(『月刊日本』誌に掲載予定) 

    憲法で財政均衡を義務づけようとは、何事か!

  ━━自民党はマルクス主義・新古典派陣営の思想謀略にはまるな━━

                     丹羽春喜(大阪学院大学教授)

 

 合理的な機能的財政政策が不可能に

 本誌の読者諸氏のなかにも気付かれたかたが多かったのではないかと思うのであるが、実は、真に愕然とせざるをえないような憂慮にたえない重大事が、去る四月十三日付の『日本経済新聞』(朝刊)の第一面で報じられていた。すなわち、同紙のその記事では、「財政均衡、憲法に明記」という大きな見出しが付けられて、政府財政の歳出と歳入の均衡を憲法に明記するべきだとする方向で、自民党の憲法調査会の中間報告の素案が、ほぼ、まとめられたということが、報道され、解説されていたのである。

 もちろん、この場合の「歳入」という概念には、政府の借金である国債発行による政府の資金調達は、含められてはいないはずである。また、政府貨幣としての政府紙幣の大量発行による造幣益も、それを「歳入」に含めることにはなっていないであろう。この両者を含めない狭い意味での「歳入」と「歳出」とを均衡させるべきことを、憲法に明記しょうというわけであろう。

 しかし、言うまでもなく、もしも、そういうことになってしまえば、政府は、財政政策によってわが国民経済のマクロ的な繁栄と成長を護るということを、まったく、行ないえなくなってしまう。また、有事にさいして、赤字財政をあえてしてでも、国の総力をあげて敢然と外敵の侵略と戦うといったこともできなくなってしまう。

 たとえ、そのような、外敵の侵略をこうむってわが国が危急存亡の危機に迫られるといった「有事」の事態とまではいかない相対的に「平時」の状況であっても、完全雇用・完全操業の状態に照応した潜在的実質GDPの水準という意味での生産能力の「天井」にくらべて、総需要の水準がずっと低く、したがって実際の実質GDPの水準も低くとどまっているような状態、すなわち、デフレ・ギャップが発生しているような場合には、赤字積極財政で総需要を拡大させ、それによって景気回復と経済成長の促進をはかることが、本来、必要なはずである。逆に、生産能力の「天井」よりも総需要が上回ってしまって、マクロ的に「超過需要」の状態となっているようなインフレ・ギャップの発生時には、黒字緊縮財政で総需要の抑制をはかることが必要である。このような財政政策のやり方を「機能的財政政策」と言う。つまり、政府財政には国民経済の景気を良くしたり、あるいは、その過熱を抑えたりする働き(機能)が備わっているのであるから、その機能を生かして財政政策を運営していこうというわけである。これは、きわめてオーソドックスで健全かつ合理的な財政政策のあり方である。実は、これこそが、まさに、ケインズ主義の心髄にほかならない。ところが、上記の自民党憲法調査会の憲法改正素案のようにリジッドに、「歳入」と「歳出」の均衡固守を憲法にまで明記して義務づけてしまうことにするとすれば、この合理的な「機能的財政政策」の実施が不可能になってしまうのである。

 「…‥かりに、財政政策の発動が封止されていても、金融政策で、マクロ的な総需要政策を行なうことができるのではないか」と反論されるかもしれないが、激しい不況が続くと、いわゆる「流動性の罠」の現象が生じて、利子率を下限にまで引き下げても民間投資がいっこうに回復しないといった状況になり、金融政策の効果が失われてしまうことが多い。このことは、エコノミストであれば、だれでもがよく知っているはずのことである。したがって、国民経済の繁栄と成長を確保するための「決め手」は、なんといっても、やはり、財政政策なのである。

 このようにきわめて重要で不可欠な財政政策――とくに「機能的財政政策」――の発動ということを、事実上、禁止してしまうような規定が、いやしくも憲法にまで明記されてしまうようなことになれば、わが国の経済は、ほとんど永久的に、低迷状態に抑えつけられ続けてしまうことにもなりかねない。ましてや、そのようなリジッドな規定を憲法に設けてしまえば、「有事」のさいの防衛戦費の調達といったことでさえもが、いちじるしく困難になってしまうということをも考え合わせると(このことの本質論的な吟味を本稿の後段で再述)、このことは、現行憲法の第九条をどうするかといった問題と比べてさえも、さらにいっそう重大な問題点であると言わねばならない。

