政府に再び告ぐ
「打ち出の小槌」を振りおろせ
大阪学院大学教授 丹羽春喜
平成13年正論5月号より

「読売提言」の不毛性
本稿の執筆にとりかかった本年三月の第一週、わが国の株価は惨落しつつある。株価暴落というだけではなくこのところ、連日の新聞紙面では、「恐慌の兆し!」、「生産・所得・支出、縮小の悪循環も!」、「雇用悪化、一段と!」、「米ナスダック市場、大幅安!」「日本国債、格付け下げ!」、等々、悲観的な大見出しばかりで埋めつくされている。まさに阿鼻叫喚といった状況である。
たまりかねたように、『読売新聞』は三月七日号(朝刊)の第一面で六項目からなる「デフレ阻止への緊急提言」を発表した。同紙同号のこの緊急提言は、わが国の政治が混迷状況を脱却して「国民と市場の信頼を取り戻し、不安心理を払拭する」ことが必要だと訴えている。また、金融をいっそう緩和して金融面での「デフレ・スパイラル」進行を食い止め、また、株価対策に重点を置くとともに、産業構造の再編・転換を推進せよとも強調している。そして、同紙の三月九日号では、この緊急提言の一環として、ある程度のインフレ的物価上昇を望ましい目標とすべきだと主張されている。いわゆる「調整インフレ」を提唱しているわけである。
しかし、残念なことに、この「読売緊急提言」の内容は基本的に、見当はずれである。国民と市場が、国家の政策と政治に対してどんなに強い信頼感と安心感を持っていようとも、そして、産業界が構造改革にどんなに努力してみたところで、マクロ政策で総需要が抑えられれば、否応なしに経済は低迷せざるをえない。この意味では、しょせん、ミクロはマクロに敵しがたいのである。「読売緊急提言」は、この鉄則を直視することを避けてしまっているのである。
もちろん、激症性の「金融恐慌」を発生させかねないような悪性の「金融デフレ・スパイラル」を食い止めるための施策は、講じなければならないであろう。しかし「極端な低金利が長く続いてきているにもかかわらず民間投資がさつばり増えないという現況は、まさに典型的に、ケインズの言った「流動性のわな」に落ち込んだ症状である。このような状況になってしまっている場合には、金融政策は本格的な景況の回復のためには効かない。このことは、経済学の教科書には必ず書いてあることであり、エコノミストであれば、だれでもがそれをよく知っているはずである。
当面の「金融デフレ・スパイラル」発生の危険もさることながら、それ以上に根本的に問題とされねばならないのは、付図に示されているように、総需要の不足・停滞によってマクロの実体経済面で生じたデフレ・ギャップが、二十数年という超長期にわたって膨大に持続・累増してきているということである。そのことによって、この四半世紀に、実に合計四千兆円(九〇年価格評価の実質値)もの潜在実質GDPが失われてきてしまっているのである。わが国経済のこの痼疾の深刻きわまる症状のほうこそ、まず根本的に問題にされねばならないはずである。そして、これほどにも巨大なデフレ・ギャップが居座っている以上は、インフレ・ギャップを発生させることは事実上不可能である(この両ギャップの同時発生は、論理的にも実際的にもありえない)。したがって、読売提言のように物価を上昇させよう(調整インフレ)というようなことは、どんなにそれを意図してもできることではない。
「読売緊急提言」は、この超巨大デフレ・ギャップの存在と拡大というきわめて重要な点に、まったく言及していない。この痼疾からの脱却を目指すためには、ケインズ的な総需要拡大政策の大々的な実施こそが提言されるべきはずであるが、「読売緊急提言」は、そのことにもいっさい触れてはいない。まさに、この点にこそ、今回の「読売緊急提言」の不毛性の根源があると考えねばならないのである。

付図の説明 労働と資本設備の総合的な生産性へ(いわゆるTFP)の向上率を「技術進歩率」と呼ぶ
ことにすると、年率ベースでは、
GDP成長率(%)=技術進歩率(%)+労働と資本設備の総合投入の伸び率(%)である。
したがって、「技術進歩率(%)/GDP成長率(%)」という比率が与えられれば、潜在的な完全雇用・完全操業の状態での総合投入の伸び率から、同じく潜在的な完全雇用・完全操業でのGDPの成長率を年率ベースで算定しうる。それを、連接していけば、本図のごとくその長期的な成長経路をも示しうることになる。
本図で、「潜在的」(完全雇用・完全操業)実質GDPの成長経路の「高」として示されているのは、「技術進歩率(%)/GDP成長率(%)」という比率を1/3と仮定した場合、「中」は同じく1/3.5と仮定した場合、そして、「低」は同じく1/4と仮定した場合である。本図で「潜在的」(完全雇用・完全操業)実質GDPとして示されている状態でも、なお、摩擦的な要因等による3%のデフレ・ギャップは残されている。
