軽いネタバレについてはワリと普通にしてますので、
タイトル見てヤバイと思ったら頑張って目を逸らして下さい(無責任)。




05年5月30日(月)/


『光臨天使エンシェル・レナ』
まだ全部は埋まってないけど素晴らしくエロかった。
正義のヒロイン陵辱ものとしては僕的に歴代ベストだな〜

ヒロインのレナは、戦闘に負ければ当然のように魔物に陵辱されるんだけど、たとえ勝っても魔物の最後っ屁で結局はエロイ目に遭わされます。つーか、魔物たちの嫌がらせが陰湿で素晴らしい。


パターン1

死ぬ直前、最後の力で自らの体液をレナに飲ませるイカ男。
「ゲゲゲ、俺の体液は凄まじい猛毒だ! 助かりたかったら解毒剤として男の精液を飲むしかないぞ!」
  → 仕方なく通りがかりの一般人に声をかけ、協力を仰ぐレナ
     「あ、あの、…おねがいします、……あなたの精液を、飲ませてくださいっ…」


パターン2

死ぬ直前、最後の力で自ら一部をレナのお尻の穴に潜り込ませるヒル男。
「ゲゲゲ、そのヒルを取り除きたかったら、男の精液をかけて溶かすしかないぞ!」
  → 仕方なく通りがかりの一般人に声をかけ、協力を仰ぐレナ
     「そ、その、…私のお尻の中へ…精液を、出してもらえませんか…っ?」


これぞまさに嫌がらせ。
非常にセクハラ度が高くてよろしいです。

これだけ書くとギャグみたいなんだけど、レナは王道ヒロインど真ん中で、あくまでも真面目な娘なのがエロさを増してます。とっとと処女を奪われちゃって焦らしが足りないかな〜と思ったんだけど、最後まで羞恥心が残ってて楽しめました。怪人が陵辱してる間とかにも、遠巻きに見てる一般人が、「やだ、あの娘本気で感じてる!」とか「正義のヒロインなのにいやらしすぎ…」とか、好き勝手に煽ってくれるのもポイント高い。ヒロイン視点の一人称なのも良かったかな。

属性としては羞恥系、催淫薬はデフォ。全体的にソフト目で、スカとか濃いのはなし。
それと(僕はあまり判らない世界だけど)フタナリでのレズが妙に多かった気がする。

あとモザイクが若干大きいような。フェラシーンとか、もうちょっと口元が見えればなぁ。


05年5月28日(土)/


▼ なぜエロゲーオタクは嫌われるか


ちょっと前にbmp_69さんとかでも話題になってて今更という感じですが、真性のエロゲオタとしてはやはり反応しておこうと。んで、このコラム、エロゲオタとしてはどうしても反論しておかなきゃならないコラムではあるのだけれど、実は結論自体には賛成できる。
このコラムの主軸は、


この問題は2つに分離できることだ。つまり、「エロゲーは悪か」という問題と、「悪(と決めたもの)を勝手に排斥していいか」という問題の2つである。私は前者に対してはYes、後者に対してはNoと答える。つまり、むやみなバッシング自体には反対だが、「エロゲーは悪くない」という意見にも反対する。


という部分であると考えてよいだろう。
まぁ、なんでエロゲーが18禁かといえば、それはエロゲーが本質的に不健全であるからに他ならなくて、そういう意味で「エロゲーは悪である」ということ自体は、エロゲーマー全員が自覚しておかなければならない部分である。ここを判ってない奴が、声高に「鬼畜ゲームは厳しく規制するべきである!」とかほざいた挙句、実は自分は『はじめてのおるすばん』が大好きだったりとか、トホホなオチがついたりするわけだ。(※ のりさんは鬼畜もロリコンも大好きです)

最初の部分だけ読んだら、「おお、なかなか良いこと言うじゃないか」と思ってしまったコラムなのだけど、読み進めてみると、エロゲーオタは正常な人間の感情を持てないとか、自我の発達が不足していて他人の痛みを感じる能力の欠如しているとか、ようするに「エロゲーオタクは異常」の一点張りである。つまり「エロゲーマーがエロゲー(不健全・悪)を愛好するのは、人間的に未熟(不健全・悪)だからである」という結論ですな。おいおい…。

