自民党列伝

最終更新日:平成17年8月18日

青木幹雄麻生太郎安倍晋三江藤隆美小里貞利高村正彦古賀誠二階俊博堀内光男綿貫民輔を追加

もくじ



青木 幹雄
麻生 太郎
安倍 晋三
安倍 晋太郎
池田 勇人
石井 光次郎
石田 博英
石橋 湛山
石原 慎太郎
伊東 正義
稲葉 修
宇野 宗佑
江藤 隆美
大麻 唯男
大野 伴睦
大平 正芳
緒方 竹虎
奥田 敬和
小里 貞利
小沢 一郎
小渕 恵三



海部 俊樹
梶山 静六
加藤 紘一
加藤 六月
金丸 信
川島 正次郎
岸 信介
小泉 純一郎
河野 一郎
河野 謙三
河野 洋平
高村 正彦
河本 敏夫
古賀 誠
後藤田 正晴



桜内 義雄
佐藤 栄作
椎名 悦三郎
重光 葵
重宗 雄三
鈴木 善幸
園田 直



竹下 登
武村 正義
田中 角栄
田中 六助



中川 一郎
中曽根 康弘
二階堂 進
二階 俊博
野中 広務


橋本 龍太郎
羽田 孜
鳩山 一郎
浜田 幸一
福田 赳夫
藤山 愛一郎
船田 中
細川 護煕
堀内 光雄
保利 茂



前尾 繁三郎
松村 謙三
三木 武夫
三木 武吉
三塚 博
水田 三喜男
宮沢 喜一
村上 勇
森 清
森 喜朗

や・わ

山口 敏夫
山崎 拓
吉田 茂
渡部 恒三
渡辺 美智雄
綿貫 民輔


青木幹雄


あおき・みきお(1934〜)
島根県出身。早稲田大学法学部中退。早大雄弁会出身。のちに雄弁会の後輩である小渕恵三森喜朗の両内閣を参院から支える縁の下の力持ちとなる。同郷の竹下登の議員秘書を経て島根県議として政治家デビュー。昭和61年、国政に転じて参議院議員となる。派閥は当然竹下派。平成8年に党副幹事長。平成10年に参院幹事長となり、参院における竹下派(のち小渕派、橋本派)の中心人物となり、野中広務らとともに橋本派の重鎮となる。平成11年小渕内閣の官房長官・沖縄開発庁長官として入閣。小渕首相の緊急入院に伴い、臨時首相となって総辞職を決定。森内閣への移行に尽力したが、一方で「密室政治」と批判された。森内閣でも官房長官にとどまっていたが、同年内閣改造に伴い、参院幹事長に復帰。平成16年には参院会長に就任。小泉内閣でも参院の抑え役として、小泉首相の後見人である森前首相とともに小泉体制を支えるが、逆に橋本派自体の弱体化を招くことにもなった。重宗雄三河野謙三などから伝統として続く「参院のボス」的存在となり、参院自民党は「ミキオハウス」と呼ばれたこともあったが、平成17年の郵政民営化法案の決議では参院造反派を抑えることができず、郵政解散を招くことになった。


麻生太郎


あそう・たろう(1940〜)
福岡県選出。学習院大学政経学部卒。父は麻生太賀吉(麻生産業社長・国会議員)。母は吉田茂の三女・和子。祖父・父とつづく代議士血統に生まれる。英国留学後、帰国して麻生産業社長となり、炭鉱業からセメント業への業務転換を図る。昭和51年モントリオール五輪に射撃代表として出場。日本青年会議所会頭を経て昭和54年衆議院議員として初当選。祖父・吉田茂以来の保守本流として宮澤派に所属。平成8年経済企画庁長官として初入閣。宏池会分裂後は河野洋平グループに属す。小泉内閣では経済財政担当大臣・総務大臣を歴任。いっぽうで平沼赳夫・高村正彦古賀誠らと「士志の会」を結成。反小泉グループとも人脈を広く持った。小泉続投をめぐる総裁選に立候補して対抗するも、選挙後は小泉首相から重用され、総務相・外相など重職に就く。小泉引退に伴う総裁選に2度目の立候補。続く安倍内閣でも外相・幹事長を歴任し、主流派として行動するが、突然の安倍首相の辞任を受けた総裁選に三度目の立候補。福田康夫に敗れる。


安倍晋三


あべ・しんぞう(1954〜)
山口県出身。成蹊大学法学部卒。元外務大臣・安倍晋太郎の次男。神戸製鋼所に3年勤務の後、父・晋太郎の外務大臣秘書官となる。平成3年の父の急死に伴い、平成5年総選挙で衆議院議員初当選。三塚派(のち派)に所属する。平成12年森内閣改造で内閣官房副長官となり、つづいて成立した小泉内閣でも留任。小泉政権の対北朝鮮外交とくに拉致被害者問題の解決に向けた努力などで脚光を浴び、一躍自民党若手のホープとして将来の総裁候補と見なされるようになる。平成15年には閣僚経験もないまま、異例の党幹事長抜擢。総裁と同派閥の幹事長は大平内閣の斎藤邦吉幹事長以来20年ぶりとなる。翌年の改造で幹事長代理・党改革推進本部長となる。小泉内閣最後の1年間では官房長官として初入閣。小泉引退に伴う総裁選に立候補し、勝利して自民党21代総裁・総理大臣に就任。教育基本法改正・防衛省昇格など短期間で業績を上げるが、マスコミから閣僚の失態・失言を執拗に攻撃され、約1年後に突然辞意を表明。


安倍晋太郎


あべ・しんたろう(1924〜1991)
山口県出身。東京大学法学部卒。毎日新聞記者から外相・首相秘書官を経て昭和33年衆議院議員に。岸信介首相の娘婿であったため岸派、のち福田派に属す。初入閣は三木武夫内閣の農相。その後も国対委員長・官房長官などを歴任し、「ニューリーダー」「福田派のプリンス」と呼ばれるようになる。大平政権では政調会長の座にあって四十日抗争の際には主流派・非主流派の間を調整した。昭和58年鈴木善幸首相の退陣表明に対し、福田派からの代表として総裁公選に立候補。3位に敗れる。これが唯一の公選立候補となった。昭和61年福田から派閥(清和会)を譲られ、名実ともにニューリーダーとなる。中曽根首相引退の際には宮沢喜一竹下登とともに後継に目されたが、中曽根裁定により竹下が推され、安倍は竹下総裁のもと幹事長として補佐した。しかしリクルート事件に関与していたため竹下・宇野宗佑退陣後の総裁公選には立候補できず、派内の石原慎太郎を出馬させたが海部俊樹に敗れた。総裁候補と呼ばれ続けたが、平成3年急死。死後安倍派は三塚派と加藤グループに分裂した。


