赤貧洗うが如しというが、赤貧を洗う水さえなかった貧農の子せがれ時代
こういうことがあったから、ワシのドラムは底辺を這いずり回る怨念と怒りのドラムなのか----。

赤赤貧貧ビンビンボー
いま書き残しておかないと語り継がれない、赤裸々な氏と育ちの赤貧の真実 / のなか悟空の過去への旅



「その1」家族の肖像

氏も育ちもアカンわ・・・


■八人兄弟の末っ子として・・・
 いゃあまさに赤貧の極致でしたなぁ・・・昭和の26年生まれ。
九州は大分県、大野郡の野津町、現在は臼杵市に統合されて臼杵市野津町になっている。

 そんな寒村の水飲み百姓に生を受けたのは、明治35年生まれの父親が50歳、大正元年生まれの母親が40歳の時で、8人兄弟の末っ子としてであった。
実はこの母親、大正の時代にはよくあったことらしいが父に嫁いでくる前に、ある事情があって2-3歳ほどの私生児を嫁入り時に連れて来た。その私生児は父との間に長男が誕生する前後に、お菓子をエサに母親の里に連れて帰った。そこいらのいきさつをたったの1−2行の記述で終わるが、私の生まれる20年も前のこととはいえ、小説よりも奇なる壮絶な現実のドラマがあったことだろう。成人してここいらのいきさつを母親に尋ねようと思っていたが、母親は私が22歳の時に鬼籍に入ってしまったので、残念ながら聞き逃してしまった。



■大正時代にストリーキング&殺人者&ちゅうれもん

 おやっ?
ところで・・・そもそもどうして父親はコブ付きの嫁を貰わねばならぬ状況だったのか?何かの欠陥でもあったのか?そこいらの詳細は生まれる以前の私が知る由もないが、母親から子供の頃に聞いた話によると、若き日の父は大正時代の末期か昭和の初期かは定かではないが、一糸まとわぬ姿で『きたきたきたきた〜!』と、何かに憑かれたかのように村中を走り回ったという経歴があるのだそうな。

 それだけではない−−−父は殺人の過去を持つ。
というのも父の若き日の時代、私の村では近隣の村と合同で年に一度村の祭りを催すのだが、当時近隣にどうにも手を付けられないヤクザな悪人がいて、近隣の村人達を困らせていたらしい。そこで私の父を始め我が村の若い衆が集まって協議し、この村祭りに日にそのヤクザな悪人をいっちょ懲らしめてやろうということになったらしい。
 ところが−−−だ。
しょせん親爺達は小心な百姓どもの集まり。クワやカマを武器に手にして取り囲んだのはいいが、相手は猛獣のような百戦練磨の猛者だ。親爺達は無我夢中で襲いかかったのはいいが、臆病風に吹かれた集団だったため力の入れ加減が分からない。ついつい固い畑を耕すような、大きな枝木をきるような力の入れ具合で攻撃してしまったもんだからたまらない。もうそろそろいいだろう・・・と親爺達が離れた時は、相手はとっくに死んでいた、というのだ。

 この事件のせいで若き日の親爺達は何年間か監獄に入ったらしい。どれくらいの期間かは知らないが、『殺人罪にしては意外に早く出て来たらしい』とは昭和7年生まれの長男の弁だが、果たしてこのとき長男が生まれていたのか、生まれる前なのかは聞いてない。あまり誇れることではないので、多くは語りたがらないのだ。

 さて、この事件のお陰で100年前後も経った現在でも、その村祭りが催される日が近くなると、我が村は町場の商店に集金に歩くとのこと。これはとりもなおさず若き日の親爺達が鬼退治をしたお陰で、近隣の村々や町場が平穏でいられる、その御礼をも含めて村祭りの協賛金を貰って歩くという慣習が今も残っているというからオドロキである。
 親爺達のやっちまった仕事は、刑法的には暴行殺人罪ではあるが、ある意味「鬼退治」的な要素が多かったのだろう。だから刑期も短かったのだろう。まぁ、過剰防衛の過剰すぎた極みとでも言うのだろう。私はそんな若き日の父親を誇りに思っている。百姓がクワや鎌で勝負するってカッコイイじゃないの。これこそ百姓の本領発揮である。

 余談だが、この事件のせいなのか、極度のウサギ眼(眼が真っ赤だった)せいか、コブ取り爺さんよろしく腰回りに肉まん大のコブがあったせいなのか(おかげでベルトが不要)、年齢のせいなのか、親爺は徴兵は受けなかった。長兄の話によれば、徴兵検査は受けたものの、甲乙丙丁のうち最低の丁だったという。頷ける話だ。

父の写真入る

 「ちゅうれもん」というのは我が町の方言だが、これが大分弁なのか九州弁なのかは確認していない。
同じような意味で「釣り上がり」という方言がある。いずれもお祭りやイベントの時に、真っ先に沸き立って落ち着いていられないお調子者、という意味である。その「ちゅーれもん」というのが私の父親で、やれ近隣の祭りだの踊りだのがあると聞くと、そわそわして落ち着かず農作業に手が付かない男だったらしく、それが田植えの最中だろうと、稲刈りの最中だろうと、農作業をほったらかしにしてイの一番に駆けつけてしまうほどの男だったらしい。

 ただ駆けつけるだけならまだいい。
盆踊りなどはとっとと櫓の上に駆け上って、祭り太鼓を叩くか得意の喉を披露していたというのだ。
長兄が話していたことがある。
『稲刈りをほったらかしにして親爺が消えたので心配して探していたら、案の定○×村の祭りで櫓の上で歌っているのを呆れたことがある』
然り!そういえば私が幼稚園か小学校の低学年の時分に町場であった祭りに行ったら、親爺が櫓の上で声を張り上げていたのを見たことがある。子供心にも恥ずかしかったが、まったくトンデモナイちゅうれもんだったのである。