こういう偏見に反論できるように、エロゲーオタクもバタイユとか読んできちんと理論武装しておくべきなのかもしれない。いや、僕もちゃんと読んだわけじゃなくて、さわりしか知らないんだけどさ。

バタイユは、人間を理性(大人)的な部分と、欲望(子供)的な部分に分けて、理性で抑えきれない欲望を「悪」と呼び、その「悪」にこそ芸術性が宿ると考えた。言っておくが、別にバタイユは理性を否定しているわけではない。むしろ欲望(子供)が理性(大人)に勝ち続けることはできないという。ただ、理性によって欲望を忘れ去ってしまうこと、ケガレとして払い落としてしまうことを批判しているのである。たぶん。

実際問題として、僕の中には不健全で破壊的な欲望が確かにある。相手を殴りたい、支配したい、殺したい。そういう子供じみた狂気は、程度の差はあれ、誰にでも少なからずあるものだと思う。それを、汚いものに蓋をするように規制してしまうことが、本当に犯罪の抑止に繋がるかと言えば、そんなことはないだろう。犯罪を抑えることができるのは、欲望を抑える理性であり、他人を思いやる豊かな人間性である。まぁ、悪書を禁じる前に良書を読めって事だ。


もちろん「悪」だけが芸術であるかのような言い方をしてしまうと色々と反論もあると思うのだけれど、事実として、この世には悪徳を描いてるとしか言いようのない不健全な芸術性が確かにあるという事をまず認めて欲しいと思う。その「悪」を非倫理的だと言って規制することはできるとしても、その「悪」を美しいと思ってしまう人間を否定することはできないのだから。




『エンシェル・レナ』、『InnocentBlue』、それに『ゆのはな』と『お嬢様組曲』もようやく買った(って、まだ買ってなかったのか!)。なんか購入検討してたエロゲーは、結局全部買ってるよなぁ。っていうか、実は『パルフェ』とか『幼なじみな彼女』とか、予定になかったものまで手を出しまくってるわけですが…。


05年5月25日(水)/


『School Days』やりました。エンドいくつか見ましたが、なかなか面白い。
刃物だの、飛び降りだの、3P孕ませだの、ぶっ飛んだEDだけじゃなく、わりと無難なEDも用意されてる感じ。
けどこれは、やっぱブラックジョークの類だよなぁ…。

まず驚きなのは、普通に質が高いんですよね(システムは糞ですが)。
第一話をプレイした時点では、演出はテンポ良いし、作画は崩れてないし、特にOPムービーが素晴らしく良くて、「これはイロモノ扱いしちゃ失礼だったか!?」と、知ってても騙されかけたぐらいですし。もしこれ体験版やってたら、普通に期待して買っちゃって、そしてたぶん真剣に怒ってたことでしょう。

まぁ、僕はアニメ見る目が甘いんで、台詞と口パクが合ってないとかは、あまり問題にしてません。フルアニメというだけでも充分に新鮮でしたし。これでシナリオ良ければ本当に名作だったように思うんですが、やっぱり中身が薄っぺらいんですよね。

ヒロインの一人が陰険なイジメっ子だとか、主人公が浮気してる間にヒロインがレイプされるとか、いやらしい展開が多くてネタとしては突っ込みどころ満載で素晴らしいんですけど、それほどの鬱展開でありながら、ドロドロというほどの重さや湿っぽさは感じない。ヒロインのぶっ壊れ方も「ああ、壊れちゃったのね」という判り易すい狂人っぷりだし、狂った人間の狂った行動は描けていても、そこに至るまでの情念───例えば殺してでも奪い取るというその狂気までは描けていない感じ。だからまぁ、演出がシリアスであればあるほどに、キャラの豹変が唐突過ぎてギャグにしか見えなかったんですよね。(っていうか、ギャグなんでしょうけど)

なんか真面目に語ったら負けなシナリオだと思うんですが、僕自身すっげぇ楽しんでプレイしてるという事だけは保障しておきましょう。かってPiaキャロそっくりのタイトルロゴで、寝取られだの近親相姦だの犯りたい放題のゲーム作ってのけたオバフロが、世界・言葉・刹那といったイタイ名前のキャラを揃えてきた時点で、「ああ、今度のターゲットはセカイ系なのね」と即座に了解できる人にはお勧め。史上まれに見る主人公のクズっぷりとか、この一本だけで一年間ネタに困りません。

でも、これだけやれるなら正攻法でも勝負できたよなぁ。
なんか勿体ないけど、実際に売れてるんだから、これはこれで成功と言うべき、なのかなぁ…。


05年5月20日(金)/


『ToHeart2』がPCに逆移植だそうな。早いよっ!