池田勇人


いけだ・はやと(1899〜1965)
広島県出身。京都帝国大学法学部卒。大正14年大蔵省に入省。象皮病という奇病に侵され出世街道から取り残されたのが幸いし、公職追放にはあわなかった。昭和22年事務次官。吉田茂に見込まれ昭和24年衆議院に出馬、当選した。高校時代からの友佐藤栄作とともに「吉田学校」の優等生と呼ばれた。当選回数一回ながら第3次吉田内閣で蔵相に就任。ドッジラインなどの占領下の経済政策を推し進めた。吉田首相の秘命で秘書官宮沢喜一とともに渡米、対日講和のための準備交渉を進める。昭和25年には通産相も兼任。翌年サンフランシスコ講和会議で全権委員のひとりとなる。国会で「安定経済への移行期に不法取引を行った中小企業が五人や六人倒産・自殺してもやむを得ない」と発言して蔵相不信任案を提出され、鳩山派(民同派)の欠席により可決、辞職に追い込まれた。このほかにも「貧乏人は麦を食え」などの失言が多かった。昭和29年には造船疑獄に関与し政治生命の危機であったが犬養健法相の指揮権発動により事なきを得る。自由党ではこのほか政調会長・幹事長を歴任し、前尾繁三郎ら池田派(宏池会)を形成していった。自民党結成後は石橋内閣の蔵相として入閣、以後常に主流派として発言力を持つ。内閣では蔵相・通産相等を歴任。岸退陣後、昭和35年の総裁公選に出馬。岸派・佐藤派の協力を得て本命の大野伴睦を引きずりおろし、石井光次郎藤山愛一郎を下して第四代総裁となり組閣。「寛容と忍耐」「所得倍増計画」をスローガンに4年間政権を維持した。しかし政権後期には大野・河野らと接近したため、禅譲を期待した佐藤との間に齟齬をきたし、昭和39年の総裁公選では激烈な党内抗争を展開、辛くも三選を勝ち得たものの佐藤・藤山連合の票とは僅差であった。その直後喉頭ガンが判明し、東京オリンピック開会式の挨拶を花道に引退、あとを川島正次郎副総裁・三木武夫幹事長・鈴木善幸官房長官らに託す。かつての盟友佐藤が首相となったのを見届けて翌年死去した。


石井光次郎


いしい・みつじろう(1889〜1981)
福岡県出身。東京高商専攻科卒。警視庁、台湾総督府勤務を経て朝日新聞入社、代表取締役専務。昭和21年衆院選に出馬、当選し鳩山一郎の自由党に属す。鳩山ら首脳部の公職追放後は大野伴睦らと留守部隊をつとめる。吉田茂から鳩山への政権禅譲を進めようとして三木武吉河野一郎ら強硬派と対立、鳩山派が民主党を結成したときは自由党に留まり緒方竹虎総裁の下、幹事長となった。保守合同により自由民主党が結成されると初代総務会長に就任。緒方の死後、その派閥を引き継ぎ、昭和31年、35年の総裁公選に出馬するが派閥の結束が弱く、いずれも敗れる。吉田内閣では商工相・運輸相、内閣では副総理、池田勇人内閣では通産相、佐藤内閣では法相と、重要ポストを歴任。昭和42年には衆議院議長に就任。また横綱審議委員会委員長も務めた。


石田博英


いしだ・ひろひで(1914〜1995)
秋田県出身。早稲田大学政経学部在学中、全国最年少候補として衆院選に出馬した三木武夫の応援に赴く。卒業後は中外商業新報(日経新聞の前身)に入社。政治部次長まで進んだ後、昭和22年衆議院選に出馬し、当選。自由党に入党するが吉田茂ワンマン体制に反発し「反乱軍」を称して反主流派となる。のち自民党へ。石橋湛山に心酔し、昭和31年の総裁公選では石橋派の参謀として各派の切り崩しを行い、五人に通産大臣の座を、八人に農林大臣の座を約束したとまで言われる。その活躍により有利という大方の予想を覆して、決選投票で石橋が岸を7票上回り第2代総裁となる。その功績で石橋内閣官房長官となるが、石橋がわずか3ヶ月で病気退陣すると党内調整で岸信介を後任に推した。岸・池田佐藤内閣で労相。石橋派を引継ぎ石田派を率いる。のち三木派に合流。三木の盟友として派内で重きをなす。三角代理戦争と呼ばれた参院徳島選挙区で三木派の推す久次米健次郎に冷淡だったため、一時三木と不和になる。また、田 中首相金脈政変の際には河野洋平ら若手グループから後継総裁に立候補するよう要請されたが断った。三木派が河本敏夫に引き継がれたあとは第一線から身を引いた。


石橋湛山


いしばし・たんざん(1885〜1973)
東京都出身。早稲田大学文学部卒。毎日新聞社から東洋経済新聞社編集長・主幹・社長を歴任。戦後は自由党に入党し第一次吉田茂内閣で蔵相に就任、極端な財政政策が社会党などの反発を招く。新憲法下初の総選挙に出馬、衆議院議員となる。鳩山一郎らの復帰後は反吉田体制の中心となり、昭和27年「抜き打ち解散」では河野一郎とともに自由党から除名される。のち、反吉田連合の民主党に合流。鳩山内閣でも蔵相ポストを熱望したが、一万田尚登を起用したい鳩山と衝突。三木武吉の説得により通産相に就任。自由民主党結成後は鳩山後継を目指した。鳩山退陣後の昭和31年自民党総裁選に岸信介石井光次郎とともに立候補。参謀役石田博英の活躍により岸有利という大方の下馬評を覆して第2代総裁に選出、組閣するが、病気のためわずか3ヶ月で退陣。この間に日本の国際連合加盟が承認された。その後も政治活動を続け、昭和48年に逝去。


石原慎太郎


いしはら・しんたろう(1932〜 )
兵庫県出身。一橋大学社会学科卒。大学在学中に「太陽の季節」で文壇デビュー。実弟の俳優・石原裕次郎主演で映画化され大人気となった。昭和43年参院全国区に出馬して当選。自民党に入党。昭和47年から衆院に転ずる。中川一郎らとタカ派の青嵐会を結成した。昭和50年には東京都知事選に出馬するが現職の美濃部亮吉に敗れた。福田内閣で環境庁長官として初入閣。中川グループに属したが、昭和58年中川の死により安倍派に移籍する。竹下内閣では運輸相。リクルート事件で党幹部が軒並み失脚した中、宇野宗佑退陣後の平成元年総裁公選で立候補したが、海部俊樹に敗れ安倍派を離脱。ソニー会長盛田昭夫との共著「NOと言える日本」がベストセラーに。平成7年議員を引退。平成11年、東京都知事に当選。大胆な改革手法には賛否両論がある。平成15年、都知事再選。


伊東正義


いとう・まさよし(1913〜1996)
福島県出身。東京帝国大学法学部卒業後農林省入り。事務次官まで進む。昭和38年衆院選に当選、学生時代からの無二の親友・大平正芳との関係から池田派に属す。大平政権では官房長官を務め、親友を補佐した。昭和55年に大平が急死した後、臨時首相代理となる。続く鈴木内閣では外相を務めるが、日米首脳会談での共同声明の解釈で首相と齟齬をきたして辞任。宏池会内で反鈴木・宮沢ラインの重鎮として重きをなす。第3次中曽根内閣では政調会長、竹下政権では総務会長。リクルート疑惑による竹下首相退陣後、後継総裁に推されたが固辞した。硬骨・清廉のハト派議員として有名だった。


稲葉修


いなば・おさむ(1909〜 )
新潟県出身。中央大学法学部卒。同大学教授から昭和24年衆院選に出馬。憲法学者出身として党憲法調査会会長をつとめた。中曽根派の幹部となる。第1次田中内閣で文相として初入閣。昭和51年のロッキード事件での田中前首相が逮捕されたときの法相だったため田中派から「A級戦犯」と恨まれ、四十日抗争でも非主流派として大角主流に反発。「自民党をよくする会」を結成して強く大平退陣を求めるなど、中曽根派内の強硬派として知られた。昭和55年総選挙では落選。3年後に復活する。大相撲横綱審議委員会委員としても知られ、双羽黒の横綱昇進にただひとり反対したことは有名。


