| 時機を失したデフレ政策−松方財政 |
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| 『カレント』誌、平成17年3月号所収 日本経済再生政策提言フォーラム会長 経済学博士 丹羽春喜 |
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「太政官札」の発行が明治維新を実現
明治維新のさいに行なわれた「太政官札」の発行を、左翼陣営は、それを明治維新史の「一大汚点」だと決め付けて非難するのが常であるが、前号(『カレント』誌平成17年2月号)で、私は、そのような左翼的な見解を論駁し、この「太政官札」の発行という大英断こそが明治維新の大業を成功させた「決定打」であったと指摘しておいた。しかし、そのような左翼的な見解の延長線上で、維新時の「太政官札」、「民部省札」、そして、印刷を巧緻なものにした「新紙幣」などの不換政府紙幣の発行は、結局、その後、紙幣発行量の整理・圧縮のために松方蔵相によって実施された厳しいデフレ政策の大不況というツケを払わされることになったとして、「だから、太政官札の轍を踏むな!」と叫ばれていることも多い。そこで、本号では、その松方財政を考察することにする。
ここで先ず想起しておかねばならないことは、松方デフレは、ずっと後年の、西南戦争が終わって四年以上も経った明治十五年からの話であるということである。したがって、「太政官札」発行が維新成功の決定打であったと見る私の説の当否と、西南戦争の戦費支出や、その直後に大隈重信蔵相が実施した殖産興業のための積極財政で生じたインフレ的物価上昇の処理にかかわる松方デフレとは、もともと、あまり関係がない。であるから、松方のデフレ政策(紙幣流通量の削減)が必要とされるようになったから「太政官札」の発行はやるべきではなかったなどという議論は、まったく見当ちがいである。しかも、以下に述べるように、松方デフレは、「遅れてきたデフレ政策」であったのであり、不必要かつ有害であったのである。 明治十年の西南戦争では、その戦争期間がわずかに数ヶ月というように短かいものであったにもかかわらず、政府は、4200万円という当時としては非常に巨額の戦費を支出した。そのうちの、三分の二にあたる2700万円が不換政府紙幣の発行でまかなわれ、残余の1500万円は借入金で調達された。 この明治十年の頃になると、維新の成功による文明開化の経済成長で、明治元年の時点では存在していたと思われるデフレ・ギャップもずっと縮小していたと考えられる。したがって、西南戦争によるこの巨額の戦費支出で、インフレ・ギャップが発生する危険が大きかったわけである。しかし、西南戦争が終わった直後までは、まだ、インフレ・ギャップは発生しないですんでいたのであるが、大隈蔵相による殖産興業のための積極財政が始められると、ついに明治十二年の秋ごろから、インフレ・ギャップの発生によるものと思われる国内物価の高騰が生じはじめたのであった。当時、全世界的には、十九世紀の「大不況期」として知られている西暦1873年から1896年ごろまでの二十数年におよぶ長期不況の最中であり、海外諸国の物価は低落傾向にあった。それに逆行して、日本の国内物価が上昇したわけである。 当時のわが国の対外決済に普通に用いられていたのは銀貨(メキシコ銀貨が多用されていた)であった。他方、国内で流通していたのは、言うまでもなく、不換紙幣(その大部分は政府紙幣の「新紙幣」 )であった。もちろん、毎日、そのような銀貨と国内紙幣との交換比率の相場が立っていたのであり、これが、いわゆる「銀紙比率」であった。これは、現在のわれわれの感覚での「円の対外為替相場」にあたると考えればよいであろう。銀貨は海外物価の低落を反映してその価値が上昇したのに対して、紙幣のほうは国内物価の上昇にともないその購買力が下がった。もちろん、この「銀紙比率」は貿易収支の影響をも受けて変動した。当時のわが国は輸入超過であったから、輸入商による対外支払いのための銀貨需要が強く、いやがうえにも銀貨の価格が高騰した。そのような事情で、明治十一年の夏に銀貨1円=紙幣1.07円 という相場であったのが、明治十四年の四月には 銀貨1円=紙幣1.8円 という相場になった。つまり、相当な「円安」相場になったわけである。 弁解の余地の無い大きな誤り しかし、それが「円安」のピークであった。それ以降は、「銀紙比率」は、縮小傾向となった。つまり、西南戦争の「戦後インフレ」は、明治十四年の後半には終息プロセスに入ったわけである。そして、この明治十四年には、国内物価においても先ずコメ価格が大幅に下がりはじめ、農民の所得が減少し、それが商工業の売れ行き減退を結果して、全般的に「戦後不況(西南戦争の)」が発生しはじめたのである。 であるから、この明治十四年の秋に蔵相に就任して明治十八年まで在任した松方正義が、すでに不況が始まっていたのに、それに徹底した追い討ちをかけるかのように、きわめて厳しいデフレ政策を強行し、それを彼の在任期間のほとんど全期間にわたって続行して、わが国の経済を激甚な不況に陥らせてしまったことは、弁解の余地の無い大きな誤りであった。これは、大東亜戦争の戦後ハイパー・インフレが昭和二十三年夏に終息していたにもかかわらず、その翌年の昭和二十四年の四月からのきわめて厳しいデフレ政策の実施をわが国の政府に強制して、当時のわが国の経済を甚だしい「金詰まり不況」に陥れてしまったドッジ・プランや、平成元年の秋ごろには「バブル」が終息過程に入っていたことがほぼ明らかであったにもかかわらず、それをあえて後追いして、平成二年から非常に厳しい金融引き締め政策を強行し、激烈な「平成不況」を発生させてしまった三重野日銀総裁(当時)の金融政策などと同様の、「遅れてきたデフレ政策」の失敗にほかならなかった。 松方蔵相は、不換政府紙幣の流通量を減少させて「銀紙比率」をほぼ1.0に近いところにまで引き上げ、その「円高」のレートで「銀本位制」に移行し、明治十五年に設立された日本銀行の発行する「日銀券」を、このレートでの銀貨への交換を公約した「兌換紙幣」とした。しかし、このような松方蔵相の大功績だとされていることにも、重大な問題点が数多く含まれていた。次号では、そのような松方財政の問題点を、さらに詳しく吟味してみたい。
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| 以上 | |
丹羽春喜日本経済10%成長論 |