
「お願いがあるの」 母が困った顔をして、頼んで来た。 「何?」 娘、仔乃(しの)はパンにバターを塗る手を止め、問い返す。 「仔乃、あんたあたしが茅見(かやみ)様のお屋敷で働いていること、知っているでしょ?」 「うん、知ってる」 知ってるも何も、母子家庭の自分達はそれの給金で生計を立てている。 「あのね、ちょっと手伝って欲しいことがあるの…もう体力が…」 うんざりしたように言う母を見て、仔乃はわからないながらも頷いた。 成る程、母がうんざりするわけだ。 まだ十四歳という体力の有り余っている仔乃でさえ、一週間で既に音を上げそうになっていた。 「お嬢様! …全くもう!」 仔乃は声を張り上げて、茅見家の令嬢を探し回る。 セーラー服は散々森の中を歩いた挙げ句、葉っぱまみれになってしまった。 「あら、仔乃。そこで何をしているの?」 後ろから、たおやかな声が掛かる。 「お嬢様!」 この優美な少女が、茅見家の令嬢・初香(はつか)だった。 「何してるの…じゃないでしょう!? 何時間探したと思ってるんですか!」 「あらら、ごめんなさい」 申し訳なさそうにうなだれる彼女に、騙されてはいけない。 明日にはまた、皆の目を盗んでどこかへ行ってしまうのだから。 こう見えて、相当なしたたか者なのだ。 「お嬢様、外にいるとそれだけ病に掛かる率は高くなるんですよ? 病弱な御身を自重して、旦那様や奥様の気持ちも考えて下さい」 それに、いなくなる度捜索に駆り出される、私達のことも考えて下さい。 余程言おうと思ったが、さすがに止めておいた。 「一体いつもいつも、どこに行ってるんですか?」 「うーん…どこでしょうねえ」 初香のこの華のような微笑に見とれて尋問を止めてしまう者もいるが、残念ながら仔乃はその手には乗らない。 「行き先を告げてくれれば、ご両親も安心でしょうに」 「だから、いつも行き先なんて決めずにぶらーっとしてるの」 怪しい。 「じゃあね、仔乃。わたくし、戻るから」 「はい…」 初香の背を見送る仔乃の肩に、手が置かれる。 「ご苦労様、仔乃」 「母さん、仕事終わった?」 「ええ。捜索に駆り出されることもないから、すんなりと。掃除も洗濯も雑用も、あっという間!」 目をつむってみせる母に呆れ、仔乃は肩をすくめる。 お嬢様は、いくらなんでもやり過ぎだ…どこで何をしているのか、絶対突き止めなくては。 初香は病弱故、学校に行っていない。 だから、仔乃が学校に行っている間に、抜け出すこともしばしば。 それだと後を追えないので、まだいなくなる前であることを祈りつつ、仔乃は学校帰りに直接茅見家に寄った。 「おや仔乃さん、こんにちは。今日は平日なのに、早いですね」 玄関で初香の家庭教師である青年と出くわし、仔乃は頭を下げた。 「こんにちは! 先生、今帰るところですか?」 「はい。ついさっき、終わったので」 「うわ、既に抜け出してそう…急がなきゃ! では先生、失礼します!」 騒々しく駆けて行く仔乃を、彼はぽかんとして見送った。 初香の部屋のドアをノックする…が、返事がない。 「鍵も閉まってる…ああもう!」 仔乃は慌てて、身を翻した。 庭に回ると、案の定ロープでするする下りて来る初香の姿が見えた。 「お嬢様!」 「あら、仔乃」 一瞬悔しそうな顔をしたものの、すぐに気を取り直して何故かロープを上り始める。 「お嬢様、何をなさる気で?」 質問には答えず、初香は自室のバルコニーによじ登り…手すりの上に立った。 「危ないですから、お止め下さい!」 「断るわ。仔乃、私の邪魔をしないで!」 初香がひらり、隣のバルコニーに移った瞬間を見て、心臓が停止しそうになった。 当の本人は呑気なもので、もう一度同じことをした後、バルコニーから部屋の中へ入ってしまった。 「お嬢様!」 ええっと、お嬢様の二個隣の部屋だと、どうなるんだっけ…? ああもうっ! 混乱するのは後にして、仔乃は駆け出した。 まかれにまかれても、仔乃は懲りずに追い続けた。 結果…初香が観念した。 「本当、しつこいわねえ仔乃」 森の中で立ち止まり、初香は息を切らせて仔乃が近付くのを待った。 「お嬢様の方こそ。病弱とは思えないですね。…ここが、目的地ですか?」 「いいえ、こっちよ。仕方ないから、案内してあげる」 初香は仔乃の手を握り、誘った。 森を抜けて案内された先には、白いマーガレット畑が広がっていた。 「どう? 綺麗でしょう? 知り合いに、内緒で作ってもらったのよ」 「はあ…お嬢様、マーガレット好きなんですか。あの、知り合いって一体…」 「それは内緒。ところで私ね、ここで居る時が一番落ち着くの」 初香は静かに座り、マーガレットを一心に見続けた。 「お医者様が父様に話しているのが聞こえたんだけど、私もう長くないらしいの…次に風邪でもひいたら確実に、危ないって」 初香は憂いに顔を歪め、うつむいた。 「だからね、私ここで心の準備しているの。いつ死ぬって言われても、怖くないように」 静かに一人だけで、準備をしている…。 仔乃は初香を見下ろし、傲然と告げた。 「馬鹿ですか」 まさかの反応に、初香は唖然とする。 「そのために、逃げ出して一人でこんなところに!? あなたは皆に心配掛けて、何とも思わないのですか? わざわざ逃げ出して…それこそ病にかかる確率が高くなるでしょう!」 仔乃は目を逸らそうとする初香の腕を掴み、しっかり目と目を合わせた。 「死ぬことは、誰だって怖い! そんな準備を…死ぬことを考える前に、あなたは生きることを考えるべきでしょう! 死が嫌なら、足掻けば良い! 出来るだけ、体調を崩さないように…すれば…」 段々息が切れてきたけれど、途中で止めれはしなかった。 「それに…御両親のことも、考えて下さい。限られているなら、出来るだけ傍に居てあげて下さい」 初香は怒りもせず、じっと涙を溜めた目で仔乃の目を見返す。 「それに、こんな淋しいところに置くなんて、マーガレットもかわいそうじゃないですか。屋敷の庭は広いんですから――」 仔乃がそこまで言った時、初香の目から涙がはらりと落ちた。 「ごめんなさい……」 「謝るなら、皆に謝って下さいね」 泣きじゃくる初香の背を叩き、囁いた。 屋敷の庭に植え替えられたマーガレット達が、さわさわと風に揺れていた。 ベンチに座り、それを眺める仔乃と初香。 もう初香が逃げ出さなくなったのに、仔乃はここにまだ通っている。それは何故かというと… 「仔乃、あの一本元気がないわ。しっかり世話してくれる?」 「はいはい」 マーガレットの世話係・仔乃は渋々、立ち上がった。 「しっかり育ててみせますから、来年のマーガレットも見て下さいよ」 「わかってるわ。頑張る! …あなたが教えてくれたことに、感謝してるわ」 初香はにっこり、微笑んだ。 「ねえ仔乃。マーガレットの花言葉、“真実の友情”らしいのよ」 「へえ…」 「私達に、合ってるかもしれないわね」 「そうかもしれませんね」 二人は顔を見合わせ、花のように笑ったのだった。 |