| 安倍政権の政策担当マシーン諸氏へ |
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| 厳戒せよ! 新古典派経済論の危険 |
| ━━ケインズ的マクロ政策の日米枢軸を━━ |
| 日本経済再生政策提言フォーラム会長・経済学博士 丹羽春喜 |
クラウディング・アウト問題にかかわるニヒリズム
前号では、新古典派による有効需要の原理の否定という「反ケインズ主義」パラダイムのうち、生産・供給サイドから立論された最も重要かつ核心的なものとしてはルーカス(R.E.Lucas)の理論を取り上げて、それがよって立っているトリックをはっきりと示しておいた。そして、同じく、有効需要の原理を否定しようとする新古典派のパラダイムのうち、需要サイドから立論された最も中心的でポピュラーなものとして、消費者支出に関するフリードマン(M.Friedman)の恒常所得仮説をとりあげ、それが故意に設定された極度に非現実的な仮定でしかないことも、指摘しておいた。
新古典派による需要サイドからのもう1つの「反ケインズ主義」議論は、これもエコノミストたちのあいだではよく知られているように、クラウディング・アウト現象の発生を理由としてケインズ的政策を無効だと決め付ける主張であろう。ここで、以下、そのようなクラウディング・アウト現象の発現を「論拠」とする新古典派の「反ケインズ主義」の議論を、平易に吟味してみることにしたい。
クラウディング・アウト現象とは、例えばケインズ的な総需要拡大を目指す財政政策のマネタリーな財源を国債発行にもとめた場合に、そのような国債の市中消化によって、民間資金が国債購入代金の形で国庫に吸い上げられ、民間資金の不足が生じて市中金利の高騰といった事態となることを指している。そういった市中金利の高騰ということになれば、民間投資が冷えこみ、景気回復が挫折する危険が生じてくることになろう。よく知られているように、フリードマンを最高指導者とする「マネタリズム」学派――このグループが、とくに1980年代において、上記のルーカスたち「合理的期待形成論」学派と密接不離の関係にあって、ともに「新古典派」の中核をなしていた――のエコノミストたちは、ケインズ的政策には、それを「需要サイド」から見た場合に、このようなクラウディング・アウト現象による市中金利高騰という副作用が生じてくる危険性が不可避だと強調して、「だから、ケインズ的政策は有害無益だ!」と叫んできたのである。
また、このグループの最も著名な経済学者の一人であるマンデル(R.A.Mundell)などは、そういった市中金利の高騰が生じれば、国際通貨市場でその国の通貨の価値が高くなりすぎ、――たとえば、日本について言えば「円高」が進行し、――その国の輸出産業が大きな打撃を受け、それによって全般的に景気回復の失速といった副作用が起こることになるとして、結局、ケインズ的総需要拡大政策は無効果に終わるにちがいない(いわゆる「マンデル=フレミング効果」)と主張してきた。過去四半世紀というものは、わが国の旧経済企画庁(ないし現在の内閣府)や旧大蔵省(現在の財務省)などの政策担当者たちのなかでも、このような論拠によってケインズ的景気回復策の「効果なし論、有害無益論」を唱える人たちが、大勢力をなしていたようである(『毎日新聞』平成9年9月10日号では、主要経済官庁におけるそのような状況の詳細な解説がなされ、そういった新古典派陣営の指導的高官の具体的人名までが報道されていた)。
しかしながら、クラウディング・アウト現象による過大な金利高騰といった「副作用」を招いて景気を失速させてしまうような政策運営は、「ケインズ的政策」の名に値しない。
