そろそろ夕食というところで、懐かしい声がした。
「ただいま」
ククルは食器を並べる手を止め、恐る恐る立ち上がる。
「兄さんが、商いから帰って来たみたいね」
台所からトゥチが出て来て、玄関まで小走りで行ってしまった。
トゥチの兄・カジが昨日居なかったのは、商いのために出先で外泊していたためである。
ククルは部屋から、ひょっこり首だけ出す。
「おかえり、兄さん」
「おう、トゥチ。あれ? 何か、履物多くないか?」
大柄な体に、強面ながら優しそうな目元。彼を見ただけで、ククルの口元は綻ぶ。
「カジ兄さん!」
堪え切れず、ククルは飛び出した。
「…ククル!? おいおい、久しぶりだな!」
飛びついて来たククルを思いっ切り抱き締め、カジは笑った。
一度体を離し、カジはククルの目を覗き込む。
「ああ、そうか。旅してるんだったな。噂で聞いたぞ」
カジはククルの後方に目をやり、目を細めた。
「じゃあ、お前がククルの新しい"兄"だな。――名前は?」
いつの間にかククルの後ろに居たユルは、身動ぎもせずカジを睨み付ける。
「…ユル。あんたは?」
「俺はカジ。トゥチの兄で、ティンの親友だった」
カジはユルの非友好的な視線も意に介せず、穏やかに微笑んだのだった。
夕食の卓は、四人で囲むことになった。
仏頂面で黙々と食べるユル。そのユルに穏やかな視線を向けるカジ。そんな二人に、戸惑うククルとトゥチ。
な、何だろうこの妙な雰囲気…。
ククルは澄まし汁をすすりながら、ユルとカジに交互に目をやった。
「…ユル」
カジに呼ばれ、ユルは険呑な目つきをしながら顔を上げた。
「何だ」
誰かに対峙する時のユルはいつも、少し大人びる。まるで誰かに、そう躾けられたように。
「どうして俺を敵視するか、教えてくれないか?」
カジの問いはもっともだった。ユルには、カジを敵視する理由などないはずなのだ。
「別に敵視してない。あんたの気のせいじゃねえのか」
「そんなら、良いんだけどな」
「ご馳走様」
ユルは箸を置き、立ち上がってどこかに行ってしまった。
「…カジ兄様…」
心配そうにするククルを手で制し、カジはゆっくりとユルの後を追った。
ユルは庭に佇んでいた。闇がまるで彼を守るように、その身を包み込んでいる。
「ティンと会ったことがあるんだな」
カジに問われ、ユルはゆっくり振り向く。その目は未だに敵意を灯していた。
「そして、ティンに敵意を覚えているから、親友だという俺も気に食わない。…違うか?」
カジの推理に、ユルは答えの代わりに仏頂面を返した。
「当たりのようだな。"ティンの親友だ"と言った瞬間、お前の顔が険呑になったから、こう推理したんだ」
「へえ? それでオレのことがわかったつもりかよ」
ユルの挑発的な言葉にも動じず、カジは彼に一歩近付いた。
「お前はククルの婆さんに選ばれたんだ。俺にどうこう言う権利はない。ただ、ククルを傷付けるようなことだけはするな。それだけだ」
「随分と友好的じゃないか」
もっと攻撃されると思っていたのか、ユルは肩の力を抜いた。
「…トゥチから色々聞いたが、ククルは一応お前に懐いているようだからな」
「は?」
「あの子は本能的に危険な人物がわかると、ティンが言っていた。つまり、お前はククルにとっては危険じゃないんだ」
意外な説明に、ユルは皮肉な笑みを浮かべた。
「あいつの予知が正しいとは限らない」
「ククルは特に神の血を色濃く引く子だ。外れるわけがない」
ユルもカジも、どちらも引かなかった。
しかし、先にユルが呆れたように息をつき、家に向かって歩き出した。
「俺も商いの旅ついでに、お前達に同行させてもらう。良いだろう?」
カジの申し出に、ユルは小さく頷いた。
「好きにしろ」
横を通り過ぎるユルを眺めながら、カジは大きなため息をついた。
ユルもカジも一旦、ククルとトゥチが待つ食卓へと戻った。食事が途中だったカジは、また箸を握る。
「ククル、俺も都まで付いて行って良いだろう?」
ククルはカジも同行してくれると聞いて、もちろん喜んだ。
「本当? やったあ!」
「次はどこの島に行くんだ?」
