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「待っているから」 泣きたくなるような優しい声で、それは告げた。 苦しくなるような澄んだ水の中で、それは囁く。 待たなくていい。私を見捨て、行って欲しい。 どうか、安らかに…。 鉛筆の芯が、折れた。 「ああ…また折れた」 鉛筆削りを探そうとして机に我が物顔で居座っている、たくさんの本を退ける。 ちょうどその時、真正面に在る窓から母が覗いた。 「栗香(りつか)ちゃん!」 「やあ、母さん。ところで、いい年した娘をちゃん付けするの止めようよ」 「まあ、何を言ってるの? 栗香ちゃん、まだ22歳でしょ?」 「もう22だよ。精神年齢は、もっと行ってるだろうしね」 窓の外にいる母は、頬を膨らませた。 「そんな愛想のない服装をしているからよ」 「そういう問題?」 自分のTシャツにジーンズという服装を見下ろした後、母を見やる。 「母さんの方は、もう少し愛想なくしたら?」 自称三十代の母に、そのワンピーズはいささか可愛すぎる気がした。 「まあまあ! 口が悪いこと!」 くすくす笑って、母は窓から離れた。 「本当、元気なお母さんだね」 呟く声は、妙に冷静だった。 彼女は、本当の母ではない。義母でもない。 ただ、ある日この窓の傍にやって来て、自分の母だと名乗ったのだ。 心を病んだ人だということはわかっているが、栗香はそのお芝居にずっと付き合っている。 優しさからでも、同情からでもなかった。 ただ、彼女のお母さんっぷりを見るのが好きなのだ。 「さて、何をしようとしてたんだっけ」 とりあえず、手元の原稿用紙を見つめ、己が綴った詩を確認する。 詩? 詩と呼べるのか? 「我ながら、女々しいね」 原稿用紙を握りつぶすだけの勇気もなく、栗香はそれを引き出しの奥に仕舞った。 何て、勝手な呟き…。 「栗香や」 今度は、ドアがノックされて本物の祖母が顔を出した。 「論文、進んでいるかね?」 「ああ…うん」 「一体、この村で何の論文を書くと言うんだい?」 祖母の質問に、栗香は答えなかった。 大学の夏休みを利用して、栗香はかつての故郷に帰って来ていた。 名目は、“論文を書くため”。 「――そうだ、論文のために調べ物しなきゃ。ちょっと図書館、行って来る」 「もう夕方だよ?」 祖母の目が、細まる。 「図書館は、七時まで開いてるじゃない」 栗香は鞄を取り、祖母の横を通り過ぎた。 「栗香!」 鋭く、祖母は問い質す。 「あのことを論文に書くんじゃ…」 「まさか?」 皮肉気に口を歪め、栗香は大股で歩いて行った。 のどかな田園風景が、延々と広がる。 ここに来た観光客は皆、口々に褒め称える。 “良い所だ。水も空気も、綺麗な所だ”と。 「綺麗だろうさ」 吐き捨て、栗香は歩みを進めた。 目の端に入る田が何となく嫌で、空を仰ぐ。 夕焼けにより紫に染まった雲がたなびいて、一日の終わりを告げていた。 しん、と心に冷たい風が吹き抜ける。 『本当に、行くのかい?』 そう尋ねるは、もう一人の私。 「行くさ」 即答し、栗香は視線を空から外した。 そのために、ここに帰って来たんだ。 『じゃあ、どうして今まで行かなかったの?』 ――怖かったんだよ。 でも、もうこれ以上悠長にしてられない。 村人は突然帰って来た栗香を不審に思い、噂していることだろう。 「だから、行くんだ」 噛み締めるように、言い聞かせる。 それでも、“にごの山”が見えて来た時は、震えてしまった。 “にごの山”に、その川の上流は在る。 川の水は、聖水。 怪我や病にも効く、幻の水。 聖水によって、村人達は豊かな暮らしを得ていた…。 綺麗な綺麗な、水…。 栗香は苦労して山道を進み、そこを目指した。 やっと水のせせらぎが聞こえてきた時、安堵してしまった。 「疲れた…」 汗が滲んだ顔面を、涼しい風が冷やす。 水面のおかげで、ここはこんなに涼しいのか? 栗香はゆっくりと、川に近付く。勇気を出して、水の中を覗き込む。 息が、止まった。 「緑…」 緑は、今も居た。 八歳の時から少しも変わらない姿で…いや…。 「緑は、八歳のままなんだっけ」 緑の時間は、その時に止まってしまった。 「緑?」 呼び掛けに、少年の瞼が震えることもない。 彼は水底に、横たわり続ける。 