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 つん、と鼻をつく匂いで幼い少女は目を覚ました。
「何の、におい……?」
 鼻を動かし、その匂いが気のせいではないと悟る。不吉なこの香り。彼女が一番嫌いなものだった。
 隣に敷かれた布団を見やると、そこに寝ていたはずの者が居なくなっている。
 一気に不安を覚え、彼女は起き上がる。そろりと布団から出ると、冷たい空気が彼女を容赦なく包み込んだ。
「銀火(ぎんか)?」
 名を呼ぶも、沈黙しか返って来ない。彼女は諦めたように立ち上がり、匂いの元へ向かうことにした。
 寝室を出て廊下を歩く。板張りの廊下は、酷く冷たい。障子から差し込む月明かりに浮かんだ自分の影がゆらゆらと揺れて、恐怖を煽った。
「お父さん、お母さん?」
 心細さのあまり、何か言わずにはいられなくて。凍る吐息と共に、呼ぶ。
 その時、耳をつんざく音がした。そして、悲鳴。
「お母さ……」
 走り始めた彼女の前に、誰かが立ちはだかった。
「あかり」
 あかりよりも年上の少年。あかりが見慣れているはずの彼は、いつもと違っていた。
「銀火……血、どうしたの?」
 彼は、血塗れだった。寝巻きも白い肌も、黒い髪も。銀色の目にかかる赤も、いつもよりも紅く見える。
 紅い。
 目も眩むような紅に、あかりは後ずさる。だが、そんな彼女を銀火は両腕で包み込む。
「あかり。父上と母上が死んだ」
「うそ……」
 否定したものの、それが真実なことは心の奥底でわかっていた。それだったら、この匂いにもおかしな銀火にも納得が行くから。
「僕らは、二人で生きて行かなくちゃ」
 銀火の声は、涙のように哀しげで血のごとく苦しげだった。

 あかりは大欠伸をした。
「ふあーあ」
 時計を見やると、まだ7時だ。
 何だ、もう一寝入り出来る。
 もう一度布団に潜り込んだ後で、あかりはふと気付く。
 今日って朝練だったんじゃ……!
「わーっ!」
 布団から飛び出て、あかりは掛けてあったセーラー服を取り、慌てて着替え始める。
「よしっと」
 姿見で確認するとすぐ自室を飛び出し、彼女は台所へと走った。
「おや、おはようあかり」
 台所では、着物を着た青年がのんびり味噌汁をかき混ぜているところだった。
「銀火! どうして起こしてくれなかったの?」
 あかりは地団駄を踏んで、銀火を責める。すると銀火は、呆れたように笑った。
「まだ7時だろう?」
「今日は朝練だから、7時半には学校行かなきゃいけないんだもん! 昨日、言ったじゃない!」
「そうだったか? まさか、執筆中に言ったとかじゃないだろうな?」
 銀火の指摘に、あかりはぎくりとした。
「多分、銀火はあの時小説書いてた……」
「ならば、覚えていないのも道理だな。私は書いている時は、周りのことを気にしないから」
「うう。ちょっと小説家だと思って」
 あかりはふくれっ面してみせたが、銀火は肩をすくめるばかり。
「文句を言う間があったら、用意したらどうだ?」
「む」
「朝食は抜いて行くか?」
「嫌だ。死んじゃう」
 あかりは本音を吐いた後、食器棚からお茶碗を取り出した。
「朝ごはんしっかり食べて、走る」
 ごはんをよそいながら、あかりは言い切る。
 あかりはわたわたと、銀火はのんびりと朝食を用意した。
 二人揃って食卓に着いた時、ふと銀火は思い出したように尋ねた。
「そういえば、中間テストは返って来たのか?」
「う」
 あかりは早速すすった味噌汁を噴き出しそうになった。その様を、銀火は何となしに見守る。
「返って……来た」
「それで、何点だった?」
 にっこり問い詰める銀火から目を逸らし、あかりは箸を動かす。
「何だか銀火、お父さんみたい……」
「私はお前の保護者だからな。父親のように振舞うのは当たり前だ」
「6つしか違わないくせに」
 と言ってみせたものの、両親が死んでからは銀火が自分を育ててくれた。あかりが6つの時から、今までおよそ10年間。
 意地を張った後に謝るのも気まずくて、あかりは朝食を黙々と食べ続けた。
「あかり」
 呼ばれ、あかりは上目遣いで恐る恐る銀火を見る。別に銀火は怒っておらず、表情に変化はなかった。
「最近は、狐に戻ることはないか?」
「うん。大分、無くなった。心配、ありがと」
 お礼が自分で照れ臭くて、あかりは味噌汁を喉に流し込んだ。ぱちん、と箸を置く。
「ご馳走様!」
「後片付けは、私がやっておこう。7時半まで、あと9分だからな」
「えええっ!」
 あかりは慌てて、洗面所に飛び込んだのだった……。