実は、経済学のごく初歩的な基本的知識にすぎないことであるが、そのような「副作用」は、ケインズ的金融政策によるバック・アップで、すなわち、たとえば日銀の「買いオペ」といった政策手段の実施で、容易かつ確実に、それを防止することができるはずのものである。もちろん、戦前に高橋是清蔵相と深井英五日銀総裁が協力して実施したように、新規発行国債を日銀が直接に引き受けるという方式であれば、そのようなクラウディング・アウト防止効果はいっそう決定的で即効的であろう。また、いまから半世紀も前に、ラーナー(A.P.Lerner)の『雇用の経済学』やディラード(D.Dillard)の『J・M・ケインズの経済学』といった碩学たちのベストセラーズの名著で強く推奨され、その後も、ブキャナン(J.M.Buchanan)、スティグリッツ(J.E.Stiglitz)といったノーベル経済学賞受賞の大家たちからも提唱されてきたように、また、明治維新の当初に実際にわが国でも行なわれたように、そして、十年あまりも以前より筆者(丹羽)自身が繰り返し強く提言してきたように、政府が、政府自身で政府貨幣としての「政府紙幣」(ゆえに日銀券のような「銀行券」ではない)を発行して造幣益(seigniorage gain)を得るか、あるいは、その「政府貨幣発行権」の一定額ぶんを政府が日銀に売却してその代金を取得するといったやりかたで、容易かつ巨額に、ケインズ的積極財政政策実施のための政府財政財源を得るということも、できるはずなのである(わが国の現行法でも、この両方式はともに適法である)。言うまでもなく、このような財源調達方式による場合であれば、クラウディング・アウト現象による金利高騰の心配などは、まったく無くなる。
いずれにせよ、このようにクラウディング・アウト現象の発生とそれによる金利の高騰という「副作用」を、ケインズ的金融政策の発動で防止してしまえば、たとえケインズ的な積極財政政策をどんなに大規模に実施したところで、マンデル流の分析で予言されているような国内金利の上昇に由来する「円高」の進行によって景気回復政策が挫折するといった事態が生じるようなことも、まったくありえないことになる。それどころか、マクロ的に完全雇用・完全操業の達成に向けて急速かつ大幅に内需が拡大されていけば、わが産業による輸出ドライブは緩和され、また、わが国の外国産品輸入が大きく伸びるであろうから、現行の「フロート制」(変動為替相場制度)を前提とするかぎり、必然的に為替レートは相当に「円安」になり、わが国の産業は労せずして対外競争力を顕著に回復することができ、わが産業の「空洞化」の危険も雲散霧消するにいたるであろう。
言うまでもなく、全てこういうことは、エコノミストであれば、誰でもがよく知っているはずのことにすぎない。マンデル自身も、本当は、よく知っているはずである。であるにもかかわらず、現在のわが国では、内閣府・財務省(旧経済企画庁・大蔵省)・日銀などの政策担当者たちをはじめとして、政治家、マスコミ人、評論家、学者、財界人、労組指導者、等々、にいたるまで、わざと、この初歩的で重要な経済学的知識を「知らないふり」をして、わが国民を騙しつつ、新古典派的「反ケインズ主義」の支配的流行という風潮にもっぱら迎合し、あるいは、すすんでそれを推し進めようとさえしている者たちが主流をなすにいたっている。いまやわが国において牢固として居座るにいたった奇怪かつニヒリスティックな社会的マインド・コントロール状況の恐るべき惨害の一端を、ここでも、まざまざと見せつけられざるをえないのである。
為替レートのハンディキャップ供与機能の重要性
このような為替レートの問題については、前号でも、不況と円高の悪循環によって、日本経済が長期にわたって低迷を余儀なくされてきたということを指摘しておいたが、そのことにも関連したきわめて重要なこととして、本号では、ここで、為替レートの「ハンディキャップ供与機能」ということを述べておきたい。
良く知られているように、ゴルフの競技では、初心者には「ハンディキャップ」が与えられて、練達のプレーヤーを相手に競技をしても、同等に勝ち負けを競いうる仕組みになっている。「為替レート」がはたしている機能も、いわば、これと同様であると言ってよい。たとえ生産性の絶対的水準がはなはだしく低いような国であっても、そのような生産性の低さに照応して、その国の通貨の対外交換比率である「為替レート」が割安になるという形で「ハンディキャップ」がその国の産業に与えられる結果となれば、その国の国内では割安に産出しうるような産物を、国際市場価格で外国へ輸出できるようになり、経済自立も可能になる。