 というわけで以上の三点の汚点のお陰で、父には嫁に来てがいなかったが、そんな時に嫁の口があったのが子持ちの母だったのである。というわけでどっちもどっち。五分五分のハンディキャップを持った夫婦だったのである。


■そんな父だって苦労はしたのだ
 そんな父親も戸籍を見ると、悲しくなってしまう人生だったのである。
明治35年生まれの父がどれくらい苦労をしたかなどは本人の口からは一度も聞いたことが無いが、戸籍謄本を見てつい最近分かったことがある。ナント!・・・父は農家の跡取りにもかかわらず四男だったのである。ふつう農家の跡取りといえば長男と相場が決まっている明治時代において、こりゃまたとんでもないことだと思い、長兄に聞いてみた。結果、長兄の言うには上の三人は未熟児かなんかで早々に死んだとのことなので、四男の父がやむなく跡を継いだのだと・・・。

 さらに知って驚いたのは・・・父の母親は早々に亡くなり、私が4歳近くまで生きていた祖母が実は継母であり、その継母は嫁いできてから三人の娘を産んだとのこと−−−。なぁるほど・・・だから四人兄弟姉妹とはいえ、下の三人とはお世辞にも親しくしているのを見たことが無かったわけだ。

 父から直接聞いたのではなく、父に肩を持つ他人の口から噂話に聞いたのは−−−−父の継母は子供時代の父に辛く当たり(継母といえば定番だが)、尋常小学校の学業ももそこそこに(当時の就学率は低かった)、無学同然のまますぐさま家の手伝いをさせられ、三人の妹達を養わされる事になったらしい。三人姉妹は蝶よ花よと育てられ、農家の汚れ仕事は父の手だけに委ねられたと言う。果たしてこれが事実かどうかは知らないが、これは父に肩を持つ人の発言だから自然そうなるのは仕方ないこと。私などは想像を絶する苦労をしたであろう事は容易に察しがつく。いずれにせよ、三人の叔母さんたちからは、お年玉を貰ったりだとか、特に可愛がられたという記憶は無い。


■母の生まれも・・・
 実は母方の家庭も複雑だったようだ。
今となっては事実を知る人はこの世にはいないが、年取った兄姉に聞いたところによれば−−−−母の実母は早くに亡くなり、母の実父は昔よくあったように働き手が必要だったので継母を娶った。その継母から生まれたのが母の唯一の兄弟である叔父−−−ということは・・・父の妹たちは父親だけ同じで、母は継母。母の弟は父親だけが同じで、母は継母。まるで自然と集まる塵と芥があつまるように、私の父と母は似たような境遇で育ち、結ばれるべくして結ばれた、塵芥のような夫婦なのであった。 

 母の自慢は高等女学校卒−−−。
父母の夫婦喧嘩の祭、母が父を「たったの尋常小学校中退で−−−」と言ってるのを聞いた記憶がある。すると父が「オマエだって大した事ねぇよ」と言うと、「ワシゃ犬飼高等女学校を出ちょるもん!」と威張っていた。幼少の私が母にそれを尋ねると、「尋常小学校は今の小学校じゃけんど、高等女学校は今の中学校じゃけんな」と自慢げに説明してくれたのを覚えている。果たして−−−嫁に来る前に一人の女児をもうけたキズ者とはいえ、母は当時の田舎としては高学歴のエエとこの出が唯一の誇りだったようである。

 字は父のほうが格段に−−−。
そんな母ではあったが、文字の方はからっきしダメ。高校を終えて就職した頃にはさんざん母の手紙を貰ったが、判読困難なほどの金曲がり文字で難儀を極めたが、低学歴ではあったが父の筆字は上手かった。村で何かの書きものがあれば必ず、村人の誰それが「清やん 字ぃ書いちくれんかねぇ」と依頼に来ていたほどだ。だが、字の上手下手と頭の程度は全く関係は無い。私のすぐ上の姉などは頭はイマイチだったが、字ぃだけは弘法大師のように上手かった。かといって練習しているのも見たことが無いから、これだけは天分なのだろう。


■凶器を投げつける父親
 何が飛んで来るか分からない
  親爺が「ちぇっ!」と舌打ちをして、真っ赤な目でこっちを睨んだ時は超、警戒警報の発令である。こっちは首をすくめて怒りがそのまま収まるか、何か凶器が飛んで来るか見極めねばならない。視力が悪かったのかどうかは知らないが、舌打ちしをすると同時に親爺は後ろ手で何か凶器になる手頃な物を探っているからだ。そのままで終えればいいのだが、「ちぇっ!」に続き、「うぬぅしゃ〜!」と怒号が飛び出した時には、親爺がブッ切れた時、こっちも床を蹴り上げてその場から逃走しなければ何が飛んで来るか分からないのだ。

 学芸会の前の日にドンブリ鉢が飛んできて
 小2の学芸会の前の夕食時のことだ−−−5歳上の姉がさかんにおどけた顔をして私を笑わせた。今なら夕食時の一巻の団欒に笑い声が絶えないというのは平和な家族の象徴だが、当時の我が家は食事時に笑うなどということはもってのほか。そんなことでさえ親爺の逆鱗に触れてしまうのである。そこへもってきて姉がさかんにヘンな顔をして私を笑わせるものだから、今にも笑い声を立てそうなのを我慢するのがやっとこさだった。
 その刹那!
『何がおかしいんじゃ〜い!メシ食べながら笑うもんじゃねぇ〜!』
と叫ぶと同時に、正面に座って食べていた親爺のドンブリ鉢が私の額に飛んで来た。もう痛いとか痛くないとか言うより前に、私の額から流れ落ちる鮮血がダラダラ伝って落ちた。