「遅い」
 袴姿で仁王立ちというのは、何とも迫力がある。たとえそれが親友であっても。
「ご、ごめんねりっちゃん」
 体育館の前で立ちはだかる親友の律に向かって、あかりはへこへこ頭を下げた。
「あたしに謝っても仕方ないでしょ? あんたが行くべきは、あそこよあそこ」
 律が指差した先には、先輩達が集まってこちらを睨んでいた。彼女達の手にある薙刀(なぎなた)が、凶器にしか見えない。
 盛大なため息をつきながら、あかりは先輩達の前で頭を下げた。
「遅刻して、申し訳ありません!」
「あんた、これで何度目なの?」
「そんな髪してるから、いい加減だろうとは思ってたけど……本当だったわね」
 嫌味に、あかりの頬が引きつる。
 あかりの髪は狐の毛色に似た色をしている。染めたわけではなく、生まれた時からこうだった。
 だけどあかりは何も言い返せず、黙っていた。
「もう良いわ。早く、練習に入ってちょうだい」
「はい!」
 あかりはホッとして、その場から離れた。

 あかりはホームルームで配られたプリントを見下ろしながら、息をついた。
「どうしたの?」
 律が声を掛けて来たので、プリントを叩いてみせる。
「ああ、三者面談? あんたのとこ、素敵なお兄さんが居るから良いわよねえ」
「銀火は、お兄さんじゃないってば」
「え、そうだっけ?」
「血、繋がってないもん」
 なのに、保護者代わりをしてもらっている。だから、いつもこういうことがあると申し訳なくて 仕方なくなるのだ。それに……
「でも、お兄さんみたいなもんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃ、良いじゃない。何でそんなに、憂鬱そうなのよ。あ、もしかして成績見られるのが嫌とか?」
 正直それもあるので、あかりは黙っておいた。
「でもね、隠してても仕方ないじゃない。お兄さんはあんたの保護者なんだから、全部見せなきゃ」
「うん……」
 律の説教に生返事してから、あかりはプリントを机の引き出しに仕舞った。

 あかりは、妖狐の子だった。
 されど何代か前に入っていた人間の血が、あかりで先祖返りを起こしたらしく、あかりは妖狐として暮らすには人間に近過ぎた。
 だからあかりの母は、里に降りたのだった。
「銀影(ぎんえい)。お前に頼みがある」
 あかりの母・鬼灯(ほおずき)は事情を説明し、友人であった銀影に頭を下げた。
「この子は、妖狐として生きるには人に近過ぎる。そこで、この子を私の代わりに育ててはくれまいか? お前は人の夫を持ち、里で暮らす身。この子も育てやすいであろう」
「……私には、銀火が居る」
 銀影は銀色の長い髪を揺らし、傍らに座る息子を見やる。幼い銀火は、目の前に現れた紅い髪の女性を不思議そうに見つめるだけだった。
「わかっておる。だが、お前が引き取ってくれねばこの子は死ぬだろう。妖狐の姿は言うまでもなく、もう人型も取れないくらい弱っておる。私達のように、生の獣を食えぬせいだ」
 鬼灯の腕の中で眠るのは、小さな狐だった。弱々しい息が苦しげで、銀火は思わず立ち上がる。
「あの子、死んじゃう?」
「――放っておけばな」
「助けてあげたい」
 銀火は、怜悧な母の顔を見上げる。銀色の無表情な目が、息子の目を覗き込む。そして、つと視線を鬼灯に戻した。
「銀火が望んでいるのなら、断る理由もあるまい。承知した」
「恩に着るぞ、銀影」
 鬼灯は妖しく笑い、子狐を銀影の手に渡した。
「銀火よ。礼を言う」
 鬼灯は屈み込み、銀火と視線を合わせる。
「その目……お前は、銀影に似たな」
 銀火の目は母によく似た銀色で、少し違うのは銀色に赤味が差していることだ。この目から、銀火は名付けられたのだった。
「心は、狐か人か」
「この子は半分。狐になる可能性もあるが、人の世で育つならば心は人となろう」
 問いには、母が答えた。
「お前の娘は、わからぬがな。いくら先祖の血が返ったとはいえ、狐の血が濃く流れている故」
「だが、狐としては生きられぬ」
 謎めいた笑みを残し、鬼灯は背を向けた。彼女を見送る銀影は、小さく呟いた。
「食えぬ奴だ……」
「母上、狐の子を見せて」
 そんな呟きをも気に留めず、銀火は飛び跳ねる。銀影は微笑み、銀火が見られるように腰を落とした。
 腕の中で、狐の子が薄く目を開けた。
 鬼灯はどこか怖い女狐だったけれど、この子はとても温かい感じがする。
「名は、"あかり"と言うらしい」
「あかり……」
 名前を繰り返して彼女の鼻に指を当ててやると、あかりはくしゅんとかわいらしいくしゃみをした。

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