軽いネタバレについてはワリと普通にしてますので、
タイトル見てヤバイと思ったら頑張って目を逸らして下さい(無責任)。




07年3月31日(土)/漢(おたく)は心に島本和彦を秘めている



オタクはコミュニケーションに燃えを求めている。 (モノーキー)


あー
この前ロミオゲームにおけるコミュニケーションについて色々と書いたけど、まったくもってこれのことだよ。実社会のコミュニケーションなんてのは、たいてい当たり障りのない折衷案ばっかりになりがちじゃん? そういう意味で僕は毎日のように太一よろしく擬態している。でもそうやって社会人やってると叫びだすんだよ、俺の中の島本和彦が。








ひゃっほう、島本和彦!


 「金に魂を売るなっ!」
 ……素晴らしい。死ぬまでに一度はリアルで言ってみたい台詞だぜ。
 (※ 小市民ののりさんは、普段からグラム幾らで魂を切り売りしているそうです)

そして今晩は泊り込みで飲み会(仕事の延長)なわけだが、もちろん笑顔で参加してくる予定なのであった…。





のりさんが初めてネットに触れた時、そこでいい歳した大人たちが、漫画やアニメ、そしてエロゲーについて熱く語り、議論し、ときに生身の感情剥き出しで罵りあう光景は、なんだか結構眩しく見えたらしいぞ。病んでるよね。'`,、('∀`)'`,、


07年3月25日(日)/


『桃華月憚』の応援バナー設置特典で、キャラクタ作成ツールというのを貰えたので早速作ってみたお。



名前は河合優希子ちゃん。
例によって巨乳童顔、いえい。

文科系クラブ所属で、
A型・天秤座の苦労性。
口癖は、
「……あ、わたしがやっておきます」



……この手のカスタム系ヒロインを作るたびに思うことなのだけれど、俺の好みの娘って決まりきってるよな。僕は純愛ゲームだろうが鬼畜ゲームだろうがOKな人間で、それこそ中学生カップルみたいな手を繋いだだけで赤面するような恋愛から、嫉妬に狂ったヤンデレに殺されかけるエンドだとか、暴力系ハードスカトロ調教の末に廃人公衆便所になるエンドだろうが、ライバル男キャラに寝取られてギシギシアンアンとイキまくってる所を見せ付けられながら涙するエンドだろうが、どれも一様にハァハァできてしまうわけですが、それも全て「好みのヒロインが」という前提条件があるわけで。

けっこう僕も選択肢の幅が狭いよなぁ…。


07年3月24日(土)/


トップにまたまた応援バナー貼ってみた。バナー貼るだけで色々もらえるなんて得だよね。しかしこの手のバナーを貼るたびにいつも思うのだけれど、応援しておきながら発売後に手のひらを返すのは仁義に反するのだろうか? どれとは言わないけど正直、不安なゲームもあるんだぜ…。ちなみにメーカーのためにあえて厳しい意見を言っている、なんてのは少なくとも僕に関しては大嘘で、瞬間的には「お前らもう潰れちまえ!」ぐらいのことは思いながら叩いてます。本当に潰れちゃったら寂しいくせにね。


cogniさんの返信への返信


んー、だから前回の文章は反論とか批判ではなくてですね。


>だから嘆くべきは、この対立の欺瞞に気づけない自意識の過剰さなのではないだろうか。つまり自分の実感を疑えない、という太一の精神だ。そしてこの対立図式に疑義を挟み込まないC†Cの世界の構成され方だ。他者性、ていうのは、常に不幸なもんじゃない。幸福な他者性もある。


こういう問題意識は、たぶんというか間違いなくC†C書いた田中ロミオ自身も持ち合わせていて、ユメミルクスリなんかはその事こそを描いている。にもかかわらずC†Cだけが突出して語られる事への苛立ちが前回の文章であって、それをユメミルクスリをやってないcogniさんに突きつけて反応を迫るのは言い訳のしようもなくお門違いでした。ごめんなさい。んで、結局の所どういう反応をcogniさんにしてもらいたかったのかと自己分析するのならば、ようはユメミルクスリやおたく☆まっしぐらに少しでも興味持って欲しかった、というのが正直な所。いや、僕ほんとロミオ信者とかじゃないよ?(説得力なさすぎ)