宇野宗佑


うの・そうすけ(1922〜1998)
滋賀県出身。学徒出陣により神戸商業大学中退。戦後2年間ソ連に抑留される。滋賀県議・河野一郎秘書を経て昭和35年衆院選に当選、河野派に属す。翌年党青年局部長として局長の竹下登と東南アジアを歴訪し、竹下と親交を結ぶ。第2次田中内閣で防衛庁長官として初入閣。以後科技庁長官・行管庁長官・通産相を歴任。竹下内閣では外相。リクルート疑惑で竹下が退陣した後、竹下の推薦で第13代総裁に就任。しかし、就任直後に女性スキャンダルが発覚。また参院選で社会党を下回る36議席という惨敗を喫し、その責任をとる形でわずか二ヶ月で退陣した。俳号犂子(れいし)の名で俳句もよくした。


江藤隆美


えとう・たかみ(1925〜)
宮崎県出身。宮崎農林専門学校卒。宮崎県議を経て、昭和44年総選挙で衆議院議員初当選。中曽根派(のち渡辺派)に所属。青嵐会結成にも加わった。昭和60年第二次中曽根内閣の建設相として初入閣。平成元年の海部内閣では運輸大臣となるが、翌年の総選挙では現職閣僚にもかかわらず落選。平成5年の総選挙で復活当選を果たすものの、自民党は史上初めての下野、所属する派の渡辺美智雄も総裁選に敗れるなど逆境が続いた。平成7年自社連立で村山内閣が成ると総務庁長官に就任するが、過去の朝鮮半島の支配に関して「日本は悪いことをしたが良いこともしたとの発言を行い、批判されたことで辞任。渡辺の死後、中曽根派が分裂し山崎派が離脱したことを受け、同時期に三塚派から離脱した亀井静香らと組んで村上・亀井派を結成。のち会長となり江藤・亀井派となる。小泉内閣では抵抗勢力の代表として亀井らとともに歯に衣着せぬ小泉批判を繰り返した。平成15年の総選挙で議員引退。


大麻唯男


おおあさ・ただお(1889〜1957)
東京都出身。東京帝国大学政治科卒。内務省に入省、山形・山梨・神奈川各県警察署長を経たのち大正13年衆議院議員。立憲民政党幹事長、大政翼賛会でも幹部となり東條内閣で国務相。軍に協力的な大日本政治会を組織したため戦後公職追放。追放解除後復帰し、改進党を結成。重光葵を総裁に擁立する。のち日本民主党に合流し鳩山内閣で国務相。鳩山後継に重光を擁立しようとするが、日ソ交渉の失敗による重光の失脚で挫折。ついでを推したが昭和31年総裁公選で石橋湛山に敗れてこれも挫折した。「政界の寝業師」として知られた。


大野伴睦


おおの・ばんぼく(1890〜1964)
岐阜県出身。明治大学政経学部中退。政友会東京市議から昭和5年岐阜県から衆議院に出馬、以来12回当選。戦後は東京市議時代から恩師と仰ぐ鳩山一郎の日本自由党へ参加。鳩山ら首脳部が公職追放にあう中で鳩山派の留守部隊として幹事長として残留。吉田茂ワンマン体制と激突する。しかし、鳩山復帰後は吉田から鳩山への禅譲を画策し、強硬論を唱える三木武吉河野一郎らと対立、吉田側となる。昭和27年衆議院議長に就任。第五次吉田内閣では北海道開発庁長官。吉田内閣総辞職後野党となるが、三木武吉の働きかけにより保守合同が具体化すると三木と和解。保守合同に賛成し、昭和30年自由民主党結成に際しては、四人の総裁代行委員のひとりとなる。昭和32年から39年まで副総裁。大野派を率い後継総裁候補と目された。首相から次期後継の念書をもらったとされるが、岸が池田勇人を推したため昭和35年の総裁公選に出馬。石井光次郎と党人連合を組んで池田を脅かす。ところが選挙当日に池田派の参院石井派切り崩しが 判明、決選投票で池田に敗れることが明らかとなったため涙を呑んで立候補を辞退、石井を支持するが敗れて非主流派となる。しかし、河野脱党計画の説得を機に池田主流体制に接近、副総裁として党内に重きをなした。義理人情に厚い党人の典型であり「万木(ばんぼく)」の号で俳句もよくした。


大平正芳


おおひら・まさよし(1910〜1980)
香川県出身。東京商科大学卒。昭和11年大蔵省に入る。昭和24年先輩に当たる池田勇人外相の秘書官となるが面倒な政務は後輩の宮沢喜一に任せきりだったという。昭和27年自由党から衆院選出馬。池田派に属す。昭和35年池田内閣官房長官として初入閣。のち外相となり、蔵相だった田中角栄と盟友関係を結ぶ。その後通産相・蔵相など歴任。池田の死後その派閥・宏池会を嗣いだ前尾派に属したが、前尾が昭和45年総裁公選に立候補しなかったことから派内で前尾の指導力が低下し、大平が派閥の長を嗣いだ。昭和47年総裁公選に立候補。3位となり、決選投票では大角盟友関係から田中を支持、田中政権を実現させる。田中内閣では外相として日中国交回復を実現。三木武夫内閣では非主流派となり、福田赳夫と提携し、挙党協の「三木おろし」の急先鋒として三木退陣を迫った。三木退陣後は1期2年で大平に後を譲る、大平に党務を任せるという条件で福田に先を譲って幹事長となる。大福連合は安泰かと思えたが、福田が長期政権 化を望んだために反発。大角が連携して総裁公選予備選で福田を破り、第9代総裁に就任。しかし昭和54年の総選挙で過半数割れの大惨敗を喫したため、党内非主流派の三木派・福田派・中曽根派が大平退陣を求めて大角主流派と激突、四十日抗争と呼ばれる党争を演じた。特別国会の期日になっても妥協点が見いだせないまま首班指名に突入、自民党から大平と福田の二人の首相候補が出る異常事態となったが、大平が辛くも勝利し政権を維持した。翌年、野党が提出した内閣不信任案に非主流派が同調、三木派・福田派が本会議を缺席したため可決。これに対して総辞職ではなく解散を決定し、史上初の衆参同日選挙戦に突入したが、折からの激務と党内抗争の激化による心労から選挙戦最中に急死。皮肉にもその死が自民党の結束を固め、30議席増の大勝となった。その容貌や口調から「鈍牛宰相」「アーウー宰相」と呼ばれたが、「アーウー」がなければ答弁は一流だったという評価もある。


緒方竹虎


おがた・たけとら(1888〜1956)
東京都出身。早稲田大学卒。朝日新聞社副社長。昭和15年大政翼賛会総務のち副社長を経て19年小磯内閣に国務相情報局総裁として入閣。戦時下の言論統制を行った。敗戦後は東久迩内閣の書記官長(現在の官房長官)となるが、戦犯容疑者となり公職追放、解除後昭和27年の「抜き打ち解散」で衆議院議員に当選、一年生ながら吉田茂に気に入られ官房長官、のち副総理となる。吉田内閣総辞職の幕引きをしたため、古参の吉田派議員から「明智光秀」と呼ばれた。吉田引退後に自由党総裁に就任。民主党三木武吉総務会長の働きかけによる保守合同に呼応、昭和30年自由民主党を結成し4人の総裁代行委員のひとりとなり、鳩山の後継総裁となることは確実視されていたが、翌年急死。