計算プロセスならびに使用データの詳細については、丹羽春喜『日本経済再興の経済学』、原書房、平成十一年刊、第十六章を参照されたい。
深刻な財政・経済危機と宮沢財政政策の非力
本誌の本年一月号の私の論文でも指摘しておいたことであるが、周知のごとく、現在、わが国においては、六百数十兆円にものぼる国債と地方債の発行残高をはじめとして、諸種の政府・地方自治体などの公的債務(ないし不良債権)は膨大な額に達しており、その返済・償還のめどを立てるといったことは、まったくなしえない状況である。これらの公的債務の大部分は、年々、借り替えられつつ累増してきており、毎年のネットの償還額はわずかでしかない。しかも、国家財政の「一般会計」において「国債費」(国債・国家債務の利子・割引料支払額ならびに償還費)が累増してきているだけではなく、実は、最近では、地方財政を支えるべき大きな役割を担う「交付税及び譲与税配布金持別会計」においても、巨額の借入金と利子支払額とが「いたちごっこ」の形で爆発的に増えつつある。こういった政府財政破綻の圧力で、今後は国債や地方債の新規発行額はきわめて厳しく制限されざるをえないであろう。たとえ、タブー視されてきた日銀による新規発行国債の直接引き受けが行なわれることになったとしてさえも、結局は、国債や地方債の新規発行規模は、ますます姑息な程度にとどめられるようになっていくにちがいない。
ということは、景気を支えるための総需要喚起型の財政政策が、いよいよもって貧弱になっていくということであり、わが国経済の不況・停滞は、いやがうえにも激化する危険性が濃い。そのことは税収をいっそう落ち込ませ、それが、さらなる緊縮財政と、さらなる不況激化をもたらすことが不可避である。政府や地方自治体の公的債務の返済・償還や財政再建といったことは、ますます絶望的になり、不況→財政破綻→緊縮財政→不況という悪循環が、まさに、とどまるところを知らないのが隠しようも無い現状である。今日のこのような状況になってしまっては、増税、緊縮財政、財政構造改革、行革、等々、といった手段でわが国の国家財政や地方財政を再建するなどということは、実際問題としては、もはや、まったく不可能になってしまっている(だから、いま提唱されている「官庁会計に複式簿記を!貸借対照表の導入を!」といった改革などは、現在の危機脱出には何の役にも立たない)。
もちろん、わが国の経済を苦しめている悪循環は上記のことだけではない。不況は、内需不足による輸入の低迷と、わが企業の「輸出に活路を求めよう」とする努力−−いわゆる「輸出ドライブ」−−の激化をもたらし、貿易収支黒字の増大を生む。ところが、現行の「フロート制」(変動為替相場制度)のもとでは、結局、それは、「円高」の進行によるわが輸出産業の苦境をいっそう深刻化させて、不況の永続化を結果するということにならざるをえない。
また、不況は企業にリストラを強要する。しかし、個々の企業がりストラに努めれば努めるほど、そういったコスト節減努力は、失業を発生させて消費需要を低下させ、直接・間接に企業どうしで注文を削りあうことにもなってしまう。すなわち、そういった「合成の誤謬」の累積で、日本経済の衰退がいっそう顕著となる恐れが濃いのである。この意味で、しょせん、ミクロはマクロに敵しがたいのである。
まだ、この他にも、同様なことを幾つか指摘しうるかもしれないが、少なくとも、上述のような、@不況→財政破綻→緊縮財政→不況、A不況→円高→不況、B不況→企業のりストラ→注文の削りあい→不況、の三つの悪循環は、相乗作用を演じつつ、「賽の河原」の責め苦でわが国を衰亡・没落へと導いてきた。
昨年度にしろ、一昨年度にしろ、宮沢蔵相(財務相)としては、多分、せい一ぱいの景気テコ入れのマクロ政策を盛り込んだ国家予算を組んだつもりであったろう。しかし、膨大な政府債務を抱えたはなはだしい財政破綻の状況下とあっては、客観的な実情としては、そのような財政政策はきわめて不十分なものでしかなかった。したがって、IT部門やパソコン関連セクターにおけるグローバルな景況の悪化や米国経済の急激な景気減速といった衝撃に襲われると、この非力な財政政策ではとうてい抗するべくもなく、わが国経済の不況は急激に悪化しはじめたわけである。
巨大デフレ・ギャップ下では構造改革は無意味だ
