平成17年9月1日
「郵政改革」論争で忘れられてきた重要問題
                 
                    
日本経済再生政策提言フォーラム
会長 丹羽春喜(経済学博士)
 「供給サイド」か?「需要サイド」か?


郵政改革を断行すべしとする主張の最重要な論拠として、郵貯の350兆円にも達する預金額(簡保を除けば約200兆円)が、これまでは主として政府による「財投」(財政投融資計画)の財源として用いられる形で「不効率」に運用されてきたとされて、そのことが日本経済の不況・停滞の重大な原因であったかのごとく言い立てられてきている。

 そして、この350兆円の預金を「民営化された銀行に移せ!」と、叫ばれているわけである。しかし、実は、このことに関しては、まず最初に吟味されねばならなかったはずのきわめて重要な問題点が、現在まで、まったく見過ごされてきてしまっている。

すなわち、この350兆円の運用の「不効率」のゆえに日本経済が不況・停滞に陥っているとするのならば、それは「供給サイド」から見てのことなのか、それとも、「需要サイド」から見た場合のことなのか、という最も基本的な吟味・考察が、まったくなされないままで今日にいたっているのである。
 

 日本の市場経済は世界で最も効率が良い

「供給サイド」の面については、日本経済が、現在、おそらく全世界で最も効率の高い経済であるということを、認識しておくべきであろう。かつて、ソ連や東欧などの共産圏諸国では、需要に対して生産・供給のミス・マッチングがはなはだしく、使い物にならないような生産物がおびただしく生じて、それらが、いたずらに倉庫に積み上げられているのみといった状況であった。だから、在庫増加額の対国民所得比率ないし対GDP比率が非常に高かった。

軍需品の国家備蓄の増加額を推計して、それを差し引いた後でも、これら共産圏諸国では、この在庫増加額の対GDP比率が6〜7パーセント以上にも達していた。 西側陣営の主要諸国の場合には、この比率が3パーセント前後にすぎなかったのであるから、差は歴然としていた。それだけ、共産圏諸国の経済効率は劣悪であったのである。

ところが、近年の日本経済では、在庫増加額(プラスまたはマイナス)の対GDP比率は0.0〜0.3パーセントにすぎないのである。これは、信じがたいほどの、すばらしい効率の高さである。つまり、わが国の経済では、需要の変動に対して、企業サイドから、きわめて敏速・的確に商品(サービスをも含めて)が生産・供給されているわけである。

 この意味で、実は、わが国の経済では、「需給ギャップ」は生じておらず、マクロ均衡の状態にあるのであるが、そうであるにもかかわらず、「デフレ・ギャップ」は膨大に生じている。「需給ギャップ」は無いが、「デフレ・ギャップ」は巨大だというのが、現在の日本経済の特質なのである(後で詳述する)。

 わが国の経済の、類まれな効率の良さを物語るもう一つの指標は、実質GDPの成長率に占める労働生産性向上率の割合の高さである。よく知られているように、大多数の国で、普通は、この割合は、30〜40パーセントぐらいのものである。

ところが、わが国では、1980年代から90年代の半ばごろまでの時期で、この実質GDPの成長率に占める労働生産性向上率の割合が、70〜80パーセント以上にも達していた。このことは、わが国経済の効率の非常な高さを物語っているものであった。それどころか、1990年代の半ば以降最近までの時期になると、わが国の経済では、労働生産性の伸び率のほうが実質GDPの伸び率よりも高いといった、きわめて珍しい状況が続いているのである(2000〜2004年では、実質GDPの成長率が平均年率1.3パーセントであったのに対して、労働生産性の向上率は平均年率2.2パーセントを記録している)。

だからこそ失業が多くなったのだとも言いうるわけであるが、いずれにせよ、「供給サイド」から見た場合には、郵貯の預金350兆円がどのような使われ方をしてきたにせよ、とにかく、日本の経済がおそらく世界でも最も効率の良い市場メカニズムを持った経済であるということについては、ほとんど疑う余地がないのである。

むしろ、郵貯の資金を財源とした「財投」による社会資本の整備ということも、そのような高い効率の市場システムの働きを支える一助となってきたと、考えたほうがよいであろう。いずれにせよ、政府の「構造改革政策」などと称する施策で、わざわざ、このような高能率のシステムに干渉する必要などは、まったく無いのである。


総需要の不足で生じた巨大デフレ・ギャップの大惨害

 それでは、「需要サイド」から見た場合は、どうであるか? エコノミストであれば、皆よく知っているはずのことであるが、マクロ的に完全雇用・完全操業の状況に照応したGDP水準──すなわち「潜在GDP」水準──に比べて、総需要の不足によって実際のGDP水準が下方にカイ離してしまっているようなとき、この両者の差を「デフレ・ギャップ」と呼ぶ。

私が繰り返し、精密な推計作業によって実証してきたように、わが国の経済においては、1970年代の後半以降現在まで、マクロ的に総需要の不足が続いて永続的なデフレ・ギャップが発生・累増してきている。このデフレ・ギャップはバブル期においてさえ縮小されえなかった(バブル期には、投機的・賭博的なマネー・ゲームの盛行とは裏腹に、実体経済=実質GDPの伸びは、僅かに、高度成長期の成長率の半分弱の成長率に達しただけにすぎなかったし、その期間も短かった)。