 

 自民党改憲素案は「反ケインズ主義」イデオロギーへの迎合・加担

 言うまでもないことであろうが、上記のごとく自民党憲法調査会の憲法改正素案でうたわれていると報じられたような、財政政策の発動を「禁じ手」にしてしまって、マクロ的な総需要政策の実施を封止してしまおうとする政策姿勢は、明らかに「反ケインズ」主義そのものである。実は、このことこそが、この問題を考えるうえで、非常に重要なポイントである。

 そこで、この点を考慮に入れて、本稿では、読者の理解に役立てるために、現在の経済思想界における「反ケインズ主義」の諸流派を一覧表の形に整理した付表を作成し、末尾に掲げておくことにした。読者は、この付表を見ながら、以下の論述を読んでいただきたい。

 回顧してみると、「冷戦」とは、経済思想的には、まさに、「マルクス主義」対「ケインズ主義」の対決であった。このことは、二十世紀に生きてきた知識人たちの、ほぼ共通した認識であったはずである。あの冷戦時代には、左翼マルクス主義陣営は、資本主義的な市場経済体制に永遠の繁栄をもたらしうるという意味で、また、防衛力の整備のための財源や経済力を確保しうるという意味でも、西側自由社会陣営にとっての鉄壁の守りとなっていたケインズ主義的経済政策を、なんとかして発動されえないように封じ込めてしまって、資本主義的市場経済システムとそれに基づく国家体制を脆弱化させてしまおうと、様々な思想戦的な策略を繰り広げてきた。一九七〇年ごろに、わが国の左翼びいきのマスコミでで猖けつをきわめた「くたばれGNP」キャンペーンは、その顕著な一例であったと言いうるであろう。

 マルクス主義者陣営が、いかにケインズ主義を敵視してやまなかったかということは、たとえば、わが国の最も有力で著名な指導的マルクス主義学者の第一人者であった大内兵衛氏が、その後半生の著作活動を、もっぱらケインズ主義を排撃するために終始していたというよく知られている事実を想起してみただけでも、明らかであろう。また、総じて、マルクス主義陣営が、「…‥ケインズ主義は軍拡を意味する!」とケインズ的政策論を誹謗・中傷するのが常であったことも、われわれの記憶に新しいところである。

 周知のごとく、ソ連や東欧などの共産圏諸国の経済不振や共産党独裁による暴政の実情が明らかになるにつれて、一九六年代以降は、マルクス主義陣営の政治的・社会的パワーは、全世界的に、しだいに影がうすくなってきた。しかし、それに代わって、現在までの過去二十数年においては、主として、米国の思想界より発信されはじめた「新古典派」経済学者グループならびにそれに合流・同調した「隠れマルクス主義者」たちによる「反ケインズ主義」イデオロギーの思想攻勢が、グローバルに、そして、とくにわが国において、猛威をふるうようになった。実は、私の著書『謀略の思想、反ケインズ主義』(展転社、平成15年刊)において詳述されているように、この米国流の新古典派経済学は、現行の文明社会を根底から破壊しようと意図しているのではないかとさえ思われるほどに、極度にニヒリスティックな思想体系なのである。

 上記の自民党憲法調査会の中間報告素案は、なかば無意識的な判断であったのかもしれないが、こういったマルクス主義および新古典派によるニヒリスティックな「反ケインズ主義」イデオロギーに迎合・加担するようなことを、その憲法改正草案に書こうとしてしまったようである。大切な憲法に、そのような姿勢で、このように憂慮すべき重大な問題点が内含されていることを規定してしまっては、よいはずがない。

 

