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 幻想だ。
 この頬を撫でる風も、蒸し暑い空気も。
 幻想に違いない。
 私は、森を四肢で駆ける動物ではないのだから――…。

 青年は、飛び起きた。
 全身から、止め処なく汗が噴き出る。
「…どうも、夢見が悪いな…」
 この夢を見るのは、何度目か。
 そして、青年は自分が裸であることに気付く。
 寝室を見渡しても、傍に服が落ちている様子はない。
 そう、この夢を見ればいつもこうなる。
「また、新しい寝巻きを買わないと…」
 生活観に満ちた台詞を吐き、青年は頭を抱えた。

「ヴィン先生!」
 隣の家に住む恰幅の良い主婦がバルコニーを見上げ、青年に呼び掛けた。
 ちょうど彼は、バルコニーで煙草をふかしているところだったのだ。
「浮かない顔ですねえ。この島の季候に、まだ慣れませんか?」
「…ああ、そうですね。ここはどうも、私には暑すぎる」
 彼は動物学者だった。
 この南の海にポツンと浮かぶ島に、珍しい動物が多々生息しているという噂を聞き、研究の ためにやって来たのだった。
「先生は白すぎるんですよ。お陽さんの光を浴びて、日焼けしたら元気になりますって」
「そんなものですか?」
 ヴィンはおかしくなって、笑った。
「無駄よ」
 その時、凛とした声が響いた。
 主婦に向かって言ったのは、すらりとした少女だった。
 彼女の名は、皆が知っていた。
 自称・巫女でいつも妙なことばかり言っているので、有名になってしまったのだ。
「アンレ。何が無駄なんだい?」
 主婦が真面目に聞くも、彼女は青年の方しか見ていなかった。
「お前は、ここに居着くことは出来ないでしょう。それがお前の性よ」
 それだけ言うと、彼女は去った。

 蛇をスケッチする青年の横で、女性は慰めた。
「気にすることないですよ。アンレは頭がおかしいんです」
 彼女は村長の娘で、ヴィンの研究に色々と協力してくれている。
 こんな辺境の島に居るとは思えないほど洗練された服装に、清楚な外見をしている。
 しかし、ヴィンは彼女が苦手だった。
 妙に媚びた態度を取るかと思えば、急に高慢になる。
 彼女はヴィンの気を引くためにそんな感情表現を繰り返しているらしいが、逆効果だった。
 しかもそれがただ好意を感じているからではなく、島から去りたいがための行為でもあるとわかるから、余計に 彼は彼女を避けたくなった。
「頭がおかしいようには見えなかったな」
 むしろ…もっと神秘的な雰囲気を感じた。
 そう、どこか懐かしいような神秘を――…。

 また、あの夢を見た。
 森を、縦横無尽に駆け回る獣の夢。
 でも、今日はいつもと違った。
 飢えていたのだ。
 苦しみを覚えるほどの飢餓。
 ソウイエバ 永ラク 狩リヲ シテイナイ
 獣は一人ごちる。
 そうして、血の匂いを嗅ぎ付ける。
 狩リヲ シナクテハ …

 ヴィンはその朝、インターホンの音で目が覚めた。
「おーい開けてくれ!」
 村長の声だった。
「朝から何なんだ…」
 呟き、彼はまた自分が裸であることに気付く。
 舌打ちし、慌てて着替えを探し出した。

 村長は恐慌状態だった。
「娘を知らないか!?」
「娘さん? いいえ…」
「昨夜、夜の散歩に行ったきり帰って来んのだ! もう他の家には全部聞いて回って…ここが最後で…」
 小さな村なので、電話を使うより一軒一軒訪ねて行った方が早いのである。
「ともかく、落ち着いて下さい。…森は、捜したんですか」
 何故か、すらりとその問いが浮かんだ。
「捜しとらん…。おいっ!」
 村長は背後を振り返り、家から出て来て集まった村人達に怒鳴った。
「急いで、森を捜索するんだ!」

 見付かったのは、無残な死体だった。
「動物に食われたようですね」
 陸地から来た検死医は、淡々と告げた。
 死体があまりにも酷い状態だったので、その場で検死が行われていた。
 村長はショックで倒れ、病院に運ばれてしまった。
「――動物というのは?」
 ヴィンは尋ねる。
 凄惨な光景のため野次馬は数えるほどしか居なかったが、彼は何故か帰る気になれなかったのだ。
「さあねえ…確かではないんですけど…狼あたりでしょうかね」
 訳もなく鼓動が早まった。

 少女は、来客を不躾な視線で迎えた。
「いらっしゃい…先生。何の用ですか?」
「アンレだったね? ちょっと、聞きたいことがあって」
 ヴィンは、目を伏せながら言った。
「…中へどうぞ」
 アンレは、ヴィンを中に誘う。
 彼は言われるままに家の中に入り、周りを見回した。
 質素な家だった。驚くほど物がない…。
「一人で住んでいるんだって?」
「はい。親は先日亡くなって。お茶淹れましょうか?」
 アンレは挑戦的な目で、ヴィンを見つめた。
 どうも、落ち着かない。
 彼女の大きな目は、まるで女豹のようだった。
「お構いなく。君に聞きたいと思ったのは…先日の言葉だ。あれはどういう意味だったんだ?」
「先生、それ本気で言ってるんですか?」
「どういうことだ」
 気色ばむ彼を見て、アンレは笑った。
「わからなかったなんて…。でも、ここに来たってことは心当たりがあるってことですよね。
私には、巫女としての資質が備わっているんです。だから、どんなことも見抜けるんですよ。
けれど、これはあなたが自分で気付くべきことでしょう? …ヒントだけ、教えて差し上げましょう」
 アンレは、青年の耳に囁く。
「あなたは第七の狼――…」