すなわち、ひとたび、このような「為替レート」の「ハンディキャップ供与機能」によって、国と国とのあいだの、平均生産性水準の絶対的較差が埋められてしまえば、生産性が絶対的に高い先進国も、生産性が絶対的に低い発展途上国も、ともに、それぞれに国内的に相対価格の低い財貨・サービス(つまり国内的に割安に生産・供給しうる比較優位性を持った商品)を輸出することができ、国内で生産した場合に相対的に価格が高くなってしまうような財貨・サービス(つまり国内的に生産・供給が割高につく比較劣位性をともなった商品)は、それを輸入によって安く入手することができるようになる。これこそが、有名なリカード(David Ricardo)の「比較優位の原理」(「比較生産費の原理」とも言う)に基づく「国際分業」のメカニズムであり、これによって、貿易にたずさわる国々は、すべて共存共栄の形で「国際分業の利益」を享受しうるわけである。そして、そのための為替レートの適切な形成とその「ハンディキャップ供与機能」が担保されるためには、上述のごとく、現行の「フロート制」(変動為替相場制度)がケインズ的財政・金融政策によって常にバック・アップされているということが、不可欠の必要条件となっているのである。
もちろん、当該国の通貨の対外為替レートが安くなるという形で「ハンディキャップ」を多く与えられるということは、そのぶんだけ、その国の住民にとっては輸入品が高価なものになるという犠牲をともなう。しかし、そうではあっても、天然資源に恵まれていないといった不利な条件の下にあるような国でさえもが、加工貿易や中継貿易などによって経済を自立・繁栄させ、かなり高い生活水準を維持することが可能になるのも、このような国際分業のメカニズムがもたらす恩恵である。この精妙なメカニズムによって、人類文明のグローバルな国際経済関係は、基本的かつ原則的には、全てのプレーヤーが「利益」を得る共存共栄のノン・ゼロサム・ゲーム、ポジティブ・サム・ゲームの世界になりえているわけである。このことから全人類が受けているベネフィット(利益・福祉)の巨大さは、けだし、はかりしれないものがあると言わねばならない。戦後におけるわが国の経済の繁栄・成長は、まさに、この恩恵によるものであった。
ところが、上記の論述ですでに示唆されてきたように、この共存共栄の精緻な恩恵のメカニズムを諸種の詭弁を弄して否認しようと策し、さらにはアグレッシブでグローバルな「反ケインズ主義」の政治活動をもあえてして、それを封止・破壊しようと腐心してやまないのが、フリードマン、マンデル、ルーカスなど新古典派の経済思想家たちなのである。
フロート制はケインズ的政策に決定的に依存する
ここで、上記のような「為替レート」の特質に関連して、ぜひとも想起しておくべきことは、前号でも指摘しておいたことであるが、現行の「変動為替相場制度」(フロート制)の内含している「信賞必罰」の性質である。
すなわち、ある国の政策当局が、国内的に総需要の確保を怠り(あるいは、それに失敗し)、不況を発生させ、デフレ・ギャップを生じさせてしまうと、その国の産業による「輸出ドライブ」が激化し、他方では輸入が減るため、国際通貨市場においてその国の通貨の交換価値(為替レート)が高騰──日本の場合であれば「円高」が進行──して輸出も苦しくなり、結局、不況の永続化という「罰」を受けることになるということである。そして、言うまでもないことであろうが、そのような、その国の通貨の交換価値を異常に高騰させるような「為替レート」の暴走──たとえば1995〜96年ごろの80円=1ドルといった超円高──が生じると、もはや「ハンディキャップ」の機能をはたさなくなる。そのことは、貿易による国際分業を大きく歪ませ、あるいは、不可能にしてしまい、その国の産業のみならず全世界の経済に甚大なダメージを与えることになりかねないのである。
しかし、「変動為替相場制度」(フロート制)だからといって、必ずこのような悪循環的なプロセスと、それによる永続的な不況に苦しめられねばならないというわけのものではない。実は、経済政策の舵のとりかたさえ良ければ、逆に、理想的に良好な経済の運営を実現しうるメカニズムが仕組まれているのも、ほかならぬ、この「フロート制」なのである。
