急激な人口の増加のきっかけは自然災害
大正期の大きな災害といえば、大正6年の津波と同12年の関東大震災である。両災害による松戸市域の被害は、他に比べて幸い軽微であったため、市域の人々はその救助にあたっている。だが、この災害によって松戸市域は変化を見せる。
とりわけ大震災の後には松戸の町村が単なる農村から東京の近郊都市へと歩みはじめるのである。
つまり、急激な人口の増加傾向をみせるようになった。
大正6年(1917年)9月24日に南洋パラオ諸島で発生した台風は、紀州潮岬の南方を北上して列島沿いに東海・関東地方に進んだ。(中略)
9月30日夜半前から10月1日明け方にかけて関東を襲った。東京での最低気圧が714ミリバール、最大風速43メートルという驚くべき勢力をしめした。
そのため、東京湾満潮の朝5時過ぎに近い10月1日の午前2時から3時半にかけて、2回にわたり津波が発生し、浦安・行徳・船橋などの町村があっという間に水没した。人々は家財を持ち出すこともできず、逃げるのがやっとであったという。浦安・行徳では水深5ないし6メートルにも達している。
一方、10月1日の朝、江戸川の水位は松戸で6.44メートルの最高水位を示し、水防団が警戒にあたっていた。
(略)この津波・台風による東葛飾群下の被害は、死者122名、負傷者164名、行方不明4名、流失家屋636戸、床上床下浸水5220戸、(略)この津波によって江戸時代から長く続いてきた(市川)行徳塩業が全滅し、以後、復旧がはかどらず衰退してしまう。
(略)松戸市域は江戸川の決壊もなく、被害はわずかに強風による納屋小屋や老朽家屋の倒壊が目立った程度であった。
大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、関東全域にマグニチュード7.9ないし8.2という大地震が起こった。
特に烈震に見舞われたのは東京・神奈川・伊豆東岸、それに千葉県南部の東京湾沿いの地域であった。(略)
東京ではこの地震の直後に発生した火災により多くの死傷者を出し、大混乱に陥った。
しかし、ひとつ川を隔てた松戸においては存外に被害は少なく、松戸町で全壊家屋1戸と半壊2戸、ハ柱村尋常高等小学校の校舎半壊、松戸警察署管内で圧死者一人を出しただけであった。
東京の大火災によって灰や焼けた紙片が江戸川を越えて降り、また夜には空が真っ赤に染まった光景が松戸から見られた。火は一日午後から三日の夜まで続き、同時に焼け出された人々が続々と避難してきた。(略)
関東大震災のあと松戸市域は急に人口が増加した。すなわち、避難してきた人々がそのまま松戸に住み着く例が多く現れたのである。
(略)とくに小金町では大正10年に2667人であったのが、震災後の同14年には4779人と大幅にふくれあがっている。
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