 翌日の学芸会での発表の日、2年2組の出し物は合奏で、私はビブラホンを担当。かねてから木琴で練習していたドソミソ−ドソミソの分和音を二本のバチで演奏したのだ。私の額にはあたかも鉢巻のように、まっ白な包帯が巻かれたいたのである。当時ウチには包帯などという気の効いた物は無かったし、翌朝わざわざ医者に行くなどということもしなかっただろうから、おそらくケガをした翌朝、学校の保健室で巻いてもらったものだろう。定かな記憶は無い。なんせ半世紀も前の事だもの。


 鎌だって飛んでくるぞ!
 親爺が「うぬぅしゃ〜!」と叫んだと同時に凶器が飛んでくるのを体験的に学んだ私は、ある時またもや床を蹴って居間から飛び出した。逃げれば追って来るのが農耕民族とはいえ親爺の常。そこで私は後ろからの親爺の発する怒号で、体験的にハサミならここまで、鎌ならここまで逃げればひとまず射程距離外距離感覚を掴んでいた。だが、ハサミや金槌、ホウキならまだいいが、鎌となると逃げながらも油断は禁物!鎌という凶器はまるでラグビーボールのように、いったん着地しても刃の部分がバネになって真横に飛ぶ場合があるのだ。もし私の真横に鎌が飛んで来て落ちたなら、私は逃げる方向へではなく、落ちた鎌から真横に飛ばなければ危険を回避できないのである。サスガは我が親爺。いいことを身を持って学ばしてくれたのでる。


■短気で乱暴者の夫婦
  父と母は似たような境遇で育ち、結ばれるべくして結ばれた、塵芥のような夫婦なのであった−−−とは前にも言ったが、以上のように親爺の短気で乱暴な気質は類稀であり、他でも滅多に類を見ることはあるまい。だが−−−塵芥の似たもの夫婦はその「短気」さに於いては、そうそうお目にかかった試しが無い。その短気で乱暴者の塵芥夫婦の些細な喧嘩のキッカケはいちいち記憶に無いが、その罵り合いや怒号が飛び交うのが我が家の一風物詩であり、生活の一部になっていたので大して気にはならなかったが、たまに夫婦が竹箒(外を掃除する長い竹の箒)と六尺棒(肥桶やザルを担ぐ棒)でチャンバラするのは見かけた。たいていは父が負けて敗走し、母親が六尺棒を持って怒号を放ちながら追いかけていたのを覚えている。赤貧ゆえに些細なことからチャンバラになっていたのであろうが、半世紀も経って思い出すと、悲しくも懐かしい光景ではある。

 受け継がれてしまった負の遺産
カエルの子はカエル」とはよく言ったもので、塵芥で短気で乱暴な夫婦の子は、やっぱり短気だった。悲しいかな両親の子供達は私を含め殆どの兄弟が超が付くほど短気で癇癪持ちだったのである。それにまつわる私個人の武勇伝は多々あるが、多くはその短気さゆえに結果的に自らの運命をいい方向へは導いてはいない。あの短気な母でさえ、『短気は損気』と言って自らを戒めつつ私らに言い聞かせていたのだから笑える。

 私の短気の症例をいちいちあげつらえば、刑事事件に発展しまいいかねないしヒンシュクを買ってしまうので例は上げないが、その兆候について述べよう−−−今流行りの言葉で言えば「キレる」という例えがあるがまさにソレ。その切れる瞬間は、自分でも管理下に無い。ゼロ・コンマ○○秒だけ、瞬間的に全ての善悪の判断機能が停止してしまい、それが言動なり行動に出てしまう事がある。そして数秒後に反省する、そういった症候なのである。これもある意味、○×症候群とでも言うのだろうか。私の子供達には受け継いで欲しくない負の遺伝子である。

 だが、超短気な遺伝子も考え方によっては適材適所で、これはドラムを叩く場合には非常に有益である。
誰かのアドリブのフレーズに、反射的に即答したフレーズで応じることが出来る。モタモタしていてはこんな電光石火の反応は出来まい。

 

■乱暴者の長兄
 平手やパンチは当たり前
 昭和7年生まれ、私よりは19歳年上の長兄は父親が30歳過ぎ、母親が20歳過ぎだった時の子だったせいか人並み以上の体格に育った。若い頃の体重が20貫(約75Kg)で身長は175cmはあったから、当時としては大柄な部類に入った。この長兄の乱暴さといったら無かった。下の7人の弟妹に対して威張り散らし、なにかというとすぐに暴力を振るった。私などは19歳も年下にもかかわらず、平手打ちは当たり前、ゲンコツやパンチを食らうのは日常茶飯事だったのである。

 酔うと日本刀を振り回す癖
 長兄は自分の部屋の箪笥に日本刀の長刀を隠し持っていた。それが当時、銃刀法違反にあたるのかそれとも許可は取っていたのか、幼かった私には知る由もなかったのたのだが、家族が恐怖のどん底に陥れられたのは、長兄が一升酒を飲んで帰宅する夜だった。
 当時の私が8−9歳とすれば長兄は27−28歳で元気な盛りである。それが大酒を飲んでやれ刺すだの殺すだのと言いながら、私や母を追い掛け回すのだから堪らない。私や母は連れ合って他の親しい家に避難して隠れていたのである。こういった時の父親はどうしていたのか?自分が逃げるのが精一杯で父親にまで気が回らなかったが、一度だけ長兄と父親が取っ組み合いの喧嘩をしていたのを目撃したことがある。