すなわち、現行の「フロート制」のもとでは、その国の財政・金融政策の運営よろしきを得て、マクロ的にインフレ・ギャップやデフレ・ギャップを発生させないように適切な水準の総需要を確保し、完全雇用・完全操業という意味での「国内均衡」を保ってさえいれば、「フロート制」もちまえの自動的な調整作用によって、ある程度のタイム・ラッグ(時間的な遅れ)を見込まなければならないとはいえ、貿易収支・国際収支の妥当な程度の均衡という意味での「対外均衡」も、為替レートを媒介として、遅かれ早かれ、もたらされるのである。
つまり、国内的にマクロ的なケインズ的「総需要管理政策」を適切に実施して、完全雇用・完全操業を達成してさえいれば、あたかも、それに対する「褒賞」のごとく、経済の「国内均衡」と「対外均衡」とが、ともに達成される理想的な状態が自ずと実現されうるわけである。これこそが、自由な市場メカニズムを活かしていこうとしている現行の「フロート制」の最大の長所なのである。
しかし、ひとたび、マクロ的な経済政策の「かじ取り」を誤り、総需要を不必要に抑えすぎてデフレ・ギャップと不況を発生させる失策を演じてしまうと、上述したごとく、事態は一変し、あたかも、それに対する「罰」のごとく、為替レートによる「ハンディキャップの供与」も行なわれなくなり、不況が悪循環的に永続化することになってしまう。まさに「信賞必罰」のシステムなのである。
「反ケインズ主義」の呪縛による三大悪循環
不幸にして、過去三十年近くも、わが政策当局は、このような「フロート制」の厳しい「信賞必罰」の特質についての理解をほとんど持っていないかのごとき姿勢で通してきた。すなわち、1970年代後半より現在まで、わが政策当局が、財政・金融政策によるケインズ流のマクロ的「総需要管理政策」を十分な規模でダイナミックに運営するという意欲を失ってしまってきたために、わが国の経済は、その実力を発揮することができなくなってしまっており、「フロート制」による厳しい「罰」を受けて、あたかも「ハンディキャップ」を剥奪されたままでコンペに出場させられたゴルフ・プレイヤーのごとく、永続的な不況・停滞と深刻な「産業空洞化」に苦しめられ続けてきているわけである。したがって、わが国の企業や産業が、それぞれに、どんなに合理化努力を傾注しても、その結果として、さらにいっそう厳しい「円高」による追い討ちを受けることにならざるをえなかったわけであり、まさに、「賽の河原」の苦しみが続いてきたのである。
もちろん、わが国の経済を痛めつけてきた悪循環は、上記のような「不況」と「円高」の悪循環だけではない。前号でもすでに指摘しておいたことであるが、ちょっと考えればすぐにわかるように、不況は政府の財政収入をいやがうえにも落ちこませ、国家財政の破綻を深刻化させる。それに押されて、財政当局が増税と財政支出の緊縮につとめれば、それは総需要をいっそう減少させ、不況がますます激化するという悪循環が生じざるをえないことになる。また、不況は、企業に諸種の「リストラ」努力(いわゆる「不良債権」の処理をも含めて)を強いることになるが、それは、企業どうしが需要の削りあいを行なうということにほかならず、それもまた、不況、停滞、そして、経済衰退のプロセスをさらに悪化させるという悪循環をもたらす。いわゆる「合成の誤謬」が、これである。
まだ、その他にも、同様なことを幾つか指摘しうるかもしれないが、少なくとも、上述したような3つの悪循環、すなわち、
(1)不況 → 円高 → 不況、
(2)不況 → 財政破綻 → 緊縮財政と増税 → 不況、
(3)不況 → 企業のリストラ → 需要の削り合い → 不況
は、1970年代後半以降の三十年間を通じて、きわめて明白に、そして、とりわけ1990年代以降の「平成不況」の時期に入ってからは極度に過酷に、日本経済を苦しめ、衰退に導いてきたわけである。しかも、この3つの悪循環は相乗作用を演じてきたのであるから、事態はきわめて重大であったと言わねばならない。
かくて、わが国経済の不況・停滞の状況は永続化し、固定為替レート制度から変動為替相場制度(フロート制)への転換が行なわれた1973年を重要な契機として、その翌年の1974年からわが国の経済においては「総需要」──すなわち生産された財貨・サービスを実際に購入する支出という意味での「有効需要支出」の総額──の伸びの不振からデフレ・ギャップが顕在化しはじめ、それは長年にわたって趨勢的に拡大の一途をたどってきた。このことによって、わが国の経済社会は、過去四半世紀の概算でも、合計5000兆円(1990年価格評価の実質値)にも達する超膨大な額の潜在GDPが実現されえずに空しく失われてまったのである。政府はこのことを隠蔽・秘匿してきたが、実は、このことこそが、「経済敗戦」の実情であった(1988〜90年のバブル期においても、マネー・ゲームに乱舞した巨額のカネの大部分は有効需要支出ではなかったために、実体経済の成長率回復はそれほどでもなく、デフレ・ギャップは縮小するにはいたらなかった)。
