「ジャパンポスト」平成14年3月1日号 掲載
休眠個人金融資産1400兆円は虚説にすぎない!
日本経済再生政策提言フォーラム会長
大阪学院大学教授 丹羽春喜
裏面にひそむ意図は反ケインズ
いたるところで、「個人金融資産が1400兆円もある!」と強調されている昨今である。
このことが強調されている含意は、この膨大きわまりない額に達しているとされている個人金融資産が、いまは眠っているのだと世人に想像させて、これが眠りから覚めて活用されはじめさえすれば、わが国の経済は、たちどころに好況状態に戻り、「右肩上がり」の経済成長路線に復帰するに違いないと主張しようということにある。
そして、「……だから、個人金融資産を眠りから覚まして活用されるようにすることこそが大切なのであ
って、ケインズ主義的な財政出動で景気を刺激することなどは不必要だ!」といったお定まりの「反ケインズ主義」的な結論が声高に叫ばれることになるわけである。
石原慎太郎氏なども、基本的にはこのような論旨に基づいて、「個人金融資産1400兆円!」と絶叫し続けているようである。しかし、実は、現在の日本で、そのように、個人金融資産1400兆円という政府公表を理由に、それが休眠中であるかのごとく言い立てるということは、「真っ赤なウソに近い!」ミス・リーディングな統計数字の粉飾的悪用なのである。
「巨額の箪笥預金」などは無い
まず最初に、当然すぎるほど当然なことを言っておかなければならない。というのは、「個人金融資産1400兆円」ということを、通俗的な表現で「個人が1400兆円のカネを持っている」と伝え聞いたあげく、「日本の家庭の箪笥の引き出しには1400兆円の札束が貯めこまれている!」と思い込んでしまった常識はずれの人たちが、案外、多いからである。もちろん、これは、とんでもない間違いだ。
まず動員可能な個人資金は1410兆円ではなく、1022兆円と訂正すべき
日本の社会に流通している現金の総量は、現在、60兆円程度でしかない(このことは、統計年鑑のたぐいを見ればすぐにわかることである)。であるから、1400兆円もの「箪笥預金」が家庭にあるなどといったことは、絶対に、ありうることではないのである。
「個人金融資産1400兆円」という説の典拠となっている内閣府経済社会総合研究所編『国民経済計算年報』(平成13年版)に示されたデータで見てみると、付表(46頁)に示されているように、平成11年度末(平成12年3月末)現在で、わが国の個人家計が保有していた現金の額は35兆円にすぎないのである。
この付表では、平成11年度末現在で、個人金融資産の総額は1410兆円とされているのであるが、各種のローンなど個人の金融負債の額も388兆円に達していると記されている。個人資金の動員可能性を見るためには、当然、この負債の額を差し引いて考えねばならず、これを控除すると、1022兆円となる。
付表 個人家計の金融資産額および負債額
(平成11年度末現在の残高:兆円)
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個人家計の金融資産総額
1410
うち現金 35
保険・年金準備金 384
預金 713
株式・債券・その他 278
個人家計の負債総額 388
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個人「預金」額は713兆円ではなく423兆円ではないか
この付表のなかで、最も腑に落ちない数字は、713兆円にも達しているとされている個人預金残高の額である(この表が示したのは平成11年度末の数字であるが、その前年の平成10年度末の該当値も700兆円に近い696兆円であったとされている)。
なぜ腑に落ちないかと言うと、この数字は、総務庁統計局が実施した「貯蓄動向調査」の数字と、まったく合致していないからである。すなわち、総務庁統計局のその調査結果によると、わが国の家計の預金保有額は、平成11年の年初値(=平成10年の年末値)で、一世帯当たり940万円であった(総務庁統計局編『日本の統計』平成12年版、239頁)。
わが国の総世帯数は約4500万戸であるから、平成11年の年初に家計が保有していた預金の総額は423兆円(=940万円x4500万)であったということになる。この数字は、上述の713兆円という『国民経済計算年報』の数字とは、あまりにも大幅に食い違っている。
ただし、この総務庁統計局の調査では、預金のほかに貸付信託や生命保険といった形の資産(ただし株式を除く)をも算入した個人金融資産の額が、一世帯当たり約1550万円とされているから、4500万戸の総額では700兆円にきわめて近い698兆円という額になり、付表に示された平成11年度末の個人預金残高の総額713兆円という数字と整合性をもつことになる。
個人「預金」残高713兆円に生命保険なども含むのであれば整合する
