Date: Thu, 23 Sep 2004
どうもです。
え〜と、先日「聴く」の18回を送ったんですがなんと17回を配信するのわすれてました。
実は「聴く」はplanB通信という月間のフリーペーパーに2〜3年連載しているもので、フリーペーパーが出た後に、JAMJAMのほうで配信することにしていたのですが、最近は本当に忙しくて、連載もとぎれとぎれになっている上に、配信のほうも忘れてしまいました。え〜と、で先週18回を配信したら17回がまだなんじゃないか・・という問い合わせをもらいまして、気付いた次第で・・・、こんなこっちゃいけませんねえ。確か17回は春に書いて、そのまま配信するの忘れていたようです。45にして、とうとうボケが・・・っていうかもうだいぶ前からボケボケではあるんですが・・・(苦笑)
かくいう今も、昨日火曜の夕方京都から帰ってきて以来、睡眠時間2時間で、ウォーターボーイズの最終回を見るのもあきらめて(泣、・・・え〜と、JAMJAMの配信なんてしてる場合じゃなんすが、ま、でもこんくらいしないとさすがにいきづまっちゃうので)自宅の5畳のスタジオにカンヅメになって映画音楽をせっせと作っております。今やっているのは、AVの四天王佐藤寿保監督松田龍平、浅野忠信主演の短編映画、江戸川乱歩の「芋虫」。これ、すごい映画ですよ〜。スタジオもとれないくらい低予算なんで、自宅で夜中に小さい音で小さい金属を叩いたりこすったりしたのを、オンマイクで録音(マイクを近づけて録音)、まるでホールで巨大な金属を叩いたような音響にしています。明日までにあげなきゃなので、これからまたコンビニのドリンク剤でドーピングして、録音にもどります〜。
では配信しわすれた「聴く」の17回です。
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音響とはなんだったのか2
----ふたたびデレク・ベイリーについて1------
話を進める前に70年代〜80年代に少々寄り道をしたい。ここらあたりから、数年前のいわゆる「音響」に至るまで、私の中では何かがつながっていて、このことを抜きには、今の問題にいけない気がするからだ。この先、過去に連載した内容や他で書いたことと重複する部分も多少でてくるかもしれないが、必要な流れということで、我慢して読んでもらいたい。
70年代に高校生だった私がもっとも影響を受けたのは日本のフリージャズだった。山下洋輔トリオに吹っ飛び、わからないながらも阿部薫や高柳昌行はヒーローだった。音楽もだけれど、彼等のいでたちや発言がかっこよく見えたのだ。時代的にはパンクがでてくる直前、それまで聴いてきたロックがつまらなく思えてきて、なにかもっと刺激のあるものをさがしていた頃で、もしもあと1年早くパンクが出てきたら、あるいは情報の遅かった福島ではなく、都会に住んでいたら、私も真っ先にパンクにいっていたかもしれない(私にとってのパンクの衝撃はその少し後、皆におくれてNo NewYorkが出た70年代末だった。余談になるけど、今はやってる青春歌謡みたいな、丁寧にパンクファッションをした青年がやってるのはオレにとってはパンクでもなんでもない)。さて、そんな中で知ったのが前回も出てきたデレク・ベイリーだった。もうこの連載では何度となくでてくる名前だ。この1932年生まれのイギリスの長身のギタリストが私の人生にもたらした影響ははかり知れない。
高校生だった私は最初デレク・ベイリーの音楽がまったくわからなかった。最初に聴いたのは彼の70年録音のソロギターだったが、とりとめのない下手くそなものにしか聴こえなかったというのが正直な感想だ。当時の私にとってのギターのイメージというとやはり圧倒的にロックの影響下にあってジミヘンやらクリムゾンあたりのギターの音色が一番好きで、その流れでジャズのほうでもマイルスバンドのピート・コージーなんかを良く聴いていた。ジャズのギターの素の音は地味すぎていまひとつピンとこなかったし、ましてやさらにそれ以上になんの加工もされてない素の音で、なんの盛り上がりもなくぽろぽろ不器用に弾いてるだけにしか聴こえなかったベイリーの良さなんて、当時はまったくわからなくて「?」マークだらけだった。それでもなんだかひっかかり続けたのは、当時良く読んでいたとんがったジャズ雑誌なんかで評論家の間章、清水俊彦、副島輝人、あるいはギターリストの高柳昌行等がこぞってベイリーを絶賛していたからだ。私はこの辺の人達にあこがれていた。そんなわけで「オレにわからないだけで、きっと凄いに違いない・・・」と当時の私は思ったのかもしれないし、さらに「ひとつベイリーくらいわかったことにしておかないとカッコつかないし・・・」なんて思っていたのかもしれない。でも白状すると本当は全然わからなかった。
今聴くと初期のベイリーのやっていることは、それまでの音楽の文脈を注意深く徹底的に回避することに、全精力をそそいでいるように聴こえるし、しかも弦を鳴らしてアンプから音を出す・・・というエレクトリックギターという楽器の本来持つ特性からまったく逃げることなく、正面攻撃とでもいえるくらいの果敢さでそれをやってのけているのだ。これは並大抵の技術や意思では出来るもんじゃない。この点については次回以降につっこむことにする。
彼がやっていることが何なのかが、おぼろげながらもわかりだしたのは、80年代初頭、彼の2度目の来日公演を毎日見にいった頃からだ。それはダンスの田中泯がニューヨークからフリージャズドラマーのミルフォード・グレイブス、ロンドンからデレク・ベイリーを招んで渋谷のエピキュラスで行われたMMD計画と題された3日間の公演でのことだった。金がなかったわたしは「シティロード」という情報誌が3日間の通し券を先着何名かにプレゼントするというので、始発で出版社まで行って、玄関で何時間も待って招待券をもらった記憶がある。で、この公演が、とにかくかっこよくて圧倒されたのだ。「すんげ〜」って言葉がでたかどうかわからないが、今だったらきっとそう言っていたに違いない。20代そこそこだった私は感受性全開でこのコンサートを受け止めたのだと思う。
しかし実はこの公演、始まる前にチラシを見たときには、なんか無茶な組み合わせに感じて、うまくいかないんじゃないかと思ったのだ。というのは、当時わからないながらもベイリーが何なのかがすこしづつ見え出していて、で、ベイリーがやっていることは明らかにフリージャズの文脈とは違うというのはわかっていたし、逆にミルフォードのほうは伝説的なフリージャズドラマーだしで、ここに日本のダンサーが入ったからって、なんか無理があるんじゃないの、と思ったのだ。当時私は舞踏にもダンスにもまったく興味がなかった。ミルフォードについてはESPレーベルでの演奏と、70年代に日本に来たときの演奏を聴いていて、やはりベイリーの音楽とはどう考えても違うんじゃないかという認識の仕方を私はしていたと思う。その少しあとに出てくるポストモダンやミクスチャーの音楽なんて発想がでてくる前だったしで、異なるものが共演するということが今ひとつ納得できなかったのかもしれない。一番凄そうなものを一緒にやればもっと凄くなるってのは、なんか安易なんじゃないかと思ったし、純粋なものが濁ってしまう気がしたのだ。ベイリーはベイリーだけで、ミルフォードはミルフォードだけで別々に聴きたいな〜・・・と正直思っていた。が、実際の公演を見てそんな考えはどこかにふっ飛んでしまった。感動したのだ。
純粋なものが濁ってしまう・・このへんの違和感の問題も実は今回のテーマに関係ある非常に根深い問題なので、ベイリーがやっていたことと含めて次回以降(寄り道しながら)にさらに詳しく書いていきたい。
この稿つづく
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Date: Sun, 19 Sep 2004
ご無沙汰してます
お元気ですか?
わたしのほうは、9月以降の欧州ツアーを全てキャンセル日本でのんびり・・・という計画がすべて狂って、日本にはいますが、狂ったように忙しい毎日です。とはいえ、おかげさまで、心配かけました頚椎や腰のほうの症状、すっかり消えて、1年ぶりに体に痛みや痺れのない快適な日々を送ってます痛みがないってのが、こんなに快適なのを忘れてました(苦笑)
え〜と、明日になりますが、20日京都西部講堂でベースのナスノミツル、ドラムに外山明ゲストに津上研太をむえて、初めての編成でバリバリのサイケデリックロックをやります。他には山本精一、DCPRGなんかも出ます。チケットまだあるようなので、お近くの方はぜひ。
http://homepage.mac.com/ujin/phour/phour03.html
他にもお知らせしたいこと沢山あるんですがまた後日に。
JAMJAM日記さっぱり更新できず恐縮しております。今回は、8月に久々に書いた連載「聴く」の18回デレク・ベイリーについてです。
大友良英
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聴く 18回
音響とはなんだったのか3
----ふたたびデレク・ベイリーについて2------
ご無沙汰してます。連載、たいぶ間があいてしまいました。前回までのおさらいをすると、私個人の中で、この10年におこったいわゆる「音響」とはなんだったのかを考えるにあたって、どうしても70〜80年代初頭のフリージャズとフリー・インプロヴィゼーションの問題は避けて通れないこと。そこで当時の自分の体験にひきよせてその問題のおさらいをしようというのが、ここまでの流れで、その中で、田中泯、ミルフォード・グレイブス、デレク・ベイリーのMMD計画と題された80年代初頭の公演が、最初うまくいかないのではと思った・・・というところまで話をした。今回はなぜうまくいかないと思ったのかという話から。
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今から四半世紀前の20歳そこそこのわたしは、異なるものが共演するということが今ひとつ納得できなかった。一番凄そうなものを一緒にやればもっと凄くなるってのは、なんか安易なんじゃないかと思ったのだ。それは例えるならアントニオ猪木とモハメッド・アリの、なんだか煮え切らない異種格闘技試合を思いださせたのかもしれない。プロレスとしても中途半端、ボクシングとしてもぱっとしない試合を僕等はテレビでみさせられたばかりの頃だった。そもそも、ベイリーがフリージャズとは異なるフリーインプロヴィゼーションの道を歩んでいることに強い興味を持ち出していた私にとって、当時すでに過去の音楽になりつつあるように思えたフリージャズのドラマーであるミルフォードと共演しなくてならない意味がのみこめなかったし、そのことでベイリーの目指す純粋な革新の方向が濁ってしまう気がしたのだ。その上ダンスにはいまいち興味がなかったりしたせいもあって、ベイリーはベイリーだけで、ミルフォードはミルフォードだけで別々に聴きたいな〜・・・と正直思っていたのだった。それでも見にいったのは、いつもレコードで聴いている人の演奏を生で見てみたいという素朴な気持ちが大きかったし、ベイリーがやっていることがなんなのかの興味があったからだ。
結果はというと、前回も書いたとおり、正直圧倒されてしまったのだった。感動したのだ。確かにベイリーの音楽とミルフォードの音楽の間には「齟齬」がはっきり出ていたと思うし、事実、後々聞いた話だけれど、オフステージの2人の間は決してうまくいっていたわけではないらしい。それでもそんなことはどうでも良かった。というかむしろその上手くいってないことから起る火花みたなものが、すごいテンションになっていたように思ったのだ。おまけになんの期待もしていなかったダンスのすごさにも打たれてしまった。田中泯だけではない。ミルフォードも踊りだしていたし、ほとんど動かなかったベイリーも(記憶がたしかなら1回だけゆっくり歩き出したと思う)含め身体をステージに晒すことと、音楽をやることの間にあるなにかにも、非常に突き動かされたように思う。当時それをどう聴いてどう感想を持ったのかは正確にはもう思い出せないけれど、今記憶をたどるとそんな感じだった。どんなスタイルであれ、すごいもんはすごい・・・という至極当たり前のことに感動したのかもしれない。そんなわけで予想に反して3人の共演は、まちがいなく20歳そこそこのわたしに大きな痕跡をもこしてくれた出来事だった。
さて、とはいえ、ただ「感動した」では、話はすすまない。やはり今から考えると、この共演の大きな意味は、単にすごいパーフォーマンスだった・・・ということではなく、そこにあった「齟齬」にこそあったように思うのだ。このことをよくよく考えていくと、それはやはり、音楽のもつイディオムの問題に尽きるように思えてならない。そのことを探るために、ここでもう一度当時ベイリーが何をやろうとしていたのかを整理してみよう。
ベイリーの著書「インプロヴィゼーション」の中で彼が繰り返し強調しているのが音楽のイディオムの問題だ。ものすごく短く要約すると、即興というのは、これまでのありとあらゆる音楽の中に普遍的に存在するものだ・・・ということをまずは検証しつつ、その即興の多くは自分たちの所属する音楽言語を演奏することによって成り立っていて、フリージャズであろうとインド音楽であろうと、その音楽の明確なイディオムを駆使することによって成り立っていることを解き明かしていく。イディオマティック・インプロヴィゼーションにおいては、その即興演奏がイディオムに照らして、自分自身の所属する音楽にとって正統であるかどうかが常に問題になってくる・・・という指摘は、当時わたしにとっては非常に新鮮な視点だった。その上で、彼自身は、そうしたイディオムにたよらない即興演奏の可能性「フリー・インプロヴィゼーション」を模索していく。わたしは当時、このフリー・インプロヴィゼーションに次の音楽の新しい可能性と希望を、宗教にも近いくらいの熱意をもって見出していたのだった。「音楽から、即興から、イディオムを剥ぎ取る」なんて魅力的なテーマだろう。当時の私は、そこに民族からも歴史からも自由になれるような錯覚する見ていたように思う。
理屈や理想はともかく、実際にイディオムのない演奏をするのは、実は、そうそう簡単なことではない。ベイリーが70年代当時ギターでやろうとしていたことをわたしなりに、わかりやすく解説してみよう。ありとあらゆる音楽にはその音楽固有の言語と言えるようなリズムやアクセント、メロディやハーモニー、音色で成り立っている。人間はなぜそれを認識できるのかといえば、リズムに例をとるなら、どこが1拍目かがわかって、ある一定の繰り返し(パターン)をそこから見出すことが出来るからなのだ。1拍目を認識できるからこそ、リズムの表と裏がわかり、そこからパーターンを聴き出すことも可能になり、パターンのどこかにアクセントを置いてダンスをしたり、それにあわせてメロディを乗せて歌うことも出来る。ちょっとしたリズムの訛りや、歌のアクセントのつけ方や音色の癖でその音楽がどんなジャンルの音楽かを、別に専門家じゃなくても容易に認識することが出来るようになる。僕等がほんの1〜2小節聴いただけで、レゲエとジャズの違いがはっきりわかるのはそのためだ。これが音楽のイディオムの正体だったりする。さてベイリーが当時やったのは、なにもめちゃくちゃに演奏したり、ノイズと思われるような音を出すことでイディオムを回避するのではなく、あくまでも彼の楽器であるギターを正面から普通に演奏しながらイディオムを感じさせる音列やリズム音色をものすごい注意深さで回避することだったのだ。これは並大抵の技術や、半端な意思では出来るもんじゃない。同じパターンの音列やリズムを出さない、なにかの音楽を感じさせるようなイディオムの痕跡を出さない・・・というのは、やってみるとかなりハードルの高い技術で、相当の修練を積まなければ出来るもんじゃない。
ところが一方のミルフォードがやっていることは、これとはほぼ間逆の事だったように思う。彼の演奏する音楽は明らかにアフロアメリカン起源の(彼自身の言によればそれはNYのラテン音楽をルーツとしている)音楽で、60年代に生まれたフリージャズの中でも、とりわけ彼の演奏はブラックミュージック起源の音楽を強調していると言ってよいだろう。(そのことは彼が、当時、白人の楽器であるスネアドラムの使用を避けていたことからもうかがえる。その一方で彼が共演したアルバート・アイラーの音楽が、実は南北戦争時の白人の進撃ラッパの音楽に強く影響を受けているのも興味深いところだが、本題からずれるので、このことはおいておく)当時パルスと言われたフリージャズのドラム奏法の中でも、彼のドラムは、今の耳で聴くとかなり明確にインテンポで演奏されており、決してノンリズムだったりするわけではない。わかりやすい4拍子や2拍子で演奏されているわけではないし、テンポにもゆらぎがあるので、ノンテンポのように聴こえるかもしれないが、はっきりとリズムに表と裏があって、明確にジャズやラテンビート的なイディオムをその細部に聴き取ることが出来るものだ。ベイリーがありとあらゆるイディオムがら逃げ切ろうとしているのに対して、ミルフォードのほうは、むしろ全ての音の中に、自身が育ってきたアフロアメリカンのイディオムを込めようとしているかにすら聴こえてくる。その意味でこの両者がやっていることは、まったく間逆のことだったと思うのだが、しかしこれは、今考えると、どちらも自由を獲得するための方法だったという点では、まったく同じもののようにも思えてくる。片やイディオムを回避することによって音楽の歴史性から自由になろうとし、もう一方は虐げられてきたイディオムをより高度に発展させることにより、歴史の呪縛から解き放たれようとした。同じ土俵だったけれどベクトルの方向が間逆だったにすぎない。
この稿つづく
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Date: Tue, 16 Mar 2004
どうも、お元気ですか?