澄んだ涙がこぼれ、水面に落ちる。 「帰って来てしまった…。どうしてだろう」 答えがないことをわかってはいても、聞かずにいられなかった。 幼き日、お前の誘いを断るべきだった。 悔いながら、過去を思い出す。 お互い八歳だったある日、緑が誘いに来た。 「栗香、今夜秘密の行事を見に行こう!」 「秘密の行事?」 「知らないのか?」 緑はとても、得意気だった。 「今夜、村中の爺さん婆さんが集まって、何か話し合うらしいぞ」 「へえ」 「見に行きたくないか?」 栗香は戸惑った。 「怒られるんじゃないの?」 母が今夜は絶対、外に出てはいけないと言っていたのを思い出した。 そのことを話すと、緑は鼻で笑った。 「ばれなきゃいいじゃん」 「そうかな」 結局、緑に押し切られてしまった。 それが、彼を殺すことになるとも知らず――。 夜、こっそり家を抜け出した栗香は、郵便局の前で緑と合流した。 「いやあ、楽しみだなあ」 「うん」 私達は実に、無邪気だった。 もし見つかっても、そんなに大したことにはならないと…思っていた。 愚かだった。 老人達は役場前の空き地に篝火を焚き、その周りに集まっていた。 「ほら、栗香」 緑は小さく言い、栗香の手を取る。 「なあなあ、もしどちらかが見付かっても、もう片方は隠れたままでいような」 栗花の行動の遅さを見越しての、台詞。 緑には、そういう小狡いところがあった。 「…いいよ」 栗花は苦笑する。 二人は足音を殺し、木々の間に身を潜めた。 老人達の形相は、炎を映してか普段より恐ろしく見える。 「では次は…」 「ああ、坂木の家だな」 ぼそぼそ、と繰り広げられる会話に自分の名字が出て来たので、栗花は息を呑んだ。 「しかし、坂木は今度架ける橋の工事を指揮する、重要人物。仕事に支障は出ないか?」 「そんなこと言ってちゃ、この村には住めないよ。大体、他の土地より豊かに暮らすには、それなりの代償が必要じゃないか」 会話の音量が、更に小さくなった。 栗花は緑が身を乗り出すのを、目の端で捉えた。 もっと聞きたいと思ってそうしたのだろうが、それは実に愚かな行為だった。 「誰だ!」 気付かれたのだ。 「うげ。栗花、逃げろよ」 「でも」 「うちのところのじいさんいるし、大丈夫だって」 「わかった」 栗花は出来るだけ足音を立てないように、その場を去ろうとした。 背後で、緑が名乗る声がした。 その次の日から、緑は姿を消した。 我に返り、栗花はため息をつく。 「あの時、見捨てなかったら良かった…」 そうすれば水底で、彼が眠ることはなかった。 いや、水底で眠っているのは…自分だったはず。 栗花は薄ら寒くなり、腕をさすった。 この水が聖水なのは、数年に一度生餌を川に与えるからだ。 25歳までの、人間を。 25歳まで、という半端な年齢の規則は“にごの山”の“にご”という音にに由来すると思われる。 “にご”はおそらく、濁りという単語から来た。 にごの川の水は、昔は飲むことも出来なかったという。 毒が含まれた、濁った水――それまで隣村の川から水をもらっていたのだが、ある時ひでりがあった。 川の水は僅かになり、隣村の者は自分達の水を確保するだけで精一杯だと告げた。 万策凝らして無駄とわかった時、村長が提案した。 『にごの川に、生け贄を捧げてはどうだろう。川の水が、飲めるようになれと願って』 選ばれた女は、生きたまま水底に沈められた。 すると、どうしたことだろう。 水はたちまち澄み、聖なる力さえ帯びた。 「以来、この風習は続いている…」 呟き、緑の向こうを見る。 あどけない少女が、水底に居る。 捧げられた人間達の体は、何故か腐りもせずに水底で綺麗なままだ。 だからこの川の上流には、綺麗な遺体がたくさん沈んでいる。 あの時の、話し合い。 実はあれは、次の生け贄を決める話し合いだったのだ。 そして、あの時は栗花の名が挙がっていた。 なのに… 大事な話し合いを盗み聞きした咎で、緑が生け贄になってしまったのだ。 そのことは、母から聞いた。 『栗花。もう少しで、あなたが犠牲になるところだったのを、緑ちゃんが…。この村は、恐ろしすぎるわ』 母は半ばノイローゼ気味だった。 不思議なことに、母は今まで自分の娘が選ばれるはずもない、と思っていたらしい。 そうして栗花の精神も、病み出した。 