龍音さんのペルー紀行


クスコからマチュピチュ
 

おもちゃのような電車

さて旅も佳境に差し掛かってきた。これからはオリャンタイタンボ、マチュピチュ、チチカカ湖とペルー観光のメインコースだ。

クスコ、モライと回ってきた我々はウルバンバ(Urubanba)に泊まり、バスでオリャンタイタンボ(Ollantaytambo)まで向かう。そこからは道は無い。何十キロの道のりをトレッキングで歩くのだ。・・・

なわけはジャパニーズせかせか観光ツアーにあるわけは無くオリャンタイタンボより唯一の交通手段である上記の電車にてマチュピチュまでむかうのであった。

オリャンタイタンボ
 

クスコからマチュピチュに向かう途中にあるこのオリャンタイタンボは一般的には要塞と言うことになっているが精神世界ツアー的に言わせて貰えばそれは違うんじゃないといわざるを得ない。

写真では見にくいが山肌を階段状に石垣が組んであり、頂上にはでっかい6枚岩(下記参照)がある。

確かに攻め難い構造にはなっているし、スペインに侵略されたときは確かに要塞としてつかったようだ。しかし本来の目的は違う物ではないだろうか。要塞としては頂上が狭すぎてあまり篭城ができそうに無いし、6枚岩も石垣としてはほとんど意味をなしていない。

そしてこの遺跡のすぐ向かいにある山(下記)はいろいろな装飾が施してあり、見た感じもパワースポットくさい。

 

オリャンタイタンボ

 

オリャンタイタンボの向かいの山

とするとやっぱりこれは祭壇、祭場と考えたほうがいいのではないだろか。具体的には著書[アウトオンナリム」で一躍精神世界で有名になった女優シャーリー・マクレーンの思い出した過去世が参考になる。

アウトオンナリムの続編「オールインザプレイング」にその記述はある。シャーリーが過去ここにいたころ巫女さんのような物をやっており、そこでは声を使いいろいろなことをやっていたようだ。なお意思の疎通には声は使わずテレパシーを使っていたようだ。声はもっと別なことに使われていた。

そしてこの場所の建設方法も普通の人が考えているように奴隷などを使って石を引っ張って持ってきたわけではなさそうだ。

実際には神官のような人がサイコキネシッスのような物を使い、石を空中浮遊させて運んだようだ。具体的には石切り場から現場まで神官が並んで座り、その頭上を石がリニアモーターカーのように進んでいく感じだったそうである。(となると石運びは超古代は高級な仕事だったんだろう。今と違って)
 

ところでシャーリーの過去の記憶をよく考え見ると、インカは車輪と文字をもたなかった。と言うことの理由がみえてくるのではないだろうか。

古代インカは車輪を発明できなかったのではなく、必要なかったのだ。空を飛ばして運んでしまえばいいわけだから。

言葉についても同じだテレパシーで会話できる物同士なら、文字、言葉は必要ない。

とこんなことを考えながらオリャンタイタンボをあとにした。といいたいがシャーリーの本の内容を思い出したのは日本に帰ってからで、当時は高山病が治って(ここはクスコより標高が低いので楽になる人が多い)一安心しただけだった。

 

6枚岩(カミソリが入る隙間もなし)

マチュピチュ
 


ホテル前広場

いよいよペルーメインイベントマチュピチュだ。オリャンタイタンボ駅からアグエス・カリエンテ(Aguas calientes)駅まで1時間半ほど電車にゆられ、そこからさらにバスに揺られること30分とうとう夢にまで見た別天地、地球の裏側、日本から、遠く離れたマチュピチュだ。

ここまでくればもう日本人には合うことは無いだろう。

と思ったがやはり日本人はいた。しかし暇な人たちだ。もちろん我々は暇ではない。マチュピチュの頂上で儀式を行うのだ。

しかしすごい人手だ。満員のバスに揺られているときから悪い予感はしていたがこれではまるで原宿ではないか。

 