んで、リンク先のユートピア論。ユートピア主義にも色々あるのかぁ…。


>任意のある特定の実存的ユートピア主義の立場からすれば、自分のそれ以外のユートピア的実験の「多数の異なった可能性」は単に「許容」されるだけではなく、「駆り立て鼓舞する」に値するものであることになる。もちろん帝国主義的ユートピア主義の営為に関してはこのように単純に言い切ることはできないだろう。それらは他のすべてのユートピア主義に対して直接に敵対行動をとるものであり、実存的ユートピア主義者たちもその脅威に対して自衛行動をとらざるをえず、その侵略的性格を「許容」することはできないだろう。しかしながら実存的ユートピア主義にとっては、帝国主義的ユートピア主義のある側面、すなわち、他者に自らのヴィジョンを強制しようという性質を取り除いた後に残った、そこにおける生へのヴィジョンそれ自体は「許容」し、「駆り立て鼓舞する」に値するものであるかもしれない。


『おたく☆まっしぐら』の漢(おたく)たちは実存的ユートピア主義と言えそうだ。ただし世界背景として、自分達を許容してくれる「枠」=「最小国家」=「アキバ」が常に侵略に晒されて闘争を生んでいるので、やはりそれはユートピアではなくディストピアなのだろうけれど。


07年3月23日(金)/思い出しながら書いてます


こことか見ながら。(『NOIR』知らない人は見てみると良いよ)
でもさすがに各話について語ろうと思ったらDVD見直さなきゃ無理だろうなぁ…


引き続き『NOIR』ネタバレ


 ・ 「愛で人を殺せるのなら、憎みで人を救えもするでしょう」

放映時、このアルテナの台詞に最初から違和感があったんですよね。だってアルテナって、どう見ても愛とか憎しみとかの人間的感情では動いてないじゃん。ありゃあ超越者の行動原理ですよ。んで、そのうちに天啓のように閃きました。ここで言う「愛と憎しみ」って、感情的なものじゃなくてコレなんじゃないの?

古代ギリシャ時代、万物は火・水・空気・土の四元素で作られていると考えられていました。たとえば土から芽が生まれ、花を咲かせ、散りゆき、また土へと還ってゆくような万物の流転は、四つの元素を結びつけたり切り離したりする「愛と憎しみ」というエネルギーによるものだと思われていたのです。

それぞれの元素を結びつけ、万物の形を成すエネルギーが「愛」
万物をバラバラに切り離して、個々の元素に戻してしまうエネルギーが「憎しみ」

ここで元素を「人」、それが結びついて形を成したものを「社会」に当てはめて考えてみましょう。人と人を結びつける力を愛と呼び、また人と人を切り離す力を憎しみと呼ぶのであれば、アルテナの行動原理が見えてきます。つまり、人と人が結びつくから争いが起こるわけで、だったらその結びつきを切り離してしまおう、みたいな考え方ですかね。

第7話でミレイユは、霧香と自分との絆を「黒い糸」と表現します。しかし黒かろうが赤かろうが、それはやはり絆であり(エンペドクレス的な意味で)「愛」なのです。同じように、霧香とクロエを結ぶ絆であるフォークは、日常の象徴でもあるお茶の道具であると同時に、クロエを殺す武器としての一面も孕んでいます。「愛」で人を殺せますよと。そういう意味では12話のライマンとゼルナーの関係なども絆であり愛です(くどいようですけどエンペドクレス的な意味で)。クロエは軍と犯罪組織を巻き込んだ不毛な結びつきを根こそぎ断ち切りますが、そこに人間的な憎しみの感情は感じられません。等しく花を手向けるのは、それが救いのつもりだからですね。

今日はここまで。ヽ(´ー`)ノ


07年3月22日(木)/


放映当時からいつかネタにしようと思い続けて、はや6年。なんかDVDボックスが出たらしい、ということで今回の機会に『NOIR』を語っておきまSHOW。

この『NOIR』は、フィルム・ノワールを意識したタイトルだの、ビスタサイズの採用だの、放映当時から「映画的」ということはよく言われてきたアニメです。だけど僕がもっとも映画的だったと思ったのは、映像面や音楽面ではなく、月村了衛氏の手がけた脚本と構成でした。