にもかかわらず、近年ならびに現在のわが国においては、大規模な思想謀略を仕掛けられてきたとしか思われないような奇怪な社会的マインド・コントロール状況に呪縛されて、結局、朝野を通じて、この3つの悪循環を直視して、それからの有効な脱却の方途を策定するといった最重要なことが、ほとんど行なわれてこなかった。今もそれがなされていないのが現状である。巨大なデフレ・ギャップの発生・累増と、それにともなう膨大な潜在GDPの喪失という惨害も、隠蔽・秘匿されたままである。近年、わが国でさかんに唱導されてきた供給サイド構造改革、規制緩和、行革、税制見直し、等々、のミクロ経済的諸方策は、それら自体としてはなんらかの意味で必要なことであったと言いうるかもしれないとしても、肝心の、上記の3つの悪循環からわが国の経済を脱出させ、産業の衰退や空洞化を食い止めるという目的の達成のためには、むしろ有害であるか、まったく役に立たないか、せいぜいのところ、プラスの効果が若干はあるかもしれないとしても、それがきわめて不確実なものでしかなかった。小泉政権の経済政策は、このような欠点をきわめて顕著にともなっていたのである。とくに、いわゆる「不良債権」処理の強行という施策は、「合成の誤謬」をもたらす典型的な事例であり、マクロ的にはいやがうえにも不況・停滞を激化させずにはおかないものであった。
ここで、はっきりと直視するべきことは、上記の3つの悪循環が、疑いもなく、すべて、ケインズ的「総需要管理政策」の不在という同一の「需要サイド」の原因から生じているということである。そして、そういった状況がもたらされてきたのは、フリードマンやルーカスを頭領とする、現代米国の「新古典派」を中心とする「反ケインズ主義」のグローバルな思想攻勢が、わが国の政策担当者たちをはじめ、政界、官界、財界、学界、マスコミ、論壇、等々、わが国民各層に絶大な支配的影響力を振るってきたからに、ほかならなかったのである。
有害な矛盾を承知でのディス・インフォーメーション謀略
上記で詳述したように、為替レートの「ハンディキャップ供与機能」は、人類文明にとって、この上もなく重要で貴重な役割をはたしている。そして、そのような為替レートの働きが十分になされるためには、フロート制を基本として、その「信賞必罰」のメカニズムに立脚して、それぞれの国がそれぞれの「通貨」を持ち、マクロ的な財政・金融政策を適切に運営して、デフレ・ギャップ、インフレ・ギャップを発生させないようにすることが必要なのである。それがなされれば、国際経済は共存共栄のノン・ゼロサム・ゲーム、ポジティブ・サム・ゲームの「右肩上り」の経済世界となりうるのである。それを実現する決め手としてデザインされたのが、ほかならぬ「ケインズ的」政策体系である。実は、「反ケインズ主義」陣営の大教祖ハイエク(F.A.Hayek)でさえもが、内心ではこのことを認めていて、そのことを、ふと告白してしまったと思われる文章をかれの主著『自由の条件』(The Constitution of Liberty, 1960)のなかに書き遺しているほどなのである(邦訳ハイエク全集、第7巻、115ページ)。
前号でも指摘しておいたが、フリードマンも、上述したような「フロート制」の「信賞必罰」の特徴――これは、エコノミストであれば誰でもがよくわきまえているような初歩的な知識にすぎない――を、十分に知っていたはずである。当然、「フロート制」がうまく機能するためには「ケインズ的政策」が不可欠であるということも、彼はよく知っていたはずである。そうであるにもかかわらず、フリードマンたちが、一方で「フロート制」への移行を強く唱導していながら、他方で、きわめて大規模かつアグレッシブに「反ケインズ主義」のイデオロギー的なキャンペーンをグローバルに繰り広げてきたということは、きわめて矛盾していることであった。フリードマンほどの巨匠が、「うっかりミス」でそのような矛盾をおかしたなどとは、とうてい考えられない。だとすれば、彼は、有害な矛盾を承知のうえで、あえて、そのように思想攻勢的な活動を陣頭に立って繰り広げてきたのだということになる。すなわち、フリードマンら新古典派のスタンスからは、人類文明の現行の経済体制にあえて甚大なダメージを与えようと意図しているとしか思われないような破壊主義ニヒリズムを看取せざるをえないのである。