 新自由主義から「新古典派の支配」へ

 実は、第二次大戦の終戦直後より、主として、西ドイツの経済学界を拠点として、オイケン、レプケ、ハイエクといった経済学者たちによって導かれて活動してきた「新自由主義学派」(「モンペルラン協会学派)が、「反マルクス主義・反共産主義」であるとともに「反ケインズ主義」の政策姿勢を保ってきたということは、かなりよく知られてきたところであろう。しかし、なんといっても、全世界的に、「反ケインズ主義」が支配的な流行を見るにいたったのは、フリードマン(「マネタリズム学派の指導者)が先導し、ルーカス(「合理的期待形成論学派」の頭領)がその論理を経済理論的にいっそうラジカルに徹底させて、一見、数学的に厳密に考え抜かれたかに見える理論を構築し、それに基づいて「ケインズ的政策は無効果である!」と強く主張しはじめ、そのような彼ら一群の経済思想家たちが「新古典派」と総称されるようになって、米国の経済学界において支配権をにぎるにいたった一九八年代以降のことであった。

 なお、「新古典派」という呼称の経済学派は、ずっと以前にも登場している。たとえば一九五年代、六年代において、当時の「新古典派」と呼ばれた経済学者たちは、むしろ、ケインズ理論の体系と結びついて、サミュエルソン教授に代表されたいわゆる「新古典派的総合」(neo-classical synthesis)の理論体系を形成し、マクロ政策の面では「ケインズ的財政・金融政策」を強く支持・擁護する立場をとっていたのである。それとは全く正反対に、現在の米国経済思想界における「新古典派」は、きわめてラジカルに、「ケインズ的政策は無効果なのだ!」と断定して、きわめて強硬な「反ケインズ主義」の立場を表明しているわけである。

 このような現在の米国流「新古典派」を中心とする「反ケインズ主義」思想の問題点に対しては、私が、上記の『謀略の思想、反ケインズ主義』をはじめ数多くの私の著作によって、詳しく批判論を展開してきたわけであるが、本稿でも、以下、その若干の要点を指摘しておくことにしたい。

 

 「常に稼働率100%!」の奇矯な仮定、ルーカス理論

  フリードマンやルーカスたちの「新古典派」の「反ケインズ主義」の議論は、「供給サイド」からのものと「需要サイド」からのものとに大別することができる。そして、国際分業や為替レートの問題にかかわる「反ケインズ主義的」な教説も、広い意味では、やはり「需要サイド」についての議論であると考えておけばよいであろう。

 「新古典派」の「供給サイド」からの「反ケインズ主義的」な主張は、要するに、ケインズ的政策などによって総需要拡大がなされえたとしても、それに応じての生産の増加といったことはマクロ的には行なわれえないことなのだと決めつけて、だから、景気の実質的な回復も雇用の増加もありえないのだと、叫んでいるわけである。そのようなシニカルな見解は、ハイエクやフリードマンがやや漠然とした形で示唆したことを、上記でも触れたルーカス(有名な「合理的期待形成論」学派の頭領)が「明確に」理論づけたことで知られている。ただし、ルーカスによるそのような理論づけは「明確」であるだけに、その欠点もまたきわめて明らかなのである。

  ルーカスは、たとえば三〜四年といった「短期」においては、マクロ的に、企業部門の資本設備の総量はあまり変化せず、近似的に一定と見なしうると仮定している(この仮定は、一応、妥当な仮定だと考えてよいであろう)。 この三〜四年といった期間中を通じても景気変動の諸局面が次々と移り変わって経過していくはずであるが、ルーカスは、そうであるにもかかわらず、企業資本設備の「稼働率」が変化せず、それが常に一定に保たれるものと、暗黙のうちに仮定してしまっているのである。 実際には、需要が増加しはじめれば、企業はそれに応じて資本設備の「稼働率」を引き上げて商品の生産・供給量を増やそうとするはずである。しかし、ルーカスは、そのようなことが行なわれないものと、決めこんでしまっているわけである。これは、景気変動の諸局面がどのように移り変わって動いていこうとも、企業資本設備の稼働率は常に一○○パーセントで一定不変であると仮定することと、事実上、同じことである。言うまでもなく、これは、きわめて非現実的な仮定である。