こ、こいつ全26話のアニメシリーズでハリウッド・スタイルの三幕構成やってやがる……っ!!!
(まぁ、さすがに30分・60分・90分の比率を厳密に守れてるわけじゃないんだけど)

しかも一話完結というスタイルをギリギリのところまで維持しつつ、構成レベルで一話一話を見ていくと、全ての話に物語上の意図が込められているという職人芸。これをやるには、アニメの第一話を作り始める段階で、構成と脚本のかなり細かい所まで詰めてなきゃいけないはずで、はっきり言ってアニメに疎い僕でも、このアニメがかなり珍しい部類に入ることは理解できました。

まぁ、物語に関しては原案・虚淵玄ぐらいのことを言ってもバチは当たらないような感じなのですが、僕は作品構造にしかほとんど興味ない人間ので、物語の組み立て方さえ美しければオリジナリティとかあまり気にしないのでした(笑)。

んで、基本的に全話見終わった人向けに一話ずつミニ解説を入れていってこの構成美を熱く語りたいところなんだけど、まずここだけは抑えておきたいというポイントをいくつか。


以下、ネタバレ。


 ・ 三つの詩

冒頭、「ノワール───其は古よりの運命(さだめ)の名。死を司どる2人の乙女」で始まる三種類の詩ですが、この三つはそれぞれ描き手の提示する物語のテーマと言ってよいでしょう。注目すべきは「黒き○○」の部分。

まずは一番目の詩 「黒き御手は嬰児(みどりご)の安らかなるを守りたもう」ですが、「御手」とは肉体です。つまりこの詩におけるノワールとは、「肉体的な死」を司っているということです。まぁ、これは殺し屋が主役の物語と言うことでテーマとして万人に納得して貰えるところでしょう。

そして二番目の詩 「黒き御霊は迷い子を業火の淵に誘いたもう」の「御霊」。これはいわゆる魂といって良いでしょう。僕らは元より物でしかない絵画などに対して「この絵には命が籠もっている」などと言ったり、生物学的には生きている人間に対して「まるで死んでいるようだ」などと言ったりもします。つまりここでノワールが司っているのは「観念的な死」です。ちなみにOP「コッペリアの棺」は、この「観念的な死」をテーマにした歌と言えます。「業火の淵」については、後に詳しく書きます。

同じ要領で三番目の詩 「黒き衣は乳飲み子を闇より分かつ盾ならん」の「衣」。環境・というか社会ですね。死んだと思われていた旧日本兵が無人島で生きていた、などという話を聞いたことがあります。しかしこの人たちは肉体的・観念的に生きていたとしても、誰かに発見されるその瞬間まで死んでいたと言えます。ここでノワールが司っているのは「社会的な死」です。嬰児と乳飲み子は意味がほぼ同じに思えますが、乳飲み子の方からは、「1人では生きられない」というニュアンスをより強く感じさせるところがポイントですね。この物語の最大のテーマであり、ノワールが2人で1人である最大の理由であり、作中でアルテナが最後までこの詩を謳わなかった(理解できなかった?)ところが面白いです。なおEDの「きれいな感情」は、この「社会的な死」をテーマにした歌です。作中のEDでは一番しか流れないんだけど、二番まで聴くとすっげぇ感動的な歌なので、是非サントラ買って聴くことをお勧め。

気付いたら三時過ぎなので、続く。

……忙しかったり飽きたりして放り投げちゃったらかんべんな。
いや、そもそも何人に読んでもらえるか不安なネタだけど多分3~4回は続く予定。


07年3月21日(水)/


重ね重ね言っておきたいのは、前回のは「コレについて語るなら、アレをやってからにして欲しいねェ」というような趣旨の発言ではない。その証拠に僕は最果てのイマやってないし。そしてMOONもやってないしDDDも読んでないし、ああ、そういや覘き小平次とルー・ガルーもまだ読んでないや…。

