするわけです。借り換えが非常に多くなっているとはいえ、やはり、ある程度はネット(正味)の償還も行なわれねばならないでしょうが、それをまかなうのにも国債・地方債の新規発行とその市中消化を行なわねばならない状況ですから、結局、やはり、日銀の「買いオペ」による資金市場への資金供給に依存することになります。
こうなると、市中銀行などの金融機関は、利用可能な資金をすべて国債・地方債の購入にあてて利息を稼いだうえで、その国債・地方債を日銀に買い取らせて、その代金で、また、新規に発行された国債・地方債を購入して利息を稼ぎ、それをまた、日銀に買い取らせるといった、トンネル会社のような営業ばかりをやるようになるものと思われます。これほど、楽で確実な商売はないでしょう。民間投資への融資などは、かえり見られなくなる怖れが生じるわけです。いわば、日銀による、新規発行国債の直接引き受けが行なわれるのに近いような状況になっていくものと思われます。私は、日銀による国債(および地方債)の直接引き受けということを、べつに「禁じ手」だとは思っていません。しかし、このように、「総需要」の拡大を通じて経済成長をもたらすといったことには役に立たないような形でのそれでしかなく、しかも、百パーセントの日銀引き受けではないために、民間(主として機関投資家)へ大きな額の国債・地方債の利子や償還額が支払われ続け、それが、「雪だるま」のごとく膨れ上がっていくことは、非常に危険だと指摘せざるをえません。以下に、この点について、もう少し詳しく考察しましょう。
最も怖れる「遊休資本設備」の廃棄
ここで、私が最も怖れていることを述べておかねばなりません。現在すでに、「平成不況」がはじまってから十年にもなりますが、さらに、上述したような「いたちごっこ」の、そして、経済成長には結びつかないような国債・地方債の発行額(ならびに、その他の政府債務)の大幅な累増が続き、それにともなう上述のごとき諸種の有害な影響による不況・停滞のさらなる深刻化が超長期にわたって持続して、経済回復の見込みがまったく立たないということになると、ついに、企業が、稼働率が低下した「遊休資本設備」を、どんどん廃棄しはじめるといった時がくるものと思われます(現在すでに、それが、ある程度、はじまっています)。小渕内閣のときには、国家政策としても、そのような企業セクターの設備廃棄を促進しようとさえしました。労働力にしても、ながく失業している人たちは、その技能を失って老い、生産能力を喪失していきます。そのようにして、わが国の経済社会が持つ「真の財源」である巨大な「生産能力の余裕」−−これは、現在のところは、大規模なデフレ・ギャップという形で存在しています−−が失われてしまったあかつきには、わが国の経済を再興させることが、きわめて困難になります。なぜならば、そのように「生産能力の余裕」を失ってしまえば、「総需要」を増大させても、それに応じて諸商品の生産・供給を増やすことができず、すぐにインフレ・ギャップが発生して、悪性の大幅な物価高騰が生じるという発展途上国型の経済に、わが国の経済が変質してしまうからです。また、輸出力も衰え、わが国は、たえず貿易収支の赤字と外貨の不足に悩まされ続けるという、これまた、発展途上国型の経済体質に陥ってしまうでしょう。
そして、その後のハイパー・インフレーション
ここで、もう一つ、悪夢が生じてきます。すなわち、このような頃になりますと、累増してやまない国債・地方債の利子支払額や償還額から発する影響が心配になってくる頃でもあるということです。
上述のように、「政府」(一般政府)からの国債・地方債の利子支払額や償還額は、そのままでは「総需要」の構成項目としての上記(2)「政府支出」には含まれません。しかし、国債・地方債の利子支払額は、「総需要」にではありませんが、家計や企業の所得には算入されるのです。企業からの利子の支払額は、企業の営業余剰(つまり利潤額)からの再分配ですから、それは、国民所得ないしGDPの大きさには影響をあたえません。しかし、わが国の経済社会に向けての政府からの国債・地方債の利子支払額の増加は、いわば減税のような効果を持ち、消費などの支出の増加を誘発するというプロセスを通じて間接的には「総需要」にも刺激的な影響をあたえます。しかも、それが、マクロ的には貯蓄からではなく、日銀からの追加的な資金供与によってなされるのです。