カジとトゥチと一旦別れ、ククルとユルは集落を出た。
そこでククルは、何か"とんとん"と耳の内を叩く音が聞こえていることに気付く。
『よく来たね、神の娘。さあ、この子に付いてお行き』
いつの間にか、二人の目の前に大きな山猫が現れていた。
「この子に付いて行って、だって」
ユルに説明すると、彼は顔をしかめた。
「よりによって、猫に付いて行けってかよ」
ユルの言葉がわかったのか、山猫が
「フーッ!」
と威嚇して来て、ククルは思わず飛びのいてしまった。
「ユ、ユル。刺激しないでよ。食べられちゃったらどうするのさ」
「馬鹿野郎。猫なんかが人間を食うかよ」
強がっている割には、ユルも山猫から離れている。
ふんっと顔を背け、山猫は二人を先導するかのように前を歩き始めた。
ククルは改めて、前を見た。眼前に広がるのは、濃厚な緑――人を寄せ付けぬ原生林だった。
ククルは神に、病気をもたらすものから守ってくれるように祈った。ユルの体が燐光を帯び、そのままユルはククルにも手を伸ばす。光は、ククルに移ったと同時に消えた。
そして二人は、歩み出したのであった。
ククルとユルは、山猫の後を付いてひたすらに歩いた。視界と道を阻む木の枝を鉈で切り払いながら、ユルは舌打ちする。
「暑くてたまんねえな」
止め処なく流れる汗を腕で拭うのは、ククルも同じだった。
数年前に体験した暑さが蘇って来て、奇妙な既視感を生む。何もかも、数年前と一緒だった。
違うのは、前を行く兄がティンではなくユルだということだ。
しばらく歩き続けたところで、山猫が開けたところで足を止めた。天然の泉が湧いている。ここで休め、ということなのだろうか。
「ああ、助かった」
ククルは泉の水を手ですくい、ごくごくと飲み干した。
ユルも水を飲んでから、地面にどっかと腰を下ろす。
「暑くて死にそうだぜ」
「そうだね」
ククルは相槌を打って、もう一度水を口に運んだ。水筒にも入れておかねばならないが、今は水筒を取り出すのさえ億劫だった。
「あの猫、喋らねえのか?」
「喋らないと思うよ。あの猫の主人である、ノロとは喋れるのかもしれないけどね」
「ふーん」
ユルは大して興味もなさそうに、生返事を返した。余程疲れているようだ。確かに枝を切り払いながらなのだから、ククルよりも体力を消耗しているのだろう。
「私が、先頭行こうか?」
ククルの申し出に、ユルは顔をしかめた。
「お前、剣なんか使えねえだろ」
「でも、枝を切ることくらい出来る」
剣術は習ったことすらなかったが、そのくらい出来るだろうと高をくくってククルはユルに顔を近付けた。
「お前が先頭行ったら、倍掛かっちまうぜ。良いから、オレの後に付いて来い」
「…わかった」
ククルは引き下がり、何とはなしに二人を面白がって見ているような山猫に目をやった。
結局、その日の内にノロの家に着くことは出来なかった。それというのも、夕方になって山猫がいつの間にか姿を消してしまったからだ。
「ったく、どこ行ったんだよ」
「しょうがないよ、ユル。今日は野宿しよ。ちょうど泉もあるし」
一度休んだところと同じような場所だったので、野宿には適しているだろう。
ククルは火を起こすために、枝を捜し始める。しかし湿っている木ばかりなので、薪としては役に立たなさそうだ。
困ったな、と思っているとユルに突かれた。
「何?」
「あれ」
ユルが指差した先には、焚火が在った。
「ノロの気遣いか?」
「まさか」
とは言ったものの、周りに他に人は居ない。それに、さっきまであんなところに焚火はなかった。
「有難く使おっか」
と言って、ククルは火に近寄った。
寝転び、ククルは満天の星を見上げる。
疲労のために眠気はすぐやって来ると思ったが、妙に感覚が冴えて眠れない。
「…ユル」
「何だよ」
期待せずに呼び掛けたら、返事が返って来た。ククルは顔を横に向け、こちらに背を向けて寝転ぶユルを見る。
こうして見ると、思ったより華奢な背中だった。そういえば、ユルは自分と同い年なのだと今更思い返す。
起きている時は――偉そうな態度のためか――実際より大きく見えた背も意外と小さかったのだ。
何故彼は、強くあろうとするのだろう。
「ユルは、誰かと旅してたことがあったの?」
勝手に、言葉が口から零れ出る。しばらくの沈黙の後、ユルは短く答えた。
「――ああ」
やっぱり、とククルは心の内で呟く。
旅慣れている理由が、やっとわかった。
「その人は…」
「もう死んだ」
一言だけ答えて、ユルは沈黙した。もう答える意志はないかというように、背中がククルの言葉を拒んでいた。
「そう」
"死んだ"
きっと、大切な人だったのだろう。
私は兄様を亡くした。ユルも、誰かを亡くした。私達が"兄妹"となったのは、果たして偶然だったのだろうか。
ククルは深い考えに浸りながら、空を見上げた。星たちは、夜空の下で寝転ぶ二人の子供とは無関係に、ただただ清冽な光を放っていた。
翌朝、久々の野宿だったためか体が痛かった。
「…おはよ、ユル」
と横を見たが、ユルは居なかった。
どこに行ったのかと首を巡らしたその時、後ろからユルの声がした。
「動くな」
その鋭い声に悲鳴を上げそうになったが、それよりも足に絡み付いた蛇を見て凍りついてしまった。
ハブだ。
「動くなよ。咬まれるぞ」
ククルとユルと蛇の間に、緊張が走る。
後ろに居るので見えないが、ユルもきっと近くに居るのだろう。ユルが動けば、蛇も動く。時機が悪ければ、ククルが咬まれる確率は非常に高い。
「ここらへんのハブは大人しい蛇だ。じっとしてたら、どっか行ってくれる」
落ち着かせるような穏やかな声だったので、ククルも冷静になることが出来た。
そうだ、暴れたら余計に危険なんだ。
混乱を鎮めてじっとしていると、蛇はするするとククルから離れ、密林の奥へと消えてしまった。
「……び、びっくりした」
「とろくせえ奴だな、全く。ほらよ」
振り向くと、ユルが何か果実をククルに差し出して来た。
「ありがと。取りに行ってくれてたの」
「甘いもん食いたかったからな」
ユルは腰を下ろし、ばくばくと黄色い果実を食べ始めた。
「猫も戻って来たみたいだぜ」
ユルの言った通り、いつの間にかあの道案内を務める山猫が傍にひっそり佇んでいた。
「今日には着くんだろな?」
呟きに近いユルの問いに、山猫は何とこっくり頷いたのであった。
昨日のように、山猫に先導されて密林をひたすら歩き続ける。
前方から少女の声が聞こえ、ユルもククルも足を止めた。
「どう思う?」
「女の子達の声だね」
一人じゃない。何人もの、年若い少女の声だ。
尚も進むと、眼前に一軒の大きな家が現れた。
五人ほどの少女達は、突如現れたククルとユルに一斉に視線を向ける。
山猫はその内の一人に向かって、悠々と歩き出した。
「おや、御苦労だったね」
十二歳ほどの容姿とは似合わぬ老成した口調で言い、彼女は山猫の頭を撫でる。
「お前達も、よく来たね。私がヤナ。この島のノロだ」
そうして、ノロは名乗りを上げたのだった。