どうせ移植されるだろうとは思ってたけど、まさか半年も経たずに移植されるとは…。
……まぁ、買うけどさぁ(←思うつぼ)
とりあえずシステムがタル過ぎだったので、その辺が改良される(よね?)のは素直に嬉しいです。

あと同Leafの新作発表。タイトルが『鎖』で、どうも鬼畜ゲー、らしい?
ファンクラブ会員専用サイトが今日オープンだそうな。
僕は会員なので、あとで覗いてきます。でもLeafに鬼畜ゲー出されても期待薄かなぁ…。


05年5月13日(金)/憑物落とし


ようやく読めた(と思う)。
これで一段落つくはず。


▼ 『美少女ゲームの臨界点』


前にも書いたが、この本の中核になっているのは、エロゲーの抱え込む「選択肢を選ぶ事によって生じるヒロインへの責任」と、「ポルノメディアとしてのヒロインへの無責任」の矛盾である。東氏はこの矛盾を、美少女ゲームというメディアがプレイヤーの解離を構造的に強化してしまうためだと分析している。

だが、どう考えてもここがおかしい。
むしろ美少女ゲームは、プレイヤーと虚構の解離を埋める働きをしていると考えたらどうだろうか?


東氏の主張は、美少女ゲームの流れを雫から眺めているから捩れているのだ。僕の実感から言って、初期のエロゲーは良くも悪くも単なるポルノメディア───現実と完膚なきまでに解離した都合の良い虚構でしかなかったと思う。そこには女の子への責任感とか、反家父長制的な男の子の内面とか、そんなものは始めから一切なかったはずだ。

ところが『同級生』の大ヒットによって事情が変わってくる。プレイ中、自由に女の子達を追いかけ、最終的に自分の好きな娘とEDを迎えることのできるこのゲームは、読み手にゲーム世界での選択権を委ねる事によって、虚構の中にプレイヤーの主体の一部を取り込んでしまった。つまりプレイ中の間だけ、ポルノメディアと現実の解離を埋める働きをしているのである。

この『同級生』は、発売元のエルフ曰く「ナンパゲー」であり、一回のプレイで10人ぐらいの同時攻略が可能なゲームであったが、後日発売された「同級生2」ではこの辺の同時攻略性がずっとシビアになり、二股、三股を良しとしない「純愛ゲー」としての側面が強くなってくる。これはポルノメディアとしては明らかに退化のはずだが、この事に対してのプレイヤーの反発は僕の知る限りでほとんどなかった。『同級生』、続けて『ときめきメモリアル』に群がったプレイヤー達の多くは、「ナンパ」(ポルノ)ではなくまさに「純愛」こそを望んでいたからである。つまりエロゲーはプレイヤーの主体の一部とともに、プレイヤーの現実的な倫理(たとえば反マッチョイズム)をも取り込んでいってしまったのだ。

東氏は美少女ゲームを、「反家父長制的な想像力に隠れて超家父長制的な欲望を密輸入する構造」と評している。だがむしろ、「超家父長制的な欲望の中に、堂々と反家父長制的な想像力を取り込んでいった構造」こそがエロゲーの本質であると言えまいか。

言うまでもないがこの主張は、ゲームというメディアの役割を東氏とは逆に捉えた上で、東氏の主張をそのまま裏返しただけである。だがほぼ同じ事を言いながらも、捩れて絡まった糸が解けたように、既存のエロゲー論に則した主張になっているはずだ。僕自身この事に気付いた瞬間、「なんでこんなありがちなエロゲー論が今まで読めなかったんだ…」と唖然としたぐらいである。