だとすれば、景気を支える効果を持っているはずだということになりますが、現在のところは、そのような政府による利子支払額は、その大部分が「機関投資家」−−すなわち、銀行、保険会社、証券会社など−−に支払われており、その機関投資家たちが不況による不良債権の累増などで多額の損失を計上している最中です。また、マクロ的には国債・地方債の発行額の大幅な増加によって上述のクラウディング・アウト現象が多かれ少なかれ発生しているなど諸種の有害な副作用が多発して、いやがうえにも景気が悪化していますので、それらのマイナス効果によって隠されてしまって、国債・地方債の利子支払額の累増による消費支出の増大効果は、まだ、ほとんど目に見えるようなものとはなっていません。もちろん、上述のごとく、民間投資も、冷えたままです。
「余裕生産能力」廃棄後の国債の利子支払額が消費を刺激する
しかし、上記で詳述しましたように、今後、国債・地方債の利子支払額が非常に巨額なものに膨れ上がり、しかも、それらが、事実上は、日銀の資金供給によって支払われていくものとなるとすれば、そのような利子支払額から誘発される消費支出は、相当に大きなものとなってくるはずです。国債・地方債の償還額も、それらが事実上は日銀からの追加資金供与によって経済社会に支払われているということになると、類似の効果を生みます。このような消費支出増大効果が、もしも、いますぐに発現してくれれば、それは、わが国の経済を立ち直らせる要因として作用するかもしれません。しかし、本稿でこれまで述べてきましたことでもわかるように、そのような国債・地方債の利子支払額の累増からもたらされる消費支出増大効果が実際に顕著な形で現れてくるのは、幾年も後のことでしょう。その頃には、上記でのべましたように、わが国の経済における「余裕生産能力」がつぶされてしまっている可能性が濃いのです。だとすれば、そのようなもっぱら日銀から供与される資金による国債・地方債の利子支払額や償還額の累増からもたらされる消費支出増大効果は、インフレ・ギャップを発生させ、悪性の物価上昇スパイラルを生じさせる危険性が大きいわけです。しかも、これは、「いたちごっこ」のような悪循環的累増プロセスをともなっているわけですから、ハイパー・インフレーションにまで進んでいくメカニズムを内含しています。
わが国の経済と政府財政が深刻な危機にあることは経済論壇も認めている
わが国の経済論壇の状況を概観してみたかぎりでは、本稿で私が論述してきましたような徹底的に掘り下げた考察までやった人はあまり居ないようですが、しかし、わが国の経済と政府財政とが、現在、深刻きわまる危機にあるということは、誰もが、それを感じているところです。最近では、あらゆるメディアがそれを指摘するようになってきており、大衆向きの週刊誌なども、ほとんど毎号、わが国の経済・財政の全面的な破局が至近に迫っていると、センセーショナルに書き立てていることは、読者もよくご存知のところでしょう。そればかりではなく、本誌の先月号でも私が紹介・論評しましたように、吉田和男氏(京大教授)や野村総研といった専門学者や一流の大手シンク・タンクなども、わが国の経済と財政が決定的な破綻状態に陥りつつあり、それから脱出する方途を工夫することは、もはや、事実上、不可能になってしまったとする、いわば「匙を投げた」ようなシミュレーション分析の結果を公表するにいたりました(吉田論文は『日本経済新聞』の「やさしい経済学」の欄に平成十二年十一月九日より数回にわたって掲載され、野村総研のシミュレーションは、『週刊新潮』平成十二年十一月三十日号で大きく報道されました)。
ただし、吉田モデルは、生産能力の余裕を無いものと仮定したうえで、年々の政府財政赤字額ぶんだけ民間保有の国富が、毎年、食いつぶされていくと想定した、非常に風変わりで、そして、端的に言えば、きわめて非現実的なモデルです。この吉田モデルでも、デフレ・ギャップという「生産能力の余裕」を考慮に入れれば、わが国の経済の全面的な破局という計算結果が生じるまでに、吉田氏の算定よりは、もう少しは猶予期間を見込めるものと思われます。いずれにせよ、私が本稿で行なってきた考察とはかなり異なった想定によっているものであるとはいえ、吉田氏や野村総研による恐怖に満ちたシミュレーション結果には、やはり、慄然とせざるをえないようなものを感じざるをえないということは、否定しえないところです。