実は、このような左翼思想と底流を同じくしていると思われるようなニヒリズムを、われわれは、マンデルのスタンスからも読み取らざるをえない。
上記のごとく、マンデルは、ケインズ的総需要拡大政策が行われた場合、その副作用としてクラウディング・アウト現象による金利の有害な高騰と、それにともなう輸出を困難にするような為替レートの変動が生じ、それが政策効果を無に帰さしてしまうと論じて、為替レートの「ハンディキャップ供与機能」と「ケインズ的政策」とが、あたかも両立しえないかのごとく声高に宣伝してきた。しかし、ノーベル賞を受賞したほどに頭脳明晰なマンデル自身は、上述のごとく、ケインズ的財政政策が同じくケインズ的金融政策によってバック・アップされていさえすれば、金利の有害な高騰という副作用は容易に防止され、フロート制のもとでも、ケインズ的政策と為替レートの「ハンディキャップ供与機能」とが立派に両立しうるということを、よく知っていたはずである。
すでに強調しておいたことであるが、有害な金利高騰やそれによる「円高」の暴走といった副作用を招くような財政政策は、そもそも「ケインズ的政策」の名に値しないのであって、景気振興のための財政政策には、必ず、上述のように、金融政策のバック・アップを付けて、有害な金利高騰という副作用の発生を防止しつつそれを行なわねばならないのである。そのような政策運営がはきわめて重要で、しかも、容易になしうるのだということは、すでに六十数年も前から明瞭に確立ずみの基本的な政策実施のノウハウなのである。このことを、マンデルやフリードマンが知らないなどということは、ぜったいにありえないことである。すなわち、彼らが、「ケインズ的政策」と為替レートの「ハンディキャップ供与機能」とが両立しえないかのごとく叫んできたのは、故意になされてきた非常に悪質な──つまり、人類文明に大きな危害を加えようとするような──ディス・インフォーメーション(欺瞞情報)謀略なのだと解釈せざるをえないわけである。
単一通貨・単一巨大市場主義の危険
上記では、国際経済理論の視角から見た場合に、為替レートの「ハンディキャップ供与」機能に支えられたリカード的「比較優位の原理」に基づく国際分業の利益を各国が十分に享受しうるということこそが人類文明の基礎であって、まさしく、それに基づく共存共栄の「右肩上がり」の世界経済状況を確立する効果をケインズ的な政策体系が持っているのに対して、フリードマン、ルーカス、マンデルなどの新古典派による「反ケインズ主義」の思想攻勢は、そのような共存共栄の国際分業システムを破壊し去ってしまおうとする危険な意味合いを内含しているということを、論証した。そのことに関連して、以下のことも、きわめて重大な意味をもっていることであるので、ここで指摘しておきたい。
すなわち、 いま、わが国では、EU統合の動きなどに刺激され、全世界が単一通貨を持ち「一物一価の法則」が全世界の隅々にまで統一的に貫徹するような巨大な「単一市場」となることを望ましいことだとして、「単一通貨・単一巨大市場化のグローバリゼーション万々歳!」といった意見が主流となっている。米国新古典派の著名な論客で上記でも繰り返し言及・論評したマンデルや、米国「連銀」元議長で確信犯的な反ケインズ主義者として著名なボルカー(P.Volker)などが、グローバルな単一通貨・単一巨大市場化の推進を声高に提唱し続けており、それが、わが国のマスコミによっても好意的に大きく報道されている状況である。