今はサンフランシスコのアスフォデルのオフィスからです。これから、ここに2週間とまりこんで、ソロDVDの撮影と録音です。ここは初夏のような天気と気温で気持ちいいのですが、でも体のほうは相変わらずガタガタのままで、1月にぎっくり腰をやったばかりなのに、先週ウイーンからもどってきて再びぎっくり腰になってしまいました。で、そのまんまの腰でサンフランシスコへ。昨年の頚椎ヘルニアといいもう本当に体のことを考えないとやばいっす。と自分なりに深刻に考えて8月中旬以降、年内の欧米の仕事は全てキャンセル、これから1年のうち4ヶ月以上は続けて日本にいることにしました。とはいえ8月まではもうキャンセルできない仕事がびっしり入っているので、なんとかだましだましでも乗りきらなくは・・・。
「聴く」の連載はアンケートの回を終え、いよいよ第一部のラストパートにに突入にします。まだまだ練ってない原稿ですが、とりあえず第1稿ということで。
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「聴く」 第16回
音響とはなんだったのか1
これまで3回にわたって、さまざまなミュージシャンがステージで何を聴いているかの回答を掲載してきた。ではわたしの場合はどうか。さんざん人に聞いておきながら、実は、これはとても難しい質問で、正直のところよくわからない。わからないからこそ皆に聞いてみようと思った・・・とも言える。
たとえば皆さんが会話をしているところを想像してほしい。このときいったい僕等は相手の何を聴いているのだろうか?考えれば考えるほど難しい。相手の声を聞いているのは間違いない。でもそれは決して文字にできるような言語的な意味だけを聞き取っているのではない。たとえば、おなじ「こまるなあ」という発言でも、その中の声質やアクセントあるいは表情なんかの視覚的な要素を全てみながら、状況の前後関係や、それまでのその人との関係をみて、そうは言っているけど、結構喜んでるのか、あるいは、本当に迷惑なのかを人間は見分けられるようにできている。しかもそれはほぼ瞬時に、いちいち理屈で判断したりするのではなく、無意識にそういう判断をして会話をすすめているのが普通だろう。だからいざ、いったい会話をする際に何を聞いているのか・・・という問いを改めてしてみると難しい。もちろん、シンプルに「相手の声を聞いている」のは確かだけれど、それ以上に複雑なことをぼくらは当たり前のように毎日こなしている。しかも意識せずに。
ステージの上で起こっていることは、厳密には言語を介した会話とは異なる。とはいえ、両者には類似点も沢山あって、特に即興演奏においては、会話と似たようなことが随所に起っているように思える。両者は、発音する者と、それを受け取る者の関係によって成り立つという点でそっくりだ。また音の規則性の解釈によってその関係が成り立つところも良く似ている。ただ会話と異なるのは、どこまでが音楽なのかというのが人によって様々だということだ。会話であれば、はっきりと言語といえるような共通言語コードを音声の中に見出しているけれど、こと音楽の場合は、共通と思われる音楽的な文化コードを持った者同士でさえ、この部分があいまいなうえに、共通した文化コードのない者同士でもコミュニケーションが言語以上に容易に成り立つ場合もあったりする。言い換えれば、言語が明らかに明確な意味を伝えることが出来るのに対して、音楽自体には明確な意味を伝える機能が(アフリカあたりの一部の音楽を除き)なくて、むしろ音楽は、そういった機能以前の、音そのものを伝えながら、もう少しプリミティブな感情なり、肉体的な衝動に直接かかわるような、なにかだとも言えそうだ。
単に聴くぶんにはどんな音楽でも容易に楽しめたりするが、ことそれを演奏する・・・ということになると話は別で、「聴く」を考えるときにも、単に楽しむ場合と同じにはかんがえられない側面も出てくる。おそらく多くの音楽家は、音楽をある規則をもった言語のような体系としてとらえてステージ上で音を聴いている。これが通常の音楽家のステージ上での無意識な態度であることは間違いないだろう。ある音楽には、どんな音楽でも、かならず文法なり作法ともいえるような法則や方法があって、それを学習しなければ演奏者としては参加出来ないからだ。が、前回までのアンケートをみてもわかるとおり、今現在、単純に音楽言語だけを聴いて音楽をやっている演奏家のほうが、わたしのまわりではむしろ少なかったりするのも事実だ。ここには、実は音楽の法則というものが言語と同じくらい多種多様で、言語同様、異なる法則から成り立つ異種の音楽が世界中には山のようにあることを僕等は知ってしまっている・・・という現実、さらに加えて、ある時代以降、とりわけサブカルチャーの勃興以降の音楽は、過去につくられた音楽言語体系だけから成り立っているわけではなく、様々な音響現象を音楽の一部として取り込んできていることが作用しているように思う。皆が同じ言葉を話しているとはかぎらない・・・という現実が、音楽の世界では、実生活以上に起っている上に、かならずしも共通の言語をもちいなくても、むしろ新しい音の肌触りがかえって何かを伝えるような文化の中で僕等は育ってきているのだ。
このことに最初に演奏家としてラディカルな態度を表明したのはデレク・ベイリーだ。彼の言うノンイディオマティック・インプロヴィゼーションとは、まさに、無意識にやりとりされる音楽言語を演奏者の側から相対化する試みだった。すでに歴史的に用意された音楽言語を使って演奏するのではなく、なるべくそうしたことを使わずに、これまで音楽言語になりえたようなものを禁じ手にまでして、徹底的に非言語的な即興演奏をしようとしたのが、彼の当初の目論見だったように思う。共通の音楽言語体系を使わずに演奏するためには、どうしても即興で毎回更新しつづけなくてはならなかった。即興の必然もそこにある。ところが彼のやっていることの本当の意味が理解される前に、非ジャス的な即興演奏の方法として、このノンイディオマティック・インプロヴィゼーションは流通、普及してしまった。この方法を使えばどんな音楽とも共演可能だ・・・という部分も作用して、ノンイディオマティック・インプロヴィゼーションは、閉じてしまったフリージャズの方法に対して、あらたな地平を見せてくれた一方で、コスモポリタン的な都市即興音楽のひとつの言語体系にすらなってしまった。問題なのは非ジャズ的に即興演奏することでもないし、フリージャズや現代音楽に対する新たな世界をつくるのが目的でもなかったはずだ。音楽家も演奏する際に言語をしゃべるように自分の音楽言語を話し、聴いているわけで、それは言語と同様に、自分の所属する民族なり、サークルなりの閉じた体系でしかなく、このことにもう少し自覚的になることで、音楽言語の体系によらない演奏が可能なのではないか・・・というのがベイリーの初心だったように思うからだ。だから彼があたらしい即興体系の発明者となり、その体系のようなものを演奏する人達が多数現れある世界が出来上がってしまった時点で、ベイリーの初心は挫折したことになるように私には思えた。
わたしの身の回りで、この事態(ノンイディオマティックの出現と挫折)を最初にラディカルに意識した音楽家は、おそらく90年代後半の杉本拓や吉田アミ、SachikoM等だったように思う。彼、彼女達の態度も、音楽が安易に言語的にやり取りされることへの強烈な異議のように、わたしには思えた。さほどベイリーの影響を受けていなかった、あるいはベイリーの挫折を発展的に継承したわけではない彼、彼女等がなぜこういう音楽に至ったのかは興味深いところだけれど、その辺の経緯はひとまず置いておく。が、なにより、わたしの興味をひいたのは、やはり彼、彼女達の音楽がベイリー以降のノンイディオムの問題に正面からかかわっているからだった。おりしも音響ブームの到来で彼、彼女等の音楽を、その範疇でとらえるような傾向もあって(なにより、わたしもこの「音響」という言葉を結果的にみれば利用してまった戦犯でもある)、彼、彼女等の名前はまたたく間に「ONKYO」の言葉とともに欧米に発信されたが、しかし、杉本や吉田アミ、SachikoM等のやっていたことは、日本の音響ブームとはほとんど無関係な音楽だったのではないだろうか。多くの「音響」と呼ばれる音楽が耳やさしいこれまでにないテイストの音色をベースにしたものをさしたのに対して、彼、彼女等の音楽は明らかにそれとは次元のことなるものであったし、なによりまず何かをベースにするという概念がその音楽にはそもそもない。ここで言うベースは音程のことではない。ある音楽の中心点となるような構造のことで、たとえばそれがコードであったり、リズムであったり、メロディであったり、あるいは音色であってもいい。おそらく「音響」と呼ばれた音楽の多くはこの「音色」を他の要素よりもより中心に置いた音楽のことだったように思う。その部分の新しさは確かにあったし、素敵な音楽が多くあったのも事実だけれど、この、ある中心点を設定して、それをもとに音楽を構成していく、というような方法・・・そもそも音楽のほとんどはそういうもので出来ている・・・をベースと呼ぶとして、そもそも杉本達の音楽には、ベースの上になにかが乗っかる、ある中心を設定してなにかを構築していく・・・というような構造がないか、きわめて希薄だ。それでも音楽である以上時間軸にそった音の変化、あるいは変化のしなさで成り立ってはいる。が、そこで生まれるストラクチャーにおおきな意味がそもそもないような音楽、あるいはストラクチャーがあったとしても認識しにくすぎてそれが意味をもってないような音楽を、彼、彼女達は最大限の注意をはらいながら演奏しているのだ。だからそもそも通常の音楽が持つ規則性が希薄で、聴き手が規則性をさぐることにも大きな意味がない。時間経過というよりは、定常的な音による空間的なデザインの側面もとりわけSachikoMの音楽にはあったりして、これもベースというよりは、ある状態を作っているだけと考えたほうがいい(彼女が現在インスタレーションに向かうのは必然のように思う)。いずれにしろ彼、彼女等のやろうとしたことはベイリーのノンイディオムの方法からもう一歩ふみだして、ではいったい人間はなぜ、どうやって音楽を認識してしまうのか・・・という聴き手の存在まで掘り下げての異議提出であったように思う。ベイリーがあくまでも、それを演奏によって解決しようとしたのに対して、演奏と同時にそれが聴かれることによっておこる様々な出来事に対してもより意識的になったのが、そのなによりの証拠だろう。
音楽は演奏されることによって生まれるのではなく、どんな音であろうとそれを聴く人が音楽だと感じてしまった時点で音楽になる・・・というところが出発点の挑戦。この部分が演奏者の側の言語更新で新しい方法を探究してきた従来の欧州の即興演奏と、彼、彼女等の最大の違いだったように思う。流行の「音響」と呼ばれる音楽がリスニングに重点を置いていた点で、この部分では確かに共通した傾向をもっていたのも事実だ。だが、やはりその本質的な音楽の成り立ち方において従来の音楽構造をそのまま流用しつつ音色の更新に重点を置いていた「音響」の音楽と彼等のやっていたことは明らかに違う。中村としまるや秋山徹次等も含む彼、彼女等のこの数年の試みとその進化にはそんな側面もあったように思う。だからこそ、杉本拓とラドゥ・マルファッティの共演では、あまりの無音部分の多さに空調の音なのか、演奏の音なのかわからなくなるような事態がおこったり、SachikoMの音楽では、耳を澄ませば澄ますほど音楽として発せられた以外の音が陰画のように浮き出てしまう事態までおこったりする。どこまでが音楽かということは、演奏する側ではなく、聴く側の判断にまかされている音楽・・・あるいは、どこまでが音楽か、という問い自体に違和感を感じさせてしまう音楽。私にとって彼、彼女等の最大の新しさと面白さはそこにある。
Date: Wed, 10 Mar 2004
「聴く」 第15回
ミュージシャンはステージで何を聴いているのか その3
私と共演経験のある20名以上のミュージシャンに「あなたは、ステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」という質問をメールでしてみました。どの答えも,削ったりするのは不可能な、ミュージシャンがステージ上で感じている真実、あるいはそうあるのではないかと本人が推測する真実です。なのでこの連載では内容に一切手を加えずに数回に分けて、回答をそのままを載せることにします。
今回はその3回目。ノイズの王道を行くインキャパシタンツの美川俊治やメルツバウの秋田昌美、声というより喉のはっする音を演奏する吉田アミ、雅楽の古典から現代曲までを演奏する笙の石川高、非常に長い返事をくれたジャズサックス奏者津上研太、さらにそれよりも長い返事をくれた即興演奏家”キャップ”こと秋山徹次、いずれも個性的な音楽家の意見です。じっくりどうぞ〜
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美川俊治 (インキャパシタンツ)
私は、人前で演奏する際は、極めて稀な例外を除いては、殆どのケース大音量のノイズですので、何よりまず第一に「自分の音」を聴くように努力しています。ノイズをやる人全員がそう感じているかどうかは分かりませんが、私の場合、掛け値なしに、ステージ上では自分の音を聴く努力をしなければ、何をやっているのかさっぱりわからなくなってしまうのです。これは、ただ単に聴くというよりは、自分の頭の中で鳴っている「出ている筈の音」と実際にアンプから出ている音を重ね合わせ、確認する作業でもあるのですが、そのアンプから出ている音自体がよく聴き取れないこともしばしばですので、困ってしまいがちです。ちなみにかなり酔っ払っている時は、演奏中に何を聴いているかとか何も関係なくなってしまいがちですが、そういう時は結構良い内容(演奏というよりはライヴがということかもしれませんが)になっていることが多いようです。
その次に来るのが、他のメンバーの出す音です。この順序は私にとっては絶対です。それ故に、アンサンブルとしては崩壊してしまうことも多々あるのですが、それは仕方の無いことだと考えています。何か矛盾しているようにとられるかもしれませんが、自分の音が良く聴こえる時は、他のメンバーの音も良く聴こえることが多く、結果として、「自分としては良いと思える演奏」に繋がるようです。とは言え、そう思える演奏は、なかなか実現することは難しく、「今日もすかたんやった」と思うことも多いのですが、反省はしません。遠い昔にそう決めましたから。
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秋田昌美 (メルツバウ)
ステージでは自分の音がちゃんと出ているかどうか、機材(自分の機材と会場の機材)がちゃんと作動しているか、確認する為に音を聴いているといえます。独りでやる時は外(そと)音の感触を体感する為にモニター・スピーカーは使用しません。これらが整ってはじめて演奏に没頭できます。良い感じで音が出てれば演奏は楽しく自由になれるし、そうでないと、何とかして打開しようと苦戦するのでつまらなく演奏は自由になれません。
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吉田アミ
自分の耳に聴いています。それは共演者の出す音だけでもないし、自分の出す音だけでもありません。研ぎ澄まされた耳から聴こえるすべての音を拾います。私にとって、マイクで拾った音すべてが私の音なので演奏中は自分と外の音の境界は曖昧です。ただし、その状態に「酔う」ということはありません。呼吸や声を使った演奏というのは、簡単に自分に酔うことができることがのですが私はそれが好きではないので、演奏中も自分の音を客観的に、冷静に捉えています。
実際、自分自身の音に対しても身体からきこえる音よりもスピーカーを通して聴こえてくる音を優先して聴いていると思います。演奏者でありながら耳の良い観客でも在りたいと思うのです。でも、声も出しているのも自分なので、こうしたいと思っても、体が着いて来ず、酸欠になったり、どうしても思うように音を出せないことがあって、そういう時、自分の体が厭わしく思います。そういうふうに葛藤しながらこれからも音を出していくんだろうなーと思います。
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石川高
「聴く」ことについて;
演奏全体で何が起きているかをみまもる冷静さを維持しながら、響きを受容している感じです。鼓膜のみならず、楽器が接している頭蓋の振動や、床を伝わってくる振動も感覚しています。楽器を押さえる指にも響いてきます。同時に音を発しているせいか、「聴いている」という自己把握はほとんどなく、そのため、思い出そうとするとあまりよく覚えていないのだと思います。
「聴いている」内容について;
笙は一音の中にも倍音の層があり、和音になるとさらに相互の音の干渉で様々な倍音がきわだってきて、いくつもの周期の波が満ちあふれます。楽器で出せる音よりもずっと高い響きや、1オクターブ低い響きも聴こえてきます。また、持続音を演奏していることがおおいので、楽器それぞれのもとの音と同時に、笙の音と他の楽器の音が混ざりあっている状態をも聴くことが特徴的だと思います。笙の音によって他の楽器が変調された響きが生じ、それらはとても立体的に、空間を飛びかうように感じられます。こうした状況が意識にとりわけ明確になるのは、雅楽の古典を演奏している時と、cathodeの時でした。古典の時は篳篥、龍笛など強い音の楽器が多いためで、cathodeではsine
waveと共に演奏しているからです。古典の時は、もちろん各楽器の音を旋律として聴きとって理解しています。この段階で、より内的な想像の領域が関わってきます。雅楽を稽古するときに歌う「唱歌(しょうが)」という、雅楽の旋律を単純にしたものを意識のなかで歌っており、さらに、それぞれの楽器がその瞬間に理想的にはどのような演奏をしているべきかも想像しています。それから、会場の空間の残響を聴いています。静かな演奏の時には、客席の様々な音や、空調なども聴いています。一応このようなところです。
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津上研太
この質問を受けて、私なりにそのことについて思いをめぐらしました。音楽は「きく」ということから始まるのだと思います。そして発声発音すると音の集まりは音楽になっていくんですが、その結果、会場全体にどんなことが起こっているかということについて私の考えを以下に書きます。
私は演奏中に「聞く」と「聴く」という二通りの行為を同時にしています。
1.「聞く」
演奏中は共演者同士で演奏状態を共有しています。そして演奏の今後を左右する出来事が次から次ぎへと起きています。演奏中はその演奏状態の全体が(全体ということは自分の発する音も含めて)フェアーに(特別なスポットを当てずに)聞こえています。つまり、「聞く」ではなく「聞こえている」または「聞こえてくる」という言い方のほうが近いかもしれません。「聞こえてくる」のはめくるめく沸き起こり刻々と変化する音に表現された出来事です。
2 .「聴く」
ところがその音音の中で自身のコントロールが利く音は自分の音です。自分の音は自分で決定しています。でも、その直後にどんな音を出すかということについていちいち考えたりはしていません。おしゃべりをしている時に、例えば「あのさぁ」と言葉を発する時に「あ」と発音して「の」と発音して・・・という風にいちいち考えたりしないようにです。では何を根拠に音を発するか?という事ですが、私の場合「内なる音」に耳を傾けます。この行為こそ「聴く」ということです。内なる音に耳を澄まし、それが音楽の衝動となって音を発するのです。内なる音は周りから聞こえている音に強く影響され、かつ流動的で、演奏直後には周りの音に影響していきます。聞こえてくる音と内なる音は互いに密接に繋がっているのです。
3 .「音色」
音色も自身でコントロールできる要素の一つです。音色は、「聞く」「聴く」というより行為より「感じる」といった方が近いです。極論かもしれませんが、突き詰めると音楽は音色の集合体です。その集合体のなかで自分の音色が何の効果を出しているか、又はどのような影響を周りに与えているか、といったことについて感じています。
4 .「オーディエンス」
さて、そうして演奏者は内なる音に耳を傾けながら
聞こえてくる音とともにステージ上に存在します。ただしそれはステージ上に限った話で本来はオーディエンスがいて、彼らから発せられるエネルギーもとても重要なファクターになり得ます。そのエネルギーは音ではないので直接は聞くという行為をしていませんが、内なる音に多大な影響を及ぼします。そういう事が顕著に現れるのがデュオやソロなど共演者が一人とか0人の場合です。
5 .「体験」
「内なる音」と「聞こえてくる」音を「聴き」、「音色」を「感じ」、発声すればそれは演奏状態となり、オーディエンスを巻き込んでエネルギーみたいな物のやりとりが起こると音色の集合体は音楽に昇華します。ここで言うエネルギーとは感情の動きと言い換えることができるでしょうか。音の集合体を耳にした人に、なにかしらの感情が起こるとそれが波のようになって「場」が動き出します。演奏者が発声して、オーディエンスに届き、感情の動きが起こり、演奏者に戻ってきて・・・というサイクルがぐるぐると繰り返され音楽の密度がより濃くなっていきます。私は音楽を演奏したり鑑賞したりする行為は一つの「体験」と考えています。
演奏中になにをききますか?という問いには答えとなっていないのかもしれませんが、私の場合、演奏中は自らが音楽に参加し、同時に体験する中でこれらの行為を同時に行ってたり感じたりしています。
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秋山徹次
この質問は単純な様でいてその実非常に奥が深い命題を含んでいて、また私自身にとっても過去の時期によって捉え方/考え方が変わり、いろいろな変遷を経て現在に至りつつもまだまだこれからも変わっていく可能性のあることなのです。ここでは即興演奏に限っての私の場合について述べたいと思います。
かつて在籍していた即興演奏主体のバンドでこんな実験をしたことがあります。それは、メンバーの一人が秋葉原の街頭で録音してきた街の雑踏音の入ったカセットテープを、練習スタジオのPA装置から自分達の演奏と同程度の音量で流しつつ、それとともにフリーフォームな演奏を行うというものでした。こうすることによって、自分達がリアルタイムで出している音に録音された雑踏の音が被さり、自分達の演奏に含まれる人間的なエゴの部分を打ち消そうとしたのでした。そのころ(多分1987年前後)の私にとってもっとも重要だった即興演奏上のテーマは、いかにして自分の演奏から主観的な要素を抜き取り、あたかも楽器もしくは音楽それ自体が自然に演奏しているかのような「エゴ」のないインプロヴィゼイションをするかといったものでした。当時は今よりも、いわゆる轟音で垂れ流し的即興演奏をする人達が多かったように思いますが、私の関心はそういう方向でカタルシスを得るよりも、違う方法で自分で納得いくものを創り上げることでした。いかに自然になれるか。自然に音を出していくことが出来るか。観念的であり、かつ結局のところ非常に主観的でもあります。何故なら「じゃあ、客観的な意味で自然な演奏って何?」という問いにぶつかるからです。そこで私の得た結論は、演奏者が自分の肉体と楽器を使って演奏しているという逃れられない事実がある以上、「演奏」という人為的行為を自分の身体という「自動演奏装置」を通して行われる「現象」というレベルにまで引き寄せなければならないといったことでした。つまり自分の演奏行為を雨や風や雷のような「自然現象」、あるいは顕微鏡で覗いたアメーバが動いている程度の行為にしたかったのです。まあともかくも、自分達の演奏におけるエゴイスティックな要素を外部から強制的に打ち消すような装置を必要としたため、そんな試みをしたのでした。それには「街の雑踏」の音はそれ自体にはエゴが無いと考えたので、この試みには適当だと思ったのです。今思えば、どんなフィールドレコーディングといえども、いわば「自然のエゴ」といったものがあるようにも思えますので、このときの「街の雑踏」は実はある種のエゴを持った音だったのです。つまり、エゴをもってエゴを制すといった試みだったのです。またあるときは自分達自身の演奏の入ったテープを流しつつそれと・u桙ニもに演奏したりもしました。この場合、自分達を打ち消してくれるのは過去w)の自分達です。このときは実際自分の耳に聞えている音が、たった今自分が出している音なのか、それともテープから再生されているかつて自分達が演奏した音なのか、ところどころ本人達でもわからなくなる時があり、非常に不思議な感覚に見舞われました。また、幻聴なのか何なのかよくわからないのですが、実際に聞こえているテープの音とは別に次に出すべき音の連なりがどこかしら聞こえてきて、そのとおりに音を追うように出してみると不思議な事にしっくりとはまった感じになり、そしてまた次に出すべき何かしらフレーズのようなものがまた聞こえてくるといった事が繰り返されるといったことがありました。これらの実験で得たのは、つまりどんな適当な音を出してもその音がまさにその状況にしっくりくる音になってしまうといった感覚です。
こんな事を繰り返しているうちにわかってきた事といえば、あらゆる即興演奏に間違いはないのだということでした。また感覚的にいえば、全ての即興音楽はすでにそれが発音される直前に、それこそ「勝手に」出来上がっていて、我々演奏家のすることと言えば最後に少しだけその背中を押してあげるといった事に過ぎないのです。ですから、わざわざみずから「自然現象」になろうとせずとももうほとんどそうなっているのです。また敢えて他人に合わせようとしなくても合ってしまうのです。しかし、相手の音を聴いて合わせようと思った瞬間 ズレが生じます。それゆえ自分達が出す音といえども、自分達でもって無理矢理わがままな方向に持って行こうとすれば絶対にいい演奏にはならないのだなといった事にも気が付いたのでした。つまり他人の演奏を聴こうとしないで「聞こえてくる」ものを自然に耳で受け入れるくらいでちょうどいいのです。そもそもどんな音を出しても原理的に間違えた音は出ないのですが、間違ってはいないが「悪い演奏」というのあるということです。いや、ここでは「悪い演奏」という表現は的確ではなく「不自然な演奏」としたほうがいいでしょう。この後数々の実験を経て思ったのは、敢えて「不自然さ」を要素として捉え、それを適宜に挟む事により、演奏によりいっそうの奥行きが出せる場合もあるといった事でした。つまり、「人為的行為」と「自然現象」をバランス良く混ぜ合わせればいいのであって、かならずしも常に自分のエゴを消したような演奏をしなくてもいいのだと思った訳です。
私は、今出ている音はすでに過去のものとして、つまり記憶の外在化されたものとして捉えています。この場合の記憶とは、いわゆる脳が司る機能としてのものを指すと同時に、またそれ以上に身体の記憶をも意味します。というのは、私は演奏行為を身体の機能として捉えているからです。具体的な例をあげると、あるタイミングで音と音の間に一定の無音部分を挟みたいときなど、脳で「いち、に、・・・」と数を唱えたりするのではなく、身体を(可視的にはそう見えないにせよ)揺することによってタイミングを計ります。私のメインの楽器であるギターは非常に身体性の強い楽器であり、それゆえその身体性を拒否することで新たな演奏上のパースペクティヴを開いたりするアプローチもまた数々行われていますが、私としては敢えてその身体性にこだわって、むしろ自分の身体と楽器との間に生じる微妙なズレを利用して、時間軸的に演奏を進めることから逃れようとしています。このズレの中にもう一人の自分を挟み込み、演奏者としての第一義的自分と間の距離を利用して、かつてテープを使って試みた外部からの打ち消しの役割をさせているのです。つまり、身体感覚のズレや演奏上のエゴを打ち消す装置として利用する事に思い至ったのです。これによってそれこそ自分の思うがままに人為的になったり、自然になったり出来るようになりました。自分が考えていたような演奏が考えずに出来るようになったのです。一件落着のように思われるでしょう。ところが人とは欲深いもので、ある程度時間が経つと自分が自分の思ったような演奏をしてしまうことに耐えられなくなってきたのです。うまくは言えませんが今度は「自然」「不自然」のバランスごっこからも逃れたいと思った訳です。こうなると、好きで始めた音楽なのに、それがいつのまにか音楽を演り続けなければいけないといった何か呪いのようなものかけられてしまった感じです。
現在、私にとって一番の関心事は、音楽を演奏するにあたっていかに時間の外側へ出るかということです。それには頭を使っていては、つまり「聴いて」いては全ての演奏行為はもはや「遅い」のです。そのために、身体性が前面に出てくるというのは、文字通り頭で考えるより先に身体が動いてしまっていたという感覚を呼ぶためなのです。では、時間の外へ出るとはどういうことを意味するのかと言えば、それは「それにによって、そこから時間が発生するような演奏すること」とでも言えばいいでしょうか。やや抽象的、観念的に聞こえると思われるでしょうが、こういう事は実際に起こるものなのです。演奏する行為によってそこから全ての時間が始まる、私にとってこの感覚こそ即興演奏がもたらす最大の祝祭に他なりません。故に、私にとって全ての演奏は多かれ少なかれサイケデリックな装いを帯びてきます。したがって即興演奏をする喜びとは、物理的にどんな音波を出したかというよりは、そのときの心のありかた、ある種の感覚に自らを置くことが出来るというのがうれしいのです。
観念の段階にある音ほど純度が高く、それらが実際に発音され他人に聴かれてしまった後は、すでに複数の記憶に色付けられています。こういった意味合いでは、みずからの演奏を「聴く」ということは、観念の中、或いは可能的未来に潜在的に存在したであろう「未だ演奏されていない音・音楽」を、次から次へと消去していくことを意味します。聴くことで可能的未来を殺すのです。聴取とは殺害行為に他なりません。ということはとりもなおさず、「聴かない」ことを選択すれば全ての音とその未来を生かすことになるように思えます。音/音楽を聴かない様に聴く、つまりは「曖昧に聴く」という事です。ところが、すでに耳に届いてしまっている音、つまりもうすでに「聴いてしまった音」に対して我々は何が出来るでしょうか?言い替えれば、もうすでに聴いてしまった音を「聴かなかった」状態に戻すことがはたして可能でしょうか?殺してしまった相手を生き返らせることなど出来ないと思われるでしょうが、実はこれが出来るのです。それはつまり、音をいちいち「解釈」しないことです。「解釈」は「介錯」であり、つまりは相手の首を落して息の根を止めることです。ただし、これはもともと介抱という意味もあり、かならずしも悪い意味だけではありませんし、人は演奏を聴いて解釈しようとすることで、自分なりに自分を介抱/解放しようしていることもあるので、それはそれでいいでしょう。しかしすでに聴いてしまって記憶の中にある音でも、それに対して何らかの解釈をしなければ、即興音楽は本来あるべき純粋な抽象性の中に留まり、それにより却って生命を取り戻すのです。私に言わせれば、この抽象性の中にこそ解釈を超えるものが存在していて、私にはそれのほうが貴重で大切だと思われるのです。ただしここまで言うとほとん神学的になってきますが。
さてここで最初の質問に戻ります。「あなたは、ステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」 このような変遷を経て今この質問に立ち向かうとすれば、私が現在答えられることはこんな感じです。「それらがどんなに些細な音であろうと、またそれが音として立ち現われてくる直前の気配だけだとしても、聞こえてくるもの全てを排除せず受け入れ、曖昧に聴いています。その行為の中に常に未来の音楽が眠っていると思うからです。でもそれを解釈したり、またそれらに反応したりしません。何故ならそうせずとも全てこの世に現われてくる音というのは必然性を伴っていて、我々もまた、たとえそれが呪いであろうとも、必然的に演奏しているのですから。」
Date: Sat, 24 Jan 2004
ミュージシャンはステージで何を聴いているのか その2
私と共演経験のある20名以上のミュージシャンに「あなたは、ステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」という質問をメールでしてみました。どの答えも,削ったりするのは不可能な、ミュージシャンがステージ上で感じている真実、あるいはそうあるのではないかと本人が推測する真実です。なのでこの連載では内容に一切手を加えずに3〜4回に分けて、回答をそのままを載せることにします。
今回はその2回目。ステージでもっとも肉体に近い楽器「声」を使い歌を歌うミュージシャン。もっとも肉体と遠い電子楽器を使うミュージシャン。そして通常の楽器を演奏するミュージシャン。それぞれが独特の視点をもって答えてこれています。
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PHEW (VO. electronocs)
メロディーとリズムを同時に表現できるベースとドラム(ドラマーにもよりますが)のキックしか聞いていません。
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Haco (VO, multi-instrument)
会場の規模や演奏形態にもよるのですが、ステージ上ではだいたいにおいて擬似的な空間の響きを聴いています。モニタースピーカーからの音も含めて、客席とは違ったバランスなんだろうなと思って聞いています。かつ、会場に向けたPAスピーカーの客席からのはね返りや、空間の鳴りや、聴衆のざわつきも同時に混ざっていて、頭の中にはもう一つの仮想空間ができていてる感じです。そういう響きの中で音楽しているかんじです。じゃあ、肝心な楽音はどうなるのかと言われそうですが、"響き"という点では等しく含まれていますね。それは車に乗った時に、風景が目の前に現れては、瞬時に背後にいってしまうように、その瞬間、瞬間の"響き"の少し前か少し後を意識的に聞いているような気がします。私は歌うのですが、聞いているのは自分の肉声じゃありません。マイクで拾って増幅された空間の響きにほかならないのです。エレクトロニクスで演奏する時にも同じことがいえます。小さな会場でもやはり小さいなりの空間の響きというものがあり、それに演奏中はかなり作用されます。その"瞬間"のわずかな前に頭の中で鳴らすということも時々ありますので、それは実際は音にまだ出ていないですけど、"聞いている"とも言えますよね(笑)。 けっきょく、耳で"聴く"だけじゃなくて、こめかみや骨や皮膚や足の裏まで身体全体で響きを感じているのだと思いますね。
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SachikoM (sine waves)
何も聴いていないのかもしれない。空気吸うのと同じように、ただ音を体全体で受け入れているだけというか。
ソロでも他人との共演でもあえて音を聴くということをしなくてもいい時ほどいい演奏である場合が多い。
音は音だし。所詮。
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天鼓 (VO, guitar)
即興演奏について答えます。
何を聴いているかと言われれば、実は、何も聴いてないなあ。聴くという作業じゃなくて、その場の空気を、どのように感じ取るかという作業をしているかんじ。だから、もしかしてある日、耳が聞こえなくなっても、最悪、見ることができれば、演奏はできると思ってます。
大友くんの質問は、多分、どのように聴いているかということではないかと思うのですが。もしくは、音の何を聴いているか、とか?どのように聴いているかというのは、私の場合は、音の中にいるようにしています、というか、音の中にいてしまう。魚座ですねえ。魚は水の中にいて、泳ぐには水を意識しない。その中の一部と化してしまう。つまり、一部となってしまえれば成功。人の出す音をただ聴いてしまうと、水辺に立ってる感じで、飛び込むのはたいへん。音の何を聴いているかという質問ならば、エネルギーの方向? もしくは、そのクオリティ。音ではあるんだけど、音として聴いてはいない。ひとつの音が出たときに、すでに山ほどの要素がその中にある。リズム、メロディ、楽器の性質、演奏者の状態などなど。音の中の真実、真相の中から、自分がその瞬間に意味づけられるものを探す。私にとって音は、たとえば、そよ風だったり揺るぎない岩であったり、どくどくと流れる血であったり、喜怒哀楽であったり、天使であったり悪魔であったり、テーブルの上のリンゴであったり.....(実際にステージ上でそれらを思い浮かべるわけではありませんけどね)。それがどんな物語になるのか、どんな彩色をされるのか、誰も知らない。自分の音も含めて、それがどこへ向かえばいいのかを瞬時に掴み出すのが(私にとって)即興の面白さ。同じ音は二度とないわけで(時間が経過すれば同じ音とは言えない。たとえ電子音でも)、無限の可能性の中から、たったひとつをピックアップするスリルが好きで即興を続けていると言えるかも。
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山本精一 (VO, guitar)
即興演奏のときは、自分の出す音、共演者の出す音を聴くのは当然ですが、なにかそれらが交わり合って出来上がってくるんでしょうか、自分達が出してる音とは全く別の次元で鳴ってるような、そんな不思議な音が聞こえてきませんか? ぼくはその音をずっと聴いていたいです。
普通のうたものをやるときはもっぱら必死でモニターで、自分の声を聴いています。でもやっぱり即興のときよりかは確率はひくいけれど演奏している曲とパラレルなかんじで、すこし別の場所でなりたってゆくような奇妙な秩序を感じることがあります。曲だとか、楽器の鳴りだとかを超えたもっと大きな何か?そんなの幻聴なんでしょうか?
