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 銀火は昔のことを思い出しながら、真っ白な原稿用紙を眺めていた。
 まだ、一字も書けていない。
 今、ペンを動かせば、先ほど思い出していたことを書いてしまいそうだ。銀影と鬼灯とあかりと、自分のことを。
 何と鮮やかに思い出せる記憶。当時の母の表情をも、はっきりと思い描ける。
 近くにあった鏡に、自分の目を映す。赤味がかった銀色の目。妖狐の血を引く証拠だ。
 母が懐かしくないかと問われれば、自分は返事に窮す。家族を壊したのは、他でもない母だったから。
 父は、母が殺した。
 凄まじい妖気の波動で目を覚ました自分は、気配を辿って両親の寝室に辿り着いた。そこで見たのは、返り血を浴びた母と血塗れになって倒れた父。
『銀火。お前の父は私を裏切っていた』
 くつくつと笑い、銀影は息子に近付く。
『私が居ながら、他の女にうつつを抜かしおって……』
 目に燃えるのは、嫉妬の炎。そして狂気。
『裏切れば、命を取るという約束だった』
 母に対して心底恐怖を覚えたのは、この時だった。
『さあ、銀火。私と共に山へ帰ろう。今からでも、狐として暮らそう』
『……母さん、僕は狐にはなれません。人の子です』
『案ずるな。お前はまだ子供。半身には狐の血。山へ行き狐に囲まれれば、狐となろう」
『あかりは、どうするのですか』
 銀火の言葉に、銀影の動きが止まる。
『あかりは、狐として生きられないのでしょう?』
 銀影は、困ったような顔をしてみせたのだった。そして……
「銀火」
 背後から声を掛けられ、銀火は我に返る。
「担当さんから、電話だよ」
 あかりはそれだけ言い残して、その場から立ち去った。
 銀火は電話のところまで行き、受話器を耳に当てた。
「もしもし?」
『あ、先生ですか? 原稿の進み具合はどうですか?』
 受話器から耳を離したくなるほど大きな声で、銀火の担当・和歌山真紀は尋ねて来た。
「さっぱり進んでないよ」
『それは何より……って、違う! 何やってんですか!』
「仕方ないだろう。私には、悩みがあるんだから」
『聞いて欲しそうですね』
「聞いて欲しいから、わざとらしく言っているんだ。担当は、作家の悩みを聞いてやるべきじゃないか?」
 銀火が唇を吊り上げてみせると、電話口の向こうから真紀のため息が聞こえて来た。
『はいはい! 何でもどんと来い、ですよ。じゃんじゃん言っちゃって下さい』
「ではお言葉に甘えて。実は、この頃あかりの様子が変なんだ」
『あかりちゃんの? 変って、どういう風に変なんですか?』
「妙に、ツンケンしていてな。テストも隠そうとするし。今までは、悪くても平気で見せて来たっていうのに」
 話を聞いて、真紀は唸った。
『反抗期じゃないですかね? もう高校一年生だし、そういう時期ですよ』
「反抗期、ねえ」
『反抗期の女の子は、男親を嫌がるって言いますし。先生、もしや親父発言とかしてません?』
「していない」
 むっとして、思わず銀火は即座に否定する。
『ま、お望みなら私があかりちゃんの心の内を聞いてあげますよ。女同士なら、あかりちゃんも話しやすいでしょうし』
「そうだな……頼もうか」
『ただし、その時までに原稿お願いしますね?』
 真紀の声には、凄味が加わっていた。

 インターホンが鳴るのを耳にして、あかりは玄関に向かった。
「どなた?」
「こんにちは、あかりちゃん。和歌山です」
「真紀さん?」
 あかりが戸を開けると、真紀は白い歯を見せて笑った。短い髪といい日焼けした肌といい、編集者よりもスポーツ選手のようだとあかりはいつも思う。
「原稿取りに来たの」
「あの、真紀さん。銀火、今出掛けてて……」
「そうなの? じゃあ、ちょっと中で待たせてもらって良いかな?」
「どうぞ」
 断る理由もなく、あかりは上がるように促した。
 居間に落ち着くと、あかりはお茶を淹れるために台所へ向かった。
「真紀さん、緑茶で良いですか?」
「何でも良いわ。ありがとね」
 言い返しながら、真紀は頬杖を付いて考え込む。
 特におかしいとは、思えない。
 考え込んでいる内に、目の前にお茶が置かれた。
「ありがとう」
「いいえ」
 しばし、その場に沈黙が降りる。真紀は意を決して、口を開いた。
「ねえ、あかりちゃん。何か、悩みとかある? 何だか、様子が変だからさ」
「え……」
 あかりは目を見張った後、お茶に視線を落とした。
「実はね、真紀さん。私から相談しようと思ってたの」
「な、何を?」
 真紀は思わず、身を乗り出す。
「バイト、紹介してくれない?」
「バイト?」
 拍子抜けしたらしく、真紀はあんぐり口を開けて固まった。
「何でまた……。先生、売れっ子なんだから生活には困ってないでしょう? あ、もしかして先生お小遣いくれなかったりするの?」
 そうだったら許せん、と拳を握り締めた真紀はあかりの表情を見て、驚いた。どこか淋しそうな、大人びた表情。今まで、こんなあかりを見たことはなかった。
「いえ、そんなことはありません。でもね、私」
「うん?」
「一人暮らし、したいんです」
 真紀はもう少しで、お茶を噴き出すところであった。