 そのような非現実的で奇矯な仮定を「暗黙の前提」として初めから置いてしまえば(そのように前提してしまえば、経済理論的には、需要変動に応じての「生産関数」ならびに「供給曲線」のシフトが起こらないということになってしまうから)、その後は、例えばケインズ的政策でどんなに総需要が拡大されても、マクロ的には生産が増えず、景気が回復することもありえないとする理論的結果を導き出すことは、きわめて容易である。これこそが、ルーカスやフリードマンを指導者とする「新古典派」の、供給サイドからする「ケインズ的政策無効論」のエッセンスなのである(計画行政学会編『計画行政』243号、2001年刊所収の丹羽論文を参照)。

 ここで見逃してはならないことは、このようなルーカスの論理を当てはめると、ただ単にケインズ的政策によって有効需要が増やされた場合だけではなく、政府によるそのような政策とは無関係に、純粋に民間活力によって、例えば民間投資支出が増大して有効需要が拡大したような場合であってさえも、同じく、生産も増えず、景気も回復しないという結論になってしまうということである。ずいぶん奇妙な話である。つまり、ルーカスは、資本主義的な自由経済体制(市場経済体制)の能力を、マルクスよりもいっそう徹底してニヒリスティックに、否認してしまったわけである。

 ルーカスもノーベル賞の受賞者であって、十二分に頭脳明晰な経済学者である。その頭脳明晰な彼が、単なる「うっかりミス」で、このような非現実的で奇矯な仮定を置いたとは思われない。すなわち、これは、ルーカスやフリードマンによる故意の「理論的トリック」であると考えざるをえないのである。この「理論的トリック」が牽強付会なものであるということを、最もよく知りぬいているのは、他ならぬ、かれらルーカスやフリードマン自身のはずである。ということは、実は、彼らは、本心では、ケインズ的政策が本当は有効であるということをよく知っていながら、それを無理やりに「無効果だ!」と言い立てて葬り去ろうとしているということになる。そうである以上は、彼らルーカスやフリードマンたちは、有益な効果が有ることが明らかなケインズ的政策を故意に葬り去ることによって、全人類の経済の営みに、あえて、甚大な打撃を加えようとしているわけである。これは、まさに、アンヒューマンなニヒリズムの極致であると言わねばならない。

  このように、企業の稼働率を常に一○○パーセントだと仮定するといった奇矯で牽強付会な「理論的トリック」に立脚しているわけであるから、ルーカスなど新古典派は、デフレ・ギャップの存在それ自体も否認しようとすることになる。私が、数多くの私の著作によって繰り返し指摘してきたように、このような新古典派の詭弁的発想の濃密な支配的影響を受けているわが国の旧経済企画庁および現在の内閣府の経済分析スタッフたちが、ギャップ概念の「すり替え」というトリック(このトリックもルーカス直伝である)をあえてしてまでも、わが国の経済における巨大デフレ・ギャップの発生と累増という重大な事実を、秘匿・隠蔽し続けてきた理由もここにあるわけである(上掲、『謀略の思想、反ケインズ主義』、第6章、および、第1618章参照

 

 非現実性をフリードマン自身はよく知っているはずだ

 フリードマンたち「新古典派」による「需要サイド」からの「反ケインズ主義」の議論としては、その最も主要なものが二つあると考えることができる。その一つは、フリードマン流の「恒常所得仮説」に基づいて乗数効果をきわめて弱いものだと決めつけ、それゆえにケインズ的政策には効果がないと示唆する議論である。

私が、数多くの私の著作において幾度も批判的にコメントしておいたことであるが、たとえば旧経済企画庁は、「故意の手抜き推計」によってわが国の経済における「乗数効果」を極端に微弱なものとする数字をそのホーム・ページなどに示し続け、そのことが、それほど怪しまれもせずにわが国のマスコミや経済論壇に受け入れられて、マスコミをあげての「反ケインズ主義」キャンペーンが仕組まれるうえでかなり大きな役割をはたしてきた(上掲『謀略の思想、反ケインズ主義』第6章参照。そういったことを可能にしてきた一つの思想的土壌が、わが国のエコノミストたちのあいだにおけるこのフリードマン流「恒常所得仮説」の広汎な流布ということにあるということは、おそらく、否定しえないところであろうと思われる。