その上で、もう一度美少女ゲームパーフェクトマップを見直してみると、このマッピングの意図が明確に見えてくる。右下の流れとは、マッチョイズムの中に反マッチョイズムを次々と取り込んでいった流れ。つまりゲーム的リアリズムとは、まんがやアニメ的な世界観をベースにしながら、「主人公がこんなにもてるはずがない」とか、「人間はもっと黒い面を抱えた生き物である」とか、「奇蹟なんてご都合主義を俺は認めねぇ!」とか、ようはリアル志向のことだったのである。虚構を虚構として割り切れないこの態度はSFに近い。(稲葉振一郎氏曰く「大人気ない」というやつである)

これに対する反動が左下の流れである。マップでは『AIR』が中央に位置しているが、僕はこの流れを決定付けたのは『AIR』に前後して発売された『Phantom』と『月姫』ではないかと思う。たとえば「遅刻しそうな朝、パンを咥えた女の子と正面衝突」とか、「雨あられと撃ちまくりながら弾切れを起こさない魔法のガバメントとか、まんが・アニメ的なお約束やご都合主義を、悪びれることなく取り込んでいったエンタメ志向こそが左下の流れなのだろう。そういや開始10分でエロシーンとか、ハーレムエンド上等とか、萌エロが台頭してきたのもこの頃からだったような…。(僕の記憶にある萌エロのハシリは『PureHeart』辺り)

うん、この観点で見るのが一番すっきりするな。
文学的想像力を含んでいても、お約束やご都合主義(つまりそれが物語消費か)で味付けしてあれば左下に組み込まれてる感じだし、なんかメチャクチャ単純なマップに見えてきた…。


05年5月11日(水)/とり急ぎ弁解


この所ずっとネタにしていた『美少女ゲームの臨界点』ですが、この本の論点は動物的とかデータベース的とか基本的に関係ありません。たぶんないです。この日記でごっちゃになってるのは、最初に僕がナナメ読みして「ようするにポストモダン的かどうかで良し悪しを選別してんじゃねーの?」と感じたからで、その後は「そもそも動物化ってどういうことだっけ?」とか自信がなくなってきたので、改めて『動物化するポストモダン』をおさらいする形で平行して記述しています。というわけで、「ふーん、『美少女ゲームの臨界点』って、エロゲーのポストモダン化について論じている本なんだ」とか思ってしまった方、紛らわしくてすみません。

つーか、いつにも増して私的メモっぽくて、人に読ませる文章じゃないっすね(汗)。
本当に手探りで「こういうことかな?」「やっぱ違うかな?」と思案に暮れながら読んでいるので、今日言ってることと明日言ってることが違っていたら、別に深い意味があるわけでなく、単に考えが変わったんだなと察してやってください。

えーとね、全力で言い訳すると、あくまで今回は「僕がサブカルに入門する」という趣旨なんで…。




『あやかしびと』、購入優先度は低い方かなと思ってたんだけど、OP聞いたら妙に気に入ってしまいました。何言ってんだか良く聞き取れない巻き舌っぷりがロックっぽくてかっこいい!(※ のりさんは決してロックをバカにしていません)

あと『Gift』の体験版を落としてみました。
あらためて設定とか見ると、『D.C.』とのコンパチっぷりがもの凄い…。


05年5月10日(火)/


Piaキャロ新作の制服コンテストということで、コンプティーク買ってきた。


………す、すっげェ微妙。

なんか、11着もあるのに可愛いと思えるデザインが一つもない。これはコゲどんぼ氏の絵がアレなせいなのか? Pia2・Pia3の制服コンテストの時はそれなりに目移りして選ぶのが楽しかったんだけれど、今回の制服は可能ならば選びたくない。

いや、いいよ別に新しい制服じゃなくて。
歴代の人気制服をマイナーチェンジするとか、2や3の時のボツ制服を採用するとか…。
勇気ある撤退も時には必要だよ。頼むよ…。

あとヒロイン三人のラフ画が公開されてた。この絵が微妙だったので心配していたのだけれど、ラフ画は普通に可愛くてちょっと持ち直した。フミオ氏の絵は『そらうた』みたいなアニメ調の塗りの方が合いそうな気がするなぁ。