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田中悠美子 (唄、義太夫三味線)
演奏してる時のことを思い出して書いてみますと・・・
○昔やってた正式な古典の場合は、共演者(浄瑠璃を語る人)が いるので、自分の三 味線の音と語り手の声を当然聴いています が、もっともよく聴いているのは、語り 手の「気」(これは「聴く」とい うより「感じる」ですが)や、語りのストーリーの世界における登場人 物の心の声、自分自身やお稽古してくれた師匠や弾いている三 味線の「声なき声」でしょうか。ホールで演奏するようになって、お客 はとてもお行儀がよくなり、彼らが発する音はほとんどきこえてきませ んが、彼らの声なき声がきこえてくる場合があります。
○現代曲の場合は、ソロなら当然自分の音、共演者がいれば相手 の音や気も含めて聴きますが、譜面を視ることがほとんどなので、音 符がすでに発している音、譜面の意志(作曲家の意志)を聴いて、 自分の音を重ね合わせている・・・という感じです。ホールで演奏することがほとんどなので、お客はお行儀がよく、音響が良いにもかかわ らず彼らが発する音もあまりきこえてこない。気は感じますけど。以前、高橋悠治さんの儀式的な曲で、神の声なき声が聞こえてきたこともありました(笑)。
○即興は、自分の音、共演者がいれば当然相手の音も聴きますが、相手の「気」をやはり感じてたりします。最近は、相手の音をわざと聴かないようにすることもあります(はやりですかねえ?)。PAする場合がほとんどなので、しゃーっという音とかも始めのうちは聴いていますが、そのうち演奏の音で気にならなくなり、演奏が終わったあと、またしゃーときこえてきますよね。
あと、ソロでは自分の心の声もきいてますが、最近、静かで隙間の多
い音楽をやってるので、自分の楽器の倍音や噪音、静寂に耳を凝らしてます。ただ、この手の音楽の場合、いくら集中していても聴衆の発する音や気がきこえてしまうのでけっこうやっかいです(笑)。それも音楽のうちなんですが・・・。その点、録音してる時は、ヘッドフォンをつけていると「しゃー」とかいってたりしますが、ギャラリーがいないので、自分が
演奏している「空間の音」(なんじゃそりゃあ)もきこえてきます
(2003年12月15日ソロCD出ます)。
○以前、ノイズバンドの中で演奏してた時は、爆音および共演者や聴衆の発するエネルギーに飲み込まれて、スタジオ録音の時以外は結局何もきこえてなかった(笑)。そのほか、「キッチン・ドリンカーズ」(2004年ボックス出版予定)というカヴァーバンドの形態(笑)を取っているユニットは、それなりにお客さま参加型バンドなので、彼らのノッテル音やかけ声、拍手などおもしろいです。
日頃から何を聴いているか考えずに演奏してるので、このぐらいしか思いつきません。
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芳垣安洋 (ds,perc,tp)
ステージの上の音だけでなくその場で聞こえるものはわりと皆聞いています。ただ音楽を構築するために必要なものに意識を向けるようにする必要があると感じて特定の音に意識を向ける事もあります。
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竹村ノブカズ (computer)
共演者がおられる場合は、自分の音より相手を聴こうとしています。が実際は相手の音に魅かれればひかれるほど、冷静でいられなくなり必要以上に音を発しがちで、ちゃんと聴けていない自分に気付きます。
一人の時は、出している(出てしまった。)自分の分身を追って(聴いて)いる感触です。海外ではオーディエンスの反応が敏感なので、客席から聞こえる雑音と共演している気持ちになることもあります。
どういう時も、道具が生楽器でない場合は、体で直接振動を確認するのが難しい為、ミリセコンドというごく僅かではありますが、スピカーから戻ってくる音の遅れに、自分の過去のような、死骸のような、影のようなモノを常に聴いていています。
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一楽儀光 (perc, ds)
いろいろ考えたあげくごく当たり前な答えになってしまいましたが私の場合は、「耳に入ってくる音」を素直に聴いていると思います。 ただ最近、耳に入ってくる音と演奏を直結しないようにしています。音がトリガーになってしまうのを避けたい気持ちが在るからです。(昔は聴覚と演奏の距離をどうやって無くすかを考えていましたが)なるべく耳に入る音と自分の音に距離を置きたいと思っています。聴くことと音を出す行為の距離を大きくすることにより経験や技術ではなくリアルタイムな思考で音が出せるのではと思っているからです。
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Date: Wed, 3 Dec 2003
JAMJAM日記別冊「聴く」 第13回
ミュージシャンはステージで何を聴いているのか その1
私と共演経験のある20名以上のミュージシャンに「あなたは、ステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」という質問をメールでしてみました。数行の答えが返ってくるだろう・・・くらいに考えていたのですが、かなり長いものから短いものまで、いずれも実感と経験にもとづいた非常に興味深い答えが返ってきました。どの答えも,削ったりするのは不可能な、ミュージシャンがステージ上で感じている真実、あるいはそうあるのではないかと本人が推測する真実です。なのでこの連載では内容に一切手を加えずに3〜4回に分けて、基本的にはなんのコメントも付けずに回答をそのままを載せることにします。
1回目はジャズやポップス等のフィールドで、バンド等のアンサンブル形態で活動することの多い菊地成孔、植村昌弘と、いわゆる弱音系とか音響系などと形容されることの多い現場で、ソロや小編成でアブストラクトな演奏をする杉本拓と中村としまる、一見非常に異なる活動をしている彼等の、(同じフィールドの2人でさえ、まったく異なる音楽を演奏しています)しかし、どこか共通したところもある回答です。また楽器を肉体で演奏する人達(菊地、植村、杉本)とエレクトロ二クスの中村との考え方があざやかに異なる点も非常におもしろいところです。次回は楽器奏者やエレクトロ二クス奏者に加え、ヴォーカリストの意見も掲載する予定です。まずはその回答を読んでみてください。
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菊地成孔 (サックス、オルガン奏者、DCPRG, スパンクハッピー)の答え
基本的にはモニター・スピーカーから出ている音と、生楽器に関してはマイクに乗っていない成分をミックスして聴ている。というのが厳密かつ妥当な回答になりますが、それ以外の総ての音もミックスして聴いているはずで、しかしながらそれは僕個人に限って言えば、あまり意識されません。所謂「高級ジャズクラブ」等の、オーディエンスの食器ノイズがそういった物の中では最大の物でしょうが、あれは不思議なことに、演奏と一番解け合ってしまいますし。
しかし、演奏音、非演奏音に次ぐ、第三の音響のエリアもありまして、それは「妄想」という言葉からの転用で「妄音」というか、要するに脳内のイマジネーションの音です。「演奏がこうなれば良い」という、次の瞬間への近視的な欲望というか。
これの音量は、実音である演奏音、非演奏音とはデシベルで比較できないわけですが、しかし、演奏音、非演奏音という実音も、一回聴覚を経由して脳内でイマジナティヴに加工されますから、脳内がスリー・ディメンジョンのレイヤーに成っている感じで、非演奏音をキャンバスに、演奏音と妄音が脳内の同じステージでせめぎ合うような状態(つまり、妄音は常に一瞬演奏音に先駆けますが、演奏音は妄音を裏切りますし、妄音は演奏音を受けてまた発達しますから、絶対にひとつに成ることはありません。これは言語学で言うところのサンダグムの問題に近似しているわけで、ということは僕が音楽を、言語として聴いている。という事の傍証になると思いますが)が、クールとかグルーヴィーとかスインギーとかいう言葉に置き換えられる「良い状態」で、妄音が(強く)発生せず、演奏音だけがメインに聴こえるような状態は「悪い状態」です。僕にとって。
何を聴いているか?という質問ですが「何を見ているか?」と言うことの方が、僕には大きくて、プライオリティーで言えば「良い状態」だとして、妄音。演奏音。視覚情報(見ている物)非演奏音。となります。非演奏音が、視覚情報に勝ったことは未だかつて一度もありません。
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杉本拓 (ギタリスト 作曲家)の答え
ステージ上でというのは面白いですね!というのも、実際にはステージと呼べる様な代物ではめったに演奏する機会がないからなんですが。本当にステージがあるのと、そうでないところで演奏するのでは、何かが違うもんです。
演奏する側と観客とでは、同じ音楽に関わっていながら、違う物を聞いているんではないかというのが私の考えす。正確には、音はたぶん同じかもしれないが、それに対する関わり方が違うんではないかと思います。演奏家の方だけでも、音楽の種類や、楽器の違い、独奏か合奏かによっても違うと思いますが、話が長くなりそうなので、今回はソロの演奏の話をします。面白いサンプルになりそうなので。
2ヶ月ぐらい前に、私はシドニーでソロの演奏をしました。楽曲で、即興の要素は極めて低い曲です。たったひとつの音しか使用しません。このひとつの音(とても短い)がランダムに鳴るわけですが、沈黙もあります。これが長いときで4〜5分、逆に音が密集しているヘビー・メタル・パートもあります。今、譜面を見て音を数えたら、だいたい100個。これらの音が73分間に散らばっているとイメージしてください。変化のない極めて退屈な曲です。
前段階として、このひとつの音を磨き上げなくてはなりません。これには練習が必要です。ステージ上では、この磨き上げた音の再生にまず意識が向かうわけです。つまり、任務を遂行しなくてはいけない。ギターを弾く上では肉体のコントロールが重要ですから、そのことも意識しなければならない。
具体的に書きましょう。まずコンサートが始まりました。そして最初の音までの2分間、体をどう使うか、又、音そのものについてイメージします。この「音をイメージする」ことが、実際には音が鳴っていないわけですが、頭の中で鳴っている音なわけです。そしてこれを聴いている。このイメージ化された音が実際に出された音と照らし合わされて、次の音に向けての微調整へ導きます。何しろ、全部同じ音な訳ですから、今のはちょっと強すぎたとか、余韻が長すぎたとかいった具合に、イメージ化された音が参照の役目を果たしながら、実際の音も次々にイメージ化されていくわけです。
そして長い沈黙が来ます。それが、4分とか5分とかあると、さすがに何も考えてない時もありますが、それでもストップウォッチを時たま見たり、譜面を見て次に弾かなければならない時間を確認しなければなりません。意識のある部分はパフォーマンスの時間的な線にそっていると言えます。その間は何を聴いているかというと、その他の音、意図されていない音です。正確には聞こえてくると言った方がいいでしょうか。これは、長い沈黙の時に限らず、常に聞こえているといっていいでしょう。ただ、沈黙の時の方が他に音がないので、相対的に空間としての音に光が当たるのではないでしょうか。その他、イメージの音、記憶された音、幻聴のような音も登場してきます。
ところで、観客の方も、私が経験しているようなプロセスを幾つかは共有していて、それを通して音を聞いている可能性が十分にあります。多分、そうでしょう。そうすると私と観客は同じ様に音を聴いて、同じ様な体験をしているかもしれません。
しかし、お客さんの中には、概念として音楽をとらえてる人も多いんではないでしょうか?こんなのは音楽じゃないと思う人や、大体10分も過ぎれば、私の曲がこれから先どうなるかが見当がついて、「ああ分かりました」と言って帰っていく人達です。又、何も起こらないことを拷問と感じる人もいます。これらの人達は私の音楽が嫌いです。つまり、何も聴いてない、ということになるかもしれません。
この日のコンサートにはステージ(らしきもの)がありました。私から最前列お客さんまでは3メートルぐらいです。普段は、3メートル以内にすべてが収まっているのことが多いので、今回の状況はいかにもコンサートです。この観客との距離が、私が音に局所的、ディテール的に向かうのに対して、観客側では全体としての音をとらえると言う状況を強調します。これは違いです。それはそれとして、うまくいくはずでした。以下のことがなければ。
私がストップウォッチのボタンを押してから1〜2分後に雨が降ってきました。しかも、この雨が半端なやつじゃない。まるで台風で、建物に打ち付けるおおつぶの雨がもの凄いノイズを出していました。私が何をしようが、ほとんどうち消されてしまいます。しかし、そこでアンプのヴォリュームを上げるようでは私の沽券に関わります。もっともそうしたところで、あまり変わりはなかったでしょうが。そのぐらい雨の音がうるさかった。アンプは私の近くに置いてあったので、自分で自分の音は聞こえましたが、お客さんにはあまり聞こえなかったんじゃないでしょうか?何をやっていたかは分かったと思います。雨はたまに静かになりましたし、私のギターを弾く動作は毎回ほとんど同じだったからです。
これは異常な状況です。コンサートを聴きに来た人達はただ雨の音を聴いてるわけです。しかし、これはどうするする事もできない。それは、単にそういう状況になってしまったからです。私に打つ手はありません。しかも雨さん達は40〜50分、辛抱強く降っていました。
雨がやむと、今度は別のノイズがやって来ました。お客さん達が席を立つ音です。この時点で3〜4割は消えていましたが、それまでは雨の音が、退場の際に生じるノイズをマスキングしていました。私はこっちの音の方がいやでした。帰ること自体はどうということはありませんが、彼らの多くは長い間辛抱していたので、「注意深く席を立う」という慎み深さを持っていませんでした。そして、この状況は、曲が終わるまでずっと続きました。最後までいた人達はコンサート開始前の3〜4割ぐらいだったと思います。
この最後までいた人達にとって、もし彼らが音楽を聴こうとしていたのなら、私の出した音とはなんだったのでしょうか?私には自分の音(音楽)が聞こえました。しかし客席側では、雨の音や、人々が席を立つ音の方がメインのサウンドだったんではないかと思います。私のギターはそれに対するバックグラウンド・ミュージックの様です。
私がステージで聴いていたもの。それはやはりギターの音です。その他の音は背景です。ところが、それを裏返してみると別の可能性が広がっているではありませんか。
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中村としまる (ノーインップットミキシングボード奏者)
「僕の長すぎないけれども短くはない演奏経歴の中では、変遷があります。ある時期には自分の音を中心に聴いたり、別のある時期には自分の演奏がしやすいように合奏しているほかの楽器の音を聴いたりしました。出ている音全部を総体として聴くようにした時期もありましたし、さらに演奏を取り巻く環境音に焦点を当てたり、それと楽音の相対や総体を聴くことを喜んだ時期もありました。今の時点では、それらは少しずつ間違っていて、少しずつ正しかったのではないかなと考えています。今は・・・、何にも意識的には焦点を当てないようにしたいと思っています。ヒトの感覚はとにかく周囲の状況や思い込みに惑わされて錯覚を招きやすいものです。意識的になればなるほど、かえってその錯覚にとらわれてしまうような気がするんです。だから、聴くことは聴くんですが、むしろ聴覚だけに頼るのではなくて、すべての感覚器を等価に使って、逆に言えば何かひとつの感覚だけを研ぎ澄ませることなく、ステージ上(あるいはしばしばステージ前や下)に、自然に自分らしく居られることができるならばよいなあ、と考えています。まあ音楽家ですから、どうしても耳がとがってしまうんですけどね。なかなかうまく行きません。」
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植村昌弘 (ドラマー)
状況によってかなり違いますが、基本的な意識としては、聞こえる音を漠然としたミックスで全てを聞いて(聴くようにして)います。
ただ、音楽のスタイルによってはその中から、特に着目すべき音だけを聴いて、他の音をシャットアウトするような事もあります。とは言え、耳には入っている訳で、何かあるとすぐに気が付いたりするので、全く聞いていないと言うと嘘になりますね。
また、本来注意して意識していなければならない所を、他の音に気を取られて聞き逃してしまうという事も、僕の場合、多々あります。これは、まぁ、音楽家の基本技術レベルがその程度という事ですが。
あと、極端なコンセプトの音楽の場合、同じステージ上の他の人の音はおろか、自分の音さえ、聞かないようにするような事もあります。単に音を出す作業を求められる場合に、なるべく時分の作業に集中しようとするのですが、それでも、実際には「聴こえるなぁ…」と思っている自分も同時に居ます。
こういう質問をされると、改めて、思った程そういう作業をコントロール出来ていない自分を自覚します。未熟者ですね。スミマセン。
ちなみに、昔、邦楽の勉強をしていた頃、間口の広い舞台の両端に演奏者が置かれて演奏する事が多く、タイムラグがちょっとあるので、「音を聞いて演奏していたらタイミングが遅い!」とよく怒られました。で、息を合わせる事の重要性や、見る事によってタイミングを測る(光速は音速より相当速いですから)叩き込まれるのですが、僕の場合そういう事によって、相手を聴かないアンサンブル、というモノに恐怖感が無くなったものの、視覚に頼り過ぎるという弊害も残してくれました。
という訳で、僕の場合、聴いて(見て)いたり、聴いて(見て)いなかったりします。しかも、それがどうなっているかという自覚すら怪しいです。いずれにせよ、未熟者です。スミマセン
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もうじきANODEの国内ツアーがはじまります。
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Date: Thu, 6 Nov 2003
JAMJAM日記別冊「聴く12回」2003年11月
ども、
2週間にわたるカナダ、アメリカツアーを無事終えて、日本にもどる機内でこれを打ってます。うしろの席にはトニックで一緒になったExias-Jの神田さんも偶然座っていて、ちょっとびっくりです。出発前日はニュージャージーにあるアーストワイルレコードに泊まって、昨年東京でやったアーストワイル主催のアンプリファイフェスのボックスセットにはいっているDVDをみせてもらったり、60年代のめずらしい音源をいろいろ聴かせてもらったりと楽しいひとときでした。ボックスセットのDVDは貴重なドキュメントとして、後々良い資料になるんじゃないかな。よくよく考えてみたら、僕等周辺の音楽の映像資料は本当に少ないもんなあ〜。
え〜フリーペーパーのplanB通信にも連載している「聴く」、今回12回目は,また映画をとりあげます。planB通信での連載よりもJAMJAM版のほうは、今回多少長めになっております。ではでは、どうぞ〜
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聴く12回 「映画の場合その2」
前回までは、マルタン・テトロの97年の演奏をもとに音を水平ではなく垂直に認識すること、そこから即興とイディオムの問題にまで言及した。今回は再び話を映画の音にもどそう。
あくまでも個人的な見解なのだが映画にも水平に認識する音と、垂直に認識される音があるような気がしている。水平というのは時間軸にそった音の変化、ある音と次の音の連結によって認識されるような音のことで、映画の場合で言えば、その代表的な音が台詞、次いで劇伴と呼ばれる映画音楽がこれにあたる。一方、垂直のほうはというと、時間軸とともに変化する音と音の関連ではなく,瞬間的に響く音で世界を認識するような音、これは効果音の中でも特に「映画1」でふれた背景音のような、実際にはあまり表面だって認識されることのない周辺聴取の領域になるような音がこれにあたる。
再び相米慎二監督の遺作となった「風花」の冒頭のシーンを例にとろう。冒頭、満開の桜の木の下で酔いつぶれている浅野忠信と小泉今日子のシーンにはかすかな小川の流れる音が聴こえている。実際の現場にも小川はあったが、映画の中の小川の音は、台詞とともにマイクで録音したそのままの音ではなく、あとから響き方や台詞や音楽とのかねあいで巧妙に音色やバランスを考慮し再構築しなおした音だ。しかも、「映画1」でもふれたとおり、カラスの声が大量にはいっていた関係で、そのまま使えなかった・・・という経緯もあったりする。映画を見る人は、通常、いちいちこの音を「小川が流れている音がしている・・・」という風には言葉では認識しないし、小川の音にも集中しない。認識するほうの耳は、浅野忠信と小泉今日子の会話のほうに集中するからだ。でもだからといって小川の音をなかったことにしているわけではない。だれにだって小川の音は聴こえている。でもいちいち認識はしてないだけだ。もし突然ぷつりと小川の音が止まってしまえば、だれでもその異変に気付くのが何よりの証拠だ。要するに、風景を見るように音を背景に聞いて、そこがどういう状況かを意識的ではなく認識している・・・という感じだろうか。人々の記憶には無意識のうちに小川のせせらぎの音や桜の散る風景がインプットされる。
