石油油ショック」以降の日本経済を回顧・考察する


                            『ジャパンポスト』平成15年3月1日号 掲載

                              日本経済再生政策提言フオーラム会長 丹羽春喜(大阪学院大学教授)
                       丹羽経済塾塾長 丹羽春喜(大阪学院大学教授)



 ケインズ時政策で乗り切った石油ショック

 現在、イラク問題に関連して石油市場が動揺している。これは、かつての「石油ショック」のような危機的事態にはならないであろうが、こういった情勢にかんがみ、本稿では、あの当時から現在までの日本経済の歩みを回顧し、考察してみたい。

「石油ショック」が起こった一九七三年(昭和48年)ごろのわが国の経済では、高度成長の過熱化によってインフレ・ギャップがある程度発生し、それがまだ収束しではいなかった。その不運なタイミンダで、石油ショックの痛撃を受けたのである。73年の秋には石油の供給が途絶する倶れから、また、74年からは、当時の原油世界市場で独占的支配力を恣にしていたOPEC(石油輪出国機構)による原油価格の超大幅な連続的引き上げと、それに追随した一次産品価格の全般的高騰により、わが国は、大幅な物価の上昇に襲われるにいたった。

これに対処するために、当時の田中角栄首相の「政敵」でありながら、急遽、経済担当副総理として入閣した福田赳夫氏の釆配で、厳しい「総需要抑制政策」が実施されたわけである。

 この「総需要抑制政策」は、政策不況によるデフレ・ギャップ発生の犠牲が大きかったとはいえ、物価の安定をもたらしえて、確かに功を奏した。また、わが産業の合理化と輸出増進による外貨(対外交換可能通貨)の獲得が、この政策によって促進され、わが国は高価になった石油をも十分な量で購入し輸入することが可能になり、「石油ショック」は成功裏に吸収されえた。「日本経済の第二の奇跡」がこれであった。実は、このような当時の「総需要抑制政策」は、まさしく、インフレ・ギャップ縮小を企図したケインズ的な総需要管理政策の典型例であったのである。


 積極財政を挫折させた日銀の奇怪な政策範換

 田中内閣の瓦解後、三木内閣の後を受けた福田内閣の下では、1978年度に、「石油ショック」の時から放置されてきた政策不況の状況から脱却するために、総需要紘大を目指したケインズ的積極財政政策が、かなりの規模で実施に移された。
 しかし、その1978年には、フロート制(変動為替相場制度)の特性により、三木内閣時代にも続いていた政策不況下でのわが産業の「輸出ドライブ」による円相場上昇圧力が、タイム・ラッグ的に現われてきて、当時としてはきわめて大幅で急激な「円高」とわが輸出貿易の不振となり、福田内閣の積極財政政策で芽生えはじめた景気回復も、その勢いを殺がれてしまった。しかし、当時、いっそう決定的にわが国経済の景気回復に足止めをかけたものは、実は、日銀の奇妙な政策転換であった。
 
 政府が積極的な財政政策を実施する場合に、その財源調達を国債の発行とその市中消化に頼るものとするならば(福田内閣もそうした)、この「市中消化」される国債の購入代金分の資金が民間から国庫に吸い上げられる。下手をすると、そのことに起因する民間資金の不足と金利高騰により、民間経済の活力が損なわれ、財政政策による景気テコ入れ効果が相殺されてしまう。これが、「クラウディング・アウト効果」である。新古典派の、とくにフリードマンたち「マネタリスト」グループは、このことを、かれらの「ケインズ的財政政策」無効論の重要な論拠としてきた。

 しかし、中央銀行(日銀)が民間保有の有価証券(既発の国債や地方債)を買い上げて、その代金支払いという形で民間に資金を注入すれば(いわゆる「買いオペレーション」)、新規発行国債の市中消化によるクラウディング・アウト効果をうち消してしまうことができる。

 戦前の高橋是清蔵相は、新規発行国債を直接に日銀に引き受けさせたのであるから、クラウディング・アウト現象発現の回避は完全であった。また、私(丹羽)が、近年、繰り返し提言してきているように、わが国の現行法においても政府に無限に与えられている「国(政府)の貨幣発行特権」(セイニアーリッジ権限)の大規模な直接、あるいは間接の発動を財政政策のための財源調達手段とするのであれば、クラウディング・アウト効果はまったく生じないですむ。