とくに多いのはアメリカ系の白人だろうか。しかし彼らはエネルギーのいい場所を良く知っている。ペルーに限らず日本にいるアメリカ人なども青山や原宿、代官山などたいていエネルギーのいい場所にすんでいたり、出没していたりする。彼らは日本人みたいに感情を抑えていないから、エネルギーという概念で見ているわけではないだろうが気持ちのいい場所、なんとなく行きたいという場所と言うのを直感、感覚で探り当てているのだろう。

エネルギーがいいのは良いが、日本人とアメリカ人がいる場所と言うのは物価が高い(青山とか)。ご多分に漏れず、ここマチュピチュでも高い。ミネラルウォータなどは3倍だ。そして遺跡の入場料が10ドルもする。これは現地の人にしてみれば1万円以上の感覚だ。そして極めつけはここにあるホテルで特に遺跡の入り口すぐ手前にあるホテルは一軒のみで部屋は30室しかないので超高い。しかしここに泊まることによりマチュピチュのご来光が拝めるのだ。我々一向はバブルの夢よもう一度とばかりに札びらでホテルマンの頬をたたいて泊まる(*注1)ことができた。さすが不況のさなか、グッチやプラダの売上が世界一の日本だ。

注1 実際には行きずりで泊まれるほど甘くは無い。何ヶ月も前から予約して3週間前に代金を払い込み(キャンセルしても代金は帰ってこない)やっと一泊止まれる。連泊もできない。非常に強気なホテルだ。

 
さて我々はホテルに荷物を預けた後、遺跡の中の建物を回る予定だった。しかし我々に同行してくれたシャーマンのマーロー氏は今日ワイナピチュ(御神体の山)が呼んでいるとおっしゃる。

そこで我々は旅の疲れを乗り越え登山を開始するのであった。登山口では名前を登録させられる。過去、山から落ちて帰ってこなかった人がいたためそれを確認する為だそうだ。

上り始めて我々は気づいた。

「確かに落ちるかもしれない」

所々に鎖があり、登山道は見たとおりに急だ。しかし行き交う人は多い。やっぱりアメリカ人と日本人だ。もう八合目くらいまで上ったかと思ったら、「あと半分」



登山口の表札代わりの石

(そうしてみるとこれから上る左の山をへこませたような形だ)

 

ワイナピチュ(若い峰を意味する 御神体の山である)


と言うへんな声が聞こえたのでがっかりしながらまた日本人かとみあげるとアメリカ人だった。どうりでなまっていたわけである。

その後、方々の体であと半分を上ると、等々、頂上に到着した。そこは大きな岩がごつごつしており、ほとんど平らな場所がない。これらの岩は自然のものではなくある程度加工されているようだ。また本来は綺麗に並べられていたのかもしれない。さらに言えば下から運び上げられてきた物ではないかという気もする。運搬手段はどう考えても空中浮遊しかないだろう。引きづるにはどう考えても足場が無い。

そういえば和歌山のある神社などでもどう考えても人力で持ち上げるのが不可能な、何十トンもあるような加工された石が山の社殿の近くにあったりする。奈良の三輪山などの岩倉も考えてみればどうやって運んだのやら

少し下がったところに、儀式などができそうな広場があった。古代は実際にそこでいろいろな儀式が行われたのだろう。我々はそこで儀式がしたかったのだがそこは頂上への通り道になり、次から次へと人がくる。人のことなど気にせず自分に集中するのは本来の儀式であり、瞑想であるのだろうが、人目を気にする恥じの文化を背負った日本人観光客には無理な相談だった。(もっともレストランなどでは無神経に大声で話していたのだが・・・)

しかしそこはうまくしたもので

 