奥田敬和


おくだ・けいわ(1927〜1998)
石川県出身。早稲田大学政経学部卒。北国新聞記者、治山社社長、石川県議を経て昭和44年衆院選に当選。田中派に属し、昭和58年第2次中曽根内閣で郵政相。竹下派旗揚げに参画し、竹下派七奉行といわれた一人。海部内閣では自治相。その後、竹下派の内紛では羽田小沢ラインに属し、平成5年宮沢内閣不信任案に賛成して脱党、新生党を結成する。


小里貞利


おざと・さだとし(1930〜)
鹿児島県出身。加治木高等学校卒。鹿児島県議会議員を6期務めたのち、国政に転じた。昭和54年衆院選で初当選。宏池会・大平派(のち鈴木派→宮澤派→加藤派)に所属。平成2年海部内閣で運輸大臣として初入閣。平成5年党国会対策委員長、平成6年北海道・沖縄開発庁長官、平成7年阪神大震災に関し、震災対策担当大臣となる。平成12年内閣の反主流派であった加藤紘一が起こしたいわゆる「加藤の乱」においては最終局面で加藤らに翻意を説得するが、加藤派の分裂を防ぐことはできなかった。平成14年加藤の議員辞職に伴い、加藤グループを引き継いで小里グループ会長となる。平成17年郵政解散にともない、引退を表明。


小沢一郎


おざわ・いちろう(1942〜 )
岩手県出身。慶應義塾大学経済学部卒。運輸相・逓信相・建設相などを歴任した小沢佐重喜の三男で昭和44年日大大学院在学中に亡父の跡を継いで総選挙出馬。昭和47年の田中派旗揚げから従う田中角栄の秘蔵っ子といわれ、ゴルフ好きの田中によく付き合ったという。しかし昭和60年には創世会旗揚げに参加、竹下を支持する。同年第2次中曽根内閣自治相として入閣。竹下内閣では官房副長官に就任する。竹下派「七奉行」最大の実力者で金丸・竹下とともに「金竹小」と呼ばれる経世会の自民党支配を主導する。平成元年の海部政権成立に際して幹事長に就任。翌年の総選挙勝利を導く。しかし平成3年の東京都知事選では都連の意向に反して強引に磯村尚徳を公認、都連が推す現職の鈴木俊一に敗れ党内での発言力が低下する。また湾岸戦争に際しては「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」を設けて委員長に就任、「小沢調査会」と呼ばれたが、狭心症による入院のため中断。海部退陣後は総裁候補といわれたが、健康を理由に辞退。残る3候補(宮 沢三塚渡辺)が竹下派の支持を得るために小沢のもとへ訪れ政見を述べたことから「面接試験」「小沢詣で」と言われた。竹下派最大の実力者金丸信が佐川急便事件で逮捕されると責任をとるかたちで同派会長代行を辞職。反小沢グループとの対立が明らかとなり、経世会から離脱し羽田孜らとともに「改革フォーラム21」結成。宮沢内閣不信任案に対しては脱党して賛成、これを可決させ新生党を結成。代表幹事となって続く非自民連立政権成立の鍵を握った。その後、公明党・民社党などと連携して新進党を結成。翌年には盟友・羽田孜とトップの座を争い、新進党党首となる。しかし、次第に新進党内の反小沢派が形成されてゆき、平成9年党首に再選すると、突如新進党を解党。新たに創設した自由党の党首となる。平成11年に自民党小渕内閣と連立政権を組むが、政策を巡ってしばしば自民党執行部と対立し、翌年連立政権から離脱した。しかし自由党内で、小沢に従わない者は保守党を結成して連立に残った。平成15年、突如民主党との合併を宣言。民主党入りした。


小渕恵三


おぶち・けいぞう(1937〜2000)
群馬県出身。早稲田大学文学部卒。父の跡を継ぎ大学院在学中の昭和38年衆院選に当選。福田赳夫中曽根康弘という郷土の二大巨人と同一選挙区で戦ったことから「ビルの谷間のラーメン屋」と皮肉られた。第2次大平内閣で総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣。田中派−竹下派に属し、竹下内閣では官房長官。昭和天皇崩御に際し、新年号「平成」の発表を行う。宮沢政権下、佐川急便事件での金丸副総裁辞任を機に竹下派内で小沢一郎に反発するグループの実力者として平成4年竹下派(経世会)を継ぎ、小沢・羽田グループが離脱。自民党下野後、党副総裁。与党に復帰した後は第2次橋本改造内閣で外相。平成10年橋本総裁が参議院選大敗の責任を負って辞任したのに伴い、小泉純一郎・梶山静六らと総裁選を争い勝利。第18代自民党総裁となる。平成11年には自由党・公明党と連立内閣を結成し、景気回復に努めたが、平成12年4月、国会会期中に突如脳梗塞で入院。意識が回復しないことから、国政の空白を避けるため、翌々日自民党は後継総裁に森喜朗を指名した。翌月、意識が戻らないまま死去。「人柄の小渕」と呼ばれ、親しまれた。やたらに電話をかけることから「ブッチホン」という流行語も誕生した。


海部俊樹


かいふ・としき(1931〜 )
愛知県出身。早稲田大学法学部卒。早大雄弁会出身で弁舌は一級品。代議士・河野金昇に師事し、昭和35年衆議院選に出馬。29歳の全国最年少議員として当選。三木派に属し、早くから「三木武夫の秘蔵っ子」と呼ばれる。三木内閣では官房副長官。福田内閣では文相として初入閣、大学入試共通一次試験を導入。文教族として教育行政に精通していることで知られた。また、夫人から贈られたのがコレクションのきっかけになったという水玉模様のネクタイがトレードマークになっていることでも有名。三木が河本敏夫に派閥を譲ると、三木に諭されて河本派の幹部に。保守傍流といわれ他派との接触が少ない三木−河本派の中で、安倍晋太郎竹下登渡辺美智雄らニューリーダーと親しい海部は他派とのパイプ役として貴重な存在となった。第2次中曽根改造内閣で再び文相。平成元年の宇野首相退陣を受けて行われた総裁公選では河本派を代表して立候補。竹下派の支持を得て林義郎・石原慎太郎を抑えて勝利 し、第14代総裁に就任する。 小沢一郎幹事長とのコンビで2次まで組閣し、参院選の大敗など危機的状況にあった自民党を抜群のバランス感覚で乗り切り、翌平成2年総選挙での自民党の勝利を導くが、湾岸戦争における海外派兵問題・政治改革の推進などで党内から反発が起こり、山崎拓小泉純一郎加藤紘一らYKKトリオが「海部おろし」を画策する。これに対し海部は解散を示唆した「重大な決意」発言をするが竹下派の賛意を得られず退陣。自民党下野後も党政治改革推進連盟などで活躍するが、羽田内閣退陣後に自民党が政権復帰のため社会党と連立することに反発、離党した。自民・社会・さきがけの推す村山富市に対抗し、新生・公明・日本新党などの支持を受けて首班指名にのぞむが敗れた。同年結成された新進党初代総裁に就任。翌年小沢一郎にその座を譲る。新進党解党後は「無所属の会」を経て自由党へ。再び自民党と連立。自由党分裂後も保守党として与党に残る。保守党が民主党一部議員と合流したため保守新党に改組。しかし平成15年総選挙で保守新党が惨敗したため、自民党と合流し、海部自身も9年ぶりに自民党に復帰。