エコノミストであれば、誰でもが良く知っているように、現在の米国新古典派の最有力な指導者であるフリードマンは、消費支出がなされるのは家計の「恒常的な所得」からのみであるとして、通例を上回るような賃金上昇やボーナス、残業手当、減税、等々、の「変動所得」からは消費支出が全く行なわれないものとするという極端な状況を仮定し、それに基づき、ケインズ的財政政策で「変動所得」が増やされた場合の「乗数効果」を非常に低く見積もり、「…‥だから、ケインズ的政策は無効果だ!」と決め付けるような考え方を示唆してきた。これが、いわゆる「恒常所得仮説」である。

しかし、言うまでもなく、そのような極端な仮定はきわめて非現実的であり、そのようなことは実際の経済には全く妥当していない。私が消費関数の推計という数理統計的な実証的方法で詳しく計測してみた結果でも、わが国の経済では、現実には、賃金引き上げやボーナス、残業手当、減税還付金などの「変動所得」からも消費支出がどんどん行なわれているということは、疑う余地がないのである。そして、「乗数効果」は「恒常所得」からだけではなく「変動所得」からも常に作動しており、その両者を総合した「乗数値」が、わが国の経済では2.4 2.5という相当に大きな値であることも確実なのである。したがって、ケインズ的なマクロ財政政策は、この十分に大きな「乗数値」に裏打ちされて、確実に効果をあげうるものと考えるべきなのである。

ここでも、見逃してはならない点は、この「恒常所得仮説」による「…‥変動所得からは支出がほとんど全くなされず、したがって、乗数効果が発生しないものとする」という前提については、それが、きわめて非現実的で奇矯な仮定であるということがあまりにも明々白々であり、とうてい実証には耐ええないものだということを、フリードマンたち自身もよく知っているはずだということである。単純な「うっかりミス」だけで、そのような極端に非現実的かつ奇矯な前提が置かれるなどということは、ありうることではない。われわれは、ここにも、フリードマンたち「新古典派」のニヒリスティックないかがわしさを、見出さざるをえないのである。

 

クラウディング・アウト問題にかかわるニヒリズム

  新古典派による「需要サイド」からのもう一つの「反ケインズ主義」議論は、これも、エコノミストたちのあいだではよく知られているように、クラウディング・アウト現象の発生を理由としたケインズ的政策批判論であろう。

  クラウディング・アウト現象とは、例えばケインズ的な総需要拡大を目指す財政政策のマネタリーな財源を国債発行にもとめた場合に、そのような国債の市中消化によって、民間資金が国債購入代金の形で国庫に吸い上げられ、民間資金の不足が生じて市中金利の高騰といった事態となることを指している。そういった市中金利の高騰ということになれば、民間投資が冷えこみ、景気回復が挫折する危険が生じてくることになる。よく知られているように、フリードマンを最高指導者とする「マネタリズム」学派――このグループが上記のルーカスたち「合理的期待形成論」学派と密接不離の関係にあって、ともに、現在の「新古典派」の中核をなしている――のエコノミストたちは、ケインズ的政策には、それを「需要サイド」から見た場合に、このようなクラウディング・アウト現象による市中金利高騰という副作用が生じてくる危険性がともなわれているのだと強調して、「だから、ケインズ的政策は有害無益だ!」と叫んできたのである。

  また、このグループの最も著名な経済学者の一人であるマンデルなどは、そういった市中金利の高騰が生じれば、諸外国からのその国への資金流入が増えるので、国際通貨市場でその国の通貨の価値が高くなりすぎ、――たとえば、日本について言えば過度の「円高」が進行し、――その国の輸出産業が大きな打撃を受け、それによって全般的に景気回復の失速が起こることになるとして、結局、ケインズ的総需要拡大政策は無効果に終わるにちがいない(いわゆる「マンデル=フレミング効果」)と主張している。近年においては、わが国の政策担当者たちのなかでも、このような論拠によって、ケインズ的景気回復策の「効果なし論、有害無益論」を唱える人たちが、大勢力をなしているようである。