ここで、はっきりと理解しておくべきことは、いわゆる「供給サイド」構造改革をいくらやっても、上述の悪循環からの脱却には役にたたないということである。実は、近年のわが国では、在庫変動額の対GDP比率は、わずかに0.1〜0.5パーセントでしかない。すなわち、商品需給のミス・マッチなどによる「売れ残り」といったことは、ほとんど発生していないわけである。つまり、需要に対する企業サイドからの諸商品(サービスをも含む)の生産・供給は、きわめて敏速・的確に行われ、諸商品の需給は立派に均衡しているのである。供給面での構造的欠陥といったものはまったく無いと言わねばならない。生産能力の余裕も十分である。この意味で、現在のわが国の経済において、いわゆる供給サイド型の「構造改革」なるものをわざわざ国家政策としてまでやらねばならぬといった理由は皆無である。
ただ、マクロ的に総需要水準が低く停滞させられてしまっているために、諸商品の需給が立派に均衡しているといっても、そのマクロ的需給均衡点−−いわゆるケインジアン・クロス点−−それ自体も低い水準にとどまることを余儀なくされてきた。したがって、私が、本誌でも幾度か計測結果を示して強調してきたように、わが国の経済では、生産能力の面で、資本設備についても労働力についても、稼働率の低下や失業が−−すなわちデフレ・ギャップ(GDPギャップとも言う)が−−長年にわたって膨大に生じてきている(付図参照)。それは、いわゆる「バブル崩れ」からとくに生じたといったものではなく(バブル期にはデフレ・ギャップの拡大テンポがややゆるくなったが、しかし、それが縮小するまでにはいたらなかった)、過去二十数年間、絶えず拡大しつつ延々と持続してきた長期的趨勢なのである。
要するに、デフレ・ギャップの発生とは、マクロ的に総需要が生産キャパシティーよりも下回っていることである。そして、インフレ・ギャップの発生とは、マクロ的に総需要が生産キャパシティーよりも上回る(だから物価が上昇する)ことである。つまり、前者はいわば「水面下に沈みこんでいる」状態を言うのであり、後者はいわば「空中に浮かんでいる」状態を言うのである。池の水底に深く沈みこんでいる石が、それと同時に、水面上の空中に高く浮かんでいるなどということはありえない。同様に、デフレ・ギャップが生じているときに、それと同時にインフレ・ギャップが発生するなどということは、ぜったいにありえないことである。この論理は、きわめて明確であるから、疑う余地はないはずである。また、きわめて重要な点である。これを明確に認識することこそが、マクロ政策の策定の基礎であるはずだ(この点の認識が、「読売緊急提言」には欠けているのである)。
現在のわが国の経済においては、労働力と資本設備の総合での完全雇用・完全操業状態のもとで達成可能なはずのいわば「天井」とでも呼ぶべき潜在実質GDPの可能上限水準は、年率八百数十兆円程度に達していると算定しうる(付図参照)。しかし、総需要の不足・低迷のゆえに、実際の実質GDPの水準は、その潜在的な可能上限よりも四割以上も低い年率480兆〜490兆円程度にとどまっている。すなわち、GDP換算で年間三百数十兆円もの巨大なデフレ・ギャップが発生し居座っているのが現状である。このデフレ・ギャップによって過去二十数年間に合計四千兆円の潜在実質GDPが実現されえずに空しく失われてしまった。これこそが「経済敗戦」であったのだ。いまの趨勢が続けば今後の十年間でさらに四千兆円が失われるであろう(九〇年価格評価の実質値)。
そもそも、デフレ・ギャップとは生産能力の余裕である。国民経済的に見ればこれこそが活用されるべき「真の財源」にほかならない。ところが、総需要の低迷のゆえにこの超巨大な「真の財源」が活用されず、デフレ・ギャップの拡大という形で膨大な潜在GDPが実現されえずに空しく失われ、わが国民は、経済の不況・停滞による大量の倒産・失業や所得の減少、株価や不動産価格の崩落による膨大な資産の喪失、年金など社会保障の削減、災害被災者への支援の不十分、多数の人々のホームレス野宿状態への転落、等々、いや増す困窮状態に苦しめられ続けてきたのである。まさに、「豊饒の中の貧困」の矛盾の極致である。
なお、近年、政府の政策ブレーン(たとえば小渕内閣の「経済戦略会議」スタッフ)たちは、「潜在成長率」が低下してきていることが日本経済の成長を制約しているのだと言い続けてきたが、それは大きな誤りである。なぜならば「「潜在成長率」とは、上記の完全雇用・完全操業における潜在GDPの可能上限という「天井」の勾配のことだからである。現在、この「天井」は、実質GDPの実際値の水準よりもはるかに高いところにある。しかも、この「天井」自体がいまでもかなりの上向き勾配−−つまり「潜在成長率」−−を保っているのである(付図参照)。かりに、私が提言してきたような大規模なケインズ的内需拡大政策が断行されることになって、たとえば実質GDPの伸び率が年率七パーセントを持続するといった高度成長が十年も続いたとしても、それでも、まだ、「天井」には達することができないのが実情である。したがって、「潜在成長率」(すなわち「天井」の勾配)の高低といったことは、現実の日本経済の回復・成長への制約などには、全くならないのである。