梶山静六


かじやま・せいろく(1926〜2000)
茨城県出身。日本大学工学部卒。茨城県議から衆議院議員。田中派−竹下派に属し竹下派七奉行と呼ばれた実力者のひとり。昭和62年竹下内閣で自治相、続く宇野内閣では通産相。竹下派内での内部争いでは反小沢勢力となり、派閥の長に小渕恵三を擁立して羽田小沢グループが離脱した。宮沢政権で幹事長に就任、単独与党自民党の幕引き役をつとめる。続く総選挙では歴史的大敗。自民党の与党復帰後には、橋本内閣の官房長官を務めたが、野党新進党の連携を図るいわゆる「保保連合派」の主要人物となり、社会党(のち社民党)・新党さきがけとの連携を図る党執行部と対立。その後も保・保連合を模索し、平成10年橋本総裁辞任に伴う総裁選挙に、反執行部派の盟主として、また景気回復の期待をかけた財界などの声に答え、小渕派を離脱して出馬。その小渕に敗れる。その後体調を崩し、平成12年5月に議員引退宣言。その翌月に死去。


加藤紘一

かとう・こういち(1939〜 )
山形県出身。東京大学法学部卒。昭和47年山形2区から衆議院に初当選。大平派に属し、大平内閣では内閣官房副長官。昭和59年の第二次中曽根改造内閣で防衛庁長官として入閣。宮沢内閣では官房長官を務める。宮沢派内で河野洋平と跡目を争い「KK戦争」などと呼ばれた。山崎拓・小泉純一郎などと「YKK」と呼ばれる盟友関係を築く。平成7年からの橋本政権下では幹事長を務め、社民党・新党さきがけとの連立の推進役として橋本総裁を支え、新進党との保・保連合をはかろうとする亀井静香ら反主流派と対立した。平成10年、宮澤から派閥を受け継ぎ加藤派の領袖となる。平成11年、再選をはかる小渕総裁に挑戦する形で総裁選に出馬。その過程で自民・自由・公明連立を批判し執行部と対立、敗退し、非主流派となる。平成12年には、マスコミからの支持を背景に、盟友の山崎拓とともに、野党が提出予定の内閣不信任案に同調する動きを見せたため、党内・派内から大きな反発を買い、派内反加藤派の分裂を招いて少数派閥に転落した。平成14年、元秘書の脱税疑惑の責任を取って議員辞職。翌年の総選挙で無所属として出馬し返り咲いて、復党した。


加藤六月


かとう・むつき(1926〜 )
岡山県出身。陸軍士官学校卒・旧制姫路高卒。衆議院議長もつとめた星島二郎の秘書を経て昭和42年衆院選に出馬。福田派(のち安倍派)内で実力者となるが、ロッキード事件で「灰色高官」として名指しされ入閣の機会が遅れる。昭和57年第1次中曽根内閣で国土庁・北海道開発庁長官。また党税制調査会長として税制改正大綱をまとめた。昭和61年には農水相。海部政権では政調会長をつとめる。しかし平成2年の安倍晋太郎死去に際して派内で三塚グループと対立、海部首相退陣後の総裁選で三塚立候補に反対して除名され、「政真会」加藤グループとして独立した。その後自民党を脱退。


金丸信


かねまる・しん(1914〜1996)
山梨県出身。東京農業大学農学部卒。日東工業を創設。大平醸造社長を経て昭和33年衆議院議員。昭和47年田中派旗揚げに参画し、小沢辰夫・二階堂進らとともに田中派内の実力者となる。田中内閣で建設大臣。以後国土庁長官・防衛庁長官などを歴任。長年国対委員長を務め、与野党間のパイプ役となり調整役として定評があり、また大平派番頭の鈴木善幸らとの連携で大角主流派体制をリードした。早くから姻戚関係のある竹下登を田中派の「嫡男」として後継者にすえようとしたが、田中がこれをなかなか承知しなかったため、昭和60年竹下を中心に「創政会」を旗揚げし田中派から独立した。昭和61年中曽根内閣の副総理に就任。議員数100人を越える経世会(竹下派)の自民党支配を主導した。海部政権成立にも影響力を及ぼし、同派小沢一郎を幹事長として送り込む。政治改革問題で海部が「重大な決意」と発言し解散を示唆したが、金丸がこれに不快感を示したため海部政権は退陣。平成4年宮沢政権では副総裁を務めたが、同年東京佐川急便の渡辺弘康社長から五億円の献金を受けていたことを認め、副総裁を辞任。一ヶ月後議員辞職。この責任をとって小沢が経世会会長代行を辞任。これにより竹下派は橋本・小渕派と小沢・羽田派に分裂した。翌年新たに就任した後藤田正晴法相のもと所得税法違反で逮捕された。


亀井静香

かめい・しずか(1936〜 )
広島県選出。東京大学経済学部卒。15年の警察庁勤務を経た後、昭和47年衆議院総選挙に初出馬で当選。平成6年に運輸大臣。三塚派に所属していたが、同派の小泉純一郎らYKKトリオに反発。加藤紘一幹事長らが推進する社民党・新党さきがけとの連携路線に対抗して、梶山静六らとともに新進党との保守・保守連合を模索。反主流派の急先鋒と呼ばれた。平成8年建設大臣に就任。平成10年の三塚派から森派への移行に反発して同派を離脱。中山太郎らと亀井グループを結成。その後、梶山グループ・河野洋平グループらとの合同をはかるが不調に終わり、結局山崎派離脱後の旧中曽根派と合同して村上・亀井派を結成。平成11年小渕第2改造内閣で同派は主流派と認識され、政調会長に就任。続く森内閣でも主流派を維持。平成13年の森降ろし政局でも徹底して首相擁護に回ったが、結局森首相は退陣に追い込まれる。それを受けて行われた総裁選挙では、立候補届を出し、選挙運動を行ったものの、勝ち目がないことと、小泉純一郎との間に政策協議が成立したことから、選挙前日になって立候補を取りやめ、小泉支持に回った。しかし、その後小泉が内閣組閣に当たって最大の功労者である亀井静香を無視し、党三役・内閣人事で亀井派が冷遇されたため非主流派となる。平成15年、小泉総裁の任期切れに伴う総裁選に再出馬。しかし圧倒的な首相の人気に対抗できず敗北。平成17年郵政民営化法案反対派の旗頭となり、参院での否決・衆院解散を招いたため、小泉首相から報復として公認取り消し処分を受ける。それに伴い綿貫民輔らとともに国民新党を旗揚げ。


