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2011年5月5日(木) 東電社長の土下座

フランクルの「夜と霧」に、ナチスの収容所から解放された人が、自由になったとたんそれまで自分に対して行使されていた権力や暴力を他人に対してためらいなく行使することがあると。

ガス室で身内を殺された者には多少の悪事は赦されるという論理だ。

謝罪に来た東電社長に土下座しろと怒鳴ったやからは同様な気持ちだったのだろう。それまでは話しかけることも出来なかった大会社の社長を怒鳴りつけ土下座させる快感を味わったことだろう。

彼は、立場が逆転していて、彼が強者で社長は弱者であることに気付いただろうか。少なくとも社長が自分になにも反論できないことは承知で怒鳴ったのだろう。弱い者しか怒鳴れない自分の卑劣さには気付かず英雄気取りだったのだろう。

2011年5月3日(火) ビンラディン殺害

オバマ大統領は正義(justice)が達成されたと言っていた。果たしてそうであろうか。

Justice には正義のほかに裁判という意味もある。例えば、bring sb to justice は「裁判にかける」という意味になる。

ビンラディンは裁判にかけられることなく殺された。裁判で有罪が確定するまですべての人は無罪と推定される。従ってこれは無実の人の殺害ということになる。

米国憲法第5修正は「何人も・・・due process of law によらずに、生命、自由または財産を奪われることはない」と定めている。この「法の適正手続」はアメリカが世界に誇る価値であったはずである。

テレビシリーズ「ザ・ホワイト・ハウス」では、ジェド・バートレット大統領が、テロ支援国の国防大臣を暗殺するエピソードがあったが、彼はその決断をするにつき大いに悩み、殺害後も落ち込んでいた。オバマ大統領は何の矛盾も感じないのか。

米国はテロ国家に成り下がった。

2011年4月20日(水) 日本人の公徳心

震災に関して、暴動や略奪が起きないことから、日本人の高い公徳心が賛美されている。先日もハーバード大学のサンデル教授が参加した番組がNHKであった。最初のみ見たが気持ちが悪い内容だったのでやめた。

何故日本人には宗教を信じる人間が少ないのにこのように公徳心があるかについては議論がある。美意識が高いという人がいるがそうだろうか。

私は、別に日本人が高い公徳心を持っているとは思わない。単に人の目を気にするから悪いことが出来ないだけだ。宗教は戒律で人を縛るが日本では世間の掟がその役目をする。その掟の内容は不明確なので日本人は常に人の目を気にする。

阪神淡路の時も今回も、社会が崩壊したわけではない。だから世間の掟は有効に働く。誰も見ていないとしても、刷り込まれた世間の拘束は我欲を自由にさせない。

世間がなくなったとしたら、日本人の公徳心はどうなるだろう。多分宗教の拘束がないぶん秩序を失うだろう。

自分の周りの社会が存在しても、それと敵対する相手に対しては道徳的であれという指令は誰からも発せられない。戦争になれば日本兵はもっとも残酷だ。

要するに日本人は自分の周りの世間だけを気にして生きているのだ。

2011年4月6日(水) 災害の意味

1000年に一度の天災と言っても、1万年には10回、100万年には1000回で、地球の歴史から見れば珍しいものではない。

でも、人の一生の時間から見ると、1000年は伝説の時間であり、神話の世界に入っていく。そして、神話的な大災害には何かの意味があると考えるようになる。

キーワードは「我欲」で、石原慎太郎が「我欲に対する天罰」と言ったときは反発を招いたが、その後の状況を見ると多くの日本人が自分の我欲を反省しているように思える。

募金の額、ボランティア志願者の数、節電への協力、消費の抑制等、「我欲」は悪だという意識に動機づけれているに見える。

考えてみれば、この傾向は、昨年末の「タイガーマスク運動」から見られた。そこにはやはり我欲への反省があり、社会が何かを予見していたようでもある。

原発事故についてみると、これは天災半分人災半分のようだが、世界史上の大事件として記憶されるだろう。ポイントは、福島第一原発の事故が、チェルノブイリのような設計ミスではなく、スリーマイルのような操作ミスでもなく、普通の危険度の原発に天災で起きたもので(多分津波がこれほど大きくなければ問題なかった)、また、世界最高水準の技術と安全意識を持つとされていた日本で起きたというところだ。

現在の日本の対応が最善のものかは分からないが、対策は原発自体だけでなく、派生する多様な問題について必要で、日本の総合力が試されている。今の状況は、そのような総合力があっても原発は難物だという印象を世界に与えている。とくにこれから原発を建設しようとしている新興国にとってはハードルが高いというメッセージが読み取れる。

2011年3月16日(水) 大津波

石原慎太郎が、今回の東日本巨大地震について、日本人の我欲に対する天罰だと言い、批判され、撤回謝罪した。

今回の災害が天罰であるかはさておき、これが天災であることは明らかである。

天災とは、「暴風、地震、落雷、洪水など、自然界の変化によって起こる災害」で、「天」は、「自然」とともに「造物主」、「神」の意味も有する。

クリント・イーストウッドの最新作「ヒアアフター」は、スマトラ沖地震による巨大津波のシーンで始まる。昨日の新聞によると、この映画は上映中止になったと。

フランス人の女性キャスター、マリーは、東南アジアのリゾート(タイのプーケットか)でこの巨大津波に遭遇し、波にのまれ、漂流物に頭を打たれ、溺れた。しかし、彼女は、奇跡的に救助され、臨死体験をする。彼女は、自分が見た美しい死後の世界につき本を書こうと思う。