ついでに、経済理論マニアのかたのためにちょっと付言しておくが、私が昨年の本誌六月号で述べておいたように、生産能力に余裕があるときに需要が増えれば、企業の稼働率が上がり、いわゆる生産関数が増産のためにシフトする(だから諸商品の供給曲線も右方シフトして供給が増え、物価は安定を保つ)から、新古典派の言う「自然失業率」なるものもどんどん下がり、これも成長への制約にはならなくなるのである。
要するに、諸悪の根源は総需要の低迷という「需要面」の欠陥にある。「供給面」には構造的な問題はない。したがって、需要サイドからの「総需要拡大政策」の緊急な必要性を否認し去って、供給サイド型「構造改革」政策をもってそれに替えよと叫んでいる構造改革論者たちは、まさに、犯罪的な誤りをおかしていると言わねばならない。「構造改革」をやっても、総需要が増える必然性はなにもない。ましてや、「構造改革」と称して「真の財源」である余裕生産能力をつぶしてしまうような政策−−小渕内閣が性急に実施しようとした政策が、まさに、それであった−−が強行されてしまえば、そのときには、日本経済再生の希望はまったく絶たれよう。したがって、たとえばIT革命なるもので、いわゆる供給サイド型の「構造改革」の進展を予想して、それによって日本経済の復活・再興がはたされうるだろうなどと期待するのは、全くの見当はずれなのである。
実は、過去十年というものは、わが経済企画庁(現在の内閣府「経済財政諮問会議」管轄部門)は、上述のような本来の意味でのデフレ・ギャップを計測することを怠ってきた。そして、それに代えて、経済企画庁は、ただ単に過去数年間における実質GDPの実際値の「平均的な趨勢線」言うまでもなく、これは、近年については不況によって停滞・低迷した趨勢線となる)を描き、その趨勢線からの各年のGDP実際値の偏差を「GDPギャップ」(デフレ・ギャップ)だとして、それを『経済白書』などに示してきたのであった。言うまでもなく、このようなGDP実際値の趨勢線からの偏差という意味でしかない毎年のギャップは、相対的にきわめて小さい。したがって、あたかも、わが国の経済は、過去数年、デフレ・ギャップがほとんど無く、非常な好況を続けてきたように見えてしまう。すなわち、わが経済企画庁は、デフレ・ギャツプ概念を偽りのまぎらわしい概念にすり替えることによって、本稿の付図に示されているような巨大なデフレ・ギャップの累増・拡大という実情を、国民の目にふれないように秘匿してきたわけである。
近年の私の著作では、くり返し、この点をとらえて経済企画庁を批判してきた。そのような私の経済企画庁に対する批判論文のなかでも、『自由』誌の平成十二年十月号に掲載の「経企庁は巨大なデフレ・ギャップを秘匿している−−経済白書に見る米国新古典派的ニヒリズム−−」を、読者諸氏は、ぜひ読んでみていただきたい。
デフレ・ギャップ計測の詳細は、私の著書『日本経済再興の経済学』(原書房、平成十一年刊)の第十六章を参照されたい。また、それを改訂した私の英文論文が米国の学術誌Journal
of Asian Economics,Vo11(Summer2000)に掲載されている(この論文はhttp://www.osaka−gu.ac.jp/php/haruniwa/でも読むことができる)。
これこそ国を救う決め手だ
私は、早くから上述のごときゆゆしい事態の到来を予見・深憂し、わが国の経済を不況・停滞と財政破綻から脱出させ、力強く興隆させていくための、有効性・即効性が十分に高い決定打となりうるような経済政策を工夫し、提言し続けてきた。
要するに、現在の日本経済には、巨大なデフレ・ギャップという形でマクロ的に膨大な生産能力の余裕という活用すべき「真の財源」があり、したがって、インフレ・ギャップが発生する恐れが皆無であって、しかも、今のわが国では、外貨不足で対外支払いに困るといった心配も無用なのであるから、そのような裏づけがある以上は、政府は「現行法でも明記されている「国(政府)の貨幣発行特権」(セイニアーリッジ権限)という「打ち出の小槌」を大規模に発動すればよいのである(「通貨の単位および貨幣の発行等にかんする法律」、昭和62年、法律第42号、第4条参照)。