川島正次郎


かわしま・しょうじろう(1890〜1970)
千葉県出身。専修大学経済科卒。内務省・東京日日新聞記者・後藤新平秘書を経て昭和3年衆議院議員。政友会に所属。「カミソリ正次郎」の異名をとる。自民党結党後は派に属し、鳩山内閣では自治庁・行政管理庁長官、岸内閣では自民党幹事長となる。岸退陣後の昭和35年の総裁公選でははじめ大野伴睦を支持したが、大野と党人連合を組んだ石井派の議員が池田派の切り崩しにあったことを知らせ、大野に出馬辞退を促した。にもかかわらず翌日、石井支持はできないとして池田支持に寝返ったことから大野から恨みを買う。池田内閣では北海道開発庁長官・五輪担当大臣など歴任。大野死後は後任として副総裁に就任。佐藤内閣でも留任し、昭和45年に死去するまで副総裁として党内に重きをなした。田中角栄幹事長と党人連合を組み、田中支持のために佐藤総裁四選を支持するなど党略にたけており、「政界の寝業師」「おとぼけ正次郎」と評された。


岸信介


きし・のぶすけ(1896〜1987)
山口県出身。佐藤家の次男として生まれ岸家の養子となる。兄は海軍中将佐藤市郎、弟は首相佐藤栄作。東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省。昭和16年東条英機内閣で商工大臣として入閣、軍国時代の戦争経済を推進。昭和17年翼賛選挙で衆議院議員に当選。敗戦後はA級戦犯として逮捕されるが昭和23年釈放。その後自由党に入党し衆議院議員に復するが吉田茂首相のワンマン体制に反発、昭和29年鳩山一郎三木武吉石橋湛山重光葵とともに反吉田の民主党を結成、幹事長として鳩山内閣を支える。自由民主党結成後は緒方竹虎の死もあって鳩山の後継総裁候補として有力視されたが、昭和31年の総裁公選では石橋湛山にまさかの敗北。しかし石橋内閣に副総理・外相として協力。翌年の石橋病気引退のあと、三木武夫幹事長・石田博英官房長官らの斡旋で後継首相に就任。対米従属主義外交を行い昭和35年には自民党の高支持を背景に日米安保条 約改定を強行。国民の間に猛烈な反対運動が巻起こり、アイゼンハウアー米大統領の訪日も中止され退陣に追い込まれる。派内がまとまらないまま後継に池田勇人を推したことから岸派は分裂、その後は”愛弟子”福田赳夫を通じて「元老」として自民党内に影響力を行使し続ける。また昭和54年の政界引退後も四十日抗争や鈴木内閣成立で発言力を持った。晩年は「昭和の妖怪」と呼ばれ、娘婿・安倍晋太郎の首相就任を悲願として尽力した。


小泉純一郎


こいずみ・じゅんいちろう(1942〜 )
神奈川県出身。慶應大学経済学部卒。逓信大臣の祖父、防衛庁長官の父を持つ3世議員。福田赳夫秘書を経て昭和47年に初当選。福田派−安倍派に属し、昭和63年竹下内閣改造で厚相として初入閣。続く宇野内閣でも留任した。海部政権では小選挙区比例代表並立制を中心とした政治改革関連法案の党議決定に反対し、山崎拓加藤紘一らとともに竹下派支配を批判して「海部おろし」を展開、YKKトリオと呼ばれる。平成7年総裁公選で、河野洋平総裁が立候補を辞退したことから、橋本龍太郎の信任投票となることに反発して立候補したが敗れた。のち橋本内閣で厚相。持論の郵政事業民営化や行政改革問題でしばしば首相らと対立。平成10年、橋本総裁辞任に伴う総裁選に、若手議員からの支持を集めて再出馬し、小渕恵三に敗れた。その後三塚派が派に移行する際には積極的に森を支持。平成12年、小渕首相病気辞任に伴い総理総裁に転じた森に変わって同派会長に就任。同年、盟友の加藤紘一が森内閣に対する反乱を行った際も、派閥の会長として森政権擁護にまわった。翌年、森首相降板を受けて行われた総裁選挙に出馬し、三度目の正直で当選。地方支部の予備選での圧勝が後押しとなった。これを受けて平成13年4月、第20代自民党総裁に就任。内閣総理大臣となり、派閥の論理にとらわれぬ独自の人事で組閣・党人事を断行。国民の圧倒的な支持率を獲得する。しかし自らの主導で任命した田中真紀子外相を更迭したことで人気は急落。その後、官邸主導の外交を展開、米ブッシュ大統領との緊密な紐帯を基軸として日米同盟強化路線を進めた。平成15年、自民党総裁選で亀井静香らを破り再選。内閣改造に伴って安倍晋三を幹事長に据える。直後の総選挙でも公明党・保守新党(選挙後自民党に合流)との与党三党で絶対安定多数を確保し、第二次内閣を組織。平成17年、郵政民営化法案が参院で否決されたことに伴い衆院を解散。参院での法案否決で衆院が解散されるのは史上初めてとなった。


河野一郎


こうの・いちろう(1898〜1965)
神奈川県出身。早稲田大学政治経済学部卒。朝日新聞記者より昭和7年衆議院議員に。戦時中は非翼賛議員として軍国主義に反発。戦後、鳩山一郎三木武吉らとともに日本自由党結成。初代幹事長となるが、まもなく公職追放となり、日魯漁業社長となる。追放解除後は鳩山新党を画策するが鳩山が病に倒れたため自由党へ復党。三木とともに反主流派の急先鋒となる。昭和27年の「抜き打ち解散」では投票日直前に石橋湛山とともに自由党から除名されるが、三木の交渉により復党。その後吉田のバカヤロー発言に対し、脱党して内閣不信任案に賛成。三木とともに日本自由党を結成し「八人の侍」と呼ばれる。その後民主党に合流し、鳩山内閣が成立すると農相として入閣。日ソ国交回復交渉の難航に苛ついたソ連がオホーツク海におけるサケ・マス漁業全面禁止の報復にでると単身ソ連に渡って漁業交渉を行い、国交回復の端緒をつけた。池田内閣では建設相・行政管理庁長官・経済企画庁長官・東京オリンピック担当相などを歴任。池田内閣の初期には 非主流派となり河野新党結成を画策するが、大野伴睦らに諭されて断念。その後は池田主流派体制に加わり、池田の後継と目された次期もあったが、池田三選の際の総裁公選で善戦した佐藤栄作が池田の病気退陣により総裁に就任した。その翌年、動脈瘤破裂により急死。


河野謙三


こうの・けんぞう(1901〜1983)
神奈川県出身。早稲田大学専門部商科卒。公職追放を受けた兄・河野一郎の跡を継いで昭和24年衆院選に出馬。兄の追放解除後、昭和28年から参院に転ずる。参院副議長となるが、当時参議院を牛耳っていた重宗雄三議長に反発するグループから推され、野党と組んで重宗議長の四選を阻止、党籍を離脱して参議院議長に就任。2期6年つとめた。日本体育協会会長。