 事実、国債の大量発行が戦後はじめて行なわれるようになった1965年(昭和四〇年)から73年秋の石油ショックが起こるまでの期間で、毎年の新規発行国債の市中公募額に対する日銀の「買いオペ額」(売りオペを控除したネットの額)の比率は50〜60%という高率であった。ごのような日銀の政策が、クラウディング・アウトを防ぎ、日本経済の高度成長を支える重要な役割を果たしていた。

 ところが、1970年代後半(昭和五〇年代)に入ると、日銀の「買いオペ」規模は、非常に縮小され、新規国債の市中公募額に対する「買いオペ額」の比率は、わずかに10〜15%に抑えられた。とくに、福田内閣の積極財政政策で景気振興がはかられた昭和五二〜五三年度(1977〜78年度)の時期には、この「買いオペ比率」は非常に低く抑えられたのである。

 福田内閣の積極財政政策による景気振興政策が、案外にその効果が乏しかったのは、明らかに、当時、このように消極的な姿勢に転換してしまった日銀の異常な「買いオペ縮小」政策によって、いわば「裏切られ」たからである。もしも、日銀がそのような政策姿勢の転換をするようなことをせず、従来と同様に、政府の財政政策を十分な規模の「買いオペ」でバック・アップしたとしたならば、当時のわが国の市中金利はもっと低く抑えられ、それによって民間設備投資の回復がいっそう促進されて、福田内閣の積極財政による景気振興策は、より大きな効果をあげることができたであろう。また、そのような政策は、もっと長く続けられえたであろう。それによって、わが国の経済は、高度成長軌道に復帰しえていた可能性が高い(私は、そのことを、精緻な計量経済学的モデルのシミュレーション分析で確認ずみである)。


 80年代、米国経済を破壊したポルカ一連銀議長(「プラザ合意」の意味は?)

 実は、全く同様な有害きわまる金融政策が、日本の場合よりもずっと厳しい形で、同時期の米国でも行なわれていた。すなわち、当時のソ連軍事力の急速な拡大(そのころ、ソ連軍はアフガニスタンにも侵攻していた)に対抗するために、米国の連邦政府は、巨額の防衛力拡大予算を組み込んだ大幅な赤字財政を実施していたのであるが、確信犯的な反ケインズ主義者として知られていた「連邦準備制度」理事会議長(当時)のボルカー氏に率いられた米国の「連銀」は、あたかもソ連に味方しようとするかのごとく、そのような連邦政府の防衛力拡大のための赤字財政を「買いオペ」などの金融政策でバック・アップすることを、拒否してしまったのである。

 当然、はなはだしいクラウデイング・アウト現象が発生し、1970年代末より80年代初頭にかけての米国では、金利が年率20%をも超えるほどにまで暴騰し、さらに、この超高金利の結果として、異常な「ドル高」が生じた。かくて、レーガン政権時代に、米国の産業は、ほぼ全面的に壊滅し、空洞化してしまったのである。米国の産業がある程度立ち直ることかできるようになったのは、1987年夏にボルカー氏が解任されてグリーンスパン氏に代わり、米国の金融政策が是正され、そして、日本の慢性的な内需不足を主要な原因とする大幅な「円高・ドル安」への動きが昭和六〇年秋(1985年秋)から始まって、1990年代に入ってそれが定着し、米国産業が対外競争力をやや回復しえてからのことであった。

1985年秋の「主要五ヵ国蔵相会議」での有名な「プラザ合意」以降、「円高」が急速かつ大幅に進み、わが産業の苦戦と空洞化が深刻化したために、これこそがわが国の経済を抑え込もうとする国際謀略であったにちがいないとする風説が、根強くささやかれている。しかし、上述のごとく、1980年代においては、ボルカー氏の指揮による不合理な米国金融政策からもたらされた異常な「ドル高」(相対的な「円安」)と、わが国の慢性的な内需不足によるわが産業の輸出ドライブの激化との結果として、わが国の対米輸出黒字は巨額に累積し続けたのであるから、早晩、為替レートが大幅な「円高」に向けて走りだすことは必至であった。85年秋の「プラザ合意」は、そのきっかけとなったにすぎないのである。