すなわち、明治維新成功の決め手となった「太政官札」(不換政府紙幣)発行の故知にならっての「平成の太政官札」といった「政府紙幣」(日銀券ではない)の発行を政府が直接に行えば、政府は巨額の造幣益を得ることができる。あるいは、やや間接的な方式になるが、私が近年の諸著作で懸命に推奨し続けてきているように、政府自身が政府紙幣の発行を行なうことまではせず、その代わりに、政府に無限に与えられている無形金融資産とも言うべきこの「政府貨幣発行権」のうちから、たとえば三百兆円ぶん、あるいは、四百兆円ぷんといった一定額ぶんの「発行権」を政府から日銀へ売却する(言うまでもなく、日銀にとってはこのようにして取得されうる「政府貨幣発行権」は優良資産にほかならないであろうが、それが日銀に売られる場合に政府が適当にディスカウントをしてやれば、日銀としては、いっそう日銀自身の資産内容を改善しうる)といった手段を駆使すれば、政府にとっても国民にとっても(今後将来とも)まったく負担にならないところの、無尽蔵に近い超巨額の財政収入を政府が得ることができるはずである。これは、まさに「打ち出の小槌」だ。
もちろん、国債発行の場合とは違って、政府がそれに対して利息を支払ったり元本の償還をしたりする必要もない。担保も要らない(実は、膨大なデフレ・ギャップというマクロの超巨大な「生産能力の余裕」こそが真の担保である)。しかも、言うまでもないことであろうが、このように直接・間接の形で「国の貨幣発行特権」が大規模に発動されて超巨額の財政収入を政府が得ることができるといっても、必ずしも、そのために膨大な量の紙幣が印刷されねばならないということではない。実際的には、そのような三百兆円、四百兆円の金額を記した保証小切手を政府が日銀から受け取ってすませるという形になろう。この「打ち出の小槌」を用いて、ケインズ的総需要拡大政策の大々的実施によるわが国経済の再生・再興と、政府財政の再建とを、一挙に達成してしまえばよいのである。
ただし、各省庁や地方自治体あるいは財界などは、長年の不況・停滞のためにすっかり消極的になってしまっていて、そのような超巨額の内需拡大予算を合理的に消化して有効に「国つくり」にはげむべき準備ができていないというのが実情であろう。また、「公共事業の肥大化は、もうイヤだ!」という世論なるものが抗しがたいほど強く、それをかわすような政治的配慮も必要であろう。であれば、むしろ、ここ二、三年ぐらいは、老人から乳幼児にまでいたる全国民に、たとえば、一律、年額数十万円ずつの「潜在経済力活用費」といった名称のボーナスを政府が支給することにすればよいであろう。
要するに、消費支出や投資支出を増やして総需要拡大に貢献するという国民の働きのために必要な費用を、政府が国民に支給するわけである。マクロ的な総需要の水準とその成長については、基本的に、政府に全責任があると考えねばならないのであるから(民間の個人や企業はその責任を負えない)、これは、いわば当然のことである。ただし、現実的には現金の札束を国民一人一人の手元に届ける必要などはなく、全国民の銀行預金口座に電子信号で振り込めばよいのである。この施策は、過日の給付総額が対GDP比で0.14パーセントにすぎなかった「地域振興券」とは異なって、年間給付額が対GDP比で約10パーセントと桁違いに大きい。しかも、その財源が税金でも国債でもなく、国民の負担にはまったくならずに国民の所得を大きく増やすことになる。そのうえ、全国民に平等に給付されるのであるから、「・・・あいつがもらっているのに、おれはもらえないのか!」といった妬みからの悪評で施策の実行が妨げられるといった心配も無くてすむ。
このような政策の実施が景気浮揚と経済成長をもたらす効果は100パーセント決定的・即効的に確実である。現在のわが国の経済においては、巨大なデフレ・ギャップという形で膨大な「生産能力の余裕」が存在しているのであるから、需要がどんなに増大しても、諸商品の生産・供給も敏速・的確に伸びうるわけで、インフレ・ギャップが発生して物価が高騰するといった心配は無用である。しかも、このような政策は、簡単明瞭かつ公平で、政府機構の肥大化の心配も無い(この政策を実行する仕事は、官庁に代わって、銀行業界が喜び勇んで全てやってくれるであろう)。また、ちょっと考えればすぐにわかるように、これは、「消費者主権の原理」を基礎とする市場経済システムに最も適合していて、経済に歪みを残す恐れがまったく無い。すなわち、この政策提言は、正統派の経済理論と真正のケインズ主義に立脚したきわめて優れた政策案なのである。
奇妙なことに、このような政策を「まったく無効果だ!」と断じる評論家が後を絶たないが、そのような評論家たちは、この政策で国民は年間数十兆円もの所得給付がなされても、その増加した所得からは、未来永劫、消費へも投資へも一円も支出がなされず、また、それが銀行に預金されても、銀行はそれを、同じく未来永劫、一円も融資に向けることをしないと想定しているわけである(直接・間接に若干でも支出が行われる場合は、かれらの論理は成り立たなくなる)。そのような奇矯な考え方は正気のさたとは思われない。なお、付表が示すように、わが国民の「消費性向」は、近年、むしろ上昇傾向をたどってきているのであって、「消費性向が低下したから不況になった!」などという俗説は、ひどい間違いである。