   しかし、実は、経済学のごく初歩的な基本的知識にすぎないことであるが、そのような「副作用」は、たとえば日銀の「買いオペ」といった政策手段で、容易かつ確実に、それを防止することができるはずのものなのである。もちろん、戦前に高橋是清蔵相と深井英五日銀総裁が協力して実施したように、新規発行国債を日銀が直接に引き受けるという方式であれば、そのようなクラウディング・アウト現象の発生を防止する効果はいっそう決定的で即効的であろう。また、十年も前から私が繰り返し強く提言してきたように、また、ラーナー、ディラード、スティグリッツ、そして、ブキャナン(下記参照)といった碩学たちも提言してきたように、そして、慶応四年(明治元年)から「太政官札」の発行という形で実際に行なわれて明治維新の成功の決定的な要因にもなりえたように、政府が、日銀券のような「銀行券」ではないところの政府貨幣としての「政府紙幣(不換政府紙幣)」を、政府自身で発行して造幣益を得るか、あるいは、その「政府貨幣発行権」の一定額ぶんを政府が日銀に売却してその代金を取得するといった、わが国の現行法でも明確に認められている「国(政府)の貨幣発行特権」(seigniorage セイニアーリッジ権限)の大規模な発動というやり方をすれば、政府の負債にもならず、また、国民経済にデフレ・ギャップという形でマクロ的に生産能力の余裕が存在しているような場合には国民にも負担が全くかからない形で、財政政策実施のための政府財政財源を、容易かつ巨額に、得ることができるのである。このようなやり方であれば、クラウディング・アウト現象による金利高騰の心配などは、まったく無くてすむ。

  言うまでもなく、すべて、こういうことは、エコノミストであれば、誰でもがよく知っているはずのことにすぎない。もちろん、フリードマンやマンデルも、このようにクラウディング・アウト現象を防止することがきわめて容易なことであるということを、よく知っているはずである。つまり、かれら新古典派による、こういったクラウディング・アウト現象を理由付けに用いた「ケインズ的政策無効論」の場合も、けっして「うっかりミス」によってそれが主張されているのではなく、それは、疑いも無く、現行の経済社会体制にダメージをあたえるために故意になされているディス・インフォーメーション(欺瞞情報)策略であると、見なければならないのである。

 なお、付表にも示してあるように、「新古典派」の一角には、ブキャナン教授(やはり、ノーベル賞受賞者)を指導者として、「…‥すべての公共財は不効率だ!」と叫んでやまない「公共選択論学派」がある。そのブキャナン氏は、国債発行を財源としてなされるケインズ的政策には強く反対しているのであるが、しかし、デフレ・ギャップが巨大に発生していてマクロ的に生産キャパシティーの余裕が十分にあるような状況のときには、上記のごとく、政府貨幣としての「政府紙幣(不換政府紙幣)」の発行を財源としてケインズ的政策が実施されるのであれば、「…‥そのようなケインズ的政策は有効である!」と主張しており、この点では、ブキャナン氏は、他の「新古典派」の諸氏とは一線を画しているようである。

 

 奇怪な矛盾をもたらしたニヒリズムの情念

 また、ここで、次のようなことも、指摘しておくべきであろう。すなわち、現行の「フローと制」(変動為替相場制度)の下では、世界の主要国がケインズ的な総需要政策をしっかりと実施することを怠らないでいてこそ、はじめて諸国の通貨のあいだの交換比率である「為替レート」が適切に形成され、その為替レートによる「ハンディキャップ供与」機能(これによって生産性水準の較差にもかかわらず全ての国が貿易による国際分業に参加しうることになる)も作用しうるようになって、自由貿易を通じる国際分業がうまく営まれることになるのだということである。