このことを使って映画の場合はちょっとしたテクニックを使う。たとえば、喫茶店で2人の会話のシーンがあったとする。はじめは喫茶店のざわつきや店のBGMを入れておく。でカメラが2人により、観客が2人の会話に集中しだす時にゆっくりとBGMやざわつきをフェードアウトし、会話の声だけをクローズアップしていく。時には背景音が消えるのと同時になんらかの劇伴音楽を静かにフェイドインしたりもする。今ツアー中なので、ビデオをチェック出来ないから、確証はないのだけれど、おそらく「風花」の冒頭でもカメラが主人公達に近づいていき、彼等の会話が始まるとともに、小川の音が大きくなるか、小さくなるかしているはずだ。 こうすることで、観客は2人の会話に集中しだす。
同じ場所にいるのに小川の音がかわったり、喫茶店のざわつきが消えたりなんてことは現実世界ではありえない。でも、音がこんな状態になることは絶対にないと言えるのかといえば、そうでもないのだ。無論、ちょっとした頭の角度でも音は劇的にかわったりするのだけれど(そんな経験はないという人はSachikoMのサイン波を使ったライブの現場にいけばすぐにわかる)、でもそういった実際の聴感上の音の変化だけではなく、問題は脳みそのほうが、音をどう認識しているかなのだ。例えば、人間の耳にはある音に集中すればするほど他の音が聞こえにくくなる性質があって、これは脳のほうで聴きたい音にフォーカスを当てるからなのだが、映画では丁寧に人間が脳内でやっていることを実際にやってあげているのだ。目の前にいる人の話に集中すればするほど、人間は他の背景音(それがたとえ大きな音だとしても)に意識がいかなくなるように出来ていて(注1)、その性質を利用して、背景音をゆっくり消してあげることで、観客も2人の会話に集中していくことになる。このフェイドアウト可能なざわつきや小川の音のような周辺的な音こそが、人間が垂直に認識している音の正体なのではないかとわたしは考えている。
時間軸の中で音と音の関連を見ながら意味を認識するのではなく、瞬間瞬間の自分の立ち位置や、あたりの状況を漠然と把握するだけの聴取・・・とでも言ったらいいのだろうか。少なくとも僕らの耳には、言葉や音楽のように前後の関係で「意味」を認識する聴取のソフトとは別に、認識というようなものではなく瞬間瞬間の響きを漠然と感じることで自分のおかれている状況を無意識に把握するような、周辺聴取とでもいえそうなソフトの2種類があって、これがその時その時に応じて役割分担したり互いの領域を行き来しながら駆動しているのではないだろうか。(注2)
「風花」ではこの小川の音が実は何度も出てくる。そんなことを気にして見る人はもちろんいないのだが、この冒頭の小川の音は映画を見ている人にある漠然としたイメージを残していて、気付かぬうちに小川の音が引き金になって、ある種の空気みたいなものを観客に、ややサブリミナル的にフラッシュバックさせる効果がこういう音にはあるのだ。これはなにも「風花」だけがやっていることではなく、どんな映画でも、大抵はそういう効果音技師のテーマみたいなものがひそんでいたりするものだ。
「風花」の冒頭には小川の音とともに、もうひとつ私の作った笙とギター、バンドリンによるテーマ曲も静かに流れる。これはさっきの話で言えば、水平に認識される音の領域になる。が、この映画では、ちょっとそれとは異なる試みをしてみた。通常劇伴はあるシーンに対して、ある感情的なあるいは感覚的な方向性(悲しいとか、嬉しいとか、あるいは危険だとか、時に速いとか遅いとか、重いとか軽いとか)を与えることになる。「風花」の冒頭は、まだこの映画がなんなのかを感情のレベルでは出したくなかったので、音楽は悲しいとか幸せとかいったものではなく、桜の散る風景と小川の音があることを前提に、風景や小川の音となんらかのハーモニーをもたらしつつ、ある空気というか、世界の色合いといったやや情緒的な方向(幽玄とか、あるいは静寂といったような)方向を感じさせるように静かに作られている。だから意味を認識するような水平の音の連結よりも、垂直に存在する小川の音や、桜の風景といったものとのアンサンブルを念頭に作った。なるべく周辺聴取的な音楽を作ろうと思ったのだ。
人間は垂直、水平に関わらず2つ以上の異なるものがあると、かならずその両者の関係から何らかの意味を見つけ出すように出来ている。映像と音楽の関係もそうだ。この映画を見ている人は、無意識のうちに桜の風景と音楽の間にからなんんらかの意味というか雰囲気のようなものを見出そうとする。小川のある風景に対して小川の音は異物にはならないが、そもそも映像に音楽というのは異物だからこそ、今度は脳内の「2つの異なるもの認識ソフト」が「周辺聴取ソフト」と連動して動き出す。動き出すと、今度はただの桜の木になんらかの意味やら、雰囲気みたいなものが感じられてくる。映画が無声時代から音楽を必要としたのは、なによりも人間の脳にある「2つの異なるもの認識ソフト」に対して効果的だからだ。キートンが走っているシーンに軽快なテンポの音楽をつけるのと、葬送曲をつけるのとでは、シーンの意味も、走っている速さもまったく異なって見えるはずだ。古今東西、映画はこの「音楽によって同じ映像が違って見える効果」を最大限に使ってきた。「風花」の冒頭も小川の音と笙が桜とあいまってなんらかの雰囲気をつくるように心がけた。ただしキートンの例は、水平に移行する時間軸の中で音と映像の両者が認識されるのに対して「風花」では音楽も極力垂直に近い方法で存在出来るよう考慮した。
映画のタイトルでもある「風花」の名のとおり、実際の映像でも本当の風花から、桜の花びらの舞う風景、宴会でまかれる紙吹雪・・・と様々な風花的なものが登場する。風花自体には音はないので、あるときはそれが小川の音と一緒であったり、あるときは笙の音と一緒であったりするようにわたしはサウンドデザインしたつもりだ。なぜ笙にしたのかと言えば、通常の映画音楽のようにメロディを提示しなくても瞬間的な笙の響きで空気が変わるくらいのインパクトがこの楽器にはあるからだ。冒頭に書いた「音楽は水平・・・」というオーソドックスな方法ではなく、周辺聴取的な耳のほうに働きかける音楽。当時よくいわれた「音響」的なやりかたはこの方法にはうってつけだった。こうなると音楽も効果音のように垂直の聴取の領域にはいってくることになる。1999年当時「音響」といわれるような音楽が提示してきたのも、この垂直聴取に関連した出来事だったのだけれど、これについては、またいつか項をあらためて書きたい。いずれにしろ「風花」で、わたしははじめて、水平ではない、垂直に聴かれる音楽を映画に試してみた。マルタンのライブをみてから2年後、FilamentやCathodeをはじめた頃こことだ。実際「風花」の中で行われたことの多くはCathodeの作曲と相互影響しあっていて、その骨格はほとんど同じといってもいいくらいだ。
実はこの方法も別に「風花」独自のことではなく、ある種の映画音楽には最初からそういう効果もあったりする。素朴な例で言えば「ジョーズ」の鮫が登場する時の低音などはいい例で、それこそホラーはそうした音の宝庫だ。音楽と効果音の境界領域にあるさまざまな現象。話がこのへんまでくると、わたしにとって今一番興味深い仕事をしてる黒沢清監督の映画を遡上に乗せたほうがよさそうだ。彼の映画には、この部分の恐ろしいまでの冒険が随所にあるのだけれど、現時点ではまだ1作品だけテレビの仕事を彼とさせてもらっただけなので、今後ももし継続的に彼コラボレートとすることがあれば、それについてぜひ書きたいと思っている。
(注1)なんでそうなるかの脳のメカニズムについて時々たずねられるのだが、しかも大抵右脳がどうとか、左がどうとかいうレベルで聞かれるのだが、はわたしは脳学者じゃないしで、まったく分からない。よく人種によって右脳がどうとかいう研究があるのは知っているけれど、日本人だけが言語認識に使う右だか左だかの脳で虫の音を聞いてるとか言われると、科学的根拠以前に、遺伝を持ち出してゲルマン民族が優れてるとか言い出した人たちと似たような匂いを感じてしまい、反発ばかり感じてしまう。そもそも日本人というカテゴライズ自体が科学的ではなくて文化的なコードでしかないのに、それが科学の成果と結びつくこと自体がいんちき臭く思えるのだが。日本人というカテゴライズに科学的な根拠なんてなくて、あくまでも環境や言語にもとづく文化的なカテゴライズでしかないのに。もし、さも日本人が科学的にもほかと違うんだ・・・というようなことを言い出す人がいたら、あたまから疑ってかかるべきだ。科学の半端な知識と、文科系の安易な思考が結びついて、さも科学的になにかが証明されたかに見える現象が出てきたときは、わたしは反射的に疑うことにしている。それは宗教のいかがわしさや危険さとそっくりだからだ。
(注2)そう考えると、音楽を見る際に、音響という概念と、音韻という概念を対立、あるいは対になる発想のように置くことはまちがっているし、そもそも両者は、おなじ遡上でくらべるようなもんでもないって気がしている。
「どんな音響的な演奏にも音韻はある・・・」というようなことではなく、問題は音楽を聴く際の脳内のソフトがどう駆動してるかの話なのだ。音をだす人と聴く人がいて、なぜ人はそれを音楽だと認識したりするのか・・・という話が音響を考えていくことの根本ではないだろうか。それは音楽の文法を紐解いて音楽の構造を理解することとは根本的に別の作業のような気がしている。このへんについては、まだ漠然としているので、もう少し自分の中で整理しつつ、この連載でも深く切り込んでいけたらいいなと思っているが、いずれにしろ「聴取とはなんなのか」を考えていかないことには、わたしにとって音楽の未来はないな・・・という気が強くしている。
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*ここのところこの項で再三ふれているマルタン・テトロが来日します。東京公演は11月11日六本木スーパーデラックスにて。出演はマルタン・テトロー、ジアン・ラブロッセ、フィラメント:Sachiko M、大友良英 、竹村ノブカズ
詳細はHEADZに問い合わせるか、ホームページを参照ください
http://www.faderbyheadz.com/
HEADZ 電話 03-3770-5721
11月9日に久々に東京でギターソロをやります。
会場は西荻ビーンスパーク(03-3395-9299)
前売り2000円 当日2500円
7時開演で他に蛍光灯楽器のオプトロンを演奏するオフサイトのオーナーでもある伊東篤宏さんなんかが出るようです。
よろしくです〜
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Date: Wed, 1 Oct 2003
聴く11回 「即興演奏とイディオム」
マルタン・テトロ、あるいはデレク・ベイリー(後半)
前回、前々回の内容は、レコードを使わずに、ターンテーブルやカートリッジの持つノイズや接触不良音等の音の質、あるいは音のテクスチャーのようなものだけで音楽が成立しているマルタン1997年のライブ演奏をもとに、「音を並列にならべて音楽を構成していくのではなく、垂直に存在する音だけを考えて即興する…」方法を検討。さらにはデレク・ベイリーのやってきたイディオムを回避するような即興との関連と、その差異について述べてきた。今回はなぜそんな、まわりくどいことをしているのかという根本的な部分について考えてみたい。
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マルタンにしても、ベイリーにしても、なぜこんなやっかいで、手間かかる方法を使って、ある種わかりにくい音楽を作るのだろう。同じ即興でも、多少の起承転結をつけるとか、なんらかのとっかかりになるような和声とかがあったほうがわかりやすいし、事実フリージャズをはじめとする多くの即興演奏やノイズミュージックにはそうしたものが存在したり従来の音楽の持つ祝祭的な要素があってカタルシスを感じるとかするものだが、マルタンやベイリーの音楽は最初から音楽のそういう部分を拒否しているようなところさえある。ベイリーの書いた「インプロヴィゼーション」から引用しよう。
ここに出で来るイディオマティック・インプロヴィゼーションとは、あるジャンルの語法を使った、あるいはその中での即興演奏のことで、ロックやフラメンコからフリージャズなどをも含む。それに対して70年代当時のベイリーが言っているフリーインプロヴィゼーションというのは、まだ歴史もほとんどなく、イディオムも見えにくく、こう演奏しなければ「フリーインプロヴィゼーション」と呼んではいけない・・・といったような概念の固まる前の状態で、演奏者の多くもまだ若く、正統性などということを主張しだす前の時期の彼等の演奏のことをさす。
この一文がなぜ興味深いのかといえば、ここに「正統」という言葉が出てきているからだ。あらゆる音楽のジャンルは必ず「正統」を必要とする。これがなければジャンルが成立しないと言ってもいい。「正統」とはすなわち、元祖直系の音楽のことで、ものすごく卑近なレベルでいえば「××こそロックだ」とか「こんなのレゲエじゃないよ」みたいな、あるいは「ビバップもできないようなやつのフリーなんていんちきだ」といった類の発言に代表されるような、素朴な、しかし理屈じゃないだけに非常に強固な正統願望みたいなものを裏に感じるものから、もっと厳格に伝統音楽の世界にある世襲制のように明確に「正統」を定義したものに至るまで、音楽のジャンルはこうした類の歴史観によって成立しているものだ。「異端」といわれるようなミュージシャンがもてはやされるのも「正統」があることの裏返しだ。
ジャンルの話をしだすと、必ず思い出すのが民族の話だ。民族というのも、いつの時代にか作られた(多くは捏造された)歴史観を無意識に受け入れて「正統」をつくることで成立する概念で、だから民族には異端者が必要で「異端」があるからこそ「正統」も存在出来る。その民族の「正統」を保障するいくつかの要素の中でも特に強いのが人種と言葉のなまりで、顔やなまりが正統な流れかどうかを人間はすぐにかぎ分けてしまうくせがある。標準語は単に共通語がないと不便だから作られたのではない。「正統」を生むためには中心になるものが必要なのだ。
音楽もこれと同じだ。ある音楽がうまれたとたんに、いつでもこの中心点が生まれてしまう。チャーリー・パーカーの語法との距離でジャズの正統性をを見たい人にとっては「白人のジャズなんて・・・」にもなるし「ビバップもできないようなやつのフリーなんていんちきだ」になる。ベイリーは即興からイディオムを廃するなかで、この「正統」という考え方からも自由になろうとしていた。これは私流に解釈すれば、演奏者による脱民族主義宣言に他ならない。
ここで佐々木敦が昨年の東京でのアーストワイルフェスティバルのライブ音源が集められたBOXセットによせた文章の一部を引用しよう。
ベイリーが考えたノンイディオムという概念は、確かに音楽の、即興演奏の可能性を提示し、その後に多大な影響をおよぼしたけれども、ノンイディオムな演奏は、演奏されてしまった時点で次のイディオムを生むという循環を生んでしまった。聴き手が常になにかを認識してしまう以上、ノンイディオムであり続けること、言い換えるなら無垢な状態でいつづけることは不可能だ。ベイリーが「インプロヴィゼーション」を書いた70年代とはことなり、今や、ベイリー等が初めた即興演奏すらフリーインプロヴィゼーションという名のイディオマティック・インプロヴィゼーションになっている・・・と言っても間違いではないだろう。マルタンがやろうとしたのは、この聴き手がなにかを認識してしまう」ということへの挑戦でもあった。それはベイリーが演奏することによって脱民族宣言をしたのとは逆の方向つまりは聴き手のの認識を問題にするために「いかに演奏しないか」という方向の脱民族宣言だったと言ってもいいだろう。これまでの概念では認識出来ない音楽。マルタンがそれをやった97年あたりを境に「いかに演奏しないか」という方向の演奏がでてきたのもその流れだ。マルタンは97年当時、「いかに演奏しないか」をターンテーブルからレコードを取り去ることによって実践しようとしていた。それはその後にでてくる「いかに音を出さないか」の前段階のようでもあり、あるいは違うベクトルともいえる。音をださないのではなく、なるべく演奏と言えるような要素を廃したのだ。それによって並行にながれる音の連なりの物語から垂直な音のテクスチャーへとマルタンは移行しようとした。
97年のマルタンの演奏はまさにそんな演奏だった。だからストリート的なアバンギャルド中心の音楽がならぶフェスの中でも彼は異端者あつかいだった。本来なら異端を生まないような音楽だとおもわれていたユートピアですら簡単に「正統」はつくられ「歴史」が生まれていく。私はそういう考え方には非常に抵抗を感じる。それは例えば日本民族の名のもとに、日本在住の中国人におそろしく差別的な発言をつづけている石原都知事をまったく支持できないのと同じ理由だ。私は音楽の中の小さな「民族主義」のような発想を支持できない。あるいはそういうものが意識しないうちに生まれてしまうようなあり方をなんとかすべきだと思っている。現実には、本物の民族主義ほど危害をおよぼすこともないから、音楽の中の小さな民族主義に目くじらをたてる必要はないのかもしれない。実際クラシックとかジャズとか、あるいは雅楽とかの古典音楽は「正統」の存在でもってるわけだし、その世界をぶち壊せ・・・とはまったく思わない。そういう音楽の成り立ちかたがあってもいいと思う。ただ少なくともそういうこととは別に出てきた、新しい音楽、特に「正統」を本来求めないような音楽のなかに「正統」が生まれ、それを気付かなかったり、当たり前のように振りかざすやつらが出てくることのほうが恐ろしいと思うのだ。こういう無意識の「正統」のほうが、古典の閉じた世界の話よりよほどたちが悪い。たとえば「正統」とは関係ないとおもわれたフリーインプロビゼーションやノイズミュージックでさえ、あいつは「正統」じゃない・・・という言い方をしてしまう現場をすでに皆さんは反吐がでるほど見てきているはずだ。たかだか20年、30年の歴史しかないものですらこの始末。いや、正確にはたった数年でも歴史といえるようなものが生まれてしまう。「民族主義」はこうして実に簡単に生まれ、すぐに保守化してしまう。
イディオムを即興から消し去ろうとしたベイリーの挑戦も、前後の関係で物語を見出すように音楽を認識する平行な聴き方ではなく、前後関係の見えにくいところで垂直につくられた音の響きだけでなにかを聴き取ろうとするマルタンの挑戦にも、その背景には、こうした意味が込められていると私は考えている。「正統」を生まない・・・それは人間が常に時間軸の中で何かを歴史的に解釈することでしか生きられない以上、イディオムを生まないのと同じくらい夢の話なのかもしれない。それでも「正統」という幻想のもたらす様々な問題(原理主義だってこの問題でもある)を考えるとき、私はこの問題を無視しては先に進めないと思っている。
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Date: Fri, 26 Sep 2003
こんにちは
すっかり秋になっちゃいましたね〜
ソウルからもどってきて1週間だけ東京にいます。
この間にビルラズウェル、芳垣安洋と3人で録音したアルバムの編集、中村としまる、SachikoMとのトリオのミックス
Emergency! の新作の録音をあげなくてはであいかわらずへろへろの毎日です。
いずれも年内から来年初頭には発売予定。
今回は
2ヶ月ほど前に書いて配信しわすれてた「聴く」の10回を。実は11回ももうあがってますが、フリーペーパーのplanB通信にも載せているのでそっちが10月頭ででてから、配信します。
次回は多分ドイツからJAMJAM日記を
ではでは。
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聴く 10回
「即興演奏とイディオム1」マルタン・テトロについて(中編)
前回の内容は、レコードを使わずに、ターンテーブルやカートリッジの持つノイズや接触不良音等の音の質、あるいは音のテクスチャーのようなものだけで音楽が成立しているマルタンのライブに接して衝撃を受けたこと(1997年のことだ)。その演奏は「音を並列にならべて音楽を構成していくのではなく、垂直に存在する音だけを考えて即興する…」ことによって成り立っていること。さらにそれは、あるまとまったフレーズが認識されることを徹底的に排除することよって、並列にならぶ音から音楽を認識する聴取の仕方を断ち切ろうとした結果であるという話をした。
今回は、それが具体的にどういうことなのかを私自身のまとまらない思考のままに蛇行しつつ話していきたい。
