歪んだフィルターの向こうとこちら |
(6) もの言う社会 |
(この文章は,1995年11月に自主制作で発行された「イギリスのこと。」第1号の文章を,2001年3月にリライトしたものです。)
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確かにステレオタイプは便利である。特に自分(自分たち)とどこが違うのかに焦点を当てれば効率がよい。強調された違いはインパクトが強いしわかりやすい。 だけど本来ステレオタイプは,誰かと意思疎通をするのに必要不可欠なものではない。 必要不可欠なのは,曇りのない目で見て,自分の自由になる範囲の言語手段を用いて,自分の考え/意見を伝えること。 現地の人とコミュニケーションを取りたいのであれば,イギリスに関するうんちくを詰め込んでいくより,他にやることがある。 英語などはまあどうにでもなる。でも,ある程度話ができる材料を自分の中にインプットしていかないと何もできない。 向こうに行ってみて私自身一番強く感じたのは,「自分の国についての知識が何て乏しいんだろう」ということだった。日本で生活している時はあまりにも当たり前で,あえて言葉にして考えたりすることもない事柄は特に,向こうの人と話をしていても,まったく説明できない。英語がどうのこうのと言う以前に,自分の中に言語として存在しない。しゃべるネタになってくれない。 また,一般的に,私たちは教育の過程で自分の国についてあまり詳しく学ばない。「日本」について考える機会もあまりない。そのまま知らずにいることが多すぎる。 例えば,イギリスの人は普通,王室というものについて自分なりの意見を持っている。テレビで王室関係のニュースが流れれば,そこに居る人の間で,王室をめぐる議論が始まるのも珍しくない。それがインテリ階級(という言葉が正しいかどうかは別として)の人々でなくても。 そして,そこに日本人が居合わせれば,当然日本の皇室について訊かれる。 これに(英語で)答えられるかどうか。 まじめな討論とかするわけでもないのに,そんなことを話す機会がごろごろしているのだろうか。 している。 日本で,趣味でつながっている友達同士でテレビを見てて,皇室のニュースが出てきた時に,「皇室の存在意義」とかの話になることは,一般的にはまずないだろう。 でも,イギリスではそうではない。音楽がきっかけで集まったグループが,チャーリー・ワッツのドラムについて話すのと同じように,王室のことを話し政府のことを話し,次の選挙のことを話す。最近見たバンドの話もするし,アフリカの飢餓の話もするし,どのスーパーのミルクが一番おいしいかについての話もする。 あなたがもし,向こうで理解されたい,友達を作りたい,と思っているなら,まず「こんなこと言ったらまずいのでは」とかいうことは一切考えずに,自分の思っていること(opinion)を話さなくてはならないし,また,そうできるようにならなくてはならない。そうじゃないと「この人はどうせしゃべらないから」と相手にされない。 「話をしない=つまらない」とされる。言葉にできないということが,人格を疑われることにも直結しうる。(もの言う社会とは恐ろしい。)口数が少ないと損する。大学の討論などでは,発言の中身がどうこう以前に,「言いっぱなしのしゃべった者勝ち」という雰囲気すらあるという。(それについてはショックと同時に,違和感を覚える日本出身者もいる。)何も言わなければ存在していないことになってしまう。 とはいえ,しゃべるのはかなり大変だ。英語は私たちにとって母語ではないから,知ってる(=使える)英語にも限界がある。何て言うべきなのか単語が見つからず,右往左往してしまうこともある。「うわ〜,こういう時どういう単語使うんだろう」とか焦って,脳内の和英辞典を使って探し当てた単語が,実は微妙に意味が違ってたりして,自分の言いたいことが相手に伝わらない,ということも個人的にずいぶんたくさんあったし,それが誤解に結びついて悲しい思いをしたこともあった。 それでもとにかくしゃべることが,あちらで人間関係を作る上で大切。誰にだって,たまにはしゃべるのが面倒に(あるいは恐く)なって,ただぼーっとしていることもあるだろう。でも,そこで大切なのは,それでもしゃべってみるということ。そういう時でも「何故しゃべりたくないか」を言葉にすること。 とにかくしゃべってしゃべってしゃべり倒す。単語の羅列でも何でも,とにかく口にする。何か意見を訊かれたら,「知らない」だけじゃなく,「自分は〜〜だから,そのことは知らない」と言う。 ただの旅行じゃなくて,友達がほしかったり,あるいはあちらに住むつもりで行くのなら,そういうことについて考えておくのも準備のうちかな,と私は思う。(自分への戒めも込めて。)
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おしまいです。 |
(c) no frills, 1999, 2001