そもそも、各国がそれぞれに独自の通貨を持ち、それを用いて、それぞれに財政政策や金融政策を実施し、それぞれの経済と国民生活を守るということが、国家という組織体のきわめて重要な責務であり、基本権であるはずである。 国家の「貨幣発行特権」は、そのためにあるのである。国家が、その独自の通貨を持ちえなくなったときには、国家は、もはや財政政策も金融政策も実施しえなくなる。いわば、そうなれば、国家は、国家たりえなくなるのである。このことを考えれば、上記のごとき「単一通貨・単一巨大市場のグローバリゼーション万々歳!」といった反ケインズ主義者たちの政策姿勢が、基本的には、国家廃絶を目指すアナーキズム的な新左翼流の「急進共和主義」に根ざしていることは明らかである。
しかも、本稿における上記のような論述にてらせば、すぐに推察しうるように、このような国家廃絶主義を是認しようとするような風潮は、国際経済の問題に視点を限ってみてさえも、きわめて危険である。なぜならば、そういった意味でのグローバリゼーションが進行していって、全世界が単一通貨のみを共通に用いる単一市場になってしまえば、各国それぞれの通貨のあいだの交換比率である「為替レート」が消失し、その「ハンディキャップ供与機能」も失われるからである。
言うまでもなく、そうなってしまえば、リカード的な「比較優位の原理」に基づく国際分業は行なわれなくなるわけであり、国際経済関係は峻烈で仮借ない弱肉強食の場となり、生産性の絶対水準が低い諸国や天然資源に恵まれない諸国の経済は完全に崩壊し、人類文明そのものが、全面的に壊滅することになってしまう。
実は、このようなことが、先年、東西の両ドイツが合併したさいに、東ドイツ地域で、現実に起こったのである。すなわち、1989年に両独が合併するまでは、東独マルクは、国際通貨市場で西独マルクの数分の一ないし十分の一程度の価値しか持たないものと、きわめて低く評価されていた。このような「安い東独マルク」というハンディキャップに支えられて、当時の東独は、生産性の低い東独経済がようやく生産しえていたような品質もデザインも劣悪な商品でも、それを、なんとか西側諸国へも輸出することができていた。そのようにして、東独の経済は、当時、東欧共産圏諸国のなかでは最も良好な状態にあったのである。しかし、西ドイツに併合されたことによって、「安い東独マルク」というハンディキャップが与えられなくなったために、東独の産業は、ほとんど全面的に壊滅してしまい、現在にいたっても、まだ、立ち直ることができないでいるのである。
すなわち、各国固有の通貨を廃止して「単一の共通通貨」にしてしまおうというような政策が、「きわめて危険だ!」と強調せざるをえないゆえんである。もとより、今後、「東アジア経済圏」の形成を考える場合でも、この危険を十二分に厳戒しなければなるまい。実は、このようなことも、エコノミストであれば、誰でもが良く知っている国際経済理論のきわめて初歩的な知識にすぎないはずである。
かれらは自説の矛盾を承知で、破局的な帰結をも予見していたはずだ!
フリードマンは、「供給サイド」からの議論としてはルーカス的な理論に依拠し、また、「需要サイド」からの立論としては「恒常所得仮説」による乗数効果否定論、クラウディング・アウト論、さらには、マンデルの理論などを援用しつつ、グローバルに「反ケインズ主義」の思想攻勢を指導してきた。しかし、上述のごとく、フリードマンをはじめ新古典派の指導者たち自身は、かれらの学派が依拠している上記のような諸理論が、いずれも、きわめて非現実的かつ妥当性を欠いた不自然なトリック的前提や仮定に基づいた牽強付会の詭弁にすぎないということを、よく知っているはずである。したがって、フリードマンにしろ、ルーカスにしろ、マンデルにしろ、かれらの内心では、むしろケインズ的政策こそが有効であると、明瞭に確信しているにちがいない。 上記でもふれたように、ハイエクでさえもが、ケインズ的政策が主要諸国で実施されれば、高い雇用水準と為替レートの安定・正常な機能ならびに良好な国際経済の状態がもたらされるであろうと、内心では認めていたことを示唆するような文章を、書き遺しているのである。
したがって、また、かれら自身は、新旧の左翼陣営との密接な提携・共闘という形で、かれら「新古典派」がグローバルに主導しつつある巨大な「反ケインズ主義」キャンペーンによって、「ケインズ的政策」の発動が主要諸国で封止されてしまったときには、例えば1930年代のそれのような「世界大不況」の発生といった破局に人類文明が曝されることになりかねないという危険性が濃いことも、十分によく知り抜いているはずなのである。したがって、日本経済が、上述のごとく、