このような政策を実施すれば、それによる経済全体への波及効果(すなわち「乗数効果」)をかなり控え目に見積もっても二年ほどのうちに実質GDP水準が百兆円ほど上昇する−−つまり、年率10パーセントの高度成長が達成される−−ことが確実である。「現金貨幣の流通速度」が通常は年間ベースで12ぐらいのものであるので、百兆円をこの12という流通速度で割り算した額、つまり、この百兆円上昇したGDP水準を支えるために必要な流通現金貨幣量の増加額は、わずかに、8兆円程度ですむことになる。この「貨幣の流通速度」は、時には、かなり変動するが、いずれにせよ、流通現金貨幣量の必要増加額は、そんなにびっくりするほど大きな額にはならない。あらゆる取引の大部分が電子決済される現代では、「国の貨幣発行特権」の直接・間接の大規模発動が断行されて、それを財源とした政府支出がきわめて巨額に行われたとしても、実際に紙幣が増刷されるのは比較的わずかの額ですみ、あとは電子的な相殺勘定の記帳処理ですまされるわけである。
財政再建のための最も重要な課題は、巨額に累積してきた既発国債をいかにして処理するかということであろう。「国の貨幣発行特権」の発動という「打ち出の小槌」によって超巨額の財源を確保しうるからといって、一度に大量に償還すれば「過剰流動性」(運用対象を見つけられない余裕資金が有効需要支出にも向けられず、だぶつく現象)の問題が生じかねない。それを避けるためには、わが政府あるいは日銀が、この潤沢な財源を駆使して、まず、円高の是正・防止をも兼ねて米国など外国の公債や社債を大量に買い込み、その米国などの公債・社債との等価交換で、国内の投資家たちが保有してきた日本政府発行の既発国債を政府や日銀の手元に回収すればよいのである(それら国内の投資家たちには、代償として米国など外国の公債や社債を渡すわけである)。私が、これまでにも、くり返し、声を大にして提言してきたこのような方策は、国内で過剰流動性問題を発生させずに大量の既発国債のスムーズな償還を可能とするきわめて巧妙な工夫であると言ってよいであろう。
二年間に百兆円も実質GDPが上昇するということになれば、わが国は、諸外国の産物の輸入を大量に増やすことになるはずである。そのことは、共存共栄の形で、諸外国の経済にもきわめて有益な影響を及ぼすであろう。それと同時に、それは、現行のフロート制(変動為替相場制度)のもとでは、かなりの「円安」をもたらす。それに加えて、上記のように米国など諸外国の公債・社債をわが政府・日銀が大量に買い付けるということになれば、「円安」は相当に進行すると考えてよい。それによって、わが産業はその対外競争力を労せずに大幅に回復することができ、わが国は、久しくわが国経済を苦しめてきた不況→円高→不況の悪循環を脱却して、産業空洞化の悪夢から解放されうることになろう。
以上に述べてきた政策案こそが、私が声を大にして提言し続けてきた「救国の秘策」なのである。誰であろうと、先入主的な偏見を棄てて、虚心坦懐に考えてみさえすれば、この「秘策」こそが、現在のわが国経済の窮境を打開しうる国家政策としては、ほとんど唯一の「決め手」であるということが、わかるはずである。
乗数効果は健在
ところが、読者諸氏もよく知っておられるように、いまわが国では、「……政府の財政支出が長年にわたって膨大に増加させられて、GDPに占める政府支出のウエー卜が肥大化しすぎ、それによる経済の効率低下でGDPがあまり伸びえなくなってしまっているので、結果的に乗数効果も低くなって、財政支出による総需要拡大効果は期待しえなくなってしまった」とする俗説がひろく流布されている。そういった俗説を根拠として、「・・・だから、丹羽が提唱しているような総需要拡大のためのケインズ的財政政策は、もはや、その効果が無くなった!」と叫んでいる論者も多い。しかし、実は、これは悪質きわまる思想謀略的な虚言のデマ宣伝である。
わが国の実質GDPは、1970年から90年代末の0998年までに0.5倍に伸びたのであるが、この同じ期間に「政府支出」の実質額は2.4倍の伸びにとどまった。0980年から98年までの期間で見てみても、実質GDPの伸びが1.64倍であったのに比べて、政府支出の実質額の伸びは1.51倍にとどまっている(『国民経済計算年報』平成12年版、24〜41頁を参照)。すなわち、実質GDPのなかに占める政府支出額のウエートが特に肥大化してきたといった事実はまったく認められないのであって、上記の俗説は、まったくのウソなのである。