田中ロミオに対しては色々と愛憎入り混じっていて、僕は単純に信者といえるような立場ではないと思う。のだけれど、客観的に見て突っかかり方が感情的でキモ信者っぽかったことは我ながら否定できない。

まぁ、好きの対義語は嫌いではなく無関心らしいからな。僕が長期にわたってC†Cを粘着質に批判し続けてるのもツンデレ、もしくはヤンデレと言えるかもしれない。うわあ、ツンデレはフィクションだけにして欲しいということだね。





九州物産展で辛子高菜を買ってきた。チャーハンうめぇ。


07年3月20日(火)/


      ./       ;ヽ  
      l  _,,,,,,,,_,;;;;i  <いいぞ ベイべー! 
      l l''|~___;;、_y__ lミ;l  逃げる奴はおたくだ!! 
      ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i |  逃げない奴はよく訓練されたおたくだ!! 
     ,r''i ヽ, '~rーj`c=/  
   ,/  ヽ  ヽ`ー"/:: `ヽ 
  /     ゙ヽ   ̄、:::::  ゙l, ホント アキバは地獄だぜ! フゥハハハーハァー 
 |;/"⌒ヽ,  \  ヽ:   _l_        ri                   ri 
 l l    ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| |                   / | 
 ゙l゙l,     l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l 
 | ヽ     ヽ   _|_  _       "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ 
 /"ヽ     'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄  [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`" 
/  ヽ    ー──''''''""(;;)   `゙,j"  |  | | 



エロゲ論壇周辺、とくにロミオ信者と自称する人たちに僕が何よりも言いたいことは、とりあえずお前ら、『家族計画』や『CROSS†CHANNEL』の半分ぐらいでもいいから、『ユメミルクスリ』や『おたく☆まっしぐら』についても語ってやってください、ということです。


CROSS†CHANNEL雑感こぐにと。


「世界と自身とを分かつ壁は、人を象り閉じ込める檻」

などと歌った『CROSS†CHANNEL』でコミュニケーションの一方通行性が語られるのは妥当なことだと思うのだけれど、だったら情報を双方向的に共有化されたネットワーク世界で「世界と自身とを分かつ壁」が取り払われてしまった『おたく☆まっしぐら!』についても相応に語られて欲しいと思う。

他人という言葉の定義に、絶対的な距離、というのが前提されているというのは判る。んでその「絶対的な距離」が争いやら悲劇やらを生むのだとして、その問題をどうにかすることが「解決」なのだろうか? 仮に他人との距離が埋まったのならば、争いがなくなってハッピーエンドということなのか? それとも人間は孤独なのだと悟った上で、社会から距離をとって「思い出だけで生きていける」とか言って、他人との共感を必要としない動物のようになることが解決なのか?

むしろそういう呑気な「解決」にちゃぶ台引っくり返したのがC†Cなのではあるまいか?

『ユメミルクスリ』の主人公・公平は、他人の顔色を伺いながら、周囲の空気に溶け込むように生きてきた人間である。どれだけ「普通」に擬態しようと、周囲から浮き上がって異端性を発揮してしまうC†Cの太一とは正反対のキャラクターといって良い。公平は、自分が社会の中でどういう風に振る舞えば受け入れられるかを身に付けている(と少なくとも公平自身は思ってる)し、公平には他人との「絶対的な距離」などという悩みは皆無である。にもかかわらず、そのことは公平を幸せにはしない。社会の価値観に適合し、自分と他人との境界線が曖昧になった公平には、空気のような他人と、その空気に同化した限りなく透明な自分自身がいるだけである。太一は「普通でないこと」がコンプレックスだが、公平は「普通であること」がコンプレックスなのである。眠ったように生きる公平を、田中ロミオはオープニングでとりあえず一発ぶん殴る。目を覚ませ。戦え。

この物語で公平を救うのはやはり他人である。全然ふつうじゃない、てんで理解できない、絶望的な距離を持った他人。そういう他の価値観とのコミットによって、初めて公平は自分自身の境界線を獲得する。

