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草 薙 神 社 |
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草薙神社(清水区草薙)。御祭神は景行天皇第二皇子日本武尊をお祀りしてます。国史社伝によれば尊は東国の蝦庚が叛いたので、これを平定するため吾嬬国に行く途中、このあたりで逆賊が起り原野に火を放って尊を焼き殺そうとしました。
尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し倭姫命より載いた佩用の剣を抜いて「遠かたや しけきかもと をやい鎌の
利鎌をもちて 打ちはらふごとく」と鎌で打ち払うように唱へ剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払い、これも倭姫命より載いた燧(火打石)で火をつけました。その火は逆に賊の方へなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。
尊を焼き殺そうとした所が焼津で、賊を追いかけ討ち果たした所が草薙と伝えられています。その後、尊は佩用されていた「天叢雲の剣」を「草薙の剣」と名称を変更されました。この剣は景行天皇の命により最初この神社の納められておりましたが、後に熱田神宮に移されました。
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久 佐 奈 岐 神 社 |
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久佐奈岐(くさなぎ)神社。清水区山切(旧庵原村山切)にあります。吉備武彦命が日本武尊東征に副将軍として従って功があり、この地を賜りました。そこで吉備武彦は、日本武尊が東征の途中に本営を設けたとされる旧跡のこの地に神社を建てました。社殿も境内も小さ目ですが地元では大事に保持されています。
平安時代編纂の「延喜式神名帳」にこの神社はのっています。昭和13年発行の「神道大辞典」によれば、草薙・久佐奈岐両神社共由緒は同じ事が書かれてます。明治になり「草薙神社」は県社となり、ここ「久佐奈岐神社」は郷社となりました。
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豊 由 氣 神 社 |
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豊由氣(とよゆけ)神社(清水区庵原町)。延喜式神名帳にのる神社で、由緒に「謹テ舊記ヲ按スルニ今ヨリ凡一千八百六十三年ノ昔、人皇第十二代景行天皇ノ御宇皇子日本武尊御東征ノ砌、廬原郷ニ豐積神社或ハ止由氣神社トシテ豐受大社ヲ祭ラセ給ヒ、同時ニ安倍郡神部神社ニ天照大神ヲ祭ラセ給ヒ即両宮ヲ廬原安倍ノ國ニ祭リ給ヒシヲ以ツテ二ノ宮と稱セリ相殿一ノ宮ハ後ニ至リ勧請セシモノナリ」とあります。
庵原小学校の北西に鎮座する郷社です。入口に神明鳥居が立ち階段を登ると境内で、正面に拝殿があり拝殿の後方に一段高く垣に囲まれて流造の本殿があります。創祀年代は不詳ですが、社伝によりますと景行天皇の御代、日本武尊東征のおりに安倍郡神部神社に天照大神を祀り、当地に、豊受大神を祀ったとされています。
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矢 倉 神 社 |
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矢倉神社(清水区辻)。日本武尊は景行天皇の皇子であり、大和朝廷が国土統一を成し遂げた折の中心人物と伝えられています。社殿によれば、創建は仲哀天皇の御代で、庵原国造意加部彦命が日本武尊と景行天皇をお祀りしました。
当地は日本武尊東征の際、軍営を布き兵站部や武器庫を置かれた遺跡と伝えられています。矢倉という社名は、敵軍の動静を探る為に箭(矢)を束ねて櫓を建てたので箭倉(やぐら)と云うそうです。
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首 塚 稲 荷 |
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首塚稲荷(清水区草薙)。日本武尊が無事に草薙の難を切抜けられた後、戦死した賊の首を埋め塚を作ったと伝えられる場所です。もとは 「首塚の森(くびづかのもり)」 と呼ばれ、尊に殺された賊の首を埋葬したところです。ここには、いつの時代からかはわかりませんが、稲荷神社がもうけられ、今では、賊の霊は稲荷とともに祭られています。近くには血流川という太古の賊との戦いのすさまじさを物語るような小川もあります。
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御 穂 神 社 |
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みほ神社(清水区三保)。平安時代の延喜式神名帳に記録が残っている古社で、夫婦和合、縁結び、交通安全の神として信仰されています。御祭神は、大巳貴命(三穂津彦命・大国主命)と三穂津姫命の二柱神です。創建年代は不明で延喜年間に従五位下に敘せられています。
広さは五千坪あり、古来より、朝廷を始め武将等の信仰を集め、航海・漁業の神として地元の厚い信仰を受けています。宝物館には重文の太刀のほかに、天女の羽衣の一片という「布」や、源為朝が使ったと言われる大壷などが陳列されており、昔は三保一帯がこの神社の社領でした。境内には、左甚五郎の作といわれる神馬が奉られています。御神木の「羽衣の松」から神社まで続く松並木は「神の道」と呼ばれ、春には22種、220本の桜が境内に咲き誇ります。
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豊 積 神 社 |
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豊積神社(清水区由比町)。平安時代の延喜式神名帳(927年)に蘆原郡三座豊積大神とあります。創建は恒武天皇の御代延歴十年四月上旬初未の日、西暦791年で今を去ること1200年前です。ここの地を町屋原と称するは、古代において物々交換の市場が営まれたところで社伝によれば第四十代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えています。
延暦十六年、坂上田村麿が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦捷報告に立寄ったのが旧正月一日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓をくり出し三日二晩夜を徹して町内をねり歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされています。
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