実は、わが国経済における「乗数効果」については、経済企画庁の昨年末までのホームページで1.2〜1.3といった極端に小さな「乗数値」が示されてきており、これが、「ケインズ的政策は無効果だ!」とする世の風説を先導してきた。これは同庁の計量モデルによるシミュレーションの結果として示されていたわけであるが、そのような経企庁のモデル・シミュレーションによる乗数値なるものの信頼度はきわめて低いと言わねばならない。
なぜならば、近年のわが国において、GDP額が500兆円弱、「自生的有効需要支出額」(すなわち、民間投資支出、政府支出、輸出超過額の合計)が約200兆円であることは疑いえないところであり、500弱÷200=2.4〜2.5であって、しかも、この倍率が過去二十数年にわたって同じく2.4〜2.5というように安定的でほとんど変化していないのであるから、この倍率が、両指標の年々の「増加額」どうしのあいだにおいても、そのまま同じく、GDP「増加額」÷自生的有効需要支出「増加額」=2.4〜2.5という「ケインズ乗数値」の形で妥当するわけであり、わが国経済における乗数効果が、この2.4〜2.5というかなり大きな「ケインズ乗数値」によって作動していることは、疑問の余地なく確実なことであるからである。上記の「自生的有効重要支出額」の構成項目の一つである「輸出超過額」を「輸出額」に換えて考えてみるといったやり方もしばしば行われるが、その場合には「自生的有効需要支出額」が250兆円前後になるので、乗数は2.0〜2.1程度の値になるが、いずれにせよ、経済企画庁のホームべージが示してきた1.2〜1.3といった値は、奇妙で非現実的な、あまりにも小さな推計値であると言わねばならない(乗数効果については、『大阪学院大学経済論集』第14巻、1〜3合併号、平成十三年三月刊所収の丹羽論文参照)。
間接推定による関数を組み合わせた計量モデルでシミュレーションをやってみた場合に、そのような奇妙な結果が算定されてしまうといったことは、往々にしてあることである。しかし、そういったシミュレーションの結果と、上記のようなGDPが500兆円弱、自生的有効需要支出額が約200兆円、500弱÷200=2.4〜2.5といった疑う余地のない確実な数字との整合性をチェックしてみるということこそが、まず最初になされるべき初歩的な吟味作業であるはずである。しかし、経企庁はそのような初歩的な信頼性吟味の手順を怠ってきたのである。これは、とうてい「うっかりミス」だとは思われず、故意になされた手抜きであろう。
要するに、客観的な統計データは、俗説とはまさに正反対の事実を示しているのであって、私が本誌でもくり返し提言してきた上述のごときオーソドックスなケインズ的「救国の秘策」の有効性に疑念を抱く必要などは、まったく無いのである。
ところが、上述のごとく経済企画庁は、わが国の経済における巨大なデフレ・ギャップの発生・累増の状況を秘匿してきた。また、上記のように、あたかもわが国経済では乗数効果がきわめて微弱にしか作動していないかのごとく見せかけてきた。このような情報操作によって、経済企画庁は、「ケインズ的政策はダメだ!」というイメージをエコノミストたちに印象づけ、ひいては、広く国民や政治家たちにも反ケインズ主義的なスタンスをとらせようとしてきたわけである。そして、いわば、その「効果」で、わが国は過去二十数年で四千兆円もの実質潜在GDPを失った「経済敗戦」の憂き目を見ることになったのである。経済企画庁が行ってきたこのようなミス・リーディングな情報操作は、きびしく批判されねばなるまい。
自暴自棄を脱して「何が本当に必要か」を考えよ
わが国の経済と政府財政とが、現在、深刻きわまる危機にあることは、すでに述べたところであるが、最近では、あらゆるメディアがそれを暴露し指摘するようになってきている。大衆向きの週刊誌なども、ほとんど毎号、わが国の経済・財政の全面的な破局が至近に迫っていると、センセーショナルに書き立てている(宮沢財務相自身も、示唆するほどになかった)。そればかりではなく、吉田和男氏(京大教授)や野村総研といった専門学者や一流の大手シンクタンクなども、わが国の経済と財政が決定的な破綻状態に陥りつつあり、それから脱出する方途を工夫するといったことは、もはや、事実上、不可能になってしまっているとする、いわば「匙を投げた」ようなシミュレーション分析の結果を公表するにいたっている(吉田論文は『日本経済新聞』の「やさしい経済学」の欄に平成十ニ年十一月九日より数回にわたって掲裁され、野村総研のシミュレーションは、『週刊新潮』平成十二年十一月三十日号で大きく報道された)。