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ある音楽のフレーズというのは、時間の流れに沿ってあるタイミングなり、ある音程や音色の関係性なりを提示することによってはじめて認識されるものだ。前回も説明したとおり、それは言語によく似ている。例えば、「か」と発音しても、前後の関係の見えないところでは、それが言語なのか、どんな意味をもつのか他者には認識できないが、「かき」と発音すれば、日本語であることや、アクセントによっておおよそ「柿」なのか「牡蠣」なのかが見えてくるし、話の前後の脈絡から「かきの営業時間は…」と連なれば「夏季」だったのか…といった具合に見当がつくものだ。同様に、音楽のフレーズというのも、その人が過去に経験してきた音楽体験を無意識のうちに参照して、前後の脈略から理解しているのが普通だったりする。
これを逆から考えてみるとどうなるだろうか。「かき…」と発音せずに、ただ「か」とだけ発音してみる。当然言葉としてはすぐに認識することは不可能になる。したがって聞き手のほうは、相手の話につきあうのを放棄するか、あるいは、それがどういう意味なのかをイチから考えなくてはならなくなるわけだ。これを音楽でやるとどうなるか。フレーズとして認識されるような音をださずに、ただある音を投げ出してみたとする。聴き手のほうは、そこからフレーズなり、音楽的な文脈なりが読み取れない場合は、それを音楽として聴くことを放棄してしまうか、あるいは文脈の中で音楽を聴く方法とは別の聴取方法を探し出すしかなくなる。マルタンが意図したのは、まさにこのことなのだ。
前回も書いたように、97年当時のマルタンの即興は、音色こそノイズ的ではあったけれど、いわゆるノイズミュージックが持つような音圧によるカタルシスもなければ、ノイズミュージック的振る舞いもなかった。かといって即興とよばれるような音楽ジャンルにある語法や、ジャズ的、あるいはロック的なやりとりや起承転結もない。ステージで演奏しているから「コンサート」の文脈にはなるのだけれど、かといって、これまでのどのタイプの音楽の文脈にも置きにくい、悪く言えばどこにもはまらない中途半端なものにすら聴こえかねない代物だった。だから客席の反応もいまいちだったのだ。だが、そこで起こっていたことは中途半端なものなどではなく、確信に満ちた出来事だったのだ。
このとき、私がすぐに思い出したのは、デレク・ベイリーのレコードを初めて聴いたときのことだった。70年代後半、当時住んでいた福島のジャズ喫茶で、入ったばかりのベイリーのソロ(なんと当時はビクターから日本盤がでていた)をリクエストしてしまった時のことだ。このとき私には彼の演奏がまったく理解できなかった。すでにフリージャズを聴きだしていたにもかかわらずだ。要するに、当時のフリージャズ的な文脈では、ベイリーの起承転結もなければテーマもない、とらえどころのない演奏を理解することが出来なかったのだ。それもそのはずで、当時ベイリーがやろうとしていたのは、簡単にいってしまえば、当時存在したどんな音楽のイディオムにもたよらずに即興演奏は出来ないだろうか…という試みで、これまでの音楽の文脈を感じさせたり、暗示させたりするような演奏を細心の努力でさけつつ演奏していたのだ。
具体的にはどういう方法だったのか…以下はあくまで私なりの分析だけれど…ベイリーは演奏の中に中心点が生まれることを注意深く避けつつ演奏していたのだ。たとえば拍子というのは1拍目の音が分かるからはじめてカウント出来るのだけれど、この「1拍目が分かる」というのは、その音楽の文脈なり語法を知っていて初めて可能なわけで、ベイリーのはじめた即興には、その手の過去に経験してきた音楽の文脈が見えないために拍子という概念がほぼ完全に消失している。そんなのはフリージャズもそうじゃないかという反論もありそうだが、そんなことはない。フリージャズには完全にそれ以前のジャズからつらなる語法が影響していて、あきらかに拍子、あるいはそれにちかいものが感じられて、その範囲の中で演奏されている。たしかにビバップのように、はっきりと全員が一致した拍子をきざんでいるわけではないが、大雑把にはビートが存在するし、当時の多くのフリージャズには明確な起承転結があって、それ以前の音楽の文脈で理解可能な要素でほぼ構成されていたといっても良い。
これは和声についても同様で、多くのフリージャズがある種の中心をもつ和声と言えるようなトーナリティを維持していたのに対して、ベイリーはこの部分でも過去の文脈からほぼ決別していた。むろんギターという和声楽器を演奏する以上、その音はなんらかの音程を示し、なんらかの和音を鳴らすことになるのだけれど、前後の文脈的なつながりを極力さけることによって和声の中心点を作ることを回避しているのだ。出鱈目に演奏したからって、そうなるものではないことは演奏してみればすぐにわかる。それでも何年かたつにしたがってベイリーのように即興をする…という文脈が出来上がり、ひとつのジャンルのようになってしまったのだが…これについては次回に。
マルタンの演奏した97年当時は、ノイズミュージックというジャンルもとっくに確立していたし、ベイリーのような即興演奏も充分に歴史的なものになっていて、今更なにをやったところで、どのみち何らかの文脈の中に置かれるだけだ…という空気があった時だ。そんな中で、マルタンは充分にどの文脈にもはまらないような音楽を演奏した。それは、ただ機械の発する、本来なら機材のノイズでしかないような音を選んで、それをノイズミュージックのように誇張して演出するわけでもなく、まるで接触不良音をランダムに投げ出してるようにすら聴こえた。
マルタンもベイリー同様、時間軸に沿ってある音楽の文脈がみえてしまうような演奏を注意深くさけていたのだけれど、しかし、ベイリーと大きく異なるところがあった。すでに充分に語法の定まったギターという楽器でどう「即興演奏をするか…」という視点でこの難解な方法に取り組んだベイリーに対して、マルタンの場合は、彼が持ち込んだ古いターンテーブルからでてしまう半分はコントロール不能の音を前に「どう演奏するか…」という視点ではなく、あるいは「どう聴かせるか…」という視点でもなく、もっと突き放したような、演奏者本人が「この音はこんな風に聴こえるのか」という発見を維持するような、音の響きかただけに聴取の焦点がいくような演奏を試みた…とでも言ったらいいのだろうか。ベイリーが文脈に置かれない演奏をイディオムを回避することで 実践しようとしたとすれば、マルタンの場合は、まずは演奏という要素をなるべく廃し、音の響き方のバリエーションだけを無造作に投げ出すような方法を取ったと言えるのではないだろうか。さらに言えば演奏者が演奏によって難解な問いを解く姿をステージに乗せるのではなく、演奏する人も聴く人もひとしく同じ聴衆として同じ音を聴きながら、いくつもの異なる聴き方を聴き手自身が発見するような音楽。私にはそう思えたのかもしれない。そして、そのことにものすごい可能性を感じたのだ。ではなぜマルタンはそんなことを? なぜ私は可能性を感じたのかという話は次回へ。
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Date: Sat, 2 Aug 2003
大友良英のJAMJAM日記別冊「聴く」第9回
東京地方はやっと梅雨あけです。とはいえ、いまいち煮え切らない感じで、かつ~んとくる、すいかの旨いあの暑さが恋しい。
え〜、夏好きの44歳になったばがりの大友です。10年以上前に中国の占い師に、あなたの人生は濁流の中を逆に歩むような人生だけれど、44歳になったら成功するから・・・と言われたのですが、う〜ん、どうなんだろ、これ。これまでも、別に濁流ってこともなく、なんだかふらふらと来てしまったし、44歳の誕生日に目が覚めると、枕元に1億円・・・みたいなこともないし、ただこの1年間は、家賃にこまった月ゼロ・・・という、この10年の中でも画期的な状況なので、これをもって成功と考えれば、ま、いいのかな。いわゆる「お仕事」みたいなことをせずに、好きなことだけやって、旨いもん食って生きてるんだから、これ以上望んだら贅沢ってもんですよね。中国の占い師さん。
え〜と、久々の「聴く」の連載です。4月にツアーをしたマルタンについて、デレク・ベイリーなんかのこともからめつつ3回にわけておおくりします。なをマルタンは11月に来日の予定。「聴く」の連載のうしろには告知やお知らせもあるのでそちらのほうもよろしくです。
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聴く 9回
「即興演奏とイディオム1」マルタン・テトロについて(前半)
今回は映画の音楽について書く予定でしたが、マルタン・テトロとの欧州ツアー中にいろいろとおもうところあって、即興演奏とイディオムについて書きたくなりました。この内容はいずれ前回書いた映画と聴取の問題につらなるものです。そんなわけで映画の話に入る前に、しばらく道草させてください。
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この4月、わたしはケベックのターンテーブル奏者マルタン・テトロと欧州ツアーを行った。16日間で15コンサート。今はこの手のきついツアーは受けないことにしているのだけれど、マルタンだけは別だ。というのも彼との演奏はいつもなんらかの発見があって、辛い思いをするだけのことはあるからだ。
彼はもともと美術の人間で、レコード盤のコラージュをしているうちに音もコラージュしだした挙句、音楽の世界にはいってしまったところはクリスチャン・マークレイとよく似ている。僕等はすでに10年以上前にそのクリスチャンを通じてお互いの存在を知っていて、当時は2人とも慣れない英語で文通をしたりしていたのだけれど、実際に会うことになるのは95年、カナダでのことだ。その頃の彼は、切断してつないだレコードを使ってつなぎ目のぶちぶちいうリズムを全面に出して、ぎくしゃくしたビートをだしつつ生楽器奏者も加えて、すでにクリスチャンとはまったく別の、お洒落なアバンギャルド・コラージュ・ミュージックを作っていた。
しかし彼が、その化けものぶりを発揮するのは、彼が自身の作った方法を完全に捨て去った97年のことだ。わすれもしない、イタリアのボローニャ、GROUND-ZEROのラストツアーの最中に、彼と同じケベックのサンプラー奏者ジアン・ラブロッセと彼のDUOを見て、わたしは腰が抜けるくらいの衝撃を受けたのだった。このとき彼はほとんど演奏にレコードを使わなかった。多少は使ったけれど、その中の音楽はほとんど使わずに、ひたすらカートリッジがひろうありとあらゆる音を利用していた。レコードのプチプチいう音は無論のこと、ターンテーブルのモーター音や、レコード盤のかわりに紙ヤスリのようなものをつかって、ひたすらがさがさビービーいうだけの音を演奏していた。ジアンほうも、マルタンの音をサンプリングしたような、極めてストイックなガサガサいう音だけ。あえて言えばノイズミュージックに近い音の選択なのだけれど、いわゆる「ノイズ」とは何かが決定的に違っていた。まずパワフルだったりアナーキーな感じがまったくない。かといって、いわゆる即興やフリージャズのような展開ややりとりはほとんどない。まったくもりあがらないし、淡々と接触不良の音みたいな、あるいは機材がこわれたような音だけが出続けているのだ。むろん会場ではほとんど彼等の演奏は理解されなかったみたいで、お客さんの反応も形式的な拍手だけだった。ブーイングするような嫌悪ももたらさなければ、パシッとくるような通常の音楽のもつカタルシスもない。ただ、その場にいた、少なくとも私とSachikoMだけは、震撼するといってもいいくらい感動して、しばらくは動けなかったほどだ。これがその後Filamentの音楽にいたる最初のステップだったのだけれど、それについては別の機会に書きたい。
この演奏のすごさを、当時は言葉にすることが出来なかった。ただなにか今までにない新しい事態がおこっていて、それは私にとって感動するくらい素晴らしいものだってことが分かっただけだった。当時わたしはどこかの雑誌に、彼等の演奏について、レコードの中の音楽というメモリーを一切つかってない、カートリッジの音だけをクローズアップした音楽・・・みたいなことを書いたかもしれない。無論それも重要なファクターだった。でも今考えると、そういうことが問題なのではなく、一番根幹にあった私の感動を呼び起こしたものの正体は、音の質、あるいは音のテクスチャーのようなものだけで音楽が成立していたことだったように思う。マルタンはこのとき「音を並列にならべて音楽を構成していくのではなく、垂直に存在する音だけを考えて即興している・・・」みたいなことを言っていた。
もう少し分かりやすく説明しよう。音質や音のテクスチャーのようなものだけで、あるいは垂直な音だけで即興演奏が成立している・・・というのは、どういうことなのだろう。これを考えるには、まずは音楽というものが、どのように聴かれ、どのように認識されるのかということから考える必要がある。たとえば、通常演奏するにあたって、出した音が音楽として成立するためには、その音が前後のつらなりの中で、ある音楽的な意味を持つことが必要で、これを言葉におきかえれば、やや乱暴な例えだけれど、「い」と一音発した場合、前後の文脈がないと言葉としては機能しづらいばかりか何語かすら見えないが、これが「どこが痛いの?」という質問の後だというのがわかれば日本語で「胃」だとすぐ分かるし、「胃・・・がしくしく痛くて」となればさらにその意味は明確になる・・・みたいなかんじで、実は音楽も前後の文脈の中で、音がある音楽的なボキャブラリーの中に組み込まれて理解されているのが通常なのだ。例えばピアノが「ミ」の音を一音出しても、それは了解不能だったりするのだが、前後の音程やリズム、あるいは他の楽器との兼ね合いの中で「ミ」の音の意味が見えてくる・・・みたいなことが瞬間瞬間に起こって、これを演奏者と聴き手、あるいは踊り手が共有することで、ある音が、どんな種類の音楽か了解され成立するというのが、通常僕等が「音楽」と呼ぶものの正体だ。この場合、音楽は時間軸の中の並列的な音の並びを中心に認識されることになる。したがって、一音よりも、あるまとまったフレーズが認識されることが、この場合重要だったりするのだ。ところが、マルタン等がやったのは、このあるまとまったフレーズが認識されることを徹底的に排除することだったのだのだ。排除することによって、並列にならぶ音から音楽を認識する聴取の仕方を断ち切ろうとした。結果的に私たちの耳にあらわになるのは、瞬間瞬間の音の質感、テクスチャーのようなもので、これを彼は垂直な音と呼んだのだ。
それがどういうことか、なぜそんなことをはじめたのかについては、また次回に。
ライブとワークショップの告知です
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14日(木)東京、渋谷「NHK放送センタースタジオ505」『NHK-FMライブビート公開収録』
大友良英 the blue band :大友良英(g)、
栗原正己(リコーダー)、
江藤直子(key)、西村雄介(b)、芳垣安洋
(ds,tp)、魚喃キリコ(perc)
入場無料、ただし往復はがきにて応募が必要(応募締切:8月7日)
*観覧方法について詳しくはNHKライブビート
ホームページをご覧ください
http://www.nhk.or.jp/livebeat/index_kanran.html
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[ダンス白州2003]というイベントの中でコンサートとワークショップをやります。お盆休みを利用してぜひおこしください。 私たちのコンサート以外にも沢山のコンサートやワークショップがありますので興味あるかたはぜひホームページをご覧下さいhttp://www.artcamp.org/
●音楽ワークショップ「誰でも参加できるポータブルオーケストラの試み/野外編」
8/15(金)〜17(日)
15日午後2〜4時、16日午後2〜5時、17日午後1〜4時
リーダー=大友良英
定員なし。 参加料=一日2千円、3日通し5千円。
持参品=たたくと余韻の出るもの、楽器以外の持続音の出るもの、楽器、電化製品、
自分で工夫した音の出るものetc.(詳細はお問い合せを)。
「昨年中野plan Bで行ったワークショップの野外編です。今回は白州のロケーションを利用して、様々な方法で音を聴くことを中心にしたワークショップからはじめます。その後は、この〈聴く〉体験をもとに、徐々に環境に合わせて音をだしつつ、最終的にはポータブルオーケストラのアンサンブルを組むところまで行く予定です。楽器や音楽の経験がない方でも、ある方でも、どなたでも参加できます」
★「即興ライヴ」大友良英・Sachiko
M・中村としまる・秋山徹次・田中泯
8/15(金)午後7:00 森の舞台
参加費=1日参加券Bかフリーパス券。
出演:大友良英(g, turntable)、Sachiko M(sampler with sign
wave)、
中村としまる(no input mixingboard) 、秋山徹次(guitar,
etc)、
田中泯(ダンス)
★[ダンス白州2003]
期間 8月1日(木)〜24日(日) 場所 山梨県北巨摩郡白州町横手・大坊地区ほか
「ダンス・白州」8/10(日)〜24(日)
公演・パフォーマンス
◎8/9「オープニング・セレブレーション」
東京藝大サンバ・チームArte
Grande、御神輿、姜權洵正歌、松元ヒロ
◎8/10 玉川福太郎浪曲「天保水滸伝」
◎8/13「姜權洵 (韓国) 正歌コンサート」
◎8/15「即興ライヴ」大友良英、Sachiko
M、中村としまる、秋山徹治、田中泯
◎8/16 桃花村舞踊 試演「家族からからか」演出:田中泯
◎8/17 シモーヌ・フォルティ ソロ・ダンス「いぶき」
◎8/19 曲芸とライブ演奏による「森のクレズマー・サーカス」
◎8/21「バレエ・ファンタジー」 振付:上田遥
◎8/22 あがた森魚(歌唱)× 田中泯(舞踏)「架空」
◎8/23 中國福建省梨園戯 戯劇公演「大悶」 出演:曽静萍ほか
◎8/24「飯山市五束の太々神楽」、「お別れパーティ」中國梨園戯、若葉しげる
■ワークショップ
舞踊 シモーヌ・フォルティ指導「インプレッションズ」10〜14日
身体 田中泯指導 「表現する身体の調査、するか。」18〜20日
戯劇 中国梨園戯指導 「戯劇ワークショップ」23〜24日
正歌 姜權洵指導 「正歌ワークショップ」10〜13日
浪曲 玉川福太郎指導 「浪曲入門」11日
音楽 大友良英指導 「誰でも参加できるポータブルオーケス
トラの試み/野外 編」15〜17日
音楽 巻上公一指導 「ヴォイスアート・ワークショップ」20日
樋口裕康・田中泯指導「わしは桃太郎だい」2〜9日
建築 長谷正文・鈴木啓志指導「場を見出す〜介入から構築まで〜」1〜9日
美術 岩崎元郎指導 「描くということ」15〜20日
美術 高山登指導 「木々のアートワークショップ」21〜23日
工芸 功刀征男指導 「竹籠作りワークショップ」10日
工芸 宮本重男指導 「紙漉きワークショップ」22〜23日
生活 今宮歴哉・田中らんリーダー「子供の体験疎開」9〜24日
◆交通 JR中央本線韮崎駅、
日野春駅より終点横手行きバスかタクシー30分。
◆宿泊 キャンプから民宿、ペンション、温泉旅館まで。
◆食堂数軒あり。キャンプ場で自炊可能
◆参加費(ワークショップ参加は別途必要)
[1]全期間フリーパス 大人8,000円 小中高生4000円
[2]1日参加券 A. 8/9、14 大人1,500円 小中高生800円
[3]1日参加券 B.
8/10、13、15〜17、19、21〜24 大人2,500円 小中高生1,300円
[4]個人用の支援会員券 1万円(小中高生は5千円)
主催:ダンス白州2003実行委員会 共催:舞踊資源研究所 芸術・現場監督:田中泯
■問い合わせ ダンス白州 東京事務局 TEL
03-5340-3860 FAX 03-5340-3861
〒164-0012 東京都中野区本町5-13-1-105
e-mail: artcamp@sf7.so-net.ne.jp http://www.artcamp.org/
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音と遊ぶ クリエイティヴ・ミュージック・フェスティバル'03
若尾裕さんの企画で広島でもワークショップがあります
詳細は
http://www.d6.dion.ne.jp/~kwakao/cmf03.htm
新しい創造的な音楽の試みを、もっと身近に、気楽に楽しもう!と始まったこの小さな音楽祭も今年で6年目です。今年もとてもすばらしいゲストが来てくれます。即興音楽、パフォーマンス、ダンスなどで、夏の日をみんなで楽しく過ごしたいと思っています。この音楽祭のいちばん大きな特色は参加者同士のゆったりとしたコミュニケーションを大切にするために人数を少なく限定しているところです。みなさんのご参加をお待ちしています。
会場/ふるさとセンター田総(たぶさ)(広島県甲奴郡総領町 Tel082488-2288)
日程/2003年8月22日(金) 午後3時〜24日(日) 午後2時
定員/30名程度 参加費/27,000円
参加費には、宿泊費(2泊分)と食事代が含まれています。
(22日の夕、23日の朝、昼、夕、24日の朝、昼の計6食)
Schedule
22日(金)
15:00 受付/ガイダンス
15:30〜18:00 C.I.co. ダンス・ワークショップ
(勝部ちこ/伊藤真喜子)
20:00〜22:00 聴くことからはじめよう…誰でも参加できるポータブルオーケストラの試み1
(大友良英)
22日は「聴く」ことを中心に様々なワークショップを…どんな体験が待っているのでしょうか?
23日(土)
10:00〜12:00 C.I.co.