『おたく☆まっしぐら』で、社会の外れ者であるおたく達は、聖地アキバに寄り集まる。しかし田中ロミオは、アキバを外界から遮断されたおたくたちのユートピアとして描いたりはしない。外界からは観光気分の核家族だの、おたく狩りのヤンキーだの、おたく産業を金づるとしか思っていない商業主義だの、おたくの価値観を脅かすような、ありとあらゆる他の価値観が絶えずアキバに流入し、情報汚染していく(アキバ振興会は秘密裏に情報統制を行うが、情報網の発達した現代において情報の流入を防ぎきることなど不可能だ、という前提がある)。外界の「敵」と、おたくの「美学」を掲げる主人公たちとの間に生み出されるのは殺伐とした闘争であり、田中ロミオが肯定的に描いたのは、まさにディストピアとしてのアキバであった。(wiki辺りの説明によれば、かって「ユートピア」だったものが価値逆転して「ディストピア」として描かれるようになったらしいが、『おたく☆まっしぐら!』は、かっての「ディストピア」を再度「ユートピア」へと価値逆転させたと言えるかも知れない)

『家族計画』は、寄り集めた他人を「家族」という魔法の力が他人ではなくす物語───などではなかった。他人は最初から最後まであくまで他人であり、血の繋がった家族だろうとクソみたいな家族はやっぱりクソでしかなかった。ただ「家族」は、他人と他人を結びつける契約としてのみ機能する。当然ながら良い契約ばかりじゃない。真純の前夫だの、末莉の親戚だの、不良債権みたいな契約もあるが、田中ロミオは契約するなとは言わない。癒されるような良いことばかりではなく、傷つけたり傷つけられたりする争いも含めて、コミュニケーションとはそういうものではないのか?

(追記)

「エロゲ論壇周辺、とくにロミオ信者と自称する人たち」と書いたのは、cogni氏はもちろんのこと、誰か特定個人への皮肉ではないので、とりあえずそこの所よろしく。(´ー`;)
とはいえ、「絶対的な距離」が争いやら悲劇やらを生むのだとして、その問題をどうにかすることが「解決」なのだろうか? と書いたのは、わりと直球でcogni氏めがけて投げ込んだつもりなので、すげーあっさりスルーされてちょっとしょんぼり。俺、コントロール悪すぎですか?

少なくとも、ロミオ作品を僕がプレイした範囲で言うのならば、どの作品も(もちろんC†Cも)、他人との絶対的な距離というのは単なる前提としてしか描かれていないと思う。ということを言いたかったのね。





そういや有志の作った『おたく☆まっしぐら』のざくろルートをやってみた。
「SSねぇ…?」とか正直、色眼鏡で見ていたけれど本当に違和感なくて驚いた。
恐ろしい、これがおたくか…。


07年3月3日(土)/God is in the details (神は細部に宿る)



やたら難しいエロゲーというか、話がわけ判んなくて議論だとか考察だとかで盛り上がるエロゲーってのがたまにある。そういうエロゲーをプレイしたときに、これは読者の想像の余地を残した良いゲームだと思うこともあれば、単純に話が判りにくすぎるだけだと思うこともあって、まぁ、『いつか、届く、あの空に』の場合は残念ながら後者だ。

あるテクストを読んで、その構造をどう解釈するか? というのはもちろん読者の自由だ。
でも構造そのものが判らないなんてのは、書き手と読み手のどっちかがヘボなだけだと思う。
んで構造そのものを捏造し始めたら、そりゃもう二次創作じゃん。

ディテールが曖昧なのは良いと思うんだよ。
むしろ、そこに読者の想像の余地を残すことは名作の必須条件、と言えるかもしれない。
でも大枠のフレームがしっかりしてないってのは、少なくとも僕的には評価が落ちる。
特にそれが構造の複雑さに拠った難解さではないのなら尚更だ。

せっかく面白い要素をたくさん詰め込んでるんだから、もう少し堅実なつくりにした方が良かったと思う。



▼ 伸ばしたこの手は届かない


寝取られ特化ということでDL購入。安いし。
しかし、うーん、絵に惹かれるものがないせいか、あまりツボにはまらなかった。
(というか、未だに自分の寝取られのツボがよく判らない…)
主人公に食事を与えるために、ヒロインが精液ぶっかけトースト&スープを食べさせられるシーンがちょっと良かった。



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