不況 → 円高 → 不況 の悪循環に捉えられ、為替レートという「ハンディキャップ」を大きく奪われて、産業空洞化と経済の衰退に苦しむことになるということも、かれらは、理論的に予測しえていたはずである。
しかも、とりわけ日本経済の場合には、1970年代末から1980年代初頭のころに「反ケインズ主義」によって高度成長への復帰を急に阻止されてしまったのであるから、いわば激しいタックルを受けたのと同様な大衝撃であった。そして、このような日本経済の失速とその不況・不振の永続化は、早晩、アジア諸国の経済にとっても、大きな災厄──たとえば1997〜98年のアジア金融恐慌──とならざるをえないということも不可避であった。フリードマンたち新古典派「反ケインズ主義」陣営は、このことも、はっきりと予見していたはずなのである
欧米諸国の経済の場合には、もともと半世紀以上にもわたって趨勢的に低成長が続いてきていたのであるから、新古典派的「反ケインズ主義」の支配下に置かれることになったといっても、そのことから受ける実体経済の衝撃は、日本経済の場合に比べれば、相対的にはそれほど大きくはなかったと言いうるかもしれない。しかし、EUの統合により共通の単一通貨「ユーロ」が導入されたために、為替レートの「ハンディキャップ供与機能」を享受しえなくなったヨーロッパ諸国の受けるダメージは、すでに莫大なものとなっているのである。しかも、今後、そのようなダメージは、さらに甚大なものとなると予測しなければならないであろう。したがって、アジアにおいても、いわゆる「東アジア経済圏」に共通単一通貨を導入するといったことは、絶対に避けなければならないことなのである。
米国政府のスタンスはむしろケインズ主義だ
以上、るる論述してきたごとく、経済思想界における新古典派によるグローバルな支配という現在の状況は、わが国にとっても、また、全世界の人類文明にとっても、きわめて危険な事態となっている。
しかし、このような憂慮にたえない情勢から脱却しうるための1つの契機がある。それは、実は、ほかならぬ米国のマクロ経済政策のスタンスである。かつて、「反ケインズ主義者」であったはずのレーガン大統領が、当時のボルカー「連銀」議長の誤った金融政策で足をとられながらも、実際には、
事実上の大規模なケインズ的財政政策を断行して軍拡競争でソ連を圧倒し、冷戦での勝利を導いてからは、歴代の米国政権は、少なくともマクロ経済政策の面では、新古典派の政策論に盲従することは避けてきたようである。とくに、現ブッシュ政権のマクロ経済政策は、不十分とはいえ、明らかにケインズ主義のそれである
。
米国の対日経済要求についても、そのミクロ・レベルないし個々の産業レベルに関するものには日本経済にとってむしろ有害なものも多く含まれてはいたわけであるが、マクロ政策の次元では、米国はほぼ一貫して、日本に内需拡大を要請し続けてきた。言うまでもなく、これはケインズ主義に則ってきたものであり、日本経済にとっても有益な要望であった。
時あたかも、いまわが日本においては、新古典派の政策論的教説へのひたすらな追従・服従を旨としてきたかのごとき小泉政権に替わって、安倍晋三氏を首班とする新内閣が発足したところである。これを契機に、わが新内閣の政策担当者諸氏が、新古典派の経済思想の危険性を見破り、新古典派によって理不尽に貶められてきたケインズ主義のパラダイムのうちにこそ真に健全確実な経済政策論が内蔵されていることを再認識して、たとえば、本誌10月号で筆者(丹羽)が提言した「600兆円マニフェスト」のような正統派的な経済政策の実施による経済再生の大業に踏み切るならば、上記のような米国の政策スタンスから見て、「日米枢軸」をマクロ経済政策の面で確立することも可能であると、考えうるのである。
このことが成就されるならば、そのことは、わが国を泰山の安きに置くことになるばかりではなく、アジア諸国をも含めて、全世界の人類文明に、はかりしれない福音をもたらすことになろう。安倍新政権の政策担当マシーン諸氏の、覚醒と奮起を望んでやまないしだいである。
日本経済・税制・財政協議会