 ある夜、長兄は例によって大酒をしこたま飲んで帰宅し暴風のように暴れていた。長兄は触らぬ神に祟り無しとフテ寝を決め込んでいた父親の両耳を引っ張て床から引きずり出し、馬乗りになって殴りかかったのでる。
『うぬぁ〜!まだお前なんぞにゃ負けんぞぉ〜!』
と、下になった父親の怒号を聞きながら、私と母は親しい他家へ避難したのだった。よって長兄と父のガチンコ勝負の結末は知らない。当時の長兄が27−28歳なら、親爺は58-59歳。今の私の年齢と体力を考えてみるに、大柄な長兄には叶わなかったのだろうと思われるが、翌日に父親が特にケガを負っただとかいう記憶も無いことから、適当に痛み分けしたか、親爺が逃げたかしたのだろう。
 思い出すだけでぞっとする長兄の悲しい家庭内暴力だが、こういった泥酔による日本刀振り回し事件や喧嘩の原因は、ただひとこと−−−「貧しかったから」ではなかろうかと思うのである。金がない、貧しい、ということはこうも人を浅ましくさせるものなのだ。この大酒のみの長兄の記憶がトラウマとなって、私は酒飲みが嫌いであり、自分も好んで酒を飲むことはしない。

 風呂は絶対に長兄が先
 このワガママな長兄は何が何でも一番風呂にこだわった。
小学生の私が焚き木を集めて風呂を沸かすのが夕方。その夕方に沸かした風呂も長兄が帰宅するまでは夕食を終えようとも、就寝時間になろうとも、夜中の12時までは、絶対に先に入ってはいけなかった。グーパンチが恐くて先に入ったことはないが、父母であれ、兄嫁であれ、無駄だと思いながらも誰も入ろうとはしなかった。したがって私が高校を卒業して実家を出るまで、彼より先に風呂に入ったことは殆ど無かった。




「その2」幼児期の思い出
■パンツをはいた記憶が無い
 
私は小さいころ押入れを引っ掻き回すのが好きだった。それはある意味私にとって「探検」で、まだ見ず知らずの不思議な物が、たくさん押入れに隠されていたからである。そこである日発見した物が、風呂敷ほどの大きさの黄色いゴム敷きのもの・・・(これっていったい何なの?)不思議な風呂敷を母に見せて問うと、「そりはオマエのオムツじゃ」とのこと。自分のオムツを発見した事は探検も探検、自分のルーツ探しでも究極の探検の成果であった。


私の幼少の写真入る
 ところで私はいつからパンツをはくようになったのか・・・?
私より2級上の昭和24年生まれから、我が故郷の町の幼稚園は開校された。昭和26年生まれの私らは第三期生に当たる。いくらなんでも幼稚園に通うようになってからはパンツははいたと思うがそれ以前の記憶が皆無なのである。
 −−−というのも・・・写真のあるように、私の幼少期はネル地の着物が主で、まるで「天才バカボン」のような格好をしていた。バカボンと違うのは彼が靴なのに比べ、私はゴムの長靴を愛用していた。まぁ町場の人と違っ農村の子供はパンツなどはかない方が排泄がてり速いし、大の場合は後ろから拭いてくれる母親の手間も省けるというものだ。
「さ、屈んでみろ。よしよしきれいきれい。なぁ〜んもついとらんわ。」
と、屈んだ私の後ろ側で、手抜きの母がそう言ったのを覚えている。

コンプレックスだった幼稚園時代
 姉のお下がりのブラウス
 幼稚園児でも女物のブラウスを着て、そのボタンが左側に付いていたというのが、幼稚園という公共の社会的な場所での最初のコンプレックスだった。他の男児は男物のシャツを着ているというのに、私のシャツはエリがまぁるいカットでボタンが左側。こんな些細なことは今になって思えば、大人でさえ気付かぬとは思うのだが、当時の私はそのこで小さな心を痛めていたのだ。遊び時間に皆が外で遊んでいる時、私は陽だまりの壁にもたれて、イジけながらひとりブラウスのボタンをイジっていたことを覚えている。
 
 ボールを棒で突いて
ポンポンと跳ねるバレー・ボール大のゴムマリは、私の村には無かったので生まれて初めて見た。そのゴムマリの弾むのに合わせてみんなが嬉々として遊んでいるのが羨ましかったが、私は閉鎖的な農村の子で遊びに加わることが出来ない。壁を背にしてポツンと一人立ち、園児達の遊ぶ姿を見ていた。

 −−−その時、たまたま私の足元にそのゴムマリが飛んで来た。
「おうぃ、ボール投げてくれよぅ!」
誰かが言ったであろう。だが、私の反応は違っていた。たまたま手に持っていた箸くらいの大きさの尖がっていた棒をそまゴムマリに突き立ててたのである。
「プシュゥゥゥゥ〜!」
ゴムマリはあっという間に凹んでしまった。

 私はゴムマリをパンクさせてやうと思ってやったことではない。そんな悪意は無かった。生まれて初めて手に取ったボールに、たまたま手に持っていた棒を突き立てたらどうなるのか?という単純な興味しかなかったのである。後で雪組の担任の釘宮先生と月組の広田先生たちから、こっぴどく叱られてしまったのを覚えている。
先生ごめんなさい−−−悪意は無かったんです。




「その3」小学校低学年の思い出
■風呂もらい
 小学校低学年時、風呂はなかった。だが五右衛門風呂の風呂釜だけはあった。ということは、以前は家に風呂はあったのだろうが、老朽化したか火事でもしたかで風呂釜だけしか残っていなかった。ま、風呂があったところで水道があるわけじゃなし、私の兄や姉が遠くの湧き水の湧く場所まで天秤棒担いで汲んでくるしかなかったので、そりゃあ大変な作業だった。それはたいがい他の家も同じで、自宅に井戸の無い家は大家族の飲料水を確保するためでも大変なので、風呂を沸かすなどということは滅多に無かった。我が家に隣家との共同の井戸があるにはあったが、小動物の死骸が入ったらしく、飲料はおろか洗濯にも風呂水にも使えず、使えるといえば防火用だけという状態だったのだ。山間部にあった我が村の井戸は深い。我々イタズラ坊主どもはどれほど深いか試すために、上から石を落として何秒掛かるか数えたものだ。