我々を導いてくれたシャーマンのマーローさんはすばらしい隠れ場所をしっていたのだ。登山道とは反対のほうに小さな平らな場所があったのだ。

ここも過去は何らかの儀式が行われた場所なのだろう。お供え物を置く場所など人工的に加工してある場所などがあった。またマーローさんはその場所に入るとき、靴を脱いで入るよう指定したのだ。それだけ神聖な場所なのである。

さてそこで我々は儀式をはじめた。やはりここでもコカの葉が重要な役目を果たす。榊としての役目と、燃やすことにより線香のような役目も果たすのかもしれない。そしてその煙は閉じていたからを開く役割を果たす。またお神酒のような物をぶっ掛けられ禊のような

お供え物

こともした。あるいはチャクラを開くような感じだったかもしれない。コカの葉でいぶられお神酒をぶっ掛けられた私は、非常に感情的に開いた。その後どうなったかはここで書くことは控えるが、マーロー氏は最後にいった。

「あなたたちはマチュピチュを開くことができる」

 

ワイナピチュ山頂から建物郡のながめ左端の木の陰の下、赤い屋根が高いホテル

奥はマチュピチュ山(老いた峰を意味する。この山の名前が遺跡の名前となった)

このときは人数も多く、観光半分の人が大半だったので、深いことまで行うことはできなかったがぜひもう一度きて自分のすべてを出してみたいと思った。

儀式は長時間に渡り、朝から夕方まで続いた。このためみなお昼は抜きになってしまった。

キャンセル不可の馬鹿高いホテルの昼食が無駄になった。

赤道に近い日差しは強烈で私はドカタ焼けで顔が真っ黒になった。

熱さで持ってあがった水が底をつき苦しかった。

しかし私はまたここにやってくることを誓い山をおりた。

 

 

 

あけて翌日、マチュピチュは霧で覆われていた。

マチュピチュの朝はこんな天気が多いそうだ。ご来光を見るのは無理とあきらめ(といか昨日の儀式でかなりつかれて寝坊しただけだが)通常の観光として遺跡の建物郡を診て回ることにした。遺跡の入場には2回目からは前のチケットを提示すれば半額のチケットを買うことができる。しかしやっぱり高い。

遺跡の中の建物郡は特にすごいとはおもわなかった。

基本的にここはワイナピチュが御神体で建物郡はそれの付属施設にすぎないとおもう。 三輪神社の三輪山と拝殿のような関係だと思う。

日本の不思議な山を紹介している泰山さんのページ


 


王の間(左上の物体はUFO  では無く指)


ただ建物以外に意味不明な石がごろごろしていたのは面白い。

ある物はいけにえをささげる台だとか、日時計だとかいろいろ、一般的な解説がつけられていたがそれも違うのだろう。

また他に面白かったのは建物郡の中には台形の穴(タテ50cm、上底25cm、家庭30cm、奥行き30cm位)があいていた。通常の説明では花瓶とか小物とかを置く場所ではないかといわれていたりするが、それはちがうとおもった。

その穴に頭を突っ込んで声を出すと綺麗に反響するのだ。何らかのサイキック能力の増幅装置ではないだろうか

そして名残も惜しく我々はマチュピチュをあとにした。ふもとのアガエス・カリエンテ(熱い湯を意味する)で蚊に刺されながら(この蚊が非常にたちがわるくまったく痒みが引かない。そして刺された跡も半年くらいは消えなかった。マチュピチュには虫除けが必須だ。)温泉にはいり外人料金の高いレストランで食事をし、電車でクスコまでもどった。

チチカカ湖

チチカカ湖へはクスコから長時間の電車のたびか、ドライブだ。まる一日かかる。しかもその途中では4000mを超える地点もとおる。非常に大変な旅だ。しかし我々はその大部分を難無く通り抜けた。眠ることによって。

途中の風景はほとんど変わりなく、乾いた赤茶けた大地だ。たまに町や村がある。そんなある村の中では外国人観光客にスレていないみやげ物やに立ち寄ることにできた。そこは非常に安かった。さらに言えばガイドに現地の人がついていたのも大きい。我々日本人観光客は餓鬼のようにみやげ物を買いあさった。私はそこでインカコーラー1.5リットル入りを買ったが2.5ソルで水より安かった。