ダンス・ワークショップ (勝部ちこ/伊藤真喜子)
13:30〜14:30 即興音楽ゲーム(山田衛子)この時間は創造的音楽教育の研究家山田さんと遊びましょう。
19:00〜22:00 コンサート&発表
専門家、非専門家さまざまな人が集うこのフェスティヴァルです。自分の表現何でも発表することができます。
また、こういう企画でみんなで行いたいなどの提案で実現可能なものなら、
コンサート時間までに準備して初演することもできます。
C.I.coさん、大友さんの両ゲストのパフォーマンスもありますので、ぜひお楽しみに。
24日(日)
9:00〜11:00 聴くことからはじめよう… 誰でも参加できるポータブルオーケストラの試み2
(大友良英)
24日は22日の体験をもとに実際に音を出してオーケストラを編成してみます。
楽器や音楽の経験がないかたでも、どなたでも参加できます。
以下のように指定した音の出るものをもってきてください。
★音の出るポータブルの電化製品(ラジオ、髭剃り等、電池で動くものならなんでもいいです)
★たたくと余韻の出るもの(鐘やシンバル等の楽器はもちろん、食器や金属等なるべく長い余韻のでるもの)
★楽器以外の持続音の出るもの
★楽器(自身で演奏できないものでもかまいません。上手く演奏すること等は一切とわないので
まったく演奏できないものでもOKです。ただし笛とハーモニカ、カスタネット、タンバリン、
それからセッティングが大変なものや、PAを必要とするような楽器は除きます)この中のひとつでも、
複数でもかまいません。なにか使えそうなものをいくつかもってきてみてください。
12:00〜14:00 さよならパーティー
ヨーロッパ修行の経験を持つ水兼シェフ自慢の料理がでます。お楽しみに。
14:00 解散
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Date: Fri, 28 Feb 2003
どうもです。今回から「聴く」は、しばらく映画をテーマにしていく予定です。
映画といえば、いよいよ3月29日から安藤尋監督、魚喃キリコ原作の映画「blue」が東京のシネアミューズで公開になります。これにあわせてサントラ盤がweatherから3月1日発売になります。今日はじめて製品になったCDをうけとってきました。魚喃さんのイラストに佐々木暁のデザインで、すばらしジャケットになっています。またライブのほうも3月9日青山のCAYでやります。「blue」のみならず、「青い凧」「風花」「スタントウーマン」「ピアス」「キッチン」「dead BEAT」「路地へ」等々これまでのわたしの映画作品を3つのバンドで演奏するめったにない機会です。ほかにも青山真治監督の初DJ,Song For TYのライヴ初演等いろいろな企画を予定しています。ぜひお越しください。
コンサートとCDの詳細はここで
http://www.japanimprov.com/japanese/news/index.html#otomo
それからもうひとつ宣伝を
3月12〜13日新宿PITINNで山下洋輔、ブランキージェットシティの中村達也とわたしの3人で即興演奏をやります。すでにプレイガイド等の前売りは売り切れですが、PITINNのほうには多少前売り残っているとのことです。興味のあるかたはお早めに。
新宿PITINN 03-3354-2024
他にも竹村ノブカズさんとの初共演や、GROUND-ZEROのオリジナルメンバーでNY在住のベーシスト加藤英樹の10年ぶりの来日公演等もありますので、webのスケジュールチェックしてください。
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/index.html
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聴く vol.7
---映画の場合、その1─ 大友良英
前回は認識していることが聴取の全てではなく、じつは認識以前の通常は意識してないような部分でも、耳と脳は音をちゃんと聴いていて、なんらかの音響情報判断の脳内ソフトが駆動している…というような話をしてきた。音楽はこの部分においてはじつに大雑把で、ほとんど無神経といってもいいくらい、ひとつのソフトを動かす程度のおおらかな創作をするが、じつは、このことをはっきりと意識しなくては成立しないのが映画の音なのだ。それも前衛的なものとかではなく、ごくごく普通の映画の音においても、こういったことに神経が行き届いている…という話を、今回は自分自身が関わった映画「風花」をもとに進めていきたい。
相米監督の遺作になってしまった映画「風花」の冒頭は、桜の木の下で小泉今日子と浅野忠信が酔いつぶれているシーンではじまる。撮影は2000年の4月、わたしのアパートからほんの数分、井の頭公園の一角で深夜から明け方にかけて行われた。ご存知の方も多いだろうが井の頭公園はカラスが多いことでも有名で、撮影現場を見学していたわたしも心配になるくらいカラスが鳴いていた。いくら鬼監督の相米さんでもカラスの声まで止めることは出来ない。案の定、同時録音(以下「同録」とします)された音には尋常じゃない数のカラスの声がはいっていた。映画の場合、かならずしも同録の音が使われるわけではなく、たとえば低予算の映画では役者のせりふの失敗なんかで撮影のやり直しをしている時間も予算もないことが多いので、アフレコといって声も効果音も全て後からかぶせたりすることも少なくない。全盛期の香港カンフー映画や、にっかつロマンポルノはみなこの方法だ。また低予算ではなくても、せりふ回しを変えたくなったり、同録の音に飛行機の音や、街に流れるBGMがはいってしまった時は、アフレコすることも多いし、背景音等の効果音については同録されたものに、あとから音を加えて作り直すことが映画の場合ほとんどといっていい。そのくらい映画の音は、単に録音されたものを使うのではなく、巧妙に、ちょうど音楽の作曲のように様々な音がコラージュされているといっても過言ではない。当然カラスだらけの「風花」冒頭のシーンのせりふもアフレコされ、背景音も全て作り直されるのが、こういう場合は普通だ。ところが相米さんは、同録のせりふにこだわった。確かにアフレコと同録のせりふでは、感じがまったく変わるのも事実で、相米映画は同録にこだわることが多い。しかし、せりふのマイクにはカラスの声が沢山乗っている。そこで音響のスタッフは同録された音から丁寧にカラスの声の部分を削るえらく手間のかかる作業をすることになる。
話が長くなってしまった。仮にこのカラスの音をとらずに、そのままこのシーンに流すとどうなるか。おそらく最初に見た人は、このシーンを夕方だと思ってしまうだろう。日本人の場合はカラスは通常夕方を暗示する音の記号なのだ。映画を見ている人はいちいち意識して「あ、カラスの声と、薄ぐらい自然光だから夕方ね…」とは思わない。主演の2人がなにをやっているのかという物語の方に興味が奪われるのが普通だ。それでも瞬時にそのときの音と光から誰でも背景の状況を判断し、物語の流れの中の要素として「夕方」という風に認識してしまうように出来ている。それも無意識に。しかし、実際にはこの冒頭のシーンの設定は「明け方」なのだ。だからカラスはなるべく避けたい。しかも、それが尋常ではないカラスの量になった場合は、単に「夕方」という記号を読み取るだけではなく、下手をすればホラーのような不気味なムードを感じてしまう人すらいかねない。そうなるとただ酔いつぶれただけの2人の姿が死体に見えないとも限らない。意識して焦点を当てて聞くような音ではなく、こうした背景の音も人間にとっては無意識のうちに様々な記号として作用してしまう。だから映画の効果音は同時録音された音をそのまま流すだけでは成立しないのだ。現実世界では,誰もが音にフォーカスを当てたり、当てなかったりを自然にやっているし、意識せずに背景の音を排除したり、聞いていることすら意識していないのにちゃんと記号を読み取り解析したりしている。映画の場合は、丁寧に音のデザインをしなおして、観客の聴取をある方向に仕向けているといってもいい。ただ漫然ととりっぱなしの映像を流しているだけでは、観客が映像世界を読み取れないのと同様に、音もただ漫然と録音された音を流しているだけでは、観客はある音が背景にあるものなのか、メインなのか把握しにくくなる。だから映画に入っている音は、いくら自然に聞こえる音でも、役者の演技同様、全て演出されたものといっても過言ではないのだ。
さて、「風花」冒頭のシーンでは桜の花びらが雪のように舞っている。これも無論演出で、小道具のスタッフが籠にいれた花びらをお芝居の舞台のようにカメラの上方からふらしつつ、巨大な扇風機でゆるやかな風を起こして、いいかんじに舞わせているのだ。この花びらの舞が、文字通り「風花」の全編に様々な形となって現れてくる。あるときは北海道の雪原の風花だったり、柄本明の降らす紙ふぶきだったり、路上で濡れた桜の花びらだったり…って具合に。これと同じような演出が音でもおこなわれていて、そのひとつが冒頭のせせらぎの音だ。桜の木の下には実際に小川が流れているのだけれど本物からはせせらぎの音と言えるほどの大きな音は聴こえていない。あの印象的な冒頭のせせらぎの音はあとから加えたものなのだ。好き嫌いは別にしてこのせせらぎ音があるおかげで、冒頭のシーンは独特のあたたかさを持つことになったと思う。せせらぎ音があるとないとでは、映像そのものの印象がまるっきり違ってしまうのだ。おまけによく注意してもらえばわかるが、せりふのない冒頭のせせらぎ音と、せりふがはじまってからのせせらぎ音では音量が違う。現実には常に同じ音量で流れいるはずの自然音が、実はせりふがはじまると同時に会話の背景になるようにデザインされているのだ。これが不自然にならないのは、じつは、人間の耳と脳も、これとまったく同じように脳内のミキサーのフェーダーの上げ下げをしていて、僕らが相手の会話に集中しているときは背景の音は意識にはのぼらないように音量を絞っているからだ。映画の音のデザインは、人間が音をどう聴いているのかということのシュミーレーションを基本として出来上がっているのだ。このバランス具合をどうするかでシーンの意味がまったく違ってくる。よくホラー映画なんかで背景の時計音が少しづつ大きな音量になってはいってくるのなんかは典型的なやり方だ。人は不安になれば普段意識のいかない音に急に耳が開きだす。それをシュミレーションすればこうなってくる。相手の話に興味がなくて意識が遠くなったときを映画でやるなら、せりふの声が背景のがやがやしたノイズの中に少しづつ溶け込むように音をデザインすればいい。カメラの焦点もそのときに相手の顔から外の風景にシフトする・・・これもよくある典型的な方法だ。
さて、冒頭にはこの自然音のほかにもうひとつの音の要素、音楽も静かに流れている。せせらぎの中でギターと笙の音色が静かに溶け込むように流れ出して映画がはじまる仕掛けだ。音でも映像でも冒頭のシーンは映画全体のトーンを決定する重要な瞬間だ。ここをどうするかは映画の方向を決める作業に等しい。笙やギターの音は当然のことながら、このせせらぎの音と桜の花びらが舞う風景を前提に、さらに映画全体の音楽にもかかわる形でつくっている。それは通常の音楽のように、せせらぎの音程と笙の音程の兼ね合い…みたいな次元の創作ではなく、意識して聴かれる音と、意識はされないが、記号としてちゃんと読み取っている音との相対関係を軸にした作曲とでも言えばいいだろうか。この方法は通常の音楽だけの作品の時にはあまり使われることはない。というか、ふつう音楽家はこの部分を意識して演奏したり作曲したりしない人が多い。音楽だけだと聴取に集中するベクトルばかりが勝ってしまうからだ。このへんの作曲というか音響デザインが「風花」全編を通して生かされているのだけれど、そのへんの話は次回に。
この連載はバージョン違いでplanB通信にも連載しています。
Date: Thu, 9 Jan 2003
大友良英のJAMJAM日記、別冊「聴く第7回」
あけましておめでとうございます、今年もよろしくおねがいします。
そう、新年なんですよね〜。なんだか今年は暮れも正月もなく、ずっと録音をしていて恒例の友人宅のなべも今年は飛ばしてしまって・・とほほ。新年の実感は唯一正月のテレビくらいかな。合間にTV見ながら今更、今年こそモーニング娘の名前を全員言えるようにしようと一瞬おもったのですが、それこそ3日坊主で・・・苦笑。え〜と、録音のほうは、ONJQ+OEをスタジオで録りつつ、自宅ではアーリーワークス、ギュンターミュラーとのDUO、マルタンテトロとのDUOという3枚のアルバムを編集しながら、黒沢清監督のBSハイビジョン作品のサントラと、こなかりゅうさんのバックトラックを録音、で、どれもまだ終わってませ〜ん。あ〜時間がない〜。趣味の原稿書いてる場合じゃないっつうに、もう、このボケが・・・。とはいえ録音のいほうはどれもこれも、おどろくくらいアイディアがでては来るので面白くはあるのですが、でも完全にオーバーワークで体がね〜。こうなるとむしろライブがいい息抜きになってるくらいで・・・手抜いてるってことじゃないですよ、人と会えて打ち上げがあるって点で、もういい息抜きっす。そんなわけでまずは3つほどライブの案内を。
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1月11日(土)新宿ピットイン 電話:03-3354-2024
「OtomoYoshihide's New Jazz Quintet」
菊池成孔ts、津上研太as、大友良英g、水谷浩章b、芳垣安洋ds,tp
7時30分開演 料金3000円
1月13日(月・休日)江古田バディ 電話:03-3953-1152
「 Emergency!」
芳垣安洋ds 大友良英g、斎藤良一g,水谷浩章b
1月20日(月)
明大前キッドアイラック・アートホール電話:03-3322-5564
『大友良英プレゼンツ・ニューミュージック・コンファレンス Vol. 3 』
大友良英tt,中尾勘二(楽器未定)デュオ
宇波拓el、杉本拓g、江崎将史tpトリオ
Sachiko M コンタクト・マイクソロ
大友良英パーカッションソロ
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個人的には中尾さんとの初共演と欧州珍道中後の宇波、江崎の演奏を聴くのを非常に楽しみにしています。(あ、正確には中尾さんとは、大昔、千野秀一さんのNHKの仕事でコンポステラやわたしがはいったライブ収録があったのですが、昔すぎてほとんど覚えていません・・苦笑、なんで実質初共演ってことで)
では今回は別冊連載「聴く」の7回目、今回はラドゥ・マルファッティと杉本拓についてです。
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「聴く」第7回
---ラドゥ・マルファッティ、杉本拓との共演----
12月10日、六本木に新しくできたスペース「スーパーデラックス」で、トロンボーンのラドゥ・マルファッティ、ギターの杉本拓の二人と共演した。今回からは映画の効果音を参照しつつ話を進める予定だったが、この時の共演での出来事があまりにも印象的だったので、この話を先にしたいと思う。
この共演の1が月前、わたしはオーストリアでラドゥの演奏を聴く機会があった。共演はターンテーブルのdieb13。その時の経験を言葉にしてしまえば、約1時間の演奏中、音が聞こえてきたのは数える程度で、しかもそのほとんどは息の音とトロンボーンの音の中間のような超弱音に、かすかなターンテーブルのヒスノイズのような音で・・・といった具合に簡単に説明できてしまうのだけれど、そんな説明では、そこで起こった出来事をほとんどまったく何も説明していないに等しい。確かにステージで起こっていたのはそれだけなのだけれど、問題はこの極端にミニマルな演奏会の中にいてわたし自身に起こった出来事のほうなのだ。
この手のコンサートに出くわすとまず起こるのは、耳が神経質なくらい敏感に開くことで、最初はちょっとした客席の椅子の音やら洋服のすれる音、外の車の音なんかも非常に気になったりするのだけれど、ある時間、恐らくは2〜30分くらいを超えたあたりから、そういう演奏以外のノイズも含めて、音と音の境界がぼやけて、ある種、ありとあらゆる音が溶けたような独特の体験を耳が仕出すのだ。こうなってくると俄然面白くなってくる。ネガとポジの反転に例えればいいのだろうか。演奏と演奏以外の音の関係では確かにそういう理屈になるのだけれど、感覚的には2つの同じような平面写真を遠近感をずらして見ることで立体のように見える錯覚が起こる立体視の感覚に近い。音の遠近感がぼやけてきて、それがトローンボーンの音も、車の通過音も、ほとんど同じような距離感というか、浮遊した感じになってくるのだ。これはちょうどこの連載で触れた高橋悠治さんのワークショップで経験したあの「音が溶け出す」現象に極めて近い。唯一の違いは、日常の音だけではなく、演奏によって起こった音がそこに介在していることと、コンサートという場でそれが起こっていることだ。
コンサートでこの種の体験をしたのはこれが初めてというわけではない。ジョン・ティルバリーがモートン・フェルドマンの曲を演奏するときや、SachikoMのソロ、それに杉本拓の作品でも何度かこの経験をしている。その上に悠治さんのワークショップでの体験。こうした経験がなかったら、もしかしたら、わたしはラドゥのコンサートを見て面白がれなかったかもしれない。演奏を聴いているのか環境音を聴いているのか、その境界すらあいまいで、ぼや〜んと全体を楽しむような、ある種サイケデリックなトリップ感。SachikoMやジョン・ティルバリ-がサイン波やピアノの長い余韻によってそれ以外の音を浮き出させてしまうことによって演奏とそれ以外の音の境界が溶け出すのとは対照的に、ラドゥの場合はもっと漠然と、あまりに音の間隔があくことによって音と音の境界があいまいになる感じ、あるいは2つの音の関連に意識がいかなくなり、相対的にそれ以外の音の存在がでてくる感じとでも言ったらいいのだろうか。これは、その場の音を全てコントロール下に置く大音量の音楽や、無響室的な空間を必要とするような音楽とは正反対の発想だ。
ここまでが、まずは彼のコンサートに聴き手として立ち会った時の経験。で、この後書くのは、共演者として立ち会った時の感想だ。といっても、実は聴き手として立ち会ったときと、そう大きくは違わなかった。というかまったく同じだったのだ。スーパーデラックスの時もオーストリアで見たのと同様、音は数えるほどしかなかった。演奏がはじまって3分以上たっているのに誰も音を出さない。4分近くたって初めてわたしがギターで聞えるかどうかぎりぎりの音を1音。次いでカートリッジのかわりに針金を使ったアコースティックのターンテーブルを使って高域の持続音を、5分すぎにやっとラドゥはロングトーンを・・・って具合だ。この時は10分を過ぎたあたりから早くも音が溶け出していた。30分過ぎには、もう完全に遠近感崩壊の世界になって日常の音、冷蔵庫の音、あらゆる音とラドゥのトロンボーンの音が等価に溶けていて、私は冷蔵庫の音や地下鉄の音と、ラドゥや杉本の音それぞれと、なんの区別も境界もなく共演たり、音を当てて楽しんだりしていた。お客さんの中には同時に音を出さないように作曲されているのではと勘違いした人もいたようだけれど、そんなことはなくて、実は3人が冷蔵庫の音にあわせて同時に音を出したところもあったし、恐らく3人とも地下鉄や客の出す音も含めて、様々な時間軸をあてつつ、音を出していたはずだ。あまりにも面白くて、いろんな音が聞こえ出してしまい72分があっという間に過ぎてしまった。
現時点ではこの境地になるには、私の場合やはりどうしても、あの長い長い沈黙が必要で、この間に耳が非日常的に開かれていく中で、あの独特の感じが得られる気がしている。ケージの4分33秒では短すぎてとてもこうはいかない(注)。正直のところ、わたしのこういう聴き方、解釈がラドゥや杉本の音楽を的確に捉えているのかどうか、まったく自信がない。ただ、少なくともわたしはそう感じて共演していたし、オーストリアで客席にいたときも、同じように感じていた。彼らの音楽では明かに客席も共犯者なのだ。それは音楽家が聴衆に同じように聞える音楽を提供し、場を共有するという、これまでの音楽とはちょっと違って、多分その場にいる人達は皆違う音の聴き方をしていて、ただ唯一そういう空間を共有し、皆で何かを創り出すというある種強い意思による結びつきだけで成立していているような場とでもいったらいいのだろうか。
演奏の後、あれは作曲なのか即興なのかと何人かの人から質問を受けたけれど、正直これも答えがわからない。どちらでもあるし、どちらでもない。音楽をある方向に持って行くことを事前になんらかの方法で決めてコンセンサスをとることを作曲とよぶなら、あの日の演奏は明らかに作曲だ。ただ僕らは事前に一切言葉の上では打ち合わせはしていない。唯一決めたのは72分という時間だけだ。それでも、今日の音楽をどうするかという取り決めは、わたしはあったと思っている。それは多分3人の相互理解の中でどういう空間をある共通の時間の中で創り出すのかというコンセンサスといってもいいし、もっと言えば会場にいたひとたちと供にある作品を演奏したと言ってもいいのではないだろうか。
このコンサートの後、わたしは友人のミュージシャンやアーティスト何人かとラドゥのコンサートについて何度か話をしている。かならずしも肯定的な意見ばかりではない。あそこまで行く必要があるのだろうか・・・という素朴な疑問も含めて、いろいろな意見が噴出、それだけあのコンサートが強烈に印象に残ったことだけは確かで、1つのコンサートでこれだけ意見がを交わすのも珍しいことではないだろうか。
とりあえず体験する意味はある・・・という誘い方をわたしはしたけれど、まずは体験しないことには話にならないしってのもあって、ああいう誘い方をした。杉本やラドゥの音楽はCDで聴くのとライヴとでははまったく別のもという気がするのだ。それに「あそこまで・・・」のこといを理屈じゃなくて実際にやる人が世界中に最低でも2人くらいはるってのはこの世にとって豊かなことだと思っている。わたし一人では絶対にあの場所に行けないしあの日の数十人のお客さんがいなくても行くことの出来ない場所だったのではないだろうか。それは多分杉本やラドゥにとってもスーパーデラックスでの世界が、わたしやお客さん抜きでは行けない場所だったんではないだろうか。もしそうなら、こんな嬉しいことはない。
個人的な素朴な感想をいうなら、あの日は72分が短すぎるくらい楽しかったことと、その後の打ち上げもやたらと楽しかったこと。そして一番重要なのは、あのコンサートの後、わたし自身のコンサートでも、明らかにステージ上での音に対する、あるいは演奏の振る舞いが変化したことなのだが、これについてはもう少し時間をかけた中で発酵していくような体験だったと思っている。
(注)ケージの4分33秒は、実際は演奏時間が正確に決められているわけではなく、もっと長い時間演奏されることが多かったと聞く。
*この連載はバージョンを変えてplanB通信にも掲載しています。
Date: Sun, 1 Dec 2002(11月30日)
Filamentのコンサートでバルセロナに来ています。ここは2年前のソナーフェス以来。ホテルで早々にエバン・パーカーやマツ・グスタフソンに会いました。彼らは今日これからバリー・ガイ・アンサンブルで演奏します。僕らは明日。明後日はジョン・ティルバリーによるモートン・フェルドマン作品の演奏で、今から楽しみにしています。そうそう、そのジョンとSachikoMなんかがやった演奏がもうじきケルンのグローブレーベルから出るはずでちゃらっと聴きましたが、なかなかの名盤です。
さて今回は「聴く」の6回目です。
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「聴く」第6回
「音を認識する?」
普通僕らが聴くことに意識的になろうとすると大抵問題にすのは集中して聴くことだったりする。通常以上に意識を研ぎ澄まして、ある音に集中したり、遠くのかすかな音に焦点を当てて聴き取ったり、可聴域ぎりぎりの低周波や高周波を聴き取ったりって具合に。無論こういう訓練をしたり、訓練までいかなくても日常的に聴くことに意識的になるようにしていると、この手の集中して聴く能力は、思ったより結構簡単にアップする。ちょっと集中すれば、ほとんど音なんてないと思っていたあなたの部屋に実は沢山の音が溢れていることに容易に気付くことだろう。人間には本来意識的にある音に強力なフォーカスを当ててクローズアップする能力が備わっている。
前回この連載で触れた高橋悠治さんのワークショップがわたしにとって画期的だったのは、この意識的な集中した聴取とはまったく間逆の、むしろ意識を集中しない聴取をやったことにある。だいたい僕らの世代はなんでもそうだけれど、頑張ることで結果が得られるのだと無意識のレベルで思ってしまうところがあって、なにかをよりよく聴き取るとしたら頑張って集中すべきだと、なんの疑問もなく思ってしまいがちだ。ところがこれが大きな落とし穴で、集中して聴くことで聴こえる音と、逆に集中することで聴こえなくなる音があるのだ。集中して聴くという行為には、聴いた物をあるまとまった意味として認識して他の音とは強烈かつ強引に区別してカテゴライズしてしまうという脳内の行為と切っても切り離せない関係にある。この脳内音響識別認識ソフトのようなものが駆動しだすと、一度認識された枠組みを外すのは大変難しくなる。ある音を意味として認識したとたんに、その音そのものを聴いているのではなく、あるまとまった意味のほうに音そのもより力点が移る・・・とでもいったらいいだろうか。悠治さんがやった、ぼや〜んと聴くという訓練は、これとはまったく逆の、なるべく音から意味を発見しないように、あるいは音の背景にあるまとまった何かを見つけてしまはないように、脳内音響識別認識ソフトの駆動を阻止したりコントロールしたりする訓練に他ならない。このソフトが駆動しないことによって、僕等は、意味や認識から逆算して聴いたことにしていた音が、実は非常に荒っぽく強引に音と音の境界にボーダーをひいて、あいまいな音を聴かなかったことにしたり、実際に聞えている音とはことなる音響地図を脳内で作っていたのだということに気付くことになる。
前回のステージにおける演奏とサイン波の話にもどそう。演奏家Aは非常に優れたミュージシャンで無論耳も良い。ところが彼はステージで6〜10KHzの高周波のサイン波が鳴っていることに気付いていなかったという話だ。前の話に照らし合わせると、彼はステージにおいて脳内音響識別認識ソフトを駆動して音楽語法の範囲内の音のみのを認識して演奏していたことになる。つまりは語法とは関係のない音の存在を無意識のうちに退けていたのだ。なんて偏狭な・・などと思ってはいけない。これは僕等が日常やっている当たり前の行為、つまりは誰かと会話するときに当たり前のようにやっている行為なのだ。相手の話を意味として認識するためにはこの脳内音響識別認識ソフトの中でも特に強力な識別能力を持つ言語認識ソフトとでも言えそうなものの駆動が必要で、このソフトが動き出すと、言語として認識出来る音とそうでない音とを強烈に差別化し、しかも言語として認識される音のほうを純粋に音としては認識できないくらいにまで、特別あつかいするようなのだ。さわがしい喫茶店でも相手の声がはっきり聞えるのはそのためだ。あるいは、仮に何かの事情で会話の中のある部分が他の音に邪魔をされて実際には聞えていなかったとしても、それが瞬間的なものであれば、僕らはあたかもその部分が聞えていたかのように無意識のうちに感じてしまう、というか勝手に修復してしまう。現実の音と僕らが聴いている音は実はかなり異なるのだ。演奏家Aはおそらく演奏する際にこの言語認識ソフトのようなものを駆動して音楽を解釈していたはずで、そうすると彼が音楽言語と認識したもの以外の音は、彼には音楽として認識されなくなる。多分そういう原理で、彼はサイン波の存在に気付かなかったのだ。実際に鳴っている音群=ノイズの海のなかから僕らが認識化できることなんて、実はわずかでしかなかったりするのだ。それどころか、このノイズの海に無いものすら僕らは聴いている可能性すらある。
ビル・エバンスやソニー・ロリンズあたりの50年代や60年代のジャズの有名なライヴ録音を聴くと、だれでも最初に気付くのはカチャカチャいうグラスの音やら客の話声のはずだ。それもかすかな音量ではなく、ピアノと同じくらいの音量ではいっている部分すらある。この音がスタジオとは異なる空気感をだしていて、いかにもライブという感じに貢献しているわけだけれど、今から考えると、よくもまあ、あんなざわついた中で、あれだけ緊張感ある名演が出来たもんだと思うくらいだ。無論演奏家たちは、この客席のノイズを音楽の要素とは思っていないはずで、それらを無視して演奏に集中しているわけだ。サイン波を無いものとしていた演奏家のAのように。ところが一旦録音されてしまい、全ての音が等価にレコード盤に刻まれ、それをオーディオで繰り返し再生するようになると意味はおのずと変わってくる。多分聴きなれたリスナーならあのグラスの音がなくなると、もの足りなさを感じるのではないか。いつのまにか無意識のレベルで、グラスのノイズもリスナーにとっては音楽の重要な要素になっていたのだ。これは何度も繰り返し同じ音源を聴くことで、いつもは無意識に排除していたものが意識化されてきたと見れないだろうか。さらに言えば、レコードのすれる針音も同じように音楽の要素になりえる。僕等の世代ははじめてCDを聴いた時、独特のハイファイさを感じるとともに針音のない寂しさも感じたはずだ。とはいえ、その針音やグラスの音は音楽を聴いているときにはいちいちエバンスのピアノの音を認識するようには聴いていなかったはずだ。無くなってみてはじめてわかるような存在の仕方。意識的に聴いてはいないのに、その音があることで、聴いているほうの音が逆に浮かびあがるような音の存在。本来音楽の要素ではないものが音楽の要素として溶け出す瞬間。音楽と背景のノイズのボーダーが決壊しだす瞬間。
僕らは多分間違い無く、なにかを聴く際にこの認識の仕方を様々に設定変更して状況に応じた聴取を行っている。Aにしても静かな楽屋でサイン波が流れ出せば即座に気付くはずだ。たとえば会話の際に一旦言語認識ソフトが動き出すと言語以外の音の意味や存在にいちいち気を取られなくなるように、音楽を演奏する際にも背景のノイズのようなものはいちいち問題にしないように脳が動き出してしまう。しかし、それは聞こえていない、というのとは少し違う。人間は認識して意識化したことしか情報を受け取っていないのではない。意識していなくても針音やグラスの音を耳や体が覚えていたように、実は意識してない部分でも五感とそれにまつわるなんらかのソフトは起動しているのだ。Aがサイン波の存在に気付く以前から、サイン波が流れると彼の演奏が変わったのはそのためだ。逆に彼がサイン波に気付いてしまった以降は、おそらく彼はこの音を音楽言語として認識し出したはずで、そのことが良かったのかどうか、微妙なところだとわたしは思っている。
認識される部分だけが全てではない。認識とは別の聴取を人間は行っている。この部分を見つめることで見えてくる何か。これはノイズや聴取を考えるにあたって切っても切れない関係にあるし、ここ数年わたしが面白いと思っている音楽の全てはこのあたりのことに引っかかってくる。杉本拓やSachikoMにわたしが驚いたのは彼らはある時期以降、明らかにこの認識ソフトのようなものを起動するしないということに意識的になっていったことで、彼らに新しさのようなものがあるとしたら、その本質は音楽認識に関わるなにかにあるとわたしは思っている(注)。これを取り違えると、いわゆる「音響」と呼ばれる音楽を、空間を多様した音の懐石みたいな解釈になったり、音そのもに焦点をあてた「語法」みたいに表面的な解釈で終ってしまうことになるだろう。このあたりは今のわたしには、具体的に言うのは極めて難しい。それでも、このあたりがとにかくわたしの興味をくすぐるのだ。人間は自分が認識している以上のことをしていて、つまりは認識で全てをコントロールしているわけではなく、意識によって自分を把握することなんて不可能だという大げさな話にもなってくるのだけれど、この認識外聴取のようなものは、自分の立ち位置や存在、意識下の意志決定や次の行動をする上で非常に重要な役目をになっているとすら思えるのだ。ぼや〜んとするなかから見えてくる何か。集中や認識力だけでは解決できない何か。意識していなくても感じている何か。この辺を次回から映画の効果音なんかを参考に考えてみようと思う。
(注)さらにこのあたりを意識的にあるいは無意識かもしれないが推し進めているのはアネッタ・クレブスと吉田アミで、彼女達が昨年出したソロCDはどちらも素晴らしかった。また、このラインでわたしは宇波拓や江崎将史の今後の動きにも注目している。
※この連載はplan-B通信でもバージョンを変えて行っています。
Date: Wed, 30 Oct 2002
みなさんおはようございます〜
シカゴとセントルイスのツアーからさっき戻ってきました。今つくばのホテルでこれを書いています。昨夜はセントルイスでのコンサートの後仮眠をとって早朝の飛行機に飛び乗り、その足で夕方につくば入りして11月の岩下徹さんの公演のためのリハーサルを。
ここのとこほぼ毎月欧州かアメリカにいっていて、この状態が来年の春までつづきます。仕事のオファーがあるのは本当にうれしいことだけれど、ただでさえ体調よくないのに、ハードスケジュールにもほどがあるなあ(苦笑)。来年は少し仕事をへらすぞ!
