ドアを叩く音で、ロアルは目を覚ました。
 ソファから起き上がると、その拍子に体の上に載せていた書類がばらばら落ちた。
「畜生…」
 そうか、昨日は仕事の途中で寝てしまったんだった。
「あの…叔父さん」
 ドアの外から聞こえる声は、姪のものだった。
「勝手に入って来てくれ。鍵は開いている」
「お、お邪魔します」
 姪のリハは、双子の姉・ラリスの子だ。
 ラリスが二十歳の時の子で、今年七つになる。
 リハは、散らかった室内の中に、おっかなびっくり入って来た。
「あのね、叔父さん」
「うん?」
「母さんが、いなくなったの。昨日からなんだけど…」
「…何だと?」
 ロアルは凍りついた。
 ロアルは舞踊団を経営していて、“薔薇の舞姫”と称される姉は舞踊団のスターだった。
 一瞬でも居なくなったら、それは大問題だ。
「参ったな…マルカムは、家か?」
 ラリスの夫の名を口にすると、リハの表情がいきなり強張った。
「…どうした?」
「母さん、多分父さんから逃げようとしたの…」
 リハはうつむき、泣き出した。

「暴力?」
「そうなの」
 事情を聞き、ロアルは顔をしかめた。
「驚いたな…。あんなに大人しそうに見えるマルカムが、暴力を振るうとは」
「うん。よっぽど叔父さんの方が、悪人顔なのにね」
「うるさいぞ」
 ロアルは仏頂面になり、頬を撫でた。
 髭を剃っていないので、ちくちく痛い。
「ラリスが行きそうな場所といえば……さっぱりわからん」
 舞踊団は全世界を公演して回るので、生まれた頃から――当時は、今は亡き両親が経営していた――ここに入っていたラリスは、故郷というものがないも同然だ。
「ともかく、今日と明日の公演はラリス抜きでやるしかないな。こうなったら、情報屋に頼むしかないか」
 嫌だけど、と歯噛みするロアルをリハは首を傾げて見た。

 電話を通してでも、その女はうるさかった。
『きゃあ、ロアル! 久しぶり!! 元気!? 元気なら、今度食事でも奢ってよ?』
「はいはい、元気じゃないから無理。いきなり本題に入るけど、イザベラ。ラリスがいなくなった。居場所を知ってたりは?」
 イザベラは昔、公演に行った町で知り合いになった情報屋である。
 少々騒がしいが、他の情報屋と比べ物にならないくらいの情報を保有している。
『相変わらず素っ気無いわねえ。ラリスちゃんか知らないけど、踊り子の情報を一つ』
「教えてくれ。金は、あの口座に振り込むから」
『食事一回で…』
「金で払う」
 有無を言わさぬロアルの口調に、イザベラは渋々引き下がった。
『昨夜、ウィス村で赤いドレスの女性が踊ってお金を稼いでたらしいわ。そりゃあ素晴らしい踊りで、村中の人が見に来たそうよ』
 ウィス村は、この町から大分離れている。鉄道を使い、移動していることは間違いない。
「それで、その踊り子はどこに向かった?」
『別料金』
 したたかな発言に、ロアルは脱力した。
『あ、そういえばついさっき、ラリスちゃんの夫って人からも情報提供を頼まれたの』
「教えたのか!?」
『そりゃあ、商売だもの。何かまずかった?』
 嫌な、予感がした。

 イザベラによると、ラリスはウィス村の駅でサウスレット行きの切符を買ったらしい。
 というわけで、ロアルはリハを連れてサウスレット行きの列車に乗っていた。
「リハ、マルカムはついさっきいなくなったんだな?」
「うん」
「じゃあ、間に合うか」
 間に合う? 何が?
 不安を殺し、ロアルは向かい合わせに座ったリハをじっと見る。
「リハ。他に何か、知ってないか?」
 リハの目が、泳ぐ。
「いちいちウィス村に寄るなんて、どうも解せないんだ。金を稼ぐなら、もう少し大きな所でやった方が効率が良いこと、ラリスは重々承知しているはずだから」
「うん…あのね、あのね。母さん、ウィス村に住んでる男の人と…」
「浮気か」
 ロアルは深く息をついた。
 マルカムもそれに気付き、暴力を振るい始めたのかもしれない。
「わたしにだけ言ってくれたの。ナイショって約束だから、わたしが言ったって言わないで」
「全く。阿呆かあの女」
 子供に言ったくせに、その子を置いて逃避行。
 母を気遣い続けるリハが、哀れだった。

 サウスレットの町に着いたが、どこにもラリスの姿はなかった。
「しまった…途中で降りたのかもしれん」
 ロアルは歩き疲れた足を止め、首を振った。
 その時、女学生らしき二人組が気になる噂をしながら傍を通り抜けた。
「聞いた? 今夜カリアの町で、薔薇の舞姫が臨時公演だって!」
「本当? やったあ、カリアだったら近いから行けるね」
 ロアルとリハは、顔を見合わせた。
「カリアか。急ごう」
「うん。…母さんってすぐ噂になっちゃうんだね」
 そう、それだから追い易い。けれど、マルカムにとっても、それは同じ。
 イザベラに、マルカムには情報を与えないように言ったものの、意味がなかったかもしれない。

 カリアの駅に降り立つと同時に、ラリスの舞い姿が見えた。
 夕焼けに、紅いドレスが映えている。
「ラリス!」
 ロアルは観衆をかき分け、少しでもラリスに近付こうとする。
「叔父さん! 父さんがいる!」
 見れば、最前列にマルカムが立っている。
 ロアルに気付き、彼は舌打ちして懐からナイフを取り出す。
「マルカム! 止めろ!」
 静止の声も空しく、マルカムは鮮やかに舞うラリスにナイフを投げた。
 ナイフは正確に、脇腹へと突き立つ。
 それを見届け、マルカムは走って逃げ出した。
「畜生…退け!」
 群集をかき分け、やっとラリスの元へ辿り着く。
「ロアル…」
 ラリスは細い息の下、呟く。
「あの人はどこ?」
 一緒に逃げた、恋人のことを言っているのだろう。
「知らん。おい誰か、医者を呼べ!」
 叫ぶが、群衆は混乱で逃げ惑っていて、当てにならない。
「叔父さん、わたしが呼んで来る!」
 リハが走って行った。
「…良い子だな。何故、あいつを見捨てて逃げた?」
「…全ての人から逃げたくなったの…私は、舞姫であることに疲れていたのよ。マルカムは、家庭でも女神のように振舞うことを要求したのよ。そんなの、出来るはずないわ…。あんたもよ、ロアル。私をドル箱としか見てなかったでしょ」
「そうかもな」
 あっさり答え、ロアルは姉を見下ろす。
「で、“あの人”はお前を舞姫として見なかったって? 愛してくれたって? それにしては、どうして駆けつけて来ない? それどころか、どこにもいないじゃないか」
 群集が散った後、残っているのはロアルとラリスだけだった。
 ラリスは絶句して、唇をわななかせる。
「お前は、本当に男を見る目がないな。それは、お前の人間が出来てないからだ」
 ずけずけと、ロアルは鋭い言葉を放つ。
「そういうことは、舞姫としての仮面を剥がしても誇れるような人間になってから言え。まずは…そうだな」
 その時ちょうど、リハが医者の手を引いて戻って来た。
「あの子が誇れるような、立派な母親になってみせるんだな」
 ロアルの言葉に、ラリスは赤い唇を噛んで涙ぐんだのだった。



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