陽の光で鮮やかな蒼に輝く海に向かって、人々は呟く。
「サイア…」
 一人の少女の名を。

 時遡ること、一ヶ月。
 島中の人々が、広場に集められていた。
 島恒例の、“海神の届け手”の座を巡る試合の挑戦資格保有者を、発表するためだ。
「ホーナの息子、マオル!」
 島長の発表に人々はやっぱりと唸ったが、次に挙げられた名には皆がびっくりした。
「次いで…タレンの娘、サイア!」
 人々はざわめく。
「嘘だろ長! サイアって…」
「私がどうかした?」
 文句を言おうとした男の前に、当のサイアが現れた。
 なめらかな褐色の肌に、引き締まった体つき。15という年よりも、ずっと幼く見える面立ち。
 見た目は至って普通の少女だが、二つの点において普通ではなかった。
「サイアは“海神の届け手”にしては申し分ないほど、波乗りの技術に長けておるぞ」
 “海神の届け手”というのは、十年に一度海神の像に供物を届けに行く者のことだ。
 海神の像はこの島から少し離れた所にある、“荒波の海”という地点に在る。
 そこは名の通り、波が一年中荒れ狂っているので、船では行けない。頼りない板きれで波に乗るしか、行く方法はないのだ。
 したがって、届け手には波乗りの技に長けた者が選ばれる。
 島長の言う通り、彼女の持つ波乗りの腕は誰もが認めていた。しかし…
「でもサイアは、海神の祝福を受けていない!」
 生まれた赤子を生後一週間までに海に浮かべれば、海神の祝福を受けたとされる。
 けれどサイアが生まれた時、一週間以上も嵐が続いて海が荒れたため、彼女は祝福を受け損なってしまったのだ。
「うるさいよ。別に、祝福を受けてなきゃ挑戦出来ないって決まりはないんだろう?」
 飄々としているサイアに、人々は軽蔑の目を向ける。
 海神の祝福が受けられないほど海が荒れ狂い続けたのはサイアが海神に忌まれている証拠だとほとんどの者が信じていたので、サイアに冷たい者は多い。
「確かに、そうだ」
 同意して来た少年の声は、意外なことに対戦相手のマオルのものだった。
 長身の彼は、周りに混じっていても声を出すだけですぐに目立ってしまう。
「お互い、全力を尽くそうじゃないか」
「ふん。手加減しないよ」
 サイアはそう言って、背を向けた。

 茅葺き屋根の家から出て、練習のためにマオルは海へと向かった。
 砂浜には、先客が居た。
 サイアと、少年…何やら、不穏な雰囲気である。
「辞退しろよ、忌み子。海神様に失礼だろが!」
 どうやらサイアに、“海神の届け手”についての因縁を付けているところらしい。
 とうとう少年は手を挙げようとしたので、マオルは走った。
 しかし、心配する必要はなかった。
 先にサイアが、少年の腹に拳を食い込ませたから。
「てめえ!」
 激昂する少年に、マオルの叱咤が飛ぶ。
「止めろ!」
「…あれ、マオルじゃん。俺さ、身分知らずにもマオルに張り合おうとするこいつを、懲らしめてやろうと…」
「頼んでもいないのに、余計なことをするな!」
 マオルの一喝に、少年は震え上がる。
「ちぇ、何だよ」
 強がりつつ怯えつつ、少年は去って行った。
「そっちこそ、余計なことするなよ。せっかく、あいつをボコボコにしてやろうと思ったのに」
 サイアが、マオルをねめつける。
「…喧嘩、慣れてるのか」
「ああ」
 どこか得意気な笑みが、嘘ではないことを語っていた。
「君こそ、一目置かれてるみたいだね」
「単に体が大きいからだろ」
「確かに。君本当に、16? 発育良すぎるよ」
 嫌味を言い、サイアは浜辺に打ち上げられた板の一つを拾った。
 波乗りには、浜辺に流れ着いた板を使うのが決まりだ。
「それは、本番用にするのか?」
 マオルの質問に、サイアは噴き出す。
「馬鹿言うなよ。本番は、とっておきを使うさ。これは単に練習用…ん? もしかして、君も練習しに来たのか?」
「ああ。でも気にするな」
「気にするなって言われてもさ…。ま、いっか。お互い、干渉なしということで」
 サイアは微笑み、海へとじゃぶじゃぶ入って行った。
 マオルは板を探す振りをしながら、サイアを見ていた。
 上手いと評判の、サイアの波乗りをする姿をマオルは一度も見たことがなかったので、この機会に見せてもらおうと思ったのである。
 当のサイアは板を手に、沖で待っている。波が来るのを。
「今日は、高い波があまり来ないな…」
 マオルがそう呟いた時、信じられない高波が遠くに見えた。
 まさか、あれには乗るまい…。あまりに高すぎる。
 しかし、サイアは板の上に体を載せ…立ち上がった。
 波が来た。
 見れば、サイアは波に乗った板の上で笑っている。
 まるで海の精のようだった。
 マオルはそれを見て、決断した。

「辞退だと!?」
「すみません、島長。俺…サイアの練習風景を見てるだけで、こりゃ敵わないって思ったんです」
 マオルの突然の申し出に、島長は一瞬呆気に取られたものの、すぐに微笑を浮かべた。
「そうか…。では、サイアや皆に知らせなくては」
 島長は何となく、嬉しそうだった。
 島長もきっと、サイアの波乗りする姿を見たことがあるんだな…。
 マオルは思い、苦笑した。

 海神に供物を届ける日がとうとうやって来たが、その日は嵐で海が凄まじく荒れ狂っていた。
 人々は“どこまでも、海神に嫌われている子だ”と、サイアのことを噂した。
 島長はサイアの家に赴き、告げた。
「今日は中止だ、サイア。この嵐で“荒波の海”は益々荒れ狂っているだろうし、その前にあそこに辿り着くことも出来まい」
「何言ってるんですか、島長。もう準備は出来てるんですよ?」
 サイアは果物でいっぱいにした袋を肩に担ぎ、とっておきの板を手に持った。
「島長様…この子ったら、どうしても行くって言って聞かないんですよ」
「もうどうすればいいか…」
 両親が、青ざめた顔で訴える。
「母さん父さん、安心して。私は嵐の日に生まれたんだ。嵐に負けはしない」
 言い捨て、家を飛び出す。
「サイア!」
 両親と島長が後を追ったが、サイアのように早く走れない彼らが追いついた時にはもう、サイアは海に飛び込んでいた。

 普通、“海神の届け手”は半日で帰って来るのに、サイアは丸二日経っても姿を現さなかった。
「サイア…」
 人々は死んだと思われる少女の名を呟き、黙祷する。
「呼んだ?」
 背後から、返事があった。
「サイア!?」
 振り向いた先に立っているのは、確かにサイアだった。
「ああ…こっち側の海岸から帰って来なきゃいけないんだっけ。反対側から、上がっちゃった。ま、許してよね」
「サイア…凄い。生きてたんだ」
 マオルは戸惑いつつ、声を掛ける。
「はっ。そう簡単にくたばるもんか」
 そしてサイアは呆然とする人々を後にして、歩き出した。



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