 居直った大蔵省

 わが大蔵省(現在の財務省)は、福田内閣の積極財政が、多額の国債発行を財源として強行されたにもかかわらず、その成果が乏しく、国家財政を悪化させただけに終わったとして、それを盾にとり、以後、ケインズ的財政政策の大規模な実施は行なわないぞという、いわば「居直った」政策姿勢を公にするに至った(付表は、政府支出の伸び率がGDPの伸び率よりもずっと低く抑えられて現在に至っていることを示しており、この「居直った」政策姿勢が頑固に固執されてきたことを物語っている)。


  付表 GDPと政府支出額の伸び率比較(1995年価格評価の実質値)

年度 GDP 政府支出額 左欄のうち 公共投資
1980→2000年度 1.71倍 1.49倍 1.22倍
1980→1990年度 1.50倍 1.19倍 1.10倍
1980→1995 年度 1.61倍 1.57倍 1.57倍
1995→2000年度 1.07倍 0.95倍 0.78倍


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(注)本表は、平成13年(2001年)から公式に用いられている新算定方式でのGDP勘定から算定した。
  *・・・「政府現実最終消費支出額」と「公的資本形成額」の合計である。地方自治体をも含む「一般政府」概念によった。
 **・・・「公的資本形成額」である。若干の公的在庫投資額をも含む。
(典拠)「国民経済計算年報」(平成14年版)、60〜65頁。


 そして、わが国経済の不況・停滞からの脱却は、ケインズ的財政政策ではなく、民間活力の利用や規制緩和によって行なうべきだとする立場に逃避してしまった。中曽根内閣以降の歴代内閣は、.基本的には、これに従ってきた。しかし、言うまでもなく、ミクロ的な民間活力の利用や規制緩和でマクロ的に総需要を拡大しうる現実的な可能性はきわめて乏しく、かつ、不確実である。総需要の大幅な拡大なくして、経済の不況・停滞からの脱却はありえない。これは鉄則である。したがって、民活や規制緩和などは、とうてい総需要政策に取って代わりうるような中核的な経済政策になりうるものではなかった。小泉内閣の構造改革政策も同様である。


 バブルも「反ケインズ主義」の結果だった

 ここで、このような大蔵省の反ケインズ的な政策姿勢との関連で、「バブル」の発生原因についても、簡単に言及しておきたい。

1980年代の半ばごろ(昭和六〇年ごろ)になると、わが国の国内では、長引いてきた不況・停滞の結果として有利な投資機会が乏しくなり、金利水準が下限に近くまで低下したにもかかわらず企業の投資活動は低調で(「流動性のわな」の現象)、資金需要が少なくなってきていた。にもかかわらず、貿易収支黒字が拡大・累積(すなわち、外国からのカネないし購買力の流入)し続けていたために、民間資金市場では「金あまり」現象が顕著になった。ごのようなときこそ、政府が国債の大規模な発行とその市中消化によって民間の「遊休資金」を政府の手元に吸い上げ、それを財源とした積極的なケインズ的財政政策によって公共投資や防衛力の整備などを行ない、有効需要支出のマクロ的な総額(すなわち総需要)を拡大することに努めるべきであった。しかし、総じて「反ケインズ主義」の立場に立っていた大蔵省は、それを行なわなかった。

 かくて、遊休資金は、「生産された財貨・サービスの購入を実際に行なうような需要」という意味での「有効需要」ではない賭博的なマネー・ゲームに大量に流れてしまった。これが、1988〜90年の「バブル」にほかならなかった。すなわち、「バブル」は、ケインズ的政策が実施されなかったからこそ発生したのである。

 もちろん、「バブルの時期」に、ある程度の景気回復があったことは確かである。しかし、賭博的なマネー・ゲームの盛行とは裏腹に、実体経済の成長率の回復は比較的に小幅にすぎず、成長率が回復していた期間も短期間であったから、それによってわが国経済におけるデフレ・ギャップの拡大に若干のブレーキがかかった程度にとどまり、デフレ・ギャップが縮小するまでには至らなかったのである。

 そして、「バブル」は1990年(平成二年)ごろにはすでに収束傾向にあったにもかかわらず、それに追い討ちをかけるような三重野総裁(当時)の下での日銀によるきわめて厳しい引き締め政策の断行によって、激烈な「平成不況」が発生するにいたった。しかも、政府の「反ケインズ主義的」政策姿勢は根強く(小泉内閣はその最たるもの)、付表が端的に示しているように、財政政策が、総じて、消極的なままに推移してきたために、わが国経済の不況・衰亡傾向は悪化の一途をたどって、現在に及んでいるわけである。  (了)