 もちろん、このことも、エコノミストであれば、誰でもがよく知っていることである。ノーベル経済学賞受賞者であるフリードマン教授が、このことを知らなかったなどということは、ありえない。ところが、周知のごとく、フリードマン氏は、全世界の国々が「フロート制」を導入・採用するべきだと強く唱導し、一九七年代のはじめごろに主要諸国の為替レート制度を「固定為替レート制」から「フロート制」に転換させるうえで、無視し得ないような大きな影響力をおよぼしたのであるが、それと同時に、フリードマン氏は、同氏の指導のもとで、きわめて大規模に「反ケインズ主義」のイデオロギー的なキャンペーンをグローバルに展開することも行なってきた。これは、きわめて矛盾していると、言わねばならない。

 「フロート制」と「反ケインズ主義」とを結びつけた経済運営をやってしまえば、惨憺たる結果が生じる。事実、わが国の場合でも、そのような悪い組み合わせの経済運営を実施してきたために、私が幾度も指摘してきたように、 不況 → 円高 → 不況 という悪循環に、苦しめられ続けることになってしまったわけである。フリードマン氏も、このような結果となることを、百も承知であったはずである。フリードマン氏が、このことを知らずに、そのように相互に矛盾した「フロート制」導入への提言活動と「反ケインズ主義」のイデオロギー的キャンペーンの同時並行的な実行という奇怪きわまることを、単なる「うっかりミス」でやってしまったのだなどというようなことは、ぜったいにありうることではない。そこには、あえて全世界の経済に甚大なダメージを与えることも辞さないという、きわめてニヒリスティックな情念が伏在しているとしか、考えられないのである。

 ここまで論述してくれば、読者諸氏も容易に想像しうるところであろうが、現在の「新古典派」経済学思想の根底に流れているこのような文明破壊的なニヒリスティックな情念は、マルクス主義のそれと同根であり、あるいは、それよりもさらに徹底してラジカルであると見なければならない。事実、最近では、多数の「隠れマルクス主義エコノミスト」たちが新古典派に合流しているような状況となっている。したがって、そのような「新古典派+マルクス主義」のニヒリズムに迎合・同調するような「反ケインズ主義」の立場にたって、ケインズ的な財政政策の実施を事実上禁止してしまうような条項を憲法改正素案に盛り込もうとしている自民党憲法調査会のスタンスは、きわめて憂慮すべきものであると言わねばならないのである。

 

 国民経済予算制度の実現を目指せ!

 私が、私の諸著作によって繰り返し指摘してきまように、これまでの四半世紀、わが国の総需要政策はきわめて不十分──というよりは、むしろ下方へ向けての暴走、すなわち、マイナス方向への暴走──であった。その結果、やはり私が幾度も論証・指摘してきたように、国民も政党も国会議員も知らないあいだに、わが国は、巨大なデフレ・ギャップの発生とその累増によって、実に4000兆円(1990年価格評価の実質値)という超膨大な潜在実質GDPを空しく失ってしまったのである。

 この苦い経験を反省するならば、どうしても、総需要政策の上方あるいは下方への暴走、あるいは、その不十分ということを防止するための「歯止め」が要る。しかし、言うまでもなく、この「歯止め」は、今回の自民党憲法調査会の憲法改正素案のように「財政の義務的均衡を憲法の条項で明記する」といった間違ったやり方でそれを設けようとしたりしてはならない(そのようなやり方では、とくに「下方」すなわち「マイナス方向」への総需要政策の暴走を防ぐことができないから、きわめて危険である)。

 総需要政策の不足・不十分や、その「上方」のみならず「下方」(マイナス方向)への暴走をも防ぐための真の「歯止め」は、デフレ・ギャップやインフレ・ギャップの発生状況を常にモニターしつつ(これまで、わが政府はそれを怠ってきた)、それに立脚して機能的財政政策を中核として策定される年々の総需要政策を合理的に国会で審議・決定するという制度、すなわち、いわゆる「国民経済予算」の制度を確立することによって行なわれるべきである。「市場経済」にこの「国民経済予算」の方式を結び合わせた制度こそが、人智のおよぶかぎり、最善の経済システムなのである。