昨夜は、時差ボケと疲れで、10時過ぎにはもう起きてられなくなってしまいリハーサルを早退して早々に熟睡。で朝6時に起きてしまいました。え?普通じゃないかって。ま、そうですが、朝6時はいつもなら寝る時間。僕等が夜10時に寝てたら仕事にならないじゃないっすか〜。そんなわけで、早朝のつくばの高層ホテルで遠くに見える富士山を見ながら、これを書いています。今日は日本晴れだ〜。
シカゴではジーンコールマンやTVPOW等地元ミュージシャンにウイ-ンのトランペッターフランツ・ハウジィンガーやSachikoMを交えて新曲のANODE#4と、あとはONJQの公演を。演奏はどちらも非常に満足いく内容で、録音さえ良ければいつかCDにしたいくらいです。詳細はおってJAMJAM日記の10月分で。今回は「聴く」の連載5回目をおとどけします。
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聴く 第5回
「音を溶かす」
何年か前に高橋悠治さんのワークショップに出たことがある。もう、ここには書き切れないくらい興味深い、示唆に富む話の宝庫だったのだけれど、その中でもとりわけ面白かったのは、音に集中しない聴取の訓練だった。通常僕等のような音楽家はいつでも、音に集中する訓練ばかりをしている。細部はより細部まで聴けるように、焦点を当てた音はどこまでも正確に明確に聴き取ること。そんな訓練を知らぬ間に積んでいたりするものだ。ところが悠治さんがやったことは、これとは間逆の、音をぼんやりと聴く訓練なのだ。
まず悠治さんがやったのは、遠くから聞こえてくる音をいいち認識するところから始める。車の音、カラス・・・といった具合に。これはいつものように音を集中して聴くという方向だ。が、別の見方をすれば、この方法は音を選別して意味として認識していることでもある。あるいは自分の知っている音を過去の記憶と参照して、その音がなんであるかを認識する作業でもある。仮に過去に経験のない音が聞こえた場合でも「飛行機っぽい音だけれど、地上がら聞こえてるし、工事の音でもないし・・・」といった具合に記憶と知識を総動員して音の認識が行われる。無論この能力も重要で、これが無くては人間は音からなにかを認識することが出来なくなる。
が、実は音を聴くというのは、この選別して認識する作業のことだけではないのだというのを次の訓練で思い知らされることになる。音に名前をつけずに、ある音に集中せずに、自分のいる状況全体の音をひたすら「ぼや〜ん」と長時間、聴くようにするのだ。たとえば車の音が聞えたとしても、「あ、車の音だ」みたいに音に名前をつけてはいけない。やってみれば分るけど、これはなかなか難しい。すぐになにか目立つ音に気持ちが奪われてしまうし、そうでない場合も「音に名前をつけまい」という意識ばかりが勝ってしまってちっとも全体を耳がぼや〜んと受け入れるなんて状態にならない。が、何事も辛抱・・・というか、こんなことをやっているとそのうち眠くなってきて、で、その瞬間、それまでバラバラに意味として聴こえてきた音が溶け出して、音と音の境目があいまいな、なんだか全体がもやもやした状態になってくるのだ。「ん? 単に眠いだけ?」とか思ったが、ま、半分はそうなのだけれど、変な意識みたいなもんが切れたおかげというか認識力が低下したおかげなのか、とにかく言葉になるような音の聴え方とは別の全体がもやもやしたものが聞こえ出したのだ。
たとえば余韻のある音が消え入る瞬間によく注意すると、その音が背景のノイズの中にグラデーションのように溶け入るのを聴くことが出来るはずだ。風鈴でもシンバルのような金属でもなんでもいい。なるべく余韻が長いもので試してみるといい。序々に音が減衰していくところに集中して聴いてみてほしい。この余韻が消えて行く時間の中でゆっくり背景のノイズが浮かび上がってくるように聴こえるはずだが、そのとき余韻と背景の音が両方聴える、クロスフェードする時間の中で余韻と背景音が溶け合う瞬間を聴くことが出来るはずだ。この音の境目があいまいな感じが、さっき書いたぼや〜んと聴く方法だと、全ての音に適応される感じになってくるのだ。本来は突出した音以外は大体はそれ以外の音との境目はあいまいで、実は人間の意識やら認識能力のようなものが、ある音だけを明確に聞き出して意味として認識しているってことらしく、だからこの意味として認識する聴取方法ではないほうの、全体をぼや〜んと聴くほうの脳内ソフトをフルに起動させて、意味聴取のほうのソフトをオフにしてくと、音の境目があいまいになって、なんだかずべての音が印象派的なかんじで溶け出すのだ。慣れてくると遠近感すら溶け出してくる。大げさに言えば、今自分を取り巻いている音が、まるでAMMの演奏のような感じになるのだ。あるいはまったくナチュラルな状態でちょっとドラッグっぽい感じになったというか・・・。 いずれにしてもこれは結構楽しめる・・・なんて思って意識が冴え出すとまた聴こえなくなったり・・・。このへんはちょと立体視にも似ている。
ま、相当面白い現象には違いないので、その後私はことあるごとに、一人でもこの「音溶かし」で遊ぶようになった。で、これをやると、いつもなら聴こえない音が聴こえてきたりして、集中して音を聴くときよりも、逆にかえっていろいろな音が聴こえてくるようになるのだ。無論ステージで聴こえてくる音も、それまでとはまったく変わってきて、たとえばPAの出す高周波のノイズやらパワーアンプのファンの音やら、照明のノイズが良くも悪くも演奏と同等の音として響いてしまったり、バイブラフォンのべダルを踏むキュウキュウいう音なんかがすごく美しく聴こえたりするようになったのだ。
つまりは、音の聴き方には認識的に聴く方法(はっきりと焦点を当てる聴き方)と、非認識的とでもいうしかない、ぼやんと全体を感じるような聴き方があって、それぞれの聴き方が双方を補完しあって聴取を可能にしているってことらしいのだ。で、それまで私は音楽を聴く際に、前者の、私の価値観で音楽と認識出来るものを音楽として聴く・・・ってほうに偏って聴いてきたってことなのだ。だからその音楽の語法に関係のない音・・・照明のノイズとかペダルの音・・・とかにあまり意識がいってなかったのかもしれない。というか、ないものとして雑音あつかいしていたというか、認識外の音には耳が開いていなかったというか、正確には認識している音だけを把握した時点である種の耳が閉じてしまうために、他の音にまで意識がいかなかったのだ。
それでも他の音はまったく聴こえていなかったかというと、そうでもないのだ。似たような例をだそう。あるバンドのある曲でわたしは、そのバンドの語法とはまったく無関係な高周波のサイン波を毎回流し続けたことがある。半年くらいしたころ、メンバーの一人が「なんかピーって鳴ってるけど、これなに?」と言い出したのだ。彼にはその音がずっと聴こえていなかったのだ。なんて耳が悪い・・・なんて言ってはいけない。それでも彼はあきらかに、この音の出ているときと出ていないときでは違う演奏をしているのだ。彼はただ音楽言語のレベルでその音を認識できなかった・・・つまり意識の上では聴こえなかったのだ。だから逆に彼がこの音をはっきりと認識してしまって以降は、サイン波のあるなしで演奏が変わることが前ほどはなくなってしまい、むしろ意識的にその音を処理する方向に変化した。
さてさて、なんでこの話を長々としたかというと前回話をしたノイズの海と、この話は多いに関係ありなのだ。どう関係あるのかは字数もつきたので、また次回にしたいが、さしあたりこのぼやっんと全体を聴くってのをぜひ体験してみてほしい。はじめは余韻の消え入るところを聴くことからはじめてもいい。出来れば突出した音の少ない比較的静かな、しかし音に遠近観のあるような環境で30分以上はやってみるといいだろう。音に名前をつけずにぼや〜んとする。かなりおもしろい経験になるはずだ。
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「音を聴く」はバージョンを変えてplanB通信にも連載しています
Date: Mon, 30 Sep 2002
こんにちは。今回はJAMJAM日記の別冊、連載「聴く」の4回目、ノルウェイの古都トロンヘイムからの配信です。
日本から26時間かけてこっちの時間の真夜中にホテルに到着。年がら年中ツアーの日々とはいえ、時差と長時間のフライトは心底体にこたえます。きつい移動の最中は、いつもきまって「もう来年こそはツアーをやめてずっと東京にいよう・・・」と思うのですが、コンサートを終えて打ち上げをしていると、ま、ツアーも悪くないか・・なんてすぐ気がかわったりで・・・。このあたりは雨で有名な地域で、わたしが到着してからの3日間もずっと雨。気温は東京の12月って感じかな。小さい街のせいか、あるいは上品な土地柄なのか、なんとなく駄目な奴等が集うような居心地の良いカフェやらバーやらを見つけられず、居場所のないままホテルとコンサート会場を行き来する毎日です。ちょうどよいのでためていた原稿をさくさくと仕上げることにしました。そんなわけでまずは「聴く」の連載を。
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「聴く」第4回
「ノイズってなんだろう その3」 大友良英
僕等は始終なんらかの音の中で暮らしている。無風の砂漠とか特別な無響室にでも行かない限り、そこには絶対になんらかの音が存在する。無響室に入ったことがある人なら分るとおもうが、無音のはずの無響室ですら、そこに入ると自身の動く音や鼓動、神経から出る高音が聞えてくるばずだ。(注1)生きていて耳と脳が機能している限り音からは逃げられない。いやオレはうるさい所も音楽も嫌いだから静かなところで暮らしたいんだ・・・という人がいたとしてもそれは無音の場を意味するのではない。正確には「静かである」とその人が思うことの出来る様々な「音群」の中に囲まれて暮らすという意味だ。
少し耳を澄ましてみればわかると思うが、僕等は途方も無いくらい沢山の音の中で暮らしている。静かだなと思える深夜の私のアパートですら聞えてくる音をあげたらきりがない。ハードディスク、時計、2階の住人の足音、車の通りすぎる音、カラス、こおろぎ、どこからくるのか分らないかすかな重低音・・。ましてや日中の商店街だったらどれだけの音があるのか見当もつかない。いちいち認識していたらそれだけでもものすごい情報量でなにも出来なくなってしまうだろう。そう、通常僕等はこうした音に対して無神経というか、なかった事のようにふるまっている。が、しかしだからといって僕等はそれらの音を聴いていないのかと言えばそうでもないのだ。
通常僕等はいちいち「聴く」ということを意識したりはしない。それはちょうど皮膚が衣服の感触や空気の流れを普段は意識しないのに似ている。意識はしないが皮膚は常に感じているし、耳も常に音をキャッチし、脳はそれをうっすうらと解析し続けている。通常皮膚は服の感触をいちいち認識したりはしないが、もし仮に衣服の状態が変になったり異物がはいれば皮膚はすぐそれを認識して意識化する。「ん、なんか着心地かヘン・・・」とか、「砂がはいっちゃったかな・・・」といった具合に。耳も同じだ。やかましい繁華街にいても僕等は音情報の多くを無視して歩くことが出来るが、必要な情報だったり、危険を察知させるような音には敏感に反応するはずだ。仮に繁華街の雑踏に埋もれるくらい遠くからから女性の悲鳴が微かに聞えてきたとしたら、すぐさま耳はあなたの意識と直結し、音の出所を探し出し脳に判断を仰ぐはずだ。その後その声を無視するかどうかは、耳の問題ではなく人格の問題になるのでこの場合はおいておく。問題は耳から入ってくる音の情報を脳のほうで意識的に処理するか、無意識のままにしておくかを無意識のレベルで選別しているってことがこの場合重要だ。つまり脳は膨大に耳から入ってくる音情報をさしあたり有用か無用かを瞬時に、それも意識にのぼる以前に判断していることになるわけだ。
前回まで私はある情報を伝える際にその障害となるようなモノあるいは現象を「ノイズ」と定義し、「ノイズ」とは相対的なんもんでしかない・・・という話をしてきた。この場合「ノイズ」は必要な情報の伝播を阻害する要素を指すことになる。ラジオの放送を聞きたい人にとって混信する電波が文字通りこの場合「ノイズ」となるし、この混信する音が大好きでそれをサンプリングしようとしている人にとっては放送局の音のほうが「ノイズ」ってことになる。つまりはその人がなんの情報を必要とするかによって、なんでも「ノイズ」になりえるし、「ノイズ」だったものが簡単に必要な情報に転じる現象も起こり得るという話だった。ところが、前述の人間の聴取に関する営みを考えて行くと、相対的な「ノイズ」ばかりが「ノイズ」ではないような気がしてくるのだ。結論から先に言ってしまえば、そもそも私達は把握出来ないくらいの膨大な音響情報の海の中に暮らしていて、その情報のひとつひとつは丁寧に見ていけば意味や出自をちゃんと持った情報なのだが、先に述べた通り私達はそんなことをいちいち考えていたら生きていけない。したがってその中からなんらかの方法で認識するものとそうでないものを分けて、認識したものの集積で生活を組み立てているわけだが、実際は切り捨てられた、正確には認識はしていないが感じ取っているその他多数の膨大な情報も実は重要な役目をはたしているのではないだろうか。この認識されない、把握することすら困難な膨大な音響情報・・・それはまるで何一つまとまった意味をなさない情報過多のカオスのようにすら見えるのだが・・・この私達が暮らす音響情報のカオスを海原のように見たて、「ノイズの海」と定義し、相対的に考えられる「ノイズ」とは別に、そもそも私達は「ノイズの海」の中に暮らしているのだと考えて行くと、それまで考えていたノイズ論とはまったく異なる世界が見えてくるのではないだろうか・・・というのが、そもそもこの連載をはじめた動機なのだ。そんなわけでこの「ノイズの海」について次回からもう少しつこんでみたい。
(注1)この神経音につてはジョン・ケージが無響室に入ったときの体験として語っているが、なにも無響室に入らなくとも、静かな環境で耳を澄ませば誰でも聴くことは可能だ。人によって聞え方はいろいろあるようだが、私の場合は少し歪んだ感じの高いサイン波のような音が聞こえる。はじめこの音に気付いたとき、耳鳴りじゃないかと心配した。静かなところでFilament等の高音サイン波ものの演奏をしたり聴いたりすると、ときたまこの神経音と干渉して音が聞こえてくることもある。
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「聴く」の連載はバージョン違いでplanB通信にも連載しています。
Date:Tue, 9 Jul 2002
From:mag2 ID 0000085204 <mag2from@tegami.com>
Reply-To:otomojamjam@yahoo.co.jp
暑いですね〜。皆さんお元気ですか。中原俊監督の新作「でらしね」の音楽を終えたばかりでへとへとの大友です。
ここのとこ日記のほう遅れてますが、もうちょいお待ちを。
今回は先に別冊「聴く」の3回目をお届けします。
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「聴く」第3回
「ノイズについて考える その2」
------うるさい音、大きい音------------
ノイズの話を先に進める前に、今回は少しわき道にそれて「うるさい音」について考えよう。
音のうるささを検討するのは意外とやっかいだ。音が大きければうるさいかというと、そうでもなかったりする。近所の居酒屋から毎夜もれ聞こえてくるカラオケの音を「うるさい」と感じたとしても、それがかならずしも大きい音かどうか、実際は騒音基準以下だったり・・・なんてこともあるわけで、そうなるとかならずしも「うるさい音」イコール「大きい音」ではなさそうだ。ウォークマンのヘンドフォンから漏れ聞こえるシャカシャカ、携帯の会話、隣の住人のテレビ、よくよく考えてみれば、コンサート会場の音楽なんかよりはるかに小さい音でしかない。でもうるさいもんはうるさいよね。でも、まったく同じ音でも、シチュエーションによってはまったくうるさく感じないことだってあるわけで、たとえば香港にいったら携帯の会話をうるさいなんて感じてたら生きていけない。なにしろ公共の場所どこもかしこも携帯の会話だらけで、当たり前の環境になってしまっている。繁華街で育った人にとっては静かな田舎町よりも、カラオケが漏れ聞こえるくらいの環境のほうが落ち着いて眠れる・・・なんて例もあるかもしれない。大自然大好きのナチュラリストにとっては温泉町の渓流の音は素敵な子守歌になるかもしれないが、人によってはこの音がうるさくって寝れない・・・なんて話も有り得る。つきあいだしたばかりの恋人の寝言は鈴の音のように響くかもしれないが、たまたま泊まりにきた酔っ払いの友人の寝言はうるさい以外のなにものでもない。「うるさい」はあくまでも主観的な感情によって喚起されるもののようだ。無論主観の形成には、その個々人の育った環境や経験、社会や人格までが大きく関係するのは言うまでもない。
そもそも、音の大小に関してもデシベルであらわされるような単純に空気振動のエネルギーを数値化したものだけでは、人間が感じる音の大小ははかれない。非常に静かなところで発せられる音と、うるさい環境で発せられる音では、おなじ音、おなじ音量でもまったく違う音の大きさとして認識されるからだ。
これまで私が聴いた音の中でもっとも大きな音ってなんだろう。それはノイズ・ミュージックでもハードコアでもなく、火薬の爆発音、花火の音だ。数年前、フランスのナント市で行われた小さなフェスティバルに出ていたドミニク・レピコの轟音バンドの演奏中にその花火は突如炸裂した。無論実際には、入念に仕組まれたファイアーワークだったのだけれど、そんなことを知らない観客の一人だった私は、いきなり炸裂した爆発音に思わず耳を塞いでのけぞった。相当でかい音でも、びくともしないくらい、いろいろな音楽の現場に接してきた私にとっても、それは物理的に巨大な、鼓膜の能力の限界点に近い音だった。なにしろ同時に演奏していた轟音バンドの音が完全にかき消されたし、その後もしばらくは耳鳴りでバンドの音が遠くに聞こえたほどだ。耳へのダメージも相当なもんで、2日くらいは聴力が戻らなかった。ここまでくると、うるさいなんて思う以前に苦痛でしかない。
前述したとおり、実際に日常生活において「うるさい」と感じる音や、音楽における「大きな音」というのは、ここまで物理的に巨大な音ではないし、むしろ物理的な意味での「大きな音」とは関係ないといってもいいくらいだ。正確には、「うるさい」と感じたり、「大きな音」と感じるのは、聴き手の心理的な要素や、過去の経験や前後の音に照らし合わせて相対的に判断されたり、嗜好によって判断される場合がほとんどで、物理的な意味での「大きな音」は、そう感じる際のひとつのファクターにしかすぎない。
そうかんがえると「うるさい音」も「大きな音」も主観がそう感じるからそうなるのだ・・・という点においてはよく似ている。おなじように「小さい音」もかなり主観的なものだ。一般的には弱音で演奏されると思われがちな杉本拓の音は、録音してみるとわかるが意外に大きな音量だったりする。静けさを感じさせる映画のシーンは無音ではなく、大抵はその社会に属する人間が静けさを喚起するような音が仕込まれていたりするものだ。日本だったらそれが虫の音の場合もあるし、遠くから聞こえる車や電車の音だったりもする。これが西部劇であればかすかな風の音だったりとか。仮に東京のシーンでかすかな風の音をながすと、なにかがその後に起こりそうな予感を見ている人に与えてしまって、静けさを表すことにはならないだろう。「静か」という概念も「大きな音」同様に物理的に音の小さい状態と必ずしもイコールではないし、社会や個人によっても様々なのだ。
静かなシーンの続く音楽作品の中では、わずか一打のスネアドラムの音巨大に感じられるだろうし、逆に轟音の音楽のなかでは、同じスネアの一打は埋もれてしまい、小さな音としてしか認識されないだろう。あるいは下手クソなドラマーの音をうるさいと感じることも良くある話だ。へたくそを「うるさい」と感じるのは、もう明かに音量の問題ではなく、快、不快の問題になってくる。クラブのイベントで演奏されるノイズミュージックと、おなじイベントのDJタイムに流れたテクノ、聴覚上はノイズのほうかはるかに轟音感があるのに、実際にメーターを見てみると、じつはテクノのビートのピーク音のほうが物理的にははるかに大きなデシベルだった・・・なんてことはざらに起こり得る。これを快、不快のレベルで考えれば、テクノ嫌いな人にとっては、DJタイムのテクノはどんな音量であれうるさく感じられるし、ノイズ嫌いにとっては、音量なんて関係無くノイズはうるさい・・(苦笑)ノイズなんだからうるせえのは当たり前か。そういや何年か前、NYではじめてFilamentが演奏したとき、エンジニアがどんどん音を小さくしてったことがあって、あまりにひどいんで、途中で演奏をやめてステージを降りたことがあったけど、この時のエンジニアの言い分が「スピーカーが壊れてしまうから」。でも実際のは僕等の後のDJのテクノのほうが何倍も大きな音量だったりして、要はエンジニアが僕等の出すサイン波に生理的に耐えられなくなって、音量をさげたのだけれど、いくらさげてもサイン波の特有の現象で音がおもったほど小さくなってないように感じられたってことなんだと思う。オレの演奏を聴衆がうるさく感じるは勝手だけれど、すくなくともエンジニアの価値観でもって、なんの相談もなしに勝手に音楽をいじるってのは暴力みたいなもんで、あれ以降しばらくは2度とNYでなんかやるもんかって思ったりしたもんだ。あのクソエンジニア、まだ仕事してやがるのかな・・・おっと話がそれた。
前回、情報を疎外するものを「ノイズ」と規定し、そうすることによって、実はどんな音でも状況に応じて相対的に「ノイズ」になり得るという話をした。「ノイズ」というのは特定の音の種類のことをいうのではなく、ある必要な情報を疎外する要素であればどんなものでも「ノイズ」になりえる。この場合「ノイズ」とは常に2つ以上の情報(必要な音とそれを疎外する音)との関係の中で定義されることになるが、今回示した「うるさい」と感じる音の場合はかならずしも2つ以上の音の中で定義されるのではなく、むしろ音を聴く個々人の嗜好や過去の記憶や経験、その人が所属する社会の価値観・・・といったパラメータの中で判断される。このあたりをとっかっかりに、次なる「ノイズ」の考察へ進んでいきたい。
この連載はバージョン違いでplanB通信にも連載しています。
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敬愛する音楽家、プロデューサーその他いろいろの岸野雄一さんがいよいよ本格的に音楽学校をはじめます。音楽の学校というと、これまでは大抵演奏の仕方を、それも特定のジャンルのすでに価値の定まった音楽を価値観ごと教え込むってのがほとんどでしたが、そこは岸野さん、根本的なところからの授業を目指して独特の講師陣を集めての夏季集中講座です。日本の音楽大学もこういうの見習うべきだと思うんすけどねえ・・・オレがこんなとこで何言っても仕方ねえか。以下に案内が送られてきたので、興味あるかたはぜひどうぞ。まだ定員あるそうです。(わたしも8月12,13日に講義やります)
夏期音楽美学講座 募集開始!