05年5月8日(日)/


そろそろ引っ張りすぎですが。何か違和感を感じたものについて突っ込みを入れようとするのなら、その何かをそれなりに理解しなくちゃならないわけで、かなり真面目に読んでしまった気がする。


▼ 『美少女ゲームの臨界点』


以前、東氏が『動物化するポストモダン』で言っていたのは、

「小さな物語」の深層にあった「大きな物語」(他者への共感)が凋落して、「大きな非物語」(データベース)になる。→オリジナルとコピーの区別(つまり引用するという意識)がなくなり、データベースによって裏打ちされたシミュラークルが増加する。→シミュラークルは「大きな物語」を必要としなくなり、ポストモダンの人間は深層を持たない表層的なドラマによって動物的に「小さな物語」への欲求を満たす。

ようするに、「大きな物語(他者への共感・イデオロギー)が必要なくなる」という部分が重要だったはず。しかしエロゲーにマッチョイズム(家父長制的イデオロギー)が横行しているのは、まぁ、東氏の指摘するとおり事実なわけで。つまり東氏自身のオタクの捉え方が動ポモの頃とは変わってきていて(※ 東氏に言わせれば「状況の方が変わった」という事でしょうけど)、この『美少女ゲームの臨界点』はそのフォローなのかなと思い始めた。その前提で改めて読み直してみると、言ってる事がだいぶ理解できるようになってきたし、僕がどこに違和感を感じていたのかもはっきりしてくる。

つまりこの本は、「オタクが動物的だった時期は確かにあったのだけれど、そういう一見クールな態度の裏で、実はオタクたちは自己欺瞞によってマッチョイズムを密輸入していた事がわかってきた」(P110〜111辺りの要約)、というのが趣旨なのだろう。で、そういうオタクたちの自己欺瞞が気に入らないと。「大きな物語」=マッチョイズム=父になる(東氏的には等価)の凋落は明らかなはずなのに、なんで今更「燃えゲー」なんだ、と。そうか、それでやけに『Fate』に突っかかったり、『CLANNAD』の共同体万歳みたいな保守性は評価できないとか言ってたのかな…(といっても那須きのこ氏は女々しい部類の作家だと思うけどなぁ)。

しかし仮にエロゲーから「マッチョイズム」というイデオロギーが消え去ったとしても、そこに残るのは「反マッチョイズム」というイデオロギー、或いは「特定のイデオロギーを支持しない」というイデオロギー(イーガンの「放浪者の軌跡」みたいな)であって、イデオロギーから生み出された「小さな物語」を通して「大きな物語」に触れようとする構造は、(たとえそれが虚構でありシニシズムに過ぎないとしても)変わらないように思う。

そもそも僕は、東氏の言う「動物的でデータベース的な作品」というものの具体像が判っていないのかもしれない。例えば東氏は大塚英志氏とのやりとり(2002.9.28)の中で、大塚氏の「(東氏は)主題とか構造みたいなものはまったく認めない」という指摘に対し、「物語性の回帰」「主題性の回帰」の現象は、僕の本のなかですでに分析されていると返答している。だけど主題性って普通はイデオロギーの事を指すんじゃないの? 東氏の言う大きな物語から遠く離れたポストモダン的精神が、にもかかわらず「小さな物語」を追い求める二重構造っていうのは、イデオロギー(主題性)から切り離された「小さな物語」は、読み手の動物的欲求を効率よく満たすための表層的なドラマに終始するという分析だと思っていたんだけど。でも東氏は主題性を否定しているわけではないらしい。

続けて東氏は『千と千尋の神隠し』を例にとり、骨組みしかない物語=民俗学的な説話構造の台頭と述べているが、別に民族的な説話だって、最初から骨組みしかなかったわけではない。例えば『桃太郎』は五行思想というイデオロギーから生み出された物語だ。これが後世に伝わっていくうちに、読み手に理解できなくなったイデオロギーが取り除かれてゆき、現代においては「骨組みしかない物語」「表層的なドラマ」でしかなくなってしまうわけだが、仮に現代的に『桃太郎』を再構築しようとすれば、そこには現代に即したイデオロギーを当てはめる必要があるだろう。

