| 僕がインターネットを知って・浸って早いものでもう10年ぐらい過ぎました。ホームページというものを作りはじめたのが大学1回生の終わりぐらいだったかな。最初はパラッパラッパーのイラストやらそんなものを描いてのっけてましたっけ。あれから数十回を超えるホームページ全体のリニューアルをしてみました。何回かまではほんとうにあっちこっちのホームページをみたり面白いアプリケーションを探しては使ってみてその成果をだしてみたりでした。いつのころかふと「人に見やすいホームページにしよう。やるならとことんやってみよう」と思い、でも反映はされてないのですが現在の状態になってきました。結局気がついたら、「何のページなんですか?」って質問には答えられないよくわからんページになってしまった。JavaScriptが花盛りだった頃は不特定訪問者もちらほらいたりしたんですが最近はめっきりさっぱりです。さてそんな現在の僕にはあやふやながら人生のビジョンが見えてきました。それは方向から言うと僕の願望を叶えるという感じ。具体的には言えないけど、幸せになりてぇって希望でいっぱいで、僕が幸せになるためにはどうすればいいかと考えて考えてまだまだ考えつづけなければいけないですが、結局たどりついた答えは「みんなが幸せになれば良い」ってことでした。単純で誰でも思い付く答えではあるんだけれど、実際はこれ難しいですね。今の社会は競争社会、幸せになるためには誰かが犠牲になってしまいます。というのは、僕の強い思い込みが影響しているのかもしれないですが、だいたい正解じゃないかとは思ってます。その、競争社会の在り方を変化させることが幸せへの道ではないかと考えてます。どうやるの?かといいますと、まず、みんながパワーアップすればいいと考えました。全体の底上げです。これにより得られる結果は計り知れません。フットボールの世界では近年、底上げによって目覚ましい変化が起こりました。日本人プレーヤーが世界で戦えるようになったことです。92年Jリーグ発足から10年かからずに変化しました。このスピードはすごいです。世代でいうと1世代です。発足後の世代がすでに世界で戦える選手になっています。これはJリーグという環境が作られ、Jリーグチームの争いが起こり、発生したJリーグという日本サッカー内で起きた全体のパワーアップです。結果として、世界的に活躍するプレーヤーが生まれ、お金もたんまりもらえるようになります。幸せになりました。といっても、全員が幸せになったかと言うとそうでもないのですが。日本サッカーはワールドカップに勝つという目標のもと、Jリーグという環境が考案され、日本サッカーがパワーアップした。これを日本という国に置き換えて同じようにパワーアップすることができるのではないでしょうか?というのが大体僕の幸せへの道を言語表現したものです。ふたたび日本が世界で活躍するには僕らが努力必要があるのは当然ですが、世界大戦で戦うためのJリーグのような環境が必要になっているのではないでしょうか。それでは僕がそれを作る仕事につくっきゃないっていうことになりました。決定です。独りの天才が世界を変える時代はもうとっくに終わっています。そろそろ本格的なみんなで世界を変える仕組みが出来てきてもいいんじゃないでしょうか。 | |
| 1、教育を変えるのを変える 日本の教育を変えるのは政府ではない。僕たちだ。変えてもらうという気持ちでは変わらないのはもうすでに経験したと思います。その理由は簡単で、変化したことを経験していないからです。変えようとしている人たちは確かにこれじゃいかんと思っているのでしょう。しかし、その教育を与えられている人たちにとってはそれが与えられたものであって、それがすべてなのです。日本にもっと再教育を受ける機会があるのなばら、教育の変化による僕たちの変化というものが得られるのかもしれません。どうしてそういう環境を作ってくれないのでしょうか?そう、作ってくれないのでしょうか?じゃなくて、作らなければ。です。そもそも国が教育を仕切るというのは無理な話しではないのでしょうか?日本人口は1億超えてます。それに一つの機関で対応できると思えますか?教育環境というものは僕らが作らなければ成立しないと言えるのではないでしょうか? |
2、教育から学習への切り替え 教育という言葉はいろいろな捉え方があるが,憲法にのっとって解釈するならば,教育とは,非教育者へ教え・育むこととなるようです.そして非教育者はそれをうける権利を所有している.そういうわけか,僕は教育は与えられるものであるように感じられる.すなわち,教育では,主体が教育者側にあると考えている.教育者が非教育者へ教えることからはじまり,非教育者が教えを受け取る.非教育者の可能性は教育者の技量の範囲である.そこに存在する教育環境は一環して変化の無いものが想像される.一方学習という言葉は,学び習うという意味がある.こちらの主体は非教育者,つまり学習者にある.学習者は自ら学びはじめ,教育者に助言を求める.学習者の可能性は教育者の技量を超え,常に変化しつづける環境が生まれる.僕が望むものは当然,後者である.学校には,少数の指導者(教育者),多数の学習者と取り囲む環境によって成り立っている.教育環境,学習環境共に同じものを必要としている.しかし,教育と学習では指導者の在り方が違うと考える.教育では,指導者の技量の範囲で運用できるが,学習では,学習者の問に柔軟に対処できる指導者の技量が必要である.また,環境を考えると,教育では知識・記憶が指導者の中に有ればよいため,補助的なものを必要としない.学習では,学習者は常に変化すると想定されるため,彼らの知識・記憶を指導者が管理する補助的な道具が必要不可欠と考える.さらに,指導者は学習者でもある必要があると考える.例の「ゆとり教育」は,非教育者に学習者としての機会を与えてあげようというものではなかったのだろうか.しかし,そこに学習者の存在できる環境があるのだろうか?指導者は変化したのか? |
| 3、学びのための時間と空間 従来どおり,基本的なものを学ぶことは重要である.しかし,今まで通りやればいいとは思えない.というのも,学習者は当然それぞれが違った価値観,それまでに築いてきたものがあり,各々が違ったものを持っている.そこに同一の指導を行うことは望ましくない.学習時間,学習パターン,指導方法を学習者各々に違う形で与えてあげることが望ましい.そして全力で学習者に学習させることが望ましい.ここからがゆとり教育の出番である.学習者に一番必要なものは,学校という枠を超えたところにある情報である.情報を得ることで,興味や夢,学習への大きな飛躍が期待される.出逢いや体験からコミュニケーションを学び,基本を学習することの重要さを感じ取る.ゆとりを教育カリキュラムにくみこむ必要は最初から無かったのだ!結局,今回のゆとり教育の失敗は,すべてを教育者が仕切る思想,学校という枠を超えられない病弱な,肝っ玉の小さい考え方が理由なのではないだろうか.ゆとりのある環境をめざしていかなければならない. | |
| 4、研究者として 僕が今できることは,学習者たちを補助する環境の構築だと考える.永久的な変化に耐えることの出来る,情報の溢れる,コミュニケーション豊かな環境を築くことが本当の目的です. | |
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