 近所の喫茶店にて。
 真紀から話を聞いた銀火の反応は、案の定"絶句"だった。
「一人暮らしだと?」
「ええ。やばいですよ先生。やっぱり、何か言ったんじゃないですか?」
「そんな無神経なことは言っていないつもりだが」
 銀火は、コーヒー片手に首をひねる。
「"つもり"でも、先生の何気ない一言にあかりちゃんは傷付いたのかもしれませんよ。反抗期ってのは、ややこしいものですから」
「反抗期、君はあったのか?」
「私の場合、反抗期で済ませられないぐらい荒れてました!」
 爽やかに笑う彼女が、かつて不良だったとはにわかに信じ難い。人とは見かけに寄らないものである。
「一度、二人でじっくり話し合った方が良いんじゃないですか? あ、一応これお渡ししておきますね」
 真紀が鞄から取り出したのは、"全国の父親に捧ぐ! 反抗期の娘・対処法(無敵の100か条)"というタイトルの本だった。
「今、うちの出版社で一番売れてる本って言っても過言じゃないんです」
「つまり、私の本はこの本に負けてると……」
 銀火は、複雑な思いでその本を受け取った。

 銀火は家に帰ると、あかりが一人ぽつんと食卓に着いていた。
「ただいま」
「おかえり。お腹空いた。早く食べよう」
 早口で言って、あかりは目の前に置いてある夕食を指す。
「うん」
 銀火も座り、手を合わせる。
「……あかり」
「何?」
 名を呼ぶだけで警戒するように反応されると、気が滅入って来る。
「言いたいことがあるなら、言ったらどうだ?」
「言いたいことなんて、ないよ」
「和歌山さんに、バイトを紹介してくれって言ったらしいじゃないか」
 銀火の一言に、あかりは動きを止める。みるみる内に、彼女の顔が青ざめた。
「真紀さん、言ったんだ……」
「私が、無理に聞き出した。責めるなら、私を責めろ。一人暮らし、したいんだって?」
 あかりの目に涙が溜まっていることに気付き、銀火は一旦口をつぐむ。
「何も、怒っているわけじゃない。何故、そういう考えに至ったのか聞きたいだけだ。――私に何か、不満があるのか?」
「ないよ。銀火は、何も悪くない。ただ……私は、自立したいだけ」
 嗚咽の間から、あかりは必死に思いを述べた。その様があまりにも悲痛で、"ただ自立したいだけ"とは思えなかった。
「高校生で、自立?」
「銀火は、してたじゃない。私の面倒まで見てた。高校には行かず、働いてたじゃない」
「だが、私も大学から学生に戻ったぞ」
「それは、小説で稼げるってわかったからでしょう?」
 あかりと銀火はしばし沈黙して、お互いに見据え合った。
「あかり」
 静かに、けれど凛とした声で彼女の名を呼ぶ。
「お前が何を言いたいのか、私にはわからない。お前と私では、立場が違うだろう」
 あかりは何も言わず、首を横に振るだけだった。しばらく待っても口を開く様子がないので、銀火は肩をすくめた。
「話は置いておいて、食べるか。冷えてはまずい」
「うん……」
 あかりは箸を取り、ゆっくりと食べ始めた。銀火は全く食欲がなかったが、無理矢理箸を動かし始めた。
「あのね、銀火。バイトだけは、させて。これ、お願い」
「部活はどうするんだ? 辞めるのか?」
「部活は、続ける。強くなりたいから」
 あかりの一言に、銀火は息を呑む。
「部活もバイトもするなんて、大丈夫か?」
「大丈夫だよ! 私、頑張る」
 ようやっと、あかりにいつもの明るい笑顔が戻った。笑顔にホッとする一方で、銀火は不安を覚えずにはいられなかった。