ただし、吉田モデルは、生産能力の余裕を無いものと仮定したモデルである。したがって、デフレ・ギャップという「生産能力の余裕」を考慮に入れれば、わが国の経済の全面的な破局が生じるまでに、吉田氏の算定よりは、もう少しは猶予期間を見込めるものと思われるが、いずれにせよ、吉田氏や野村総研によるシミュレーション結果には、まことに慄然とせざるをえないものがある。
しかし、そうは言っても、今でもまだ、経済。財政についての計量モデルの構造やシミュレーション・シナリオなどにいろいろと工夫をこらしてみれば、旧来の(財源を国債にたよる)政策パターンの枠内で考えても、覚悟を決めて思いきった大量の国債増発をあえてして、つとめて積極的かつ大規模な「最終決戦的」な景気刺激の財政政策を断行することで、わずかに残された一条の血路をひらきうる可能性があるという計算結果が得られるかもしれない。しかし、国債発行を財源とするという旧来のパターンに立脚したままであるかぎり、それは、いわば、大東亜戦争の後半にわが連合艦隊が最後の望みを託して総力をあげて敢行した(そして敗れた)「捷一号作戦」(フィリピンのレイテ島海戦)のようなものであって、「最終的な一六勝負」である。計量モデルやシミュレーションの信頼度や確度にも不安があるであろうし、そのような思い切ったギャンブル的な重大決断を下すことを、現在のわが国の政策担当者たちに求めることは、かなり非現実的であり、きわめて危険である。すなわち、そのような「一六勝負」への恐怖によって、この政策案が、すこしでも姑息かつ中途半端なものに改変されてしまえば、あのレイテ島沖での粟田艦隊(戦艦大和、長門などの主力部隊)の反転のようなことになってしまい、結果はまったくの「虻蜂とらず」に終わって、わが国の経済と財政の破綻状況は、現状よりもさらに徹底的に絶望的な状態に陥ってしまうことになるであろう
また、いまや、わが国では、自暴自棄的に、極度の苛斂誅求による増税と徹底的な財政支出の削減を提案している向きも多くなってきている。たとえば「『週刊文春』平成十二年十二月十四日号では、消費税の30パーセントへの引き上げ、所得税の二倍増徴、公共投資の全面停止、防衛予算の全廃と自衛隊の解散、公務員の半減、等々、が主張されているほどである(同誌、同号、一九七ページ)。しかし、そんな自虐的なことを本当に実行してしまったりすれば、わが国の経済の不況が極度に激甚なものとなり、政府の財政収入も激減して財政破綻がいっそう深刻化することになるばかりではなく、わが国民の窮乏化がその極に達し、防衛力の脆弱化ともあいまって、事実上、わが国は滅び去ってしまったのと同様な悲惨きわまる状態に陥ってしまうにちがいない。
いま必要なことは、そのような自暴自棄的なことを叫ぶことではない。冷静に、なにが本当に必要かを考えるべきである。もちろん、「なにが本当に必要か?」ということは、すこし考えればすぐにわかることである。すなわち、政府の累積債務のうち少なくとも二百数十兆円ぶん程度を即時償還するとともに(過剰流動性を発生させずに償還する方法についてはすでに述べた)、ここ二、三年、上述のごとく、とりあえず全国民(老人から乳児までの)に、一人当たり年額数十万円程度のボーナスを政府が支給するといった大規模なケインズ主義的景気回復策を実施する必要があるのである。したがって、そのための、たとえば、当面、300兆〜400兆円程度の新規の政府財政収入を、租税にも国債にもよらずに、そして、国民(現世代も将来世代も)にまったく負担をかけない形で確保する必要があるということである。言うまでもなく、これが「一六勝負」ではなく安全確実に可能になるのは、私が提言し続けてきたように、政府貨幣についての「国(政府)の貨幣発行特権」を、直接あるいは間接に、大規模発動した場合のみである。それをためらっていれば、わが国は事実上滅びる。しかも、時間はあまり残されてはいない(本誌平成十三年一月号の私の論文では、民間草莽からの地域通貨運動に、ある種の積極的可能性が内含されていることを指摘したが、しかし、現在のところでは、まだ、それに向けての道のりはきわめて遠い)。
確かに、従来は「政府によるセイニアーリッジ権限(国の貨幣発行特権)の大規模発動は「禁じ手」のタブーだとされてきた。しかし、それが「禁じ手」として扱われねばならないような意味をもつのは、経済が完全雇用・完全操業に近い状態にあってデフレ・ギャップが発生していないようなとき(したがってインフレ・ギャップが発生しやすいようなとき)にかぎるのである。言うまでもなく、現在のわが国の経済は超巨大なデフレ・ギャップの存在下にある。したがって、政府によるセイニアーリッジ権限の大規模発動ということも、決して「禁じ手」ではない。いまは、わが国がまさに滅びようとしている危急存亡のときである。無根拠なタブーに縛られていてよいようなときではないのである。