「兄様(あにさま)…?」
少女は、砂浜に横たえられた兄の傍に膝を付いた。
嘘だ。息をしていないなんて。こんなにも顔が青いなんて。
「ククル」
老婆が、少女――ククルに近付く。
「ティンは、漁で死んだのだ」
兄はいつも通り、父と共に漁に行った。ククルは行く前にも、行っている間にも兄の安全を祈っていた。それが妹の務めであったし、兄の力になれることが嬉しかったから。
「お前の力が足りなかったのだ。だから、ティンは死んだのだ」
「――私の、せい」
ククルは動かない兄を、じっと見下ろす。
兄様、目を覚まして。いつものように、"ただいま"って言って。
涙が溢れて、止まらなかった。
この辺りの島々には、兄弟が漁に出る時はその姉妹が祈るという風習があった。兄弟に自分の髪を持たせたり、人形を作ったりと祈り方は様々である。
特にククルの家は神の血を引くと言われるせいか、妹の祈りが絶対だった。"兄"と"妹"の二人は、なくてはならない存在だった。
だからこそ、周りはティンの死をククルのせいだと思う。ククル自身も、自分を責めずにはいられなかった。
「兄様…」
差し込む朝日で目覚めた途端、涙が頬を伝う。既に葬儀も終えて一月経つというのに、いつまで経っても涙が枯れることはない。
自慢の兄だった。いつもククルに優しくしてくれた。
「どうして――」
髪を二つに結いながら、ククルは悔しそうに呟く。
いつものように、祈ったはずだった。
『兄様、今日も安全な航海をお祈りしています』
『ありがとう、ククル』
朗らかに笑って、ティンはククルの頭に手を置いた。いつも通り。何もかも、いつも通りだったのに。
「ククル」
祖母が、いつの間にか部屋の中に入って来ていた。
「ばば様」
ククルは涙を拭い、布団の上に正座した。
「また泣いていたのかい」
「はい…」
唇を噛み締めるククルの前に、祖母は座る。その鋭い眼光を正面から見ることが出来ず、ククルは自分の指を見つめた。
「話がある」
覚悟を促すような口調だった。
「お前も知っているだろう。この家は、"兄"と"妹"なしに成立しないと」
祖母の説明は、幼い頃から何度となく聞かされたことであった。それは起源も忘れ去られた古い伝統。家に男女どちらかが生まれない時は、分家からどちらかを連れて来て"兄"と"妹"にする。
何故なら、妹の持つ神の力は兄だけに有効だからだ。
「残念ながら、お前の"兄"になれる男は分家にも居ないようだ」
「そうですか」
元より、期待していなかった。誰が、ティンの代わりになれるというのだ? 優しくて凛々しくて、誰もが羨む兄であったティン。誰が、そんなティンに代われるというのだ?
「しかし、代わりを見付けた」
祖母は後ろを見やり、手招きした。
そこに立っていたのは、みすぼらしい少年だった。髪はぼさぼさ。着ている着物は酷く薄汚れて所々破れている。
ただ、その目が印象的だった。鋭く、何にも屈することのなさそうな黒い目。その目は、何かを思い出させた。
「彼は私達の血族ではないが。名は、ユルというそうだ」
「――ユル(夜)」
ククルは、ただその名前を繰り返す。
ユル。そうだ、彼の目はまるで真夜中の空のよう…。
ククルはのろのろと仕度を終え、居間まで行った。
そこには、ユルが居た。湯浴みを済ませ、真新しい着物を身に着けたユルは随分とこざっぱりして見えた。後ろで一つに束ねられた髪は、思いの外艶やかだ。
だけど、彼はティンではない。似ても似つかない。
「お前の名は?」
正面に座ったククルに向けて、ユルは声を掛けた。その少年らしい高すぎず低すぎない声で、ククルはようやく我に返った。
「ククル」
「ふーん」
ユルは、ただそう呟いた。
「どうしてあなたが、私の兄様になるの…?」
「さあな。あのばあさんに聞けよ。そこらへんほっつき歩いてたら、いきなり"兄になれ"だもんな。びっくりしたぜ」
ユルは笑ったが、ククルは笑わなかった。
「あなたは、どこから来たの?」
村では、一度も彼を見たことがなかった。
「んー、ちょっと遠くから。身寄りもないし腹減ってたから、ばあさんの要求に飛び付いちまった」
「そう」
追求することは他にいくらでもあったはずなのに、ククルは問いを続ける気力もなかった。
「兄っつっても、同い年ぐらいだよな。オレは13だけど…お前も?」
ククルは、こくりと頷いた。
ティンとは5つ離れていた。同い年の少年を兄と思うことなど、出来るのだろうか。
ククルは朝食の後、白い砂浜に一人座って海を眺めていた。
目に染みるほど、青く美しい海。あの水がティンの命を奪ったのだと思うと哀しくてたまらないのに、海は変わらず美しいのだ。
兄は、船から落ちて死んだのだという。あんなに泳ぎも達者だったのに。父は助けようとしたが、突然荒れ狂い出した海は兄を呑み込み――ようやく見付けた時にはその命を落としていた。
やはり、自分の祈りが足りなかったからなのか。祈りが足りず、守り神となれなかったのか。
また、涙が溢れて来る。そうすると、過去の思い出が鮮やかに蘇って来た。
あれは、一人で泣いていた時。気付いたティンが、ククルの顔を覗き込んで尋ねたのだった。
『ククル、どうしてそんなに泣いているんだい?』
『…母様に怒られたの』
ククルは昔から要領が悪く、家事を手伝っても何か失敗することが多かった。ククルが引っ込み思案で会話が下手なせいもあってか、父母も祖母もあまりククルには優しくなかった。
一番ククルに優しくしてくれたのが、誰であろう兄のティンだったのだ。
『私は、何も出来ないの。兄様にご馳走することも…手拭いさえ縫ってあげられないの』
不器用というより極度に刃物や針を恐れるククルは、料理や縫い物が大の苦手だった。
『ククルは、他の誰にも出来ないことが出来るじゃないか』
『え?』
『ククルはいつも、海に出る私のために祈ってくれるだろう。お前が守り神になってくれるからこそ、私はこうして元気なんだよ? ククルは凄いじゃないか』
そうしてティンは、優しくククルの頭を撫でてくれたのだった。
「兄様…」
ごめんなさいごめんなさい。
心に満ちるは、謝罪の言葉と罪悪感と――終わることのない哀しみだった。
家に帰ると、母が渋い顔で出迎えた。
「どこに行ってたの?」
「浜に」
「ふらふらと出歩かないでちょうだい。いつまでも泣き暮らして良いわけじゃないのよ」
母の叱責に、ククルはうつむく。
「ティンが死んで哀しいのはあなただけじゃない。いえ、むしろ私の方がずっと哀しいわ」
母の目には、怒りが浮かんでいた。
母も、自慢の息子を失ったのだ。ククルは、その怒りを理不尽だとは思えなかった。
「せめて、ばば様の仕事を手伝いなさい」
「…はい」
ククルは母の横を通り過ぎようとしたが、母は急に彼女を呼び止めた。
「あなたは、あの男の子が何者か知ってるの?」
ククルはしばらく考えてから、首を振る。母がユルのことを言っているのだと、気付いたのだ。
遠くから来たということしか、聞いていなかった。
「全く、ばば様も何を考えているのかしら。どこの子かもわからない子を家に入れて、ティンの代わりにするなんて」
兄様の代わり…。
ククルは唇を噛み締め、足早に祖母の部屋に向かったのだった。