困ることもあった。電車のたびならば問題ないのだが我々は小型バスで移動(電車より速い)した為、途中でトイレ休憩を取る必要があったのだ。外国人が寄り付かない場所で水洗トイレを期待するのは甘い。男性は何処でも天然トイレがあるので問題ないが、女性は足場以外は肥えがプカプカ浮いている場所で用を足さなくてはならない。

 

チチカカ湖

 

さてこんな苦労も一眠りの後等々我々は湖を目にすることができた。見た感じではそれほど大きくないように見えたが、実際ペルー側から見られるチチカカ湖はそれほど大きくない。大部分はボリビア側に属しており、上記の写真もチチカカ湖のほんの一部である。実際の面積は四国くらいあったのではなかったろうか。そしてそれが標高3800mの場所にあるのだ。

その日は夕方近かった為、そのままホテルに入る。このホテルが非常に豪華で完全に外人用だ。湖を見下ろせる一等地に立っており、部屋数も何百とありそうだ。まあ旅の最後でもあり、このくらいの豪華なホテルも良いだろう。それでも高地のペルーのホテルらしく最初にコカ茶を振舞ってくれる。高山病予防の為だ。もっとも我々は今まで高地を回ってきたのですでに高山病にはなれている人が大部分だったので飲む必要はなかったが、これで飲み収め(日本に持ち込んで飲むことは法律上できない)なのでガバガバのんだ。

その日はチチカカ湖じょうで雷がゴロゴロなっていた。われわれを歓迎していてくれたのだろう。翌日は綺麗に晴れ渡り、我々は葦で作った島にむかった。よく観光案内に出てくるアレである。

 

そして我々は直径10mくらいのしまに上陸した。(本当に浮いている葦の島は直径15mくらいのものでそれより大きい物は純粋に浮いているわけではないようだ。)そこではお約束の土産物屋が待ち構えていた。

こんなところまで観光化されてしまっているのは何か残念だった。しかもそのみやげ物が非常に高いのである。さらには島の建物の屋根に衛星アンテナのような妙な物がでてる。ガイドさんの話によれがこれは、フジモリ大統領が湖の住人に贈った太陽電池パネルなのだそうだ。確かに生活は便利になるのかもしれないが、我々にはなんとも情緒のない無機物で残念だ。

 

 さてこんなみやげ物攻勢や太陽電池パネルで気勢をそがれていた我々だか、ついてくれたガイドさんがよかった。英語、スペイン語が堪能で、精神世界に造詣が深く、謙虚な人だった。

そこで我々は彼に瞑想の誘導をお願いしたら、快く引き受けてくれた。そして行った瞑想は非常に良い物だった。誘導も良かったし、葦の島のすわり心地が最高だった。適度なゆれと適度なクッション感、さらにチチカカ湖そのもののエネルギーがなんとも穏やかでホオけてしまうくらいだった。

この状態で我々は葦の観光船にのり、儀式ができる島にむかうことはなかった。

時間切れだったのである。なんとチチカカ湖めぐりには半日しか用意されていなかったのである。

日本人せかせか旅行が災いしそそくさとチチカカ湖を立つことになった。できればここには2から3日くらい滞在したかった。

最終日リマ
 


チチカカ湖から空路でリマに戻った。そこはついたときの印象どおり、乾いて汚れた町だったが、もう町を歩くだけでどきどきすることはなかった。

道行く人々も怖い存在ではなかった。

ここを離れるにあたって、何か懐かしさすら感じていたのかもしれない。

そして旅行会社のプランによればなぜかこの日の日本食のレストランで食事をするプランが入っていた。どうせすぐ日本に帰るのだからいまさら必要ないと思うのだが、まずい日本食を食べ岐路についた。

 

 


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