 銀髪をなびかせ、ヴィンはバルコニーに佇んでいた。
 満月のおかげで、灯りがなくとも眼下の世界ははっきりと見えた。
 小さな村、広大な森。
 『第七の狼』
 ずっと、その言葉が胸に引っ掛かっている。
 昨日の殺人…あれは、俺の仕業だったのか?
 皮膚が粟立つ。
 その時、怒声が聞こえた。
 慌てて声の方を見ると、大人の男達が誰かを引きずって行っているところだった。
「何を…」
 ヴィンは訳もわからず、バルコニーから飛び降りた。
「うわっ、何だ先生かね」
 村長が、降り立ったヴィンに気付いた。
 村長に羽交い絞めにされているのは、アンレだった。
「その子をどうするつもりだ?」
「懲らしめてやるのさ。どうせ、魔術でも使って動物を飼い慣らしてでもいるんだろう。
そして、娘を殺したんだ!」
「どこから、その論理が?」
 冷静な指摘にも、村長は臆しない。
「こいつしか考えられないんだ! あんた、余所者だろう! 何もわかってないんだ!」
 村長と、三人の男はヴィンをじっとりとねめつけた。
「こいつの処理は、我々がする。このことを漏らせば命はないぞ」
 唐突にアンレが呟いた。
「…逃げなさい」
 ヴィンに向かって。
 場違いな台詞に、村長はせせら笑った。
「お前はお前の心配をしろ。さあ、来るんだ!」
 一行は、森へと入って行った。
 何も言えず、立ち尽くすヴィンを残して。
 皮膚がまた、粟立つ。
 関節が痛む。
 彼は大地に膝を付き、唸り出した。

 村長達は、アンレを大木に縛り付けた。
「何をするつもり」
 見上げるアンレを、男達は笑う。
「お前がわしの娘にしたように、お前を動物に食わせてやる。フラッグ、来い!」
 現れたのは、灰色の大きな犬だった。
 雑種と思われるが、目は凶暴そのものの光をたたえている。
「娘の可愛がっていた犬だ…。フラッグ、仕返ししてやりなさい」
 犬が飛び掛かろうとした時、唸り声が聞こえた。
 犬が振り返る間もなく、それは犬に飛びついた。
 “それ”は巨大な狼だった。
 犬の喉笛を食いちぎり、銀色の毛並を血に染めた。
 男達は悲鳴を上げた。
「何故来たの…!」
 銀狼を見据え、少女は告げる。
「お前は神の子でしょう。こんなところで死んだら、どうするつもりなの!」
『死にはしない』
 狼は直接、少女の頭に語りかける。
『巫女よ。我のことを知る者よ』
 少女は恍惚とした表情を浮かべて、それに答えた。
 狼は、村長達を振り返った。
 逃げ出した者も居れば、気絶した者も居る。
 村長だけは、目を見開いて狼を凝視していた。
「この島に狼は居ないはず…」
 すぐに気絶してしまったが。
「今度は誰の皮をかぶるの?」
 突如、アンレは問う。
『しばらくは、あのヴィンセント・マクファデンの姿を借り続けるつもりだ。なかなかに、動きやすいのでな。 意志が残りすぎているのが問題だが』
「ええ。昼のあなたは、自分のことをほとんど忘れてしまっているわ」
『仕方あるまい。彼は私であって私でない。本当に自分がヴィンセント・マクファデンであると思い込んで いるのだ』
 狼は、少女の頬に鼻面を当てた。
『巫女よ。お前の忠言に従って私は行こう。もうここでの使命は終わった』
「神のご加護を、第七の狼」
 少女は頭を垂れた。

 第一の狼は今に生きる狼
 第二の狼は人間に害を為すために生み出された狼 今は滅びた
 第三の狼は第二の狼を狩るために生み出された狼 今は滅びた
 第四の狼は人に化けて人を喰らう狼 今は滅びた
 第五の狼は第四の狼を狩るために生み出された狼 今は滅びた
 第六の狼は第四の狼が人と交わって生まれてしまった人間の形をした狼 今もはびこる
 そして、第七の狼は第六の狼を狩るために生み出された狼
 第六の狼である自覚もなく人として生活をしている、第六の狼を容赦なく葬る修羅
 狩った第六の狼の皮をかぶり 世界を駆ける

 ヴィンの見送りに来たのは、アンレだけだった。
「いやいや、すっかり厄介者になってしまったな」
 ヴィンが狼を連れて来たという噂が広まり、村人は彼を敵視して見るようになったのだ。
「気にしないで先生」
「君だけは変わらないね」
 笑いつつ、ヴィンは船に飛び乗った。
「またね、アンレ。もう会うことはないだろうけど」
「ええ」
 船が出港する。
 甲板から、ヴィンはアンレに手を振り続けた。
 アンレは叫ぶ。
「良い狩りを!」
「はあ…」
 変なことを言うと思い、ヴィンは考え込んだのだった。




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