河野洋平


こうの・ようへい(1937〜 )
神奈川県出身。早稲田大学政経学部卒。父・河野一郎の跡を継いで昭和42年衆議院選挙に当選。はじめ父の派閥を嗣いだ中曽根派に属していたが、早くから党若手グループの旗頭として活躍し、「自民党のプリンス」などと評された。昭和51年のロッキード事件に際し、自民党の金権体質を批判して離党。田川誠一・山口敏夫・西岡武夫らとともに新自由クラブを結成、初代代表となった。一時は18名まで拡大したが、昭和54年の総選挙ではわずか4議席に減少、責任をとる形で代表を辞任した。昭和59年再び代表。昭和60年閣内協力の第2次中曽根内閣で科技庁長官として初入閣。しかし翌年の総選挙後新自由クラブを解散し、自民党に復党して今度は宮沢派に所属した。宮沢派内では加藤紘一との間にKK戦争と呼ばれる勢力争いを演ずる。平成4年宮沢内閣改造で加藤に代わって官房長官に就任。翌年の総選挙で自民党が大敗して下野した後、宮沢退陣を受けて行われた総裁公選では宮沢派から立候補。渡辺美智雄をやぶって第16代総裁に就任した。平成6年社会党・新党さきがけが非自民連立政権から離脱すると二党と連立を組んで社会党委員長村山富市を擁立、新生・日本新等の推す海部俊樹を破って村山内閣を成立させ、副総理・蔵相に就任。しかし、翌7年の任期切れによる総裁公選では派内および党内支持を得られなかったことから立候補を辞退、橋本龍太郎に後を譲った。その後外相。平成10年の総裁選で梶山静六を支持し、小渕恵三支持を表明する加藤紘一らに反発して宮沢派を離脱。同年暮れの宮沢派から加藤派への移行に伴い、河野グループを結成。小渕政権・森政権でも外務大臣をつとめる。平成15年、衆議院議長。


高村正彦


こうむら・まさひこ(1942〜)
山口県選出。中央大学法学部卒。弁護士の身から、昭和55年衆議院議員初当選。河本派に所属。平成6年自社連立の村山内閣で経済企画庁長官として初入閣。平成10年小渕内閣で外務大臣、平成12年内閣で法務大臣を歴任。平成13年、長期間派閥の長がいなかった河本派(河本は平成8年に引退)を継いで高村派会長となる。外交・安保政策に一家言持ち、小泉内閣へは是々非々の対応を取る。将来の総裁候補として名が挙がることもあるが、高村派自体は河本派から引きつづき人数の少ない派閥である。また、麻生太郎古賀誠・平沼赳夫らと「士志の会」を結成している。


河本敏夫


こうもと・としお(1911〜2001)
日本大学法文学部卒。三光海運(のち三光汽船)取締役社長。政府の海運政策に反対し、昭和39年衆院選に出馬して当選。自民党三木派に属し、「クリーン」を看板にする三木派の資金を全面的に担当して同派の幹部となる。昭和49年三木内閣の通産相。のち三木から派閥を譲られ河本派の長に。昭和53年の総裁公選(予備選)に立候補するが最下位に敗れる。大平政権では政調会長。昭和58年鈴木善幸首相退陣を受けて行われた総裁公選予備選では中曽根康弘に次点で敗れた。経済政策に精通し財界からの評価も高く、経企庁長官などの経済閣僚を歴任する。昭和60年三光汽船の倒産の責任をとる形で閣僚を辞任。平成元年の総裁公選では78歳の高齢から立候補せず自派の海部俊樹を支持した。滅多に笑顔を見せないことから「ワラワン殿下」のあだ名をつけられた。平成8年に議員を引退したが、依然として派閥は5年間ものあいだ「旧河本派」と呼ばれた。平成13年死亡。


古賀誠


こが・まこと(1940〜)
福岡県出身。日本大学商学部卒。参議院議員秘書を経て、昭和54年衆院総選挙に出馬、落選するが、翌年のハプニング解散で再立候補、初当選する。宏池会(鈴木派、のち宮澤派)に所属。平成8年自社連立の村山内閣で建設相として初入閣した以外はもっぱら党務畑を歩み、平成7年筆頭副幹事長、平成9年総務局長、平成11年国会対策委員長を経て平成12年森総裁のもとで幹事長に就任。宮澤派に所属しながらも竹下派(のち小渕派)の野中広務に師事するなど、他派とのパイプが太く、同派の実力者となっていたが、平成12年森内閣に対するいわゆる「加藤の乱」では、幹事長という立場もあり宮澤・堀内らとともに加藤らとは行動を別にし、宏池会分裂を招いた。以後、堀内派重鎮となる。日本遺族会会長として首相の靖国神社参拝に賛成する立場ながら、自身はリベラル指向であり、個人的に反対の表明をしたことも。人権擁護法案の成立に力を入れるも、党内から国籍条項の缺如、新たな人権侵害につながるとの非難が集中し廃案となる。また、平沼赳夫・高村正彦麻生太郎らと「士志の会」を結成している。


後藤田正晴


ごとうだ・まさはる(1914〜2005)
徳島県出身。東京帝国大学法学部卒。内務省に入省し、自治省・防衛庁・警視庁の要職を歴任。昭和44年には警察庁長官として「浅間山荘事件」などを処理する。退官後田中角栄首相に請われて内閣官房副長官に。昭和49年参院選で徳島から立候補、党公認問題で三木派の久次米健次郎と争い、田中首相の支援で公認。「三角代理戦争」と呼ばれたが現職の久次米に敗れて落選。2年後の総選挙で衆議院議員に当選。第2次大平内閣の自治相で初入閣。第一次中曽根内閣では田中派ながら官房長官に就任、「田中曽根内閣」と呼ばれるゆえんとなった。昭和59年行管庁長官から新設の総務庁長官に。その後第2次内閣改造で再び官房長官。竹下派旗揚げの際には田中との関係から竹下派には属さず、無派閥となった。宮沢内閣では法相となり、金丸前副総裁の逮捕を処理する。党政治改革推進議員連盟にも請われて会長となり、自民党下野後に総理候補にもなったが高齢などを理由に辞退。歯に衣着せぬ言動から「カミソリ後藤田」 の異名をとる。


桜内義雄


さくらうち・よしお(1912〜2003)
東京都出身。慶應義塾大学経済学部卒。軍除隊後、父幸雄(蔵相)の秘書となり、昭和22年衆議院に当選。一時参院に転じたが、のち父の跡を継いで島根から衆院にのぞむ。自民党では河野派に属し、池田内閣通産相で初入閣。河野死後は中曽根派の幹部となり、農相・建設相・国土庁長官・外相など歴任。四十日抗争後の大平政権で幹事長に就任。野党提出の内閣不信任案に対し、大角主流派と三福中非主流派の板挟みとなる。平成元年中曽根がリクルート事件に連座して離党した後、一時同派会長。のち渡辺美智雄にゆずり無派閥に。平成2年から衆議院議長。


佐藤栄作


さとう・えいさく(1901〜1975)
山口県出身。実兄は岸信介元首相。東京帝国大学法学部卒業後、昭和13年鉄道省に勤務。運輸事務次官まで進み昭和23年退官、吉田茂首相に請われて非議員ながら官房長官に就任。直後の衆議院総選挙に当選し、自由党総務会長・幹事長・郵政電気通信相・建設相などに歴任。昭和29年に造船疑獄が発覚するが、犬養健法相が指揮権を発動したため逮捕を免れる。吉田引退後、保利茂田中角栄などを率いて佐藤派を形成、古くからの盟友である池田勇人と「吉田学校」を二分する。自民党結成に際しては師・吉田茂に従って、はじめ参加しなかった。実兄岸が内閣を組織した際には総務会長・蔵相。岸引退後は盟友池田を支援し、通産相・科技庁長官などを務めたが、池田が河野一郎大野伴睦ら党人派と接近したことで危機を感じ、積極的に池田後継を狙う。昭和39年の総裁公選では保利・福田らの進めにしたがい、田中角栄・吉田茂の反対を押し切って池田三選阻止を期して出馬。惜しくも敗 れるが、直後に池田が病気引退。河野との間で後継を争うかと思われたが、川島正次郎副総裁・三木武夫幹事長・鈴木善幸官房長官らの調整により第5代総裁に就任。以後、連続期間としてはもっとも長い7年8ヶ月に渡る長期政権を築く。この間、日韓条約締結・小笠原諸島・沖縄の返還を実現したものの、長期政権とワンマン体制に世論が反発しストップザサトウの声が高まる。政権末期には子分の田中角栄と福田赳夫の間に熾烈な後継争いを生じ、後の自民党混乱のもととなった。昭和47年引退に際しては、新聞は報道に偏りがあるとして新聞記者を追いだし、テレビカメラのみという異例の引退記者会見を行った。昭和49年ノーベル平和賞受賞。