旧来の手法でも可能性はあるが危険を伴う
しかし、そうは言っても、今でもまだ、経済・財政についての計量モデルの構造やシミュレーション・シナリオなどにいろいろと工夫をこらしてみれぱ、財源を国債にたよる旧来の政策パターンの枠内で考えても、覚悟を決めて思いきった大量の国債増発をあえてして、つとめて積極的かつ大規模な「最終決戦的」な景気刺激の財政政策を断行することで、わずかに残された一条の血路をひらきうる可能性があるという計算結果も得られると思われます。しかし、国債発行を財源とするという旧来のパターンに立脚したままであるかぎり、それは、いわば、大東亜戦争の後半にわが連合艦隊が最後の望みを託して総力をあげて敢行した(そして敗れた)「捷一号作戦」(フィリピンのレイテ島海戦)のようなものであって、「最終的な一六勝負」のような意味を待ったものになるにちがいありません。計量モデルやシミュレーションの信頼度や確度にも不安があるでしょうし、そのような思い切ったギャンブル的な重大決断を下すことを、現在のわが国の政策担当者たちに求めることは、かなり非現実的であり、きわめて危険です。すなわち、そのような「一六勝負」への恐怖によって、その政策案が、すこしでも姑息かつ中途半端なものに改変されてしまえば、あのレイテ島沖での粟田艦隊(戦艦大和、長門などの主力部隊)の反転のようなことになってしまい、結果はまったくの「虻蜂とらず」に終わって、わが国の経済と財政の破綻状況は、現状よりもさらに絶望的に悪化
した状態に陥ってしまうことになる危険性が高いわけです。また、やはり先月号でも指摘しておいたことですが、いまや、わが国では、白暴自棄的に、極度の苛斂誅求による増税と徹底的な財政支出の削減を提案している向きも多くなってきています(たとえば、『週刊文春』平成十二年十一月十四日号では、消費税の三〇パーセントへの引き上げ、所得税の二倍増徴、公共投資の全面停止、防衛予算の全廃と自衛隊の解散、公務員の半減、等々、が主張されています)。しかし、そんな自虐的なことを本当に実行してしまったりすれば、わが国の経済の不況が極度に激甚なものとなり、政府の財政収入も激減して財政破綻がいっそう深刻化します。そればかりではなく、わが国民の窮乏化がその極に達します。防衛力も無力化してしまいます。そんなことをやってしまえば、事実上、わが国は滅び去ってしまうことになるのだと、考えねばなりません。
国民に負担をかけない国の「貨幣発行特権」で安全確実に景気回復と財政再建が可能である
いま必要なことは、そのような自暴自棄的なことを叫ぶことではありません。冷静に、なにが本当に必要かを考えるべきなのです。本稿の分析にてらしてみれば明らかになるように、そして、やはり前号でも指摘しておきましたが、いま本当に必要なことは、政府の累積債務のうち少なくとも二百数十兆円ぶん程度を速やかに償還するとともに、経済を不況から脱却させ、今後十年ぐらいは、平均年率七パーセント程度といった高い経済成長率を達成しうるような大規模なケインズ主義的景気回復策を実施する必要があるということです。そして、そのための、たとえば、当面、三〇〇〜四〇〇兆円程度の新規の政府財政収入を、租税にも国債にもよらずに、そして、国民(現世代も将来世代も)にまったく負担をかけない形で確保する必要があるということなのです。
本稿での上述の分析が疑う余地なく明確に示唆していますように、この「租税にも国債にもよらずに」、そして、現世代のみならず将来世代の国民にも「まったく負担をかけない形で、巨額の新規財政収入を確保する」ということこそが、まさに、わが国の存亡を決する死活的に重要なことなのです。言うまでもなく、これが「一六勝負」ではなく安全確実に可能になるのは、私が、これまで、本誌でも幾度となく提言し続けてきましたように、政府貨幣についての「国(政府)の貨幣発行特権」(セイニアーリッジ権限)を、直接あるいは間接に、大規模発動した場合のみなのです。それを「禁じ手」だなどと考えてためらっていれば、わが国は、事実上、滅びます。しかも、時間はあまり残されてはいません。(本誌平成十二年八月号の私の論文では、民間草莽からの地域通貨運動に、ある種の積極的可能性が内含されていることを指摘しましたが、しかし、現在のところでは、まだ、それに向けての道のりはきわめて遠く、やはり、国の「セイニアーリッジ権限」の発動に望みを託さざるをえないわけです