  村に水道が通じたのが、たしか幼稚園か小1の頃。
それでも我が家に風呂釜しか無かったので、風呂もらいの習慣は小3まで続いていた(小4に風呂が出来た)。それまでは、そういった事情から小学校低学までは、風呂は自宅で沸かさず井戸がある家の風呂をもらうのが習慣になっていたようだ。その要領というのが、夕方になると近所を見て歩いて、風呂から煙が上がっていれば風呂を炊いている家。同じ家ばかり行くと迷惑になると思ったのか、順繰りにローテーションをして貰って歩くというのが、今になって思えば母親の知恵だったようでもある。


■手足はまるでニワトリ
 その風呂もらいは毎日ではなく、せいぜい1−2週間に一度程度だったような気がする。その入浴の習慣は自宅に風呂が出来ても同様で、小4になった私が毎日風呂を沸かすわけがなく、せいぜい1週間に一度か10日に1度程度だった。

 それというのも事情があって、小学生の私が裏山から焚き木集めをして火を炊くことの危険性がある。焚き木を入れすぎると円筒から真紅の炎が上がり、ワラ屋根に今にも燃え移りそうになったからだ。
 そして理由はもうひとつ。
村にある水道タンクはさほど大きなものでは無いから、夕時にどの家もが水道を使い過ぎると、村でも高所にある我が家はすぐに断水してしまい、他所の家に水を貰いに行かねばならなかった−−−ということは・・・水道が出来ても出来なくても入浴の回数は限られてしまっていた。

 冬季でも夏季でも悪ガキはひたすら屋外で遊ぶ−−−そしてドロンコになって帰って来て、手足もロクに洗わず、洟もかまず、年から年中着たきりスズメで過ごす。当然フロもロクに入らなかったから、手足はまるでニワトリの足のようにひび割れ、ことに冬季はそこがシモヤケになって腫れて出血していた。ひび割れが割れると痛かったが、どっこい、ビンボー人の小セガレは根性が座っていた。それで痛いとかサブイとか言った事は無く、かといって風邪も引かなかった。しかもスパルタな親爺や兄貴は、『学校へは這ってでも行け!』と常々言われていたからだ。
 面白いもので因果は巡る−−−わしは現在、自分の息子に同様のことを言っている。







小1
■弁当のオカズ

 農家なのに学校に持って行く弁当のオカズが無かった。
ある物といえばウメボシとタクアンだけ。それで5歳年上で当時6年生だった姉が、義理の姉(経済の実権を握っていた)に10円玉を1個貰い、それで登校途中にあるオカズ屋で5円ずつの紙袋に入れてもらって弁当のオカズにしていたのだった。ついでに当時の物価は鉛筆が10円、鉛筆削りが10円、消しゴムが5円ほどだった。

■パンツの値段
 下着のパンツなどというものをいつ買ってもらったのか記憶に無いが、1年に1度、運動会の前の日だけは新品のパンツを買ってもらった。この時も姉と一緒に行き、真っ白な70円のパンツを買ってもらった。運動会にはくからとってそれが体育用のショートパンツではなく、れっきとした下着のパンツだったのだが、私にはそれが嬉しかった。


小2
■朝礼時は泣きたかった
 毎週月曜日だか、それとも週に何回かは忘れたが、ラジオ体操とセットになった朝礼があった。
別にラジオの体操が嫌いなのではない。ラジオ体操の時は上着を教室にぬいで置いたまま、グランドに出なければならないからだ。というのも・・・上着の下には着たきりスズメの安物の青いセーター。当時こういった安物のセーターのことを「糸毛糸」と呼んでいた。毛で編んだセーターではなく、毛に見せかけた中に糸が入っていたため、すぐに穴が開いてしまうという代物だった。その穴が実はお腹の真ん中に開いていて、それが日増しに大きくなっていたのだ。

 クラスの全員がグランドに出て行ったあと、私はひとり上着を脱いで腹を凹ませ、その安物セーターの穴を思いっきり下に引っ張ってから穴を隠し、その上からベルトをこれでもか! というほど締め、最後にグラウンドに走って出たのであった。

 校長先生がラジオ体操について説明する。
「両手を大きく広げて胸を反らせる運動は、身体を後ろ大きく反らせて両手を大きく広げてください。そうすればホレ、私のようにワイシャツがズボンからはみ出します。みんなもこれくらいやって下さい!」
 校長先生はそう仰るが、ボクが言われた通りにやったら、セーターのお腹の穴が丸出しになってしまうどころか、ますます大きくなってしまう。セーターに穴が開いても着替えも無いビンボー百姓の四男は、羞恥心ではち切れそうなくらいに小さな心を痛めていたのだった。

 後年、テレビドラマでスクールウォーズというのを見てそこそこ感動したものだが、ドラマ中で貧乏な母子家庭のワル(松村勇基)がいたが、ヤツは飯も食えぬほどビンボーな割には、いつもワイシャツが真っ白だった。本当の赤貧を体験している私には、そこだけが不自然でとても白けてしまった。


小3
■ランドセルは3年でオシマイ
  ある日の学校の帰り道、町場の中学生の女の子が私に言った。その子は中学生のクセに時計をしているという、当時では流行の先端を行っているマセた子だった。
『キミねぇ、このランドセル、ニセモンだよ』
『だってぇ・・・普通のランドセルだもん』
『違うよ。ニセモノでブタ皮って言うんだよ。中には厚紙が入ってんだよ。安物なんだよ』
『・・・・』

 ランドセルといえば牛革が定番と決まっているが、当時は表皮がブタ皮で裏側は厚紙という偽装ブタ皮のランドセルがあった。値段は牛革が1000円で、ブタ皮は500円だった。当然ビンボーな水飲み百姓の四男はブタ皮だ。この偽物ランドセルの指摘は、私の小さな心を傷つけた。