そして、平成不況が発生してからは、このデフレ・ギャップは、きわめて大幅に拡大し、現在、潜在GDP額で表して年率400兆円にも達している(このことを、政府の経済官僚たちやマスコミは隠蔽・秘匿してきた)。つまり、近年のわが国では、毎年、400兆円もの潜在GDP額が失われ続けているのである。このデフレ・ギャップという形で、実際のGDPとして実現されることができずに空しく失われてしまった潜在GDPの額を総合計すると、過去四半世紀に、国民も政党も政治家たちも知らないあいだに、実に5000兆円(1990年価格評価の実質値)という天文学的に超巨額の潜在GDPが失われてしまったのである。だからこそ、倒産の多発、失業の増大、資産価値の崩落、自殺者の激増、等々、言語に絶する大惨害となったのであった。
 
とは言え、上述のように、日本経済では、需給は見事に均衡している。この意味では、日本経済は、確かにマクロ的な均衡状態(いわゆる「ケインジアン・クロス点」)に位置し続けてきているわけである。しかし、この均衡点は、完全雇用・完全操業の状態に照応した潜在的なマクロ均衡点よりはずっと下方に離れた位置でのマクロ均衡点である。

この両均衡点の差、つまり、それに照応する潜在GDP水準と実際のGDP水準との差が、デフレ・ギャップとなっているわけである。要するに、すでに述べたように、日本経済においては、「需給ギャップは無いが、デフレ・ギャップはきわめて巨大に発生し、累増してきている」のである(このことも、経済官僚やマスコミは、隠蔽・秘匿してきた)。そして、上記のような大惨害となったのである。


政府首脳は、明確な分析と自己反省・自己批判、そして、国民へ謝罪を!

しかし、この大惨害の発生ということについては、民間には全く責任はない。なぜならば、民間の個人や市場メカニズムの下で競争原理によって活動している個々の企業は、マクロ的な総需要をコントロールしうるような能力や権限を持ってはいないからである。
 
マクロ的に総需要をコントロールするのは、民間ではなくて、あくまでも政府の任務である。そのためにこそ、政府には、財政政策や金融政策を行使しうる権限が与えられているのである。しかも、巨大なデフレ・ギャップが存在し、したがって、インフレ・ギャップ発生の怖れが、事実上、皆無であるわが国の場合には、私が、しばしば指摘し提言してきたように、わが政府は、現行法でも明記され許容されている「国(政府)の貨幣発行特権」という「打ち出の小槌」を、政府負債にもならず、国民にもいっさい負担を掛けないような理想的な財政財源の調達手段として、いくらでも使うことができるのである。

つまり、わが政府は、やるつもりがありさえすれば、きわめて容易に総需要をマクロ的にコントロールすることができたはずであり、そうすることによって、巨大なデフレ・ギャップが生じて累増するようなことが無いようにし、上記のような大惨害の発生といったことを防止するということも、なんの困難もなく、なしえたはずである。

 この重要な任務を、一部の経済官僚たちの「反ケインズ主義」イデオロギーに偏したスタンスに追随して怠り続け、ついに、言語に絶するような辛苦を国民になめさせるにいたったわが政府の経済政策当局の責任は、厳しく批判されねばならないであろうし、政府の首脳者は、このことについての、明確な分析と真摯な自己反省・自己批判に基づいて、国民に謝罪し、明確な形で責任をとるべきである。


郵政改革論者の真の意図は「反ケインズ主義」による完全支配

もとより、このようなことは、郵貯350兆円うんぬんということ以前の基本的な問題である。しかし、この最も基本的な問題についての政府首脳者による分析や自己反省・自己批判ならびに国民に対する謝罪がまったく無いままで、いわば、それに頬かぶりしたままで、郵貯350兆円が「財投」に用いられてきたのが「いけなかったのだ!」などと言い立てて、総選挙まで行なうということは、不誠実さの極至であるとともに、きわめてミス・リーディングでもあろう。
 
 なぜ、ミス・リーディングであるかと言えば、そのような郵政改革論者の意見は、しばしば、郵貯の資金を利用した「財投」で社会資本投資がなされたこと自体が、そもそも「悪いこと」であったと主張するにいたっているからである。これまでの四半世紀以上もの長い年月にわたって、総需要の不足が続き、上述の大惨害が生じてしまったのであるが、そのような総需要不足という悪性の趨勢を、たとえ不十分ではあっても、多少ともあれ、それを緩和させるように機能してきたのが、「財投」による社会資本投資支出であったことは、疑う余地のないところであろう。ところが、現在、郵政改革論者たちは、このわずかに機能してきた総需要を支える貴重な資金の動きを断ち切ろうとしているわけである。

 すなわち、このように、つぶさに吟味してくると、郵政改革論者たちの真の本音は、郵政改革よりも、むしろ、ケインズ的な総需要政策を全面的に封止することにあると考えざるをえないのである。したがって、今後、「郵政改革」が強行されたとすれば、それは、一部の経済官僚たちが主導する「反ケインズ主義」政策スタンスのいっそう強固な支配権確立を意味することになり、その直接・間接の帰結として、わが国民を苦しめてきた上述のごとき大惨害が、今後、いっそう激甚化することになることは必至であろう。憂慮せざるをえない。


















日本経済10%成長論 丹羽春喜