たとえば一つの作品があるとして、それをアニメ化することになったとする。その時、アニメ版のスタッフが原作に流れるイデオロギーを全く理解できなかった場合、取れる手段は二つあると思う。一つは原作のイデオロギーを完全に無視して、自分達に理解できるイデオロギーで物語を再構築するやり方。もう一つは、原作のイデオロギー的な部分は極力避けて、とにかく表層的な物語の骨組みだけを再現しようとするやり方。どちらが良いとは言わないけれど、後者の方がデータベース的だってのは何となく判る。しかしそういうイデオロギーを、僕は「主題性」と呼ぶのだと思っているのだけれど、東氏の言う「主題性」というのは明らかに意味が違っている事になる。どうも納得いかない…。





あと「父になれない男性の内面を描いた作品」だけを、「文学的想像力」とか「ビジネスに回収しきれない進化の方向性」とか、あまりにも神格化して扱うのはどうかと思います。っていうか知ってて触れないのか、本当に知らないのかは判りませんが、その方向性で進化したエロゲーの極地が「寝取られゲー」だと思うんですが。いや、あれは文学的だと僕も常々思っていたけどNE!(皮肉)


05年5月6日(金)/


▼ 『美少女ゲームの臨界点』

1日の日記は一部撤回。
「二次創作」(設定志向)で、「現在のオタクカルチャーの姿」という発言から、短絡的に「データベース的で動物的って言いたいのかぁぁぁっ!」と思ってしまったのだけれど、冷静に考えるとそれはおかしい。マッチョイズムって、要するに大きな物語のことだもんな。

むしろシニシズムって言いたいのか?
それなら僕的には納得なんだけれど、でもそれだと動ポモで言ってたことと矛盾しね?
エロゲーはまだ虚構の時代の真っ只中ってこと?
いや、僕は動物の時代が来ることなんて永久にないと思ってるけどさぁ。

んー、批判する前にもう一度読んでみます。

05年5月5日(木)/


この前School Daysの騒動について書いて、ふとOverflowのゲームに注目したのなんて久しぶりだったことに気がついた。 そういや、ちよれんの一角で大手のイメージがあったけど、最近のOverflowは鳴かず飛ばずのパッとしないメーカーに過ぎなかった気がする。で、ちょっと冷静に考え直してドキっとした。この前書いたように、僕には「Overflowなんて所詮はイロモノ」みたいなイメージしかなかったんだけれど、そもそもOverflowって、本当にそんなイロモノゲームばっかり作ってたんだっけ?

だいたい僕はここのゲームって『ピュアメール』しかやった事ないし、ピュアメやった当時は(ちょっと黒いけど)個性的なゲームを作るメーカーとして評価していたはずだ。僕の中で今みたいなネタっぽいイメージが決定付けられたのは、たぶん冬大根・夏大根の話を聞いた辺りからで、じゃあそれ以外のゲームはというと、「え? こんなの出してたっけ?」みたいなタイトルが並んでて愕然としたり。

っていうか、ネットでのSchool Daysの評価は、(真っ当に期待して裏切られた人には申し訳ないけれど)「これでこそOverflow!」みたいな肯定的な意見が目立つ。「これでこそOverflow!」だというのなら、次は更に先鋭化したドス黒いゲームを出してくるのだろうか? 断っておくが僕はSchool Daysをやってないから、本当の所このゲームの実態は何も知らない。だがネットを介して伝わってくるのは、ノコギリ飛び降りといった刺激的なイメージの切れ端と、それをネタとして祭を楽しむユーザーの空気だ。

暴走した自らのイメージに縛られて、いまやOverflowは身動きが取れなくなっているようにも思える。僕自身にしても、今回の騒動を聞くまでSchool Daysなど眼中になかった。「ここが真っ当なゲームを出したって面白くもなんともない」みたいなイメージが先にあったからだ。これがたとえ偏見だとしても、こういうイメージは今回の騒動で否応なく加速していくだろう。作品が先鋭化し、ふるいにかけられたユーザーが先鋭化し、それに合わせて更に作品が先鋭化していく。その悪循環の果てにあるのは、間違いなく先細りだ。