 このブタ皮のランドセルは水にやたらと弱く、雨に濡れたらダンボール部分が水を吸収してボロボロにってしまい、すぐに破れてしまう。そう、水に溶けてしまうランドセルなのだ。結局、このブタ皮ランドラルは3年でゴミになってしまった。4年生からはクラスで1人だけ、寺子屋の小僧よろしく、風呂敷包みを抱えて学校に通ったのである。

■傘が無い・・・
 だが・・・それもやむなし。
私には雨が降っても雨傘が無かったのだ。一応、数年に一度くらいはカタチだけは雨傘を買ってもらうのだが、元々粗雑で乱暴な性格なのですぐに破ったり壊したりしてしまう。だから2本目の傘は買ってもらえなかったのだ。
 下校時間近くになって雨が降り出すと、母親が傘を持って迎えに来てくれるなどというホームドラマのようなシーンは、町場の子たちだけ。遠方の子は友達の傘に入れてもらうか、濡れて帰るしかなかった。

 ある小雨の日、例によって傘は無かったが、学校から一里ほど遠方にある叔父さんのいる村に遊びに行こうと思い立ち、やっとの思いで叔父さんのうちに着いたのはいいが、叔父さんは縁側で昼寝をしていた。
『ねぇ、おじさん、おじさん!』
と呼びかけたが叔父さんは起きない。その叔父さんは母とは腹違いの弟だったので遠慮もあり、私は強引に揺さぶって起こすことはためらわれた。仕方なく諦めて一里ほどの道のりを雨に濡れながら学校まで引き返し、さらにまた一里近く離れた自分の村まで濡れながら帰った。

 途中町場を通る時、どこかの母親らしき人たちが濡れながら歩いている私を見てささやいた。
『まぁ、あの子ったら全身ずぶ濡れじゃないの。可哀想に・・・』
この時点で悲しさが極みに達していた私は、この声を聞いて涙の堰が切れたのか、しゃくり上げて泣き出してしまった。
(町の母親は傘を持って来てくれるのに、ウチの母ちゃんは持って来てくれない。でも、持って来てくれる傘が無いんだもんなぁ・・・グスングスン)

■長靴もアリマセン
 長靴っていうのは小学校に上がる前にはあった。いや、小学校に上がる前までは長靴しかなく、雨でも晴れても万年長靴だった。それがどういうわけか小学校に上がると長靴を履いた記憶が無い。無理も無い。買ってもらったことが無いからだ。当然、雨降りだって雪降りだって一足しかない黒い布ズック(靴のこと)だけ。

■靴下もアリマセン
 雨が降ったって靴下なんて履いてなかったから、濡れるのは靴だけ。素足の皮膚中までは水は入って来やしない。だから平気。
 真冬だって小学校時代は靴下が無かった。破ってしまったからではない。最初っから買ってもらったことなど無かったからだ。

 だから冬に靴下をはかなかったから寒くて風邪をひくなんて事は無かった。寒いから風邪をひくなんてのは言い訳に過ぎない。1クラス44人もいたが、冬でも靴下を履けないビンボー人の子供は2−3人はいた。面白いことにそんなガキどもに限って汚く鼻水は垂らしこそすれ、風邪をひいて具合が悪い、なとどいう華奢なガキは居なかった。どいつもこいつも逞しいビンボー人だったのである。

小4
■番傘を買ってもらう
 小1から小3まで傘を1−2本でも買ってもらったのか?
雨降りとはいえ大して傘を差した記憶は無い。学校へはいつも濡れて行ったか、友人の傘に入れてもらったか、家にあるコウモリの羽が折れたような親爺傘をイヤイヤ差して行ったような記憶もある。
 
 が−−−晴れて小4でオイラは傘を買ってもらったのである。
それは児童数600弱の小学校でただひとり他人と違う傘、「番傘(骨が竹で油紙を張ってあるもの)」だった。なぜそれを好んだのかは覚えてはいないが、他人とは違う存在感のある傘を差してみたかったのである。が、残念ながらそれも長く差した記憶が無い。おそらく乱雑だったためすぐに破ってしまったのだろう。これじゃ次を買ってもらえないわけだ。

■海水浴の悲しい思い出
 小4では学年で大分市の海水浴場に海水浴に行くのが恒例だった。
幼稚園の時に臼杵市で初めて海を見て、『大きな池じゃなぁ・・・!と言って、当時の小学校教頭に、『池じゃないよ、これが海だよ』と諭された記憶があるが、その時以来の海に行くのである。バスの中では『我は海の子』などを皆と歌いながら楽しく行ったのだが、水着に着替える時になって級友たちが黒い水着を着用しているのを見て驚いた−−−というのも・・・私は海水浴に備えて準備万端、誰にも恥ずかしくないように真っ白な木綿のバンツを前日に買ってもらっていたからだ。だが級友達の水着を見て私の心は無残にも潰れてしまった。
(恥ずかしいなぁ、どうしょうか・・・泳ぐのやめようか・・・)
そう思った時、おそらく私と同じ境遇のM君がいた。彼もオイラと同じ純白の木綿のバンツを持って来ていたのだ。それでお互いに安心して、90人近い学友の中でたったの2人だけが木綿パンツというスタイルで初めての海水浴を体験したのであった。このM君は高卒と同時に定年まで自衛隊に在籍し、私もゴク僅かではあったが自衛隊に在籍したのは奇遇である。

■初めて食べた貝の缶詰
 この時の弁当はなんといっても生まれて初めて食べた缶詰にある。
10人も家族が居た中で、のんびりユッタリと食事など出来る状態ではなく、兄弟達や姪たちと強奪戦の食事が日常の中にあって、自分だけが自分だけのために1個まるまるの缶詰を食べるなどということは、当時の私にとって究極の贅沢であった。よくあるアサリだか赤貝だかの甘く煮たものだが、今でもその缶詰を見るたびに当時の「真っ白な木綿パンツの海水浴」を思い出す。