●制作・技術編 7月22日(月)開講 ●歴史と批評編 8月6日(火)開講
○講座概要
私たちが音楽を聴くとき、そこでは一体何が行なわれているのでしょうか?本講座は、レコードやCDを買い、TVやラジオを通して音楽を聴く、というやり方で音楽を享受してきた人間の視点から決して離れることなく、そうした場所で生まれ育った私たちのもとに届けられる音楽を、徹底的に分析することによって、音楽を聴くという行為が、今まさに持ってしまった未曾有の複雑さを明らかにすることを目的としています。
音楽を自分なりに正しく聴き取ること、本講座では、「音楽とは何か」、「音楽とは一体どうやって作られているのか」といった命題に対して、まず「音楽を聴く」という誰もが行なっている一見単純な作業にまで戻って、受講者それぞれの聴取力を自らに問い直すきっかけとなるように組織し、それをどのように活かすか、どのように音楽に関わっていくかを再発見出来るように編成されています。
本講座は今年度より二つのプログラムに分けられています。「制作・技術編」は、音楽を作り上げるための実践的な技術を身につけるための講座です。エンジニアリングの初歩からコンピューターを使った今日的な方法、音作りの技術までを知識のみの技術論に傾くことなく、受講生個人に見合った形が発見できるように編成されています。「歴史と批評編」は、第一線で活躍中の批評家・音楽家による批評的な聴き方を通して、言葉によって音楽を捉えなおす力を身につけるための講座です。
●制作・技術編 全14回
○講師(50音順)
AMEPHONE、宇都宮泰、大友良英、小沢靖、菊地成孔、近藤祥昭、Zak, 高橋健太郎、松前公高、横川理彦
○講義内容
レコーディングングの基礎、聴取のワークショップ、マイク及びレコーダーのセットアップ、アナログシンセの音作り、サンプリングと波形編集、MIDIプログラミング、シーケンス・ソフトとプラグイン、ライブ・オペレーティングの実際、トラックダウンとマスタリング、リミックスにおける倫理観、空間を録る・空気を聴かせる、他
●歴史と批評編 全12回
○講師(50音順)
大友良英、菊地成孔、岸野雄一、佐々木敦、高橋健太郎、田口史人、中山義雄、平井玄、福島恵一、松山晋也、湯浅学、横川理彦
○講義内容
音楽ジャーナリズムの在り方、実践的批評と現場への対応、論考・レビュー・インタビューの分け方、フリーミュージックは音響を扱う・ベイリーからオルークまで、聴取論/ノイズ、テクノロジーの進化と音楽の関係、日本のロック史、ジャンルの越境、地勢と時軸の呪縛から逃れるためにサン・ラを題材とした音楽論の試み、音楽批評文献史、他
映画美学校 夏期音楽美学講座 募集要項
○期間 制作・技術編(全14回【7月22日〜8月28日の期間内で】)
歴史と批評編(全12回【8月6日〜8月31日の期間内で】)
○募集人数:各クラスとも40名(先着順につき、定員になり次第締め切ります)
○受講料:製作実践編 入学金1万円、授業料5万円(消費税別)
歴史と批評編 入学金1万円、授業料3万円(消費税別)
(映画美学校の講座を受講したこのとある方は入学金が免除になります)
●映画美学校はアテネフランセ文化センターとユーロスペースの共同プロジェクトにより映画製作を学ぶ学校として、1997年に開講いたしました。2001年度より開講された音楽美学講座では、音楽に特化した様々なカリキュラムを用意し、現代に則した音楽の批評・製作・実践に対応出来る人材を育成することを目的とし、受講生ひとりひとりの個性と能力に対応したプログラムが組まれています。映画美学校は2000年春NPO(特定非営利活動法人)に認証されました。両団体の引き続くバックアップのもと、今後も開かれた学校としての様々な活動を行なっていきます。
○教室:映画美学校・京橋本校内
□手続き 申込用紙に必要事項を記入し証明写真2枚(4cm×3cm)を同封して下記の住所に郵送又はご持参下さい。受講料のお支払い方法をご連絡いたします。
〈お問合せ・お申込み〉映画美学校 夏期音楽美学講座
〒104-0031 東京都中央区京橋3-1-2片倉ビル1階〈地下鉄京橋駅3番出口前/JR東京駅八重洲南口徒歩5分〉
http://www.eigabigakkou.com/
TEL:03-5205-3565 〈月〜土 12:00〜20:00〉
大友良英のJAMJAM日記2002年5月別冊 連載「聴く」第2回
Date: Sun, 26 May 2002
こんにちは。ロンドンからの配信です。
この2週間マルタン・テトロ等8人のターンテーブル奏者とともにイギリス国内のツアーをしていました。連日バンで移動の厳しいツアーを今日終え、ツアーメンバーやクルーとロンドンのマレーシアレストランで打ち上げをして今ホテルに戻ってきたところです。いや〜、やっぱ打ち上げは楽しいっす。もう、これがあるからミュージシャン生活を続けられるようなもんで・・。そんなわけで、ツアーの疲れもふっとんで、これを書いてます。特にマルタンはわたしにとっては音楽の上でも私生活でも同士というか大親友といえる数少ない一人で、彼との仕事は楽しいだけじゃなく得るところも多くて・・・、ま、詳しくは近々アップのJAMJAM日記の中でってことで、今回は連載「聴く」の第2回を配信します。
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「聴く」第2回
「ノイズについて考える その1」 〜ノイズの相対性理論の限界〜
お目当ての彼女とバーにいったとしよう。初デートでもいい。あなたは彼女の言葉を聞き漏らずまいと神経を集中するあまり、カクテルの味さえわからないくらいだ。話は予想を超え盛り上がる。彼女の気持ちをゲットできそうだ。と、そこに突如あらわれたバンドの演奏。ライブのある店とは知らなかったあなたにとって、バンドの演奏は会話の邪魔になるノイズ以外のなにもでもないだろう。 が、実はこのバンド、一部には絶大な支持のある知る人ぞ知る往年の名ジャズバンドで、店にいる客のほとんどが、このカップルを除いて、久々にステージに立つ彼らを目当てに集まった客だったとしよう。バンドの演奏が始まっても、一向に話をやめないどころか、ますます大きな声で話す場違いのこのカップルは、バンドの演奏を聴きに来た人々にとってはノイズ以外のなにものでもない・・・ってことになる。
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わたしにとってノイズとは、まずは、特定の音をさすのではなく、相対的なものだった。まずは・・・と書いたのは、その先の別の話があるからだがそれは次回までひとまずおいておく。彼女の声を聞くためには、すばらしいジャズのライブがノイズになることだってありえるのだ。
極端な例を出そう。例えばあなたがモーニング娘のファンで、彼女達のコンサートにいったとして、そこに突如デレク・ベイリーがなんの脈絡もなくギターをもってステージに現れ、モー娘とは無関係に演奏をはじめたとしよう。これはもう、彼のことなど知らぬ多くのモー娘ファンにとっては大ひんしゅく、ベイリーはノイズ以外のなにものでもない。が、今度はこれが逆転して、ベイリーのコンサートに突然モー娘が乱入した場合はどうだろう。今度はモー娘がベイリーを聴きにきた人達にとってはノイズ・・・ってことになる。仮に両者を録音したとして、音響現象としてはまったく同じことがおこっているとしても場のシチュエーションによって、なんでもノイズに成得るし、逆にノイズだったものがそうではなくなることもありえる。例えば、会場に来ていた連中の中にポストモダンな奴がいたとして、そいつが、この状況を全ておもしろがり、おまけにこれを録音して海賊盤までだしたとして、これが後々語り草になって音楽として評価される・・・という事態がおこったとしたら、この場合モー娘もベイリーもノイズではなくなってしまう。
ここでわたしが言っているノイズとは、ある必要な情報にとって障害になるもの・・・とでも定義すればいいだろうか。そう考えると、必要な情報を阻害する要素なら、なんでもノイズになるし、あるいは必要だと思っていたものが必要でなくなったりした時点で、それまでノイズだったものはノイズではなくなるし、またさらに、ノイズだと思っていたもののほうが必要な情報になった場合それまで必要だった情報のほうがノイズになることだってありえるという話だ。
あなたはAさんに惚れてるとする。ところがAさんはあなたを見向きもせず実はあなたに惚れているBさんが、あなたとAさんが近づくのを邪魔したとする。あなたにとってBさんはノイズになるし、Bさんを中心に考えればAさんがノイズになる。ところがあなたはAさんへの興味を失い、いつのまにかBさんの虜になり2人は結ばれたとする。ここで今度はAさんのほうがあなたにアプローチをするのだが、すでにAさんへの興味を失っているあなたにとっては、今度はAさんがノイズになってしまう。ノイズとは極めて相対的なもので、なにを中心に考えるかによって、なにがノイズになるかはコロコロと変わる。
ここまでが80年代から90年代にかけて私が考えていたノイズだ。この考え方で私はいろいろな音楽を作ってきたし、それはそれで、かなりの成果も残せたと思っている。しかし、この考え方には、ひとつ大きな欠点があって、それは、はじめから耳にはいってくる情報を有益か否かで分けて考えていることなのだ。すでに耳に入った時点である種価値観のフィルターがかかっていて、そのフィルターの中心点を移動することによってノイズの意味が変わるのはいいのだけれど、フィルターを設定すること自体への根本的な問いかけが欠けているのだ。情報そのものの検証と質をみること以上に、相対的に価値観が変動していく妙味に視点がいってしまったときに、私ははっきりといきづまってしまったように思う。いつの頃からか、このことに気づいた時点で、わたしは「聴く」ということを考えはじめた。フィルター設定そのものを検討するためには、それしかないと思ったのだ。「聴く」ことからもう一回考え直せないだろうか。耳にはいって来たものをまずは分け隔てなく聴くところからはじめられないだろうか。耳をそばだてることから、もう一回はじめられないだろうか。そう思い出した時、私にとってのノイズ観はそれまでとは大きく変わりだした。
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この連載はバージョン違いでフリーペーパーの「planB通信」にも連載しています。
前々回お知らせしたplanBでのワークショップですが予想をはるかに越える反響で、すでに50人を超える申し込みがあり当初7時開始の予定でしたが、これに加え3時の回も追加することにしました。
詳細はplanB
artcamp@adgnet.or.jp
電話03-3384-2051(高橋)または03‐5340‐3860(斎藤)
までお問い合わせください。
大友良英のJAMJAM日記別冊連載「聴くNO.1」2002年4月
Date: Fri, 19 Apr 2002
なんだか新聞を読むのが憂鬱になるくらいいやな事件が世界中で起きてますがみなさんお元気ですか?
今回はJAMJAM日記別冊「聴く」の連載第1回ですが、その前に雑談をちょっと。
先日副島輝人著「日本フリージャズ史」(青土社)を入手しました。あまりの面白さにあっという間に読了。60年代、東京文化の中心が銀座で新宿が文化的には辺境の地であったこと、だからこそ新宿がフリージャズ勃興の中心地になった・・・なんてみなさん想像つきます?
もうずいぶん古い話になりますが、10代の頃わたしは福島のジャズ喫茶で副島さんの手による8mmドキュメンターリー「ドイツメールスジャズフェスティバル78」というのを見ています。ディレク・ベイリーやハン・ベニンク、ブラックストンなんかがでているフィルムでしたが、わたしはその内容はほとんど覚えていませんし、もしかしてちんぷんかんぷんだったのかもしれません。それでも、上映後わたしは副島さんになにか質問をし、それにものすごく丁寧に答えて下さったのだけははっきりと覚えています。いまとなってはどんな質問だったのかまったく思い出せないのですが・・。その後も副島さんとは現場で何度となくお会いしてきました。若造だったわたしには常にあたたかいアドバイスを、実際に音楽家として活動するようになってからは、厳しい批評家の視点をいつもぶつけてきてくれました。時には東京のライブハウスで、時には欧州のフェスティバル会場で。わたしが初めてお会いしてから今日に致るまでの25年間、副島さんは、常に現場の人であり続けています。ここまで現場に長期間にわたり絶やす事無く足を運び続けた評論家はわたしの知る限り副島さんと清水俊彦さんだけです。この一点においてわたしは副島さんを支持出来ます。生意気をいえば副島さんには「日本フリージャズ史」を書く資格があると同時に、現場にいた証人として、これを書くと義務があるとわたしは思っていました。
残念ながらわたしと同世代の即興やフリージャズ関係の評論家のほとんどは90年代後半を境に現場で顔をみかけなくなりました。現場にこなくなった批評家が、見てもいない最近のわたしのことを書いているのを発見すると背筋が寒くなる思いです(正確にはものすごく腹がたって、ぶん殴ってやりたいくらいだ!)。「だって現に面白くないじゃない」ある人はわたしにそう答えました。わたしのことではなく、今のシーン全体に対してです。少なくともわたしがこういう音楽にかかわりだしてから一度だって東京から面白いミュージシャンがいなくなったことなんてないと思っています。固定したCDと異なり、現場でおこることはいつだって不十分で不完全だけれど、輝くなにかの宝庫でもあります。ほんの数人しか客のこない東京の若いミュージシャンのライブで、欧州の強豪が列挙して出るようなフェスにでても十分通用するような音楽にでくわすことだってあるし、しょうもないたれ流しの即興の中に、今の世代が切実にやりたい何かを見つけることだってあるわけで、そう考えると、クオリティはともかく、いつだって新しい出来事はそここでおこっていると思っています。わたしが現場が大好きなのはそういう発見があるからです。自身の感受性の疲弊を音楽の現状のせいにして・・・とまではいいたくないけれど、少なくとも音楽について批評なり文章をかく以上、その音楽にココロをときめかせていてほしいし、さもなくば、それについてなぜ何かを書かなくてはいけないのか、わたしにはさっぱりわかりません。そういう文章を前に徒労を感じたときに、ちょうど読んだのが、この「日本フリージャズ史」でした。この本の最大の良さは副島さんのココロのときめきが、音楽を語る大前提になっているってことで、だからわたしは、まるで面白い物語をよむかのように読了してしまったんだとおもいます。人生が変わるくらい70年代の日本のフリーミュージックにココロをときめかせていたわたしには、この本は本当に素敵なプレゼントでした。
音楽を好きになることと恋はそっくりだとおもうんだけど・・・ おっとっと、なんかちょこっと書くつもりがついついながくなっちゃいました。え〜と、他に最近読んだ本で深く深くかんがえさせられたのはスーザン・ソンタグ「この時代に想うテロへの眼差し」(NTT出版)これについては、とても今は感想なんてかけないけど、機会があったらぜひ読んでほしい本です。
では連載「聴く」1回目です。
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聴く 第1回
大友良英
「聴く」という行為と音楽の関係を少し整理して考えたい・・・これがこの連載を始める第一の理由だ。無論自身の創作の糧になればと思ってのことだが、わざわざ文章にするのは、そのことによって、リスナーがわたしの音楽を聴くさいの手助けになればいいともおもうし、もうひとつはマイナーな現場でやや流行語的に語られ、時にそのことによって不当な反発すら買うことになってしまった日本生まれの「音響」なる言葉に対する私の態度を明確にしておきたいという気持ちも含まれる。
この言葉が使われ出したこと自体は、単なる流行や新しいジャンルを示す言葉などではなく、音楽史のうえで必然的なものだと思っている。菊地成孔が5月より音楽美学校で始める「商業音楽理論講座」講座概略の中でわかりやすく指摘しているのでそのまま引用させてもらう。
菊地の講座は主にこの「音韻」に焦点をあてるもので、概略の冒頭であえて「音響」を持ち出してきているのは、そもそも音楽は「音韻」と「音響」という別々のパラメータで見たり、聴いたり、分析することが可能で、実際には、どちらか一方だけで成り立つことはなく、両者は不可分な関係にあるという前提を示すためだ。したがって、ここでまずわたしが明確にしておきたいのは、わたしがあえて「音響」なり「音響的」という言葉を使うときは、音楽のジャンルやある音楽のスタイルをしめしているのではないということだ。それはその音楽がどういう文脈や態度で創られているかを示す場合もあるし、リスナーが音楽の何に焦点を定めているかの態度を示す場合もあるし、従来ど懈おり客観的な音の現象を扱う用語として使う場合もでてくるだろう。音響派と呼ばれることの多い音楽家の多くが「音響派」と呼ばれくくられることにははっきりと抵抗を感じるのは上記の理由によるものだ。とにかく今回の連載では、このへんについてはなるべくあいまいにならないよう注意しつつ進めたい。
先ほど音楽史のうえで・・と書いたが、そう書くと、ならなぜ「音響」が日本だけのローカルな概念でしかないのか・・・という反論がきそうなので、先手をうてば、まず全ての用語ははじめはローカルなものでしかなくて、西洋からきた用語や概念だって所詮ははじめはローカルな概念でしかなかったはずだ。実際には欧米語圏でも「エレクトロ-アコーステイック」とか「リスニック」という言葉で、これに近い概念が同時発生的に流通しているし、日本のこうした現象は「ONKYO」という用語で紹介され、そのままこの言葉が「KARAOKE」のように流通しているのだが、現時点では日本語の「音響」も含め、双方で互いにいい訳語をみつけられずにいるのが現状だ。それともっと大切なことを書けば、わたしがここで言っている音楽史というのはロマン派から現代音楽へ・・・みたいな西洋ローカルの進化論的な音楽史の話ではなく、20世紀を通じて音楽の授受方法がメディアによってなされるようななった・・・という巨大な変化を大前提とした音楽史の話なのだ。各ジャンル内でおこっている音楽進化・・・それは主に音楽家による音韻の更新と複雑化を進化と呼ぶ歴史でもある・・・の歴史絵巻ではなくて、音楽をわれわれはどう聴いてきたのかという歴史の中で「音響」という言い方が出てくる必然をわたしは感じている、という話だ。
前提が長くなった。次回からは、概念論的な話ではなく、わたしの日常と創作にもっと即した形で、実感してきたことを中心に、時に脱線や道草をしながら「聴く」について、あれこれ考えてみることにする。