こういうのはマイナージャンルが向き合わなきゃならない宿命でもあるんだけれど、同時に少しずつでも間口を広げていく努力をしないと先行きは厳しいと思う。なんにせよ今回の騙まし討ちみたいな売り出し方は、後先考えるとやはり上手くはなかった。真実はさておき、「真っ当なやり方では話題を作れないメーカー」というイロモノ扱いが強まるだけなんじゃないかなぁ…(少なくとも僕の中では強まりました)。




▼ 『美少女ゲームの臨界点』 (『AIR』のネタバレを含みます)


東氏の『AIR』批評について書こうと思っていたのだけれど、冷静に考えるとあんまり書くことなかったりする。前回書いたように、マッチョであり反マッチョでもある美少女ゲームの矛盾は、『AIR』という作品で臨界点を迎えたのだと東氏は指摘する。氏の主張はわりとシンプルだ。

まずプレイヤーは『AIR』の第一部で、主人公の国崎往人に感情移入している状態で観鈴の救済に失敗し、反マッチョ的な挫折を味わう。しかし、それはあくまでゲーム世界の国崎往人が味わう挫折であり、プレイヤー自身は決して傷つくことがない。このように通常の美少女ゲームでは、プレイヤーをキャラクター・レベルでの視線とプレイヤー・レベルでの視線に解離させながら曖昧にし、責任と無責任を都合よく共存させてしまう。

ところが『AIR』の第三部は、プレイヤーの視線を国崎往人から強引に引き剥がし、その欺瞞を解体してしまう。キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルを完全に切断されてしまったプレイヤーは、プレイヤー自身の視線で物語(観鈴の悲劇)を無力なままに傍観させられ、プレイヤー・レベルでの挫折を味わうことになる。つまり『AIR』は、キャラクターとプレイヤーの二つのレベルを繋ぐ自己欺瞞を告発し、それを解体してしまったというわけだ。


以下、それに対する僕の意見だが、まず作品論として大いに気に入らない。作品のテーマが「父の不在」だという所からして気に入らないし、特に第一部を「国崎往人が父になろうとして失敗する作品」とか要約してしまう捉え方が気に入らない。だいたい麻枝氏本人が「ぎりぎりのバトンパスで繋いでいく」物語構造だって言ってんのに、そんなスーパーネガティブな解釈があるか! インタビューの意味ねーじゃん!

……と憤ったのだけれど、作品レベルで反論してもおそらく無駄なのだろう。東氏は論考の中で次のように述べる。


筆者自身、ここまで論じてきたような『AIR』の批評性を、麻枝准をはじめとするKeyのスタッフが意識していたとは考えていないし、また、ユーザーの多くが上記のような読解を行ったとも考えていない。(中略)

にもかかわらず、筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界的」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難を指すのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかく何か特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞だったはずだからである。



ず、ずっるーい! そんなこと言ったら何だって言えちゃうじゃん!

いや、その理屈で自分の批評の正当性を主張するのは明らかにおかしい。
作品が、作者の意図を越えた批評を生みだすことは確かにあるけれど、その批評が作品、或いはそのジャンルへの評価として妥当であるかは全くの別問題のはずだ。


05年5月01日(日)/


▼ 神様のいうとおりッ くじびきAI-BIKIスクランブル


む、かなり微妙だ…。
てっきりアリステイルみたいに、速攻でエロシーンに突入するゲームかと思ってたら、なんだかグダグダな日常が延々と続く。くじ引きで役柄を決めて、例えばご主人さまと奴隷のようなイメクラごっこをするんだけれど、所詮は授業の一環なのでエロくはない。なんかイメクラの気恥ずかしさと、それに伴うグダグダ感が萌えポイントなのだろうか? いや、イメクラ行ったことないから知らんけど。