■1年間で辞めた新聞配達
 当時、新聞配達は1ヶ月でたしか500円だった。
配る部数はたったの13部。だが、配る村の範囲は4ケ村にわたり、その総道のりはラクに6−7キロメートルはあっただろう。それを未明に起き出して新聞販売店に取りに行き、それから4ケ村を配って歩く。その時間は約2時間ほど。それが終えて登校するのだが、道のりは3キロほどか。学校を終えると再び新聞販売店に寄って13部の夕刊を受け取り、それをまた4ケ村に配りながら帰途に着く。

 今更ながら冬季の未明起きは寒くてキツかった。外套があるわけじゃ無し、手袋があるわけじゃ無し、首巻があるわけじゃ無し、靴下だって履いてないのだ。夕刊を配りながら知り合いの家で道草を食っていたりすると、すぐに暗くなってしまい恐くて帰れなくなってしまって、兄貴に迎えに来てもらったことも何度かあった。もちろんお迎えには兄貴のゲンコツが付いている。

 そうまでしてなぜ月収の500円が欲しかったのか?
ワタシはオモチャの拳銃好きで、どうしてもブリキの鉄砲が欲しくて、町内にあるオモチャ屋の前でそのブリキの鉄砲を見ると、足に根が生えてしまって動けなくなってしまうほど好きだったのである。

小5
■肩掛けかばんを買ってもらう
 小3でブタ皮のランドセルを壊してしまい、小4の時は寺子屋の小僧のように風呂敷包みで通学していたのだが、小5になって再び通学用のカバンを買ってもらった。当時の小学生でも今の小学生でも小学生といえばランドセルなのだが、オイラは変わっていたのか、肩から斜めに掛ける白い帆布製のカバンに憧れていた。そんなカバンは地元の中学生も使ってなく、せいぜいテレビで見る程度の(当時としては珍しいテレビは、小4の時に金持ちの親戚に貰った)のでそれを買ってもらった。が−−−なぜか気に入っていたその肩掛け帆布カバンもせいぜい1年以内で壊してしまい、小5の終わりの頃にはまたまた風呂敷包みに逆戻りしてしまった。

 それにしても・・・帆布製の丈夫なカバンを、どうして1年以内で壊してしまうのか・・・?今となっては私自身にも不思議だが、よほど乱雑に扱ったのだろうから、これには家族も呆れたのではあるまいか。私の「壊し屋」ぶりは傘やカバンだけに留まらず、靴には穴を開ける。服はすぐに破る。時計などの機械類は分解して壊してしまう。ことに時計などは、分解して中を見ないことには収まらないほどの興味の対象で、分解しては組み立てられず、兄貴に強烈なゲンコツを貰っていたのだ。それで辞めればいいものをどうしても辞められないのがオイラの性分だったのだから困る。

小6
■再び風呂敷包みに

 小5の末から私は再び風呂敷包みに戻った。
風呂敷で教科書を包むと四角になる。これに弁当を包むと形が台形になる。するととても持ちにくい。筆箱(プラスティックのもの)は小3くらいにとっくに壊れて無くなっていたので筆入れは無い。消しゴムやカミソリの鉛筆削りは机の中に置きっぱなしにしているので、風呂敷に包む必要は無い。持って帰る筆記道具はエンピツ1本を本の間に挟んで包み、小脇に抱えて通学していたのだ。

■表面は白い米飯の弁当/御飯はタテに食べるべし
 当時、農家のクセに米飯は盆正月しか食べられなかった。田んぼを這いずり回って作った米は全部を売りに出して、通常は麦を主食としていた。それでもまだいい。ウチの両親の世代は麦どころかヒエやアワを食べていたというのだ。そういった経済状況下なため弁当に白い米御飯を入れてもらうなどということはどだい無理な話だったため、母は『表面だけ銀シャリ弁当』を作ってくれた。
 それは弁当の下部の殆どにコッテリと黒い麦飯を詰め、表面だけにうす〜く米飯を塗って、いかにも米御飯を装うのだ。その真ん中にウメボシをど〜んと入れて、絵に描いたような日の丸弁当を作り、仕上げにその愛情の量だけタクアンを山盛りに詰めてくれたのである。

 この弁当は食べるのにテクニックを要する。
銀シャリを上塗りしているわけだから、メシは斜めに崩してはイケナイ。御飯を箸で垂直に食べていくのだ。そうしないと黒い麦飯が表面に出てしまい、学友たちに『あっ、のなかぁ麦飯じゃあ〜』と言われかねないからだ。

■ニシメ色の新聞紙/箸は「忘れました」
 弁当を包むのはエエとこの子や普通のは可愛いハンカチ。少数が本のカバーで弁当箱がスッポリ入るもの。そして小数が新聞紙。それでも新聞紙は数日ごとか毎日交換する。で、ワシの場合は・・・家が新聞を取ってなかったので同じ新聞紙を何度も使っていた。しかもタクアン水分がはみ出して来て、弁当のカタチに四角になっ角や辺の部分は黄色い破れ目が出来ている。それに輪ゴムを1つ掛けてオシマイ。

 箸は無い。
家には箸はあるが、学校に持って来るほど人前に出せる物は無い。だからいつも「忘れました」と言って、宿直室の用務員さんに借りていたのだった。

■「弁当がタクアンくせぇぞぅ〜」
 小学生の発言は残酷だ。
悪気の無い発言が級友の弁当時間を奪ってしまう。それというのも当時の冬季は、弁当をクラスごとに木箱に入れ、6学年2クラス分の弁当をまとめて「大きな暖め箱」に入れ、炭火で温めていたのだ。そんな時、いつもいつもいつもタクアン山盛りの弁当は、温めるとそのタクアンの臭いが全てのクラスの弁当に移ってしまい、どの子の弁当もタクアンを入れて無くとも、タクアンの臭いがしてしまうのだ。

