呆れたマスコミの卑劣さ
〜いわゆる「メディア規制三法」への反対キャンペーン〜


 いやはや、ひどい暴走ぶりである。いわゆる「メディア規制3法」〜現在国会で審議されている「個人情報保護法案」「人権擁護法案」「青少年有害社会環境対策基本法案」の3法案をマスコミ側が勝手にこう命名している〜が国会で審議入りして以来、新聞・テレビ・雑誌を問わずマスコミは一斉に横並びで「反対」「反対」の大合唱だ。マスコミがこれらの法案に真っ向から反対するのは、自らの既得権益を脅かされると認識しているからであって、国民のためでは全くない。つまり、彼ら自身が「報道」する、改革派への抵抗勢力の言い分と全く同種なのである。良識ある国民は、マスコミのこの狂った「反対キャンペーン」を冷静に見捨て去ることが重要である。

 マスコミの論理破綻は至る所に見受けられる。要するに彼らの言い分は、すべて自分たちの権利本意であって、「国民」という視座は皆無である。取材対象から自動的に流される情報を排他的な集団で独占する「記者クラブ」というぬるま湯のような取材環境を与えられ、宅配制度とスポンサーという傘に守られているマスコミが、国民から顰蹙を買っている過剰な報道姿勢を「自主規制」することなどありえない。現在もマスコミの心ない取材のために人権を傷つけられている人は毎日増えているのである。これら3つの法案は、そういったマスコミの不心得をただす意味でも、早期成立が望まれる重要法案である。

※先月末、鳴り物入りで公開された、新首相官邸に関する報道で、各新聞・テレビニュース番組とも、新官邸の1階に堂々たる記者クラブがあることを自慢げに伝えていた。言うまでもなく、官邸の造成費用は国民の税金から成っている。本来必要ない記者クラブを官邸内に作るのももってのほかだが、それをなんの批判もなくむしろ誇りであるかのように報じる現在のマスコミの姿勢は異常である。国民は記者クラブ設置のために税金を納めたつもりはない。

 第一に、これら3法案は「メディア規制法案」などでは無い。マスコミ側が勝手にこう命名しているだけである。あくまで個人情報の不当な流出や人権に悖る行為を法律で規制するための法案であり、それ以上でもそれ以下でもない。法案を読めば誰でも分かることだが、マスコミのレッテル貼りは理屈を吹き飛ばす。
法案のどこを読んでもメディアの取材に対する規制など書いていない。恣意的な拡大解釈にもほどがあろう。むしろこの法案は「メディア規制法」と呼ばれないようにするために、非常にメディアに配慮した形で書かれている。国民としては物足りないほどですらある。この法案をメディア規制法呼ばわりするのであれば、すべての法律が国民生活を規制する悪法ということになってしまう。


 第二に、法案を可決するかしないかは国会の専権事項である。憲法に規定があるとおり、国会は正当なる選挙で選ばれた国民の代表たる国会議員から構成される、国権の最高機関であり、唯一の立法機関である。国民を代表していない、国民の審査も受けたことのないマスコミという営利団体が、法案審議の妨害をする権利などないし、そんなことになればむしろ民主主義の危機である。偏った価値判断に基づく報道で世論を誘導し、法案を廃案に追い込もうというマスコミのこれらの行動は違憲であり、国民および国民の代表(国会議員)を冒涜する暴行である。ただちに辞めさせなければならない。


 第三に、もし假に、百歩譲ってこれらの法案がメディアを規制するものであったとしても、可決・成立・運用されることに、国民には何の不具合もない。マスコミは「国民の知る権利」が阻害されると喧伝するが、「知る権利」などどの法文にも明記されていない、架空の概念である。むしろ憲法を変えて「知る権利」を明記しようという動きを阻止してきたのが朝日新聞はじめとする護憲マスコミではないか。当然のように「知る権利」などを持ち出すのはペテンでしかない。裁判所の判例では「知る権利」が認められているから、百歩譲って国民が「知る権利」を保有しているとしても、国民は「知る権利」をマスコミに委託した覚えはない。マスコミが勝手に「国民の知る権利」を代表し、法案反対のための道具に使うなどは言語道断である。