 来るべき憲法改正にさいして、このような「国民経済予算」の制度化を軸とした「人知のおよぶかぎりでの最善の経済システム」の確立を現実化しうるような条項が、適切な表現で改正憲法に明記されることになれば、それは、まさに、わが国の経済を、泰山の安きに置くことになりうるであろう。

 

 「防衛の組織」としての国の基本権を護持せよ

 ここで、最後に、国家防衛の問題に立ち戻って、本源的な問題点を、いま一度、指摘しておきたい。

 外敵の直接・間接の侵略に抗して、わが国が国家防衛の大規模な戦いを行なわねばならない事態に立ち至ったようなときには、そのための戦費は巨額に達することにならざるをえないであろうから、租税や国債でそれを十分にまかなうことが困難になることも、覚悟しておかねばならない。そのような事態になれば、どうしても、上述の「国(政府)の貨幣発行特権」(セイニアーリッジ権限)を発動して、政府貨幣としての「政府紙幣」の発行による造幣益を得るか、あるいは、その発行権の「一定額分」を政府が日銀に売却してその代金を取得するといった手段で、戦費を調達することが必要になってくる。

 そもそも国家の本質とは、まさに「防衛の組織」にほかならない。国民を苦しめる悪性の経済不振を克服するための経済政策の実施や、社会保障制度の整備といったことも、突き詰めて言えば、「防衛の組織」としての「国(政府)の任務」に由来している。有事のさい、国家防衛の戦いのためとあれば、国家は、その国の経済社会が持ち、あるいは、生産・供給しうるあらゆる財貨・用役(サービス)を請求・動員・取得して戦いのために用いる権能を有している。重要な経済政策の実施のためにも、この権能は行使されうる。 明らかに、この権能は、国家の最も重要な基本権の一つである。上記の「国の貨幣発行特権」とは、まさに、このような当該経済社会が保有あるいは生産・供給しうるあらゆる財貨・用役に対して、「防衛の組織としての国」が本質的・潜在的には無限に持っているところの「請求権」を体現しているものにほかならない。すなわち「政府貨幣」あるいは(政府貨幣としての)「政府紙幣(不換政府紙幣)」とは、本質的には、当該経済社会のあらゆる財貨・用役に対する「請求権証」なのである。

 だからこそ「政府貨幣」ないし(政府貨幣としての)「政府紙幣」は、それが発行された場合、わが国の現行法でもその発行額は政府の負債勘定に計上される必要がなく、造幣益は、そのまま政府の純収入として一般会計に繰り入れられることになっているのである。この点こそが、発行額がそのまま日銀の負債勘定に計上されることになっている「日銀券」の場合とは、根本的に異なるところなのである。

 古今東西の歴史を振り返って見ても、例えば、アメリカの南北戦争時に合衆国政府が発行したグリーン・バック紙幣、フランス革命時に革命政府治下のフランスの急速建軍を可能にしたアシニア紙幣、第一次大戦のときに英国政府が発行して巨額の戦費をまかなったカレンシー・ノート紙幣、そして、言うまでもなく、わが明治維新のさいの{太政官札」(および、それに続いた「民部省札」と「新紙幣」)の発行の断行といった著名な史実は、すべて、国家の危急存亡の時期に、国家の基本権としての「国(政府)の貨幣発行特権」(セイニアーリッジ権限)が「政府紙幣(不換政府紙幣)」の発行という形で発動され、それによって当該社会の財貨・用役に対する国家の請求権が大規模に行使されて、それによって危機の打開がなされた事例であったのである。

 もしも、上記の自民党憲法調査会の改憲素案のようなリジッドな「財政均衡」の義務化が憲法に規定されるようなことになれば、このような「防衛の組織」としての国家に不可欠な、当該社会の財貨・用役に対する「請求権」という意味での「国家の基本権」が、わが国からは失われてしまうのである。そうなれば、わが国は、もはや国家たりえなくなるであろう。深憂せざるをえない所以である。

  付表



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