椎名悦三郎


しいな・えつさぶろう(1898〜1979)
岩手県出身。東京帝国大学法学部卒。農商務省に入省。軍需次官に進み、戦後公職追放となる。追放解除後昭和30年衆院選出馬。同年結成された自民党では派に属し、池田政権発足の際には政調会長、第3次池田改造内閣で外相。岸派分裂後は川島派に属し、川島死後はその派閥を引き継ぎ、中間派の実力者として党内で重きをなす。この間総務会長・通産相を歴任。日韓条約締結の立役者ともなる。昭和47年田中内閣発足で副総裁に就任。参院選敗退で三木福田が非主流派に回ると「党基本問題及び運営に関する調査会」(椎名調査会)を設置し調整に当たる。金脈政変後は田中首相から党内調整を託され、福田・大平三木中曽根の各実力者の意見をとりまとめ、この五者会談で三木武夫を後継総裁に指名。「椎名裁定」と呼ばれる。しかしロッキード事件後は反三木派に転じ、積極的に「三木おろし」を主導した。


重光葵


しげみつ・まもる(1887〜1957)
大分県出身。東京帝国大学法科卒。明治44年外務省に入り、ポーランド領事・上海総領事。駐華公使時代反日運動家の爆弾で右脚を失い、以後義足をつけて生活する。その後も駐ソ大使・駐英大使をつとめ、東条英機内閣の外相に就任。そのまま東久迩内閣まで外相として閣内にあった。昭和20年の敗戦ではミズーリ号上で降伏文書に調印。戦後はA級戦犯として公職追放。追放解除後は改進党に総裁として迎えられ昭和27年衆議院議員に当選。野党の重鎮として外務相の先輩に当たる吉田茂内閣に揺さぶりをかけた。反吉田の民主党結成に際しては総裁を希望したが、三木武吉の策動により副総裁に就任。鳩山内閣が成立すると副総理・外相として入閣。鳩山首相の日ソ国交回復に反対し親米政策を貫いて閣内不一致を招いた。鳩山の後継を狙ったが、外交政策の失敗から支持を得られなかった。その直後に急死。


重宗雄三


しげむね・ゆうぞう(1894〜1976)
山口県出身。東京高工附属工業学校卒。明電社社長・会長から昭和22年参院選に立候補、当選。昭和35年第2次岸信介内閣で運輸相。昭和37年から連続3期参議院議長として参院自民党に「重宗王国」と呼ばれる勢力を築く。組閣の際には首相が重宗の閣僚候補リストの中から参院入閣者を選ぶほどだったという。昭和46年議長4選を狙ったが、反重宗派が「桜会」を結成、河野謙三を統一候補として野党とも結んだため立候補できず、失脚。


鈴木善幸


すずき・ぜんこう(1911〜2004)
岩手県出身。農林省水産講習所(現東京水産大)卒。網元の長男として生まれ、戦後全漁連職員組合を組織して委員長に就任。昭和22年社会党から衆議院当選。しかし社会党では自分の思うような漁業政策は不可能と判断し、社会革新党を経て自由党池田派に移籍。官僚出身者が多く、閉鎖的な同派の中で他派とのパイプ役として貴重な存在となる。とくに田中派の二階堂進金丸信竹下登らとは懇意で「本籍田中派」とまでいわれ大角主流体制の要となった。この間、官房長官・郵政相・農相など歴任するが、特筆すべきは総務会長を9期11年に渡ってつとめたことである。党内の調整役として名を馳せた。三木政権では「三木おろし」を主導する挙党協の監事となり積極的に三木退陣を迫る。四十日戦争後も大平政権で総務会長であったが、選挙戦最中に大平首相が急死したため、急遽大平派(宏池会)の会長に就任。この継承も宮沢喜一までの繋ぎと見られていたが、直後田中派の支持を受けて第10代 総裁に就任、「和の政治」をモットーに持ち前の調整力を生かして潤滑な党運営を復活させた。田中軍団の支持を受け、再選も確実といわれたが、中川一郎の立候補をきっかけに安倍晋太郎中曽根康弘河本敏夫らが総裁選出馬の動向を見せると、突如総裁選不出馬を表明。話し合いによる後継指名を望んだが二階堂幹事長・福田元首相との三者会談も実らず結局総裁選は行われた。中曽根政権では中曽根の田中派への癒着に不満を示し、二階堂副総裁擁立劇を演じた。昭和61年派閥を宮沢喜一に譲る。平成2年議員を引退するが、その後国会証人喚問を受ける。


園田直


そのだ・すなお(1913〜1984)
熊本県出身。旧制天草中学卒。郷里で村長を務めた後、昭和22年民主党から衆議院に出馬。労農党の女性議員・松谷天光光との結婚は「白亜の恋」と騒がれた。民主党では大麻唯男派に属し、その後改進党・日本民主党を経て自由民主党に合流する。鳩山一郎の後継として重光外相を推す大麻の意向から外務政務次官に就任するが、重光外交は失敗に終わる。その後河野派に移籍、河野死後は一時園田派を率いるが、のちに福田派に参ずる。佐藤内閣で厚相として初入閣。三木おろしでは挙党協の代表世話人となり強硬に三木退陣を求めた。福田内閣が成立すると官房長官となる。しかし「外様」である園田に派内の反発は強く、内閣改造では外相に横滑りすることになり日中平和友好条約締結に尽力する。大平内閣でも引き続き外相を務め、40日抗争では大福間の調整に努めたが大平支持とみなされて福田派から除名。鈴木内閣でも伊東正義外相辞任後に再び外相 となり、マニラで「共同声明には拘束力はない」と発言して物議を醸した。


竹下登


たけした・のぼる(1924〜2000 )
島根県出身。早稲田大学商学部卒。島根県議を経て昭和33年衆議院選に初当選。佐藤派に属す。党青年局長・通産政務次官・内閣官房副長官を経て第3次佐藤内閣の官房長官に就任、長期政権の幕引きを担当した。田中派旗揚げに際しては積極的に田中を支援し、早くから田中派内で「嫡男」として田中の後継者とみなされるようになる。第2次田中内閣でも官房長官として再び内閣の後始末役となる。派内では金丸信、他派では宮沢喜一安倍晋太郎宇野宗佑らと親しく、交友範囲の広さからも「安竹宮ニューリーダー」として将来を嘱望された。三木内閣で建設相、大平内閣では蔵相に就任。三木が提唱した総裁公選制度の改革では全国組織委員長としてこれを主導した。中曽根内閣でも長年蔵相を務めて実力者としての名を挙げていたが、なかなか派閥を譲ろうとしない田中角栄を見限り昭和60年金丸らとともに「創政会」を結成。事実上の竹下派誕生となった 。田中はこれに激怒したがまもなく脳