緑の死に、犠牲に、一日中泣くしかなかった。 父はそんな妻と娘を見かね、この村を出ることにしたのだ。 「もう戻るまい、と思っていたのに…」 こんな狂った村に戻るものか、と思っていたのに。 無性に緑に会いたくなった。 私はまだ、水底の緑に会ったことがないことを、思い出したのだ。 見て、己に罪を再確認しなければならない、と思った。 「だが、確認して私はどうするつもりだったのだろう?」 詫びを言いたかっただけなのか。 自問は居心地が悪そうに、静かな空気の中に浮かぶ。 「緑…私は」 私は――。 続く言葉を見出せぬまま、栗花はその場を去った。 「待っているから、栗花もおいで」 原稿用紙に向かい、また緑の呼び掛けを綴る。 いや、これは緑の呼び掛けなんかじゃない。 これは、歪んだ自責。 頭を抱え、栗花は呻いた。 その時、窓から“母”の元気な声がした。 「栗花ちゃん」 「母さん…」 栗花は若干、驚いた。 “母さん”の後ろに、村人達が立っていた理由がわからなかった。 「栗花ちゃん、今まで付き合ってくれてありがとうね」 今まで聞いたこともないような、しっかりとした口調。 「私ね、たまに頭が澄むの。こういう風に、さあってね」 気付く。彼女の肌が、艶やかなこと。 三十代などでは、ない。 「いつもは、とてもぼんやりしてるの。でもね、ぼんやりしてても哀しいとか悔しいとかは、思うのよ。みんなにいかれ女だの何だの言われる度、哀しかったのよ」 「…うん」 彼女の言いたいことがいまいち掴めなかったが、栗花は頷く。 「栗花ちゃんは、笑わずに私の相手をしてくれた。だから、恩返し!」 くるり、“母さん”は村人を振り向く。 「さあ、にごの川ってどこだった?」 「まさか――待って!」 栗花は机に足を掛け、窓を大きく開いて外に出た。 「母さん?」 「止めるな、栗花。二回目だな、お前が候補に上がっていながら外されたのは」 「村長!」 栗花の叫びは、ほぼ悲鳴に近かった。 「母さん、馬鹿なことは止めるんだ!」 「栗花ちゃんは、賢い子じゃない?」 “母さん”は優しい優しい微笑みを浮かべ、栗花を見る。 「私は、馬鹿な子よ。役に立たない子よ」 ごっ、と後頭部に衝撃。 視界が赤くなる。 “母さん”も村長も村人達も皆、溢れる血に呑み込まれるように赤くなる。 深紅。 そして、暗闇がやって来た。 一番星が、密やかに瞬く。 栗花はそのかわいらしい光までが自分を責めている気がして、笑ってしまった。 「そうだ。私は、遅すぎたね」 擦れ違う者もなく、栗花は夜の下を歩く。 目指すは、“にごの山”。 この村は、あまりにも消極的だった。 そして自分も、その消極的なものに毒されていた。 犠牲は仕方ないものとし、諦めていた。 「簡単だ。風習を失くすなんて」 山の中に入って少し歩いた後、懐からライターを取り出す。 緑と、三日前に捧げられた“母さん”に会っておきたい気もしたが、止めておいた。 二人を見たら、私は迷うかもしれない。 ――それだけは、だめだ。 ライターの火を、手に持っていた新聞紙に着ける。 「頼んだよ…」 小さな火に願いを込め、放る。 大火となり、木々を焼き……水を穢せ。 山は焼かれた。 水は濁った。 長い夜が、終わった。 焼かれた山を見て呆然としている人々の間を擦り抜け、栗花は山であった場所に向かった。 煙の匂いがまだ残っており、気分が悪かった。 上り坂が、一層応える。 しかし。 “にごの川”上流、その水面。 中に、綺麗な死体はなかった。 あったのは、骨だった。 「母さん…緑…」 水の中に入り、泣く。 ひたすらに泣いていると、霧が立ち込めてきた。 頭が、ぼんやりする…。 霧? いや、私の頭がどうかしてしまっただけか? そういえば、“にごの川”の水は以前毒だった。 水の中から上がる前、累々と水底に横たわる白骨達に声を掛けた。 「ながい間、お疲れ様でした…」 あとがき 「みちくさ」様から「ながれる十のお題」お借りしました。 このお題見た時、“日本の田舎の夏”を連想しまして、こんな話に。 以下↓のお題が、作中に微妙に織り込んであります。 一、 澄んだ水 二、 むらさきの雲 三、 だれかの噂 四、 透き通った涙 五、 架けられた橋 六、 溢れた血 七、 ちいさな星 八、 すれ違う人 九、 深い霧 十、 ながい時 |