カジの問いには、トゥチが答えてくれた。
「――あの、密林の島らしいわ」
この諸島には、一際大きな島がある。土地のほとんどが密林で覆われ、風土病のためにほとんど人が住んでいないという島だ。
ククルの親戚で偉大なる神女(ノロ)が、そこに住んでいた。その霊力は祖母も敵わないと常々零していたのだ。
神々に愛された女と言わしめる彼女は、その島の数少ない住人を病から守っているらしい。
「ククルはその島に行ったことがあるのか?」
「うん。でも、島の中までは私達二人で行かないといけないと思うの。前もそうだった」
何せ密林が多いので案内人を雇おうとしたのだが、そこのノロがティンと自分の脳内に直接語り掛けて来たのだ。
『案内人がなくとも、私の所にちゃんと導くと約束しよう。だからお前達二人でおいで。私は滅多なことで人に会わないと決めているのだ』
と――。
こんなに記憶がはっきりしているのは、この出来事をティンが不思議な思い出としてよく語っていたからだ。
『あれはどうやったら出来るのだろうね? 私達も鍛練すれば出来るだろうか』
ティンとククルも何となく互いの心が通じることはあったが、ここまでハッキリと言葉を紡ぎ合うことはなかった。
「そうか。なら、島の港まで送って行くぜ。もうちょっとこの島で商いがあるから、出発は明後日で構わないか?」
「うん、ありがとう。カジ兄様」
ククルが笑うのを見て、カジも微笑んだ。
「良かったな、ククル。やっと、前みたいに笑うようになったな」
指摘され、ククルは戸惑って頬に手を当てる。
ティンが死んでしばらくは、この面に笑みが刻まれることはなかった。哀しみが影のように張り付いていた。
笑ってはいけないような気がしていた。何故なら、ティンが死んだのは…。
「ククル、良いんだ。笑っても、良いんだよ。ティンだってきっと、そう望んでる」
ククルの心中を察したのか、カジは優しい声でそう言ってくれた。
だからもう一度笑おうとしたけれど、上手く笑えずに泣き顔のようになってしまった。
ククルは布団に包まりながら、いつかの旅のことを思い出した。
ノロが道を示してくれたものの、道は自分達で切り拓かなければならなかった。
ねっとりした暑さの中、密林を歩くのは至難の業だった。
ティンに手を引かれながら歩いていたククルは思い切り転んでしまい、足を痛めた。
『ククル、祈りの力を貸して。それでお前を治そう』
『はい』
ククルが神に祈ると、ティンの体が光を帯びる。燐光をまとった手をククルの踝に当てると、すぐに痛みは引いて行った。
そうしてククルはまた歯を食いしばって歩き出したが、しばらくすると先ほど治したところがまた痛くなってしまった。
けれど、刀で木の枝を切り払って道を拓く兄の背を見ると、すぐに弱音は吐けなかった。しばらく歩き続けてから、とうとうククルは痛みに涙を零す。
ククルの動作が緩慢になったことに気付いたのか、ティンは足を止めて振り返った。
『ククル? どうしたんだい』
『足が痛いよう…』
『治したはずなのに?』
ティンは慌ててククルを木の根元に座らせ、足を調べた。
『ああ、そうか。お前が疲れているから、力が不十分で完全に治せなかったんだね』
『痛い…痛いよう』
しくしく泣き始めたククルを見て、ティンは優しく微笑んだ。
『ほら、ククル。背負ってあげるから、おいで』
すぐに背を向けて屈んだティン。ククルは倒れ込むように、兄の背にしがみついた。
『もう少しだけ進んだら着くらしいからね。頑張ろうね』
『…うん、頑張る』
といってもククルはその後、疲労と安心のせいで眠り込んでしまったのだが。
「兄様には、迷惑掛けたなあ…」
現実に戻り、ぽつりと呟く。
ククルを背負いながら道なき道を歩くのは大変だったはずだ。
今度は私もあの時よりは体力付いたし、大丈夫だと思うけど…心配だな。間違っても、ユルに背負われるなんて展開は無しにしなくちゃ!
そんなことになったらユルは罵詈雑言を浴びせるだろう。考えるだけで非常に憂鬱だ。
絶対絶対、ユルに甘えないんだから。頑張れ私!
"重い"と言われたことを、ククルは根に持っていたのだった。