 ある日、級友が『おいノナカぁおまえのタクアン弁当の臭いが移ってくせぇぞぅ〜』と言われてしまった。これがオイラの心にクサビを打ち込んだ。以来弁当は作ってもらうものの、絶対に弁当は温めなかった。それどころか昼休みの弁当時はとっととグランドに出て、独りで遊んでいた。弁当を食べるのは学校の帰り。通学途上にある山の上に登り、遅い昼食をひとりで食べていたのだった。箸なんて無い。そこいらの木か竹を折って箸の代わりにしていた。そんなタクアン弁当でも育ち盛りの悪ガキには美味しかったものだ。  
 
■体育の時間に短パン無し/黄色い絵の具の言い訳
 普段のは楽しかったのだが、体育の時間だけは困った----。
というのも当時の体育の時間は体育用の短パンを履かねばならなかったが、その短パンが無かった。それでいつも「忘れました」言い訳しては、普段の通学服で体育をやっていた。だが、さすがに身体検査(測定)の時は、「忘れました」のウソが通用しなかった。

 当時は家にノミやシラミが沢山いた。
学校では定期的に「シラミ退治」という行事があり、長髪の男児や女児の頭にBHC(劇薬)を散布をしていたほどだから、そんな衛生状態の時代背景だったから、我が家だけにノミやシラミがいたというわけではないので念のため----そういうわけでノミの糞というのは、人間の血液を吸うわけだから糞も赤い(というか乾いてしまって海老茶色)。その赤い糞が白い(白いというほどキレイじゃないけど)パンツ地に星座のように散在している。このパンツ姿を友人達の前に晒すのはキツかった。もちろんオイラよりも汚い下着を着た子もいるにはいたことだろうが、そんな子は身体測定日はズル休みするのだ。常々親爺達から「学校へは這ってでも行け」と言われていたため休むことは出来ず、汚いパンツ姿をさらしてしまっていた。

 そんなノミの糞パンツであるからには、(汚い話で恐縮だが)股間に黄色いものが付いていても不思議では無い。そこでオイラは口さがない友人達の機先を制してこう言った。
『姉ちゃんが絵を描いてる時にイタズラしたら、ケツに黄色い絵の具を付けられた』と。そんな言い訳も悲しいものがあるが、ビンボー人の子せがれが強く逞しく生きていくためには必要なウソだったのである。



中1
オイラのトレパンはドンゴロス
 中学生になると体育の時間は白いユニホームになる−−−。
はずだ−−−ったのだが、ワシには白いトレパンが無い。やむなく5歳上の姉のお下がりのトレパンを履くのだが、女子用のトレパンには小用の穴が無い。そこを母が穴を開けて繕ってくれたのだが、ボタンの穴かがリが難しいのか面倒なのか、ボタンではなくホックなのである。男子用の小用の穴がホック閉めるなんて聞いたこと無いわ!また女子用のトレパンというのは男子用と違って、腰の周りがユッタリしている造りになっているため、腰の周りが膨らんで何となくスタイルが嫌な感じになってしまうため、体育の時間は気乗りがしない。

 そこを気にしながら控えめに履いていると、ホレ見たことか!悪友どもに「おい、野中ぁ、穴がホックかよぅ!ケツの周りがヤケに色っぽいねぇ」と突っ込みを入れられてしまう。しまいにそのトレパンがなんとなく農作物を入れる麻布のドンゴロスに似ているため、「ドンゴロス」と呼ばれていたが、ま、中学生ともなればそこいらをいちいち気にして入られないので大して凹むことも無かったが、ま、皆と同じように普通に白いトレパ履いて体育の授業に出たかったものだ。

■毛筆の時間に毛筆道具ナシ
 
中学生になると国語の時間に毛筆の授業がある−−−。
はずだ−−−ったのだが、ワシは毛筆道具が無い。小学校の時に買ってもらったのか、それとも最初っから無かったのか明確な記憶は無いが、確かに中1で毛筆道具は無かったのは事実だ。そのため授業のたびに他所のクラスの友人の習字道具を借りていたのだが、子供ながらに気は引けていた。それでも「あっ、また習字道具を忘れた!」と言い訳しては借りていたから、したたかなガキではあったのだろう。
 字は下手糞だったが、教科の点だけは良かったので国語の通知票は5だった。そういう意味では、当時の国語担任の小野先生には感謝している。

■技術家庭に道具無し

 中学の技術家庭といえば男子は工作と相場が決まっている。
工作には大工道具セットというのを購入しなければならないのだが、経済的な理由からそれも出来ない。大工など何でもやって食っていた兄貴が、「俺の大工道具を持って行け」とは言うもののノコの歯ひとつでもおっ欠いた日にゃ、それこそグーパンチでブン殴らるのは火を見るより明らか。よって兄貴のは使えない。技術担当の先生にはいつも「忘れました」と言い訳をして、学校の備品を使わせてもらってはいたが、そのせいか技術家庭の通知表はいつも3だった。

■脱脂牛乳?そんなのカンケーねぇ!
 よく脱脂粉乳がマズかったのどーのという話は聞くが、ワシにゃそんな贅沢は言ってられない。
給食が始まったのが、中3の最後の1週間のみ。それも今後のテストパターンで、しかも希望者のみ。脱脂粉乳が好きだろうとキライだろうと、ビンボー人の小せがれ達はハイエナのように指を咥えて見ているしか無い。
 ところが世の中というのはよく出来ているもので、「ヤだぁ〜こんなの飲めな〜い!」と言う金持ちの女子どもがいるわけで、そういう時は「よしっ、ワシ飲んじるワイ!」と騎士気取りで飲んであげるのだ。お陰で給食の後は数本も飲んだ脱脂粉乳せいでトイレに(当時のトイレはボットン便所、紙ナシ)直行していた。それにしても脱脂粉乳だろうと何だろうと、牛乳ちゅーもんは美味かったなぁ・・・。



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紆余紆余曲折-2



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