今回の津波を見て、改めてクリントの映画における津波の意味について考えた。

何故クリントは臨死体験を描くのに津波を必要としたのか。自動車事故でも病気でも死に瀕し生還することはある。

街で買い物をしていたマリーは、津波が道の向こうから迫ってくるのに気づく。津波は椰子の木を「ボキ、ボキ」とへし折りながらやってくる。それはゆっくり近づいてくるゴジラのようだ。

今回の津波の後の映像で、丘の上で捻じ曲がった鉄塔の列とそこから垂れ下がった電線が印象に残った。映画「ゴジラ」の第一作には、ゴジラが海から上がってきて、海岸線に張られた高圧電線を突破し、鉄塔をなぎ倒すシーンがあった。

ゴジラは、日本人にとっての天災(荒ぶる神)を表現したものだとする映画評論を読んだことがある。

マリーは、臨死体験で、天国を垣間見る。そのような神秘的な臨死体験を出来させる事象は、神の力を連想させるものである必要がある。

クリントは、津波を、圧倒的な力を持った、超越的な存在として描いた。海は意志を持つように動き、人はその前に無力だ。

今回の津波で、多くの人が亡くなり、多くの人が愛する人を失った。突然の死を受け入れることは容易でない。

しかし、死はみんなに来る。例外なくやってくる。事故で死ぬことが悲惨だと思う人は多い。しかし、長患いした後の死はもっと悲惨かも知れない。病院で無理に生かされた後の死が幸せだとも思わない。

最初の石原の言葉に戻るが、彼の言う「天罰」は、今回亡くなった人々が天罰を受けたということでは勿論ない。我欲にまみれた日本人が罰を受けたということだ。

では、亡くなった人たちの死にはどのような意味があるのか。

「人柱」という言葉がある。ある目的のために(神を鎮めるために)犠牲になる人のことだ。津波が神であるなら、今回犠牲になった人々は神に召された人々だ。彼らの死には意味があり、決して無駄死にではない。

その意味を、残されたものは、考え、理解し、忘れることなく生きていかなければならない。

愛する人を失った方に言いたい。愛する人の死はけっして無駄ではない。あるメッセージを我々に伝えるために、特に選ばれて、我々のために死んでいった人たちなのだ。

2011年2月28日(月) 石原慎太郎のクーデター

昨日、東京マラソン2011のテレビ中継の前に石原都知事のインタビューがあった。

石原は今の日本に対する絶望的な思いを語り、「日本を蘇らせるにはクーデターが必要なんだ、これは三島さんの最後の言葉だよ」と言った。そして、誰かがクーデターをやってくれれば自分は一兵卒として参加すると言った。

三島は、「反革命宣言」の中で、神風特攻隊の「あとにつづく者あるを信ず」の思想に言及したが、石原は、あとにつづく者としての自分をずっと意識していたのかも知れない。三島から後を託されたと感じていたのなら、40年間は長い。

石原は、お国に対する最後のご奉公ということも言っていたが、それがクーデターでという形で現れるのかもしれない。

2011年1月12日(水) 斉藤佑樹

斉藤佑樹の人気がすごい。キャンプ地の鎌ヶ谷には松井や松坂のときをはるかに超える報道陣が集まったとのこと。

斉藤の野球選手としての資質は松井や松坂に及ばないだろう。しかし、斉藤は「何か」を持っている。それが多くの人を惹きつける。

斉藤はその「何か」が「仲間」だと言った。それも一つかもしれないが、世間は「強運」だと思っている。それも単なる強運ではなく、何か神がかったものを感じている。

去年の斉藤最後の早慶戦を見てみよう。早稲田は一勝すれば優勝という状況で二連敗し、斉藤の出番がきた。これをドラマと考えれば、よくある筋で、陳腐と言える。

斉藤は8回1アウトまでノーヒットノーランできた。初めてのノーヒットノーランで優勝投手になればすごいと誰もが思った。しかし、その後斉藤は打たれ5点を取られて降板し、大石投手や打撃陣に助けられてやっと勝利投手になった。そして、試合後の会見であの有名になった「その何かは仲間」の発言があった。

斉藤が「仲間」発言を予め考えていたかどうか分からないが、もしノーヒットノーランを達成していたらいやみに聞こえただらう。他の投手や打者に助けられて勝利投手になって初めてあの発言が生きてくる。

そう考えると、このドラマの脚本家は並みの技量の持ち主ではないことが分かる。

斉藤のドラマは、ヒーローがいい場面で登場して勝利するというように単純なものではなく、もっと大きな感動につながるものだ。そこには、個人の強運を超えた力が働いているように人は感じる。それを神と呼ぶ人もいるかもしれない。

斉藤に対する異常ともいえる関心は、願っても何も実現しない人々が、斉藤を通じて大きな力のおすそ分けを求めているということかも知れない。

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