つまり、この付表の内閣府経済社会総合研究所編『国民経済計算年報』に示されている「個人預金残高」の数字には、銀行や郵便局への預金額だけではなく、個人が生命保険に加入しているといった形での金融資産額(生命保険貯蓄は一世帯当たり500万円、総額約225兆円)も算入されている可能性が、きわめて高いわけである。
「保険・年金準備金」の384兆円は150〜160兆円ではないのか
そしてれは、150〜160兆円は社会保障機構が保有・管理している預貯金額だから個人金融資産の額から外すべき
そのように考えざるをえないとすると、付表に示された保険・年金準備金の384兆円(平成11年度末)という額のうち、上記のごとく生命保険に関連する220兆円ないし230兆円はニ重計算による誤った記入であると見なければならないことになる。そして、それを除いた150〜160兆円前後の額は、事実上、そのほぼ全額が、共済組合の社会保険や年金基金といった社会保障機構が保有・管理している預貯金額である。言うまでもなく、これは個人が自由に使用しうるような預貯金ではない。これを政府や企業といった他の組織体の資産項目にはいっさい計上せずに、「個人家計の金融資産」という項目にのみこれを計上しているのも、ずいぶん奇妙でミス・リーディングである。
次に「個人金融資産」は1022兆円から384兆円を除外して638兆円とすべき
というわけで、いずれにせよ、この384兆円という「保険・年金準備金」の額は、それを「個人金融資産」の額からは外して考えるべきであろう。これを上記の1022兆円から外すと、638兆円となる。
実は、この付表で言う「個人家計」のうちには、「個人企業」(つまり株式会社や有限会社のような法人形態となっていない企業)も含まれていて、その金融資産額のうちには、商品の売上金が預金されているといったビジネス活動のためのものも含まれている。これは、年度末の月末時点では預貯金ではあっても、月が替われば、すぐに商品の仕入れ代金や人件費として支払われることになるものであろうから、これを通常の消費者家計における「個人金融資産」と同様に見てはならない。
さらに「個人金融資産」は638兆円から100兆円を除外して538兆円とすべき
マクロ的に「営業余剰」(つまり企業利潤)の総額で比べてみると、「法人企業」(金融業を除く)のそれに対して「個人企業」のそれは約3割の大きさである。平成11年度末では「法人企業」(金融業を除く)の金融資産額は515兆円(上掲『国民経済計算年報』による)であったから、その3割と見れば155兆円になるのであるから、うんと控え目に見積もっても、「個人企業」のビジネス活動目的の金融資産額を、少なくとも、100兆円には達しているものと考えねばならない。これも、「個人家計の金融資産」の額からは差し引いて考えるべきであろうから、残額は538兆円となる。
さらに「個人金融資産」は538兆円から「株式・債券・その他」の額278兆円を除外して260兆円とすべき
また、付表に示されている「株式・債券・その他」の額278兆円についても、いまでは、その大部分が焦げついているのが実情であろう。それが売却・換金される場合を考えたとしても、他の個人がそれらを購入するのであれば、マクロの総額としては、個人金融資産が動員・活用されることにはならない。もしも、他の個人がそれらを買おうとはせず、ただ、売り手ばかりが居るといった状況となれば、証券市場は大暴落といったことになり、わが国の経済不況は、いっそう惨憺たるものとなるであろう。であるから、この278兆円も外して考えるべきである。これで残額は、わずかに260兆円にすぎないということになる。
個人金融資産を動員・活用しても日本経済を再生させることはできない
しかも、よく言われているように、郵便貯金から政府の「財政投融資」に用いられた資金の大半が焦げついてしまっているわけであり、市中銀行に預金されて諸企業への融資に用いられた個人資金も、焦げついているのが現状である。したがって、個人が、そのような資金を郵貯や銀行預金から大規模に引き出して、なんらかの新しい使途にそれを用いようとしはじめたとすれば、たちまち、激しい金融恐慌が発生することになってしまう。
要するに、個人金融資産を動員・活用することができれば日本経済をそれによって回復・再生させることができるだろうなどと考えることが、そもそも、根本的に間違っているのである。
ただし、金融機関が信用創造を活発にやるようになれば、結果的に、個人金融資産が有効に動員・活用されることになるが、それは、景気が回復した場合にのみ可能になることである。
わが国の家計の消費性向は、平成不況が発生してから、はっきりと上昇傾向をたどってきている
個人金融資産が眠っているとする考え方の根底には、家計の消費性向が低下していることが不況の原因だとする思い込みがある。ケインズ的政策が有効性を失ったとする風説も、そこから来ている。
しかし、実は、平成不況が発生してからは、不況による人々の困窮化を反映して、わが国の家計の消費性向は、はっきりと上昇傾向をたどってきているのである。要するに、わが国の経済を立て直すためには、個人金融資産などはあてにせずに、大々的なケインズ的政策によって総需要拡大をはかる以外にはないのである。