正直、ダルくて何度か途中で寝てしまって、未だにエロシーン一つも見れず。もう面倒臭いからセーブデータ改造して終わりにしちゃおうかなぁ…。



▼ 『美少女ゲームの臨界点』


4月25、27日の続き。

さて、ササキバラ・ゴウ氏は美少女ゲームを「選択肢によって、プレイヤーに『責任』を生じさせるジャンル」と定義するその一方で、ポルノメディアとしての美少女ゲームが無責任にプレイヤーのマッチョイズムを肯定してしまうという矛盾をも指摘する。つまりプレイヤーは、エロゲーの主人公の視線に感情移入している間はキャラクターレベルでのリアリティに「責任」を感じて反マッチョイズムに酔っ払い、その一方で、ゲームから離れたプレイヤーがプレイヤー自身の視線でゲーム世界を眺める時、ゲームのヒロインたちはただの攻略対象に成り下がり、マッチョイズムを肯定するための消費物でしかなくなってしまう。(ようするに、ゲームプレイ中にどれだけ「雪さんサイコー」「花梨愛してる!」とか純愛に浸った所で、一歩ゲームから離れてしまえば、雪さんも花梨も数ある萌えキャラの一人に過ぎないでしょ? というもっともな指摘である)


つまりササキバラ氏が指摘しているのは、美少女ゲームの持つ「反マッチョイズム(女の子への責任)」と「マッチョイズム(女の子への無責任)」という矛盾した二面性である。


どうやらこの指摘こそが、東氏にとっての天啓であったらしい。東氏は、本書の論考「萌えの手前、不能性にとどまること───『AIR』について」の中で、このような美少女ゲームの持つ矛盾を支えているのは、オタクたちの「解離」(多重人格性)という本質であり、さらにその解離を強引に埋める「ダメの論理」(俺たちはダメ人間なんだから矛盾してたって仕方ねーじゃん、という論理)という自己欺瞞であると言う。


※ 余談
(僕は最初、東氏はこの美少女ゲームの二面性を、『動物化するポストモダン』の中で語った、「データベースの水準で生じるシステムへの欲望」(大きな非物語)と「シミュラークルの水準で生じるドラマへの欲求」(小さな物語)と結び付けようとしているのかと思ったのだが、これは全くの無関係らしい。論考のP168で『動ポモ』を例に出し「解離」という表現を用いているのは、あくまででオタク達のメンタリティを説明するためのもののようだ。ちょっと紛らわしい…)


そしてこの美少女ゲームの抱える矛盾が臨界点を迎え、ついにオタクたちの自己欺瞞を解体してしまったのが『AIR』であり、それ以降の美少女ゲームはマッチョイズムと反マッチョイズムに二極化してゆくという結論であるらしい。(ちなみにこの「AIRはオタクたちの自己欺瞞を解体してしまった」という批評は、ある意味で動ポモの『YU-NO』批評なみにアクロバティックで面白かったです。まぁ、肯定するか否定するかと言えば、もちろん僕は完全否定ですが。話が逸れるので、これの詳細についてはまた明日か明後日にでも)

ではここで、25日に引用した美少女ゲームパーフェクトマップに目を向けてみよう。左上から右下へと続く「文学的想像力」は、27日に書いたとおり反マッチョイズムの流れである。この流れの作品で描かれるのは、マッチョになれない男の子たち(これを更科氏は「零落したマッチョイズム」と呼ぶ)の繊細な「内面」である。

それに対して、右上から左下へと続く「物語消費」は、つまりマッチョイズムの流れなのである。これは反マッチョイズムの「内面」に対して「表層」、つまり設定と言い換えても良いかもしれない。佐藤氏はこの流れを「二次創作」と明言しているし、同時に現在のオタクカルチャーの姿でもあると言う。

なんのこたぁない。つまり動ポモで言ってた「シミュラークル」である。この流れの作品群は、設定レベルでのリサイクル品───ようは「『マリみて』が同人で大ヒットしてるから『処ボク』でも作ってみようぜ」みたいな流れの作品を指しているのである。動ポモと併せてもっと踏み込むと、「マッチョイズムに支えられたこの作品群は、萌えとか泣きとかの動物的欲求を満たすための消費物であり、そこでは反マッチョイズムを自覚させかねない選択肢はノイズに過ぎないから、まんが・アニメ的リアリズムと結びついていったのだ」と言いたいわけである。(撤回)





ああ、ツッコミてぇ…。もうツッコんでもいいよね?




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