 規制されれば、自由な報道が阻害されるというのも、為にする方便でしかない。現在でも北朝鮮や中国それに共産党、創価学会などに対する取材はタブーである。これは国民が期待したものでもなければ政府が規制したわけでもない。マスコミ自身が勝手にタブーにしているだけだ。
 この法案が成立すれば巨悪が暴けなくなるというのも詭弁だ。巨悪を暴くのは司法の仕事であって、国民はマスコミにそんな役割を全く期待していない。(スポンサーの言いなりの私企業にそんなことができるわけもないし、資格もない) 要は法案に反対するためのこじつけである。「この法律は政治家や官僚の汚職を隠すものだ」「公人はすべての情報を公表しなければならない」という。ふざけた話である。「公人」とは何か。その定義すらない。情報を国民に伝えるという意味においては、ジャーナリストやキャスターこそ「公人」なのではないのか。手前勝手に政治家や官僚のみを「公人」と定義し「公人はすべてを明らかにしなければならない」などというどこまでも筋の通らぬ理由で自分たちばかりを守っている。
 「取材か取材でないのか」「私生活を脅かす範囲」という論点が行政側の主観的な判断で阻害されるのはけしからんという。しかし、主観的な判断で「取材OK」とし、メディアスクラムを組んで取材される側の私生活を脅かし人権を蹂躙してきたマスコミが言ってもなんの説得力もないというものだ。逆に今でも違法すれすれの取材を行っていると言うことを自ら暴露しているに過ぎない。このようなけしからんマスコミが跋扈する社会の方がよほど暗黒社会であろう。「報道機関だから許される」という理由で特権的に違法すれすれの取材をして国民に迷惑をかけ反省しないできたマスコミにこの法案に反対する資格など無い。既得権益にしがみつく姿は浅ましいと言うほか無い。

 「この法案が成立すれば、例えばこのような取材ができなくなります」など、ほぼあり得ない状況を作為して、危機感を煽るのも抵抗勢力の常套手段である。しかし、冷静に考えて、もし政府側がマスコミの取材を毫でも犯しようものなら、それこそ一斉にマスコミが政府批判をすることは目に見えている。実際の運用段階で政府側がそのような危険なことをあえてするとは思えない。政府の方がマスコミを恐れているのだ。ここが重要な点である。マスコミは「政権側を監視する」と誇らしげに語る。しかしマスコミを監視する機関は何もない。マスコミ側は「第三者機関を設け、そこから助言を出す。最終的には又マスコミ側の自主規制に任せて欲しい」となんとも手前勝手な理屈で結局歯止めを無くし規制を無効化しようとする。だが、マスコミが第三者機関として例にあげるBRO(放送と人権等権利に関する委員会)は、マスコミ側が作成した機関であり、マスコミ御用学者からなる傀儡である。報道側の過剰な取材によって人権を阻害された国民を守ると言うよりも、むしろその国民から提訴されたときにいかにマスコミを守るかという観点で動く傀儡機関に、第三者的役割を担えるはずがない。
 マスコミは「実際に規制が無くても政府の規制に恐れて取材が萎縮したのでは、真に国民の知る権利に答える報道ができない」という。しかし、すでに立法・司法・行政3権を飛び越えて「第一権力」にのしあがったマスコミは実際には政府を圧倒している。実態は逆に「政府がマスコミの威圧に萎縮して、国民の代表としての正当な政治活動が行えない」状況なのである。これを阻止するためには相互監視しかない。マスコミが政府・政治家を監視していると豪語する以上、政治家・政府の側からマスコミを監視することに何の不思議があろう。むしろ当然のことではないか。
 ただし、上記にも触れたように件の3法案はマスコミを規制する法律では決してない。しかし、法案が成立・施行された後、マスコミが実際に規制されるのを恐れて、自主規制の方へ向かうのであれば、それこそが国民の最も望むことである。いたずらな反対運動で世論を動揺させるマスコミは無視し、堂々と法案を通すのが国民の信託を受けた政治家の責務と言えよう。

 以上、マスコミの言い分には全く筋が通っていない。繰り返すが、自分たちの既得権益を侵されるが為に、あり得ない状況を想定して危機を煽り必死に言い訳を探して、横並びの護送船団で抵抗する「族議員」「抵抗勢力」と全く同じである。マスコミに彼らを批判する資格など無いのは言うまでもない。
 だが、新聞もニュースも雑誌も「反対」「反対」の大合唱である。賛成意見はすべて封殺されている。テレビの討論番組に至っては、反対派の人間ばかりを集めて、反対をアピールするか、賛成派の人間を少数連れてきて発言もろくにさせずに他の出演者全員で責めるだけである。新聞・ニュース番組のアンケートもお得意の誘導尋問と、都合の悪い結果の出たデータは公表しないという、いつもの手段で賛成派の存在を徹底的に抹殺している。これが真に「公正中立」を標榜しているメディアなのか。良識を疑う。
 法案の速やかな可決・成立を善良なる一国民として切に願う次第である。(02/05/09、05/11誤字修正)


5月12日、この件に関して、読売新聞が朝刊1面トップで提言を行った。それについての文章はこちら(読売新聞提言の呆れた内容)。


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