 あかりの告白に、律は飲んでいたジュースを噴き出すところだった。
「バイトするですって?」
「そんなに驚くこと?」
「だって、あんた部活で手一杯でしょうが!」
 律はあかりに顔を近付け、まくしたてる。
「お兄さんは良いって言ってんの?」
「うん」
 頷く時、少し胸が痛んだのはどうしてだろう。
「悪いこと言わないから、止めときなって。あんた、ただでさえ先輩に目を付けられてるってのに」
「大丈夫だよ。部活も、ちゃんとやるから」
 あかりが聞く耳を持たないとわかったらしく、律は呆れたように肩をすくめた。
「で、どこでバイトするの?」
「近所のおばさんがやってる、レストラン。昨日電話したら、雇ってもらえるって決まったの」
「へえ。早業」
 律は気の無い返事をしてから、おにぎりを頬張った。律が反対していることがわかってしまい、あかりは唇を噛む。
「りっちゃんは、反対なんだね」
「言うまでもなく。あたしは、あんたを心配してるのよ。あんた、元から体力あんまり無いんだし。何より、この頃元気ないし……」
 律の呟きに、あかりはびくりとする。他人から見れば、そんなに自分の変化は明白なのかと憂鬱になる。
「滝原あかりは、いつももっと元気だと思うんだけど?」
 律の目が、言っている。"言え"と。
「……ごめんね、りっちゃん」
 律に言えることではなかった。言えることならば、とっくにこの優しい親友に何もかも打ち明けてすがりついてしまっていただろう。
 だけれども、言えない。
 だから、あかりは嘘の笑顔を浮かべた。

 バイトは予想以上に、辛かった。
「あんた、使えないねえ」
 普段優しかった"近所のおばさん"は、あかりの上司となると同時に態度を豹変。あかりを、下僕のように使った。
 疲労の溜まったあかりには、部活の練習がこれまで以上に辛くなった。
 ようやく練習が終わり、あかりは更衣室で息をついた。
「ねえ、あんた大丈夫? 送ってってあげようか?」
 律が心配そうに提案してくれたが、あかりは首を振る。
「大丈夫。第一これからバイトだから、りっちゃんとは帰る方向が違うよ」
「ふうん」
 律は納得行かないように、セーラー服のリボンを結んだ。
 あかりは着替え終わった途端、自分の体の変化に気付いた。ずくずくと、背中が痛む。
「じゃ、じゃあお疲れ様でしたー!」
「あ、ちょっと待ちなさいよあかり!」
 律の言葉にも止まらず、あかりは外に出た。裏庭に回って茂みを見付け、慌ててそこに飛び込む。
 しばらくして茂みからもぞもぞ這い出してきたのは、狐だった。切なげに、きゅーんと鳴いて暮れ始めた空を見上げる。
「誰にも見られなくて良かった……けど、どうしよう」
 あかりは、前足を見下ろす。
 疲労が溜まるなどして体が極限まで弱ってしまうと、あかりは狐の姿になってしまうのだ。
「ちょっと休もう」
 再び茂みに入って自分の制服の上で丸まり、あかりはぐうぐう寝始めた。

 はっと目を覚ますと、辺りはもう暗かった。随分と眠ってしまっていたらしい。
「うー」
 まだ、体は狐のまま。
 困ったなあ。このまま帰るにしても、途中で戻ったりしたら大変だし。
 この体で、制服や鞄を運ぶのは不可能だ。このままもう少し待つことにして、あかりは仰向けに引っくり返った。
 月が、冴え冴えと輝いている。放たれる銀色の光に、誰かが思い出される。
「あかり」
 思い浮かべてすぐに本人の声がしたので、あかりは飛び上がるほど驚いた。
「銀火」
 起き上がり、あかりは名を呼ぶ。銀火は草を踏み締めながら、こちらにやって来た。
「バイト先から、あかりが来てないって電話があったから何かあったと思って」
 銀火は跪いて、あかりを見下ろした。
「狐姿のお前を見るのは、久しぶりだな」
「……うん」
 あかりの尻尾が、情けなく下がる。
「よく、ここってわかったね」
「勘だ」
 銀火は妖狐の血を引くだけあって、勘が異様に鋭い。
「服と鞄は?」
「この中」
 ちょいっと、あかりは茂みを差す。
「あ、服を鞄に詰めるから待ってて」
 あかりは再び、茂みの中に引っ込んだ。狐の姿で服を詰めるのは重労働だったが、あかりとて恥じらいはある。銀火にやらせるわけにはいかなかった。
「出来たよ」
「わかった」
 銀火は応じ、茂みの中に手を伸ばして鞄を二つ外に引き寄せた。それらを肩に掛けた後、銀火はあかりに向かって手を伸ばす。
「おいで」
「歩けるよ……」
「嘘をつくな。狐になるくらい弱っているんだろうに」
 確かに、今歩けば途中で力尽きそうだ。あかりは観念して、銀火の腕に飛び込んだ。微笑み、銀火は立ち上がる。
 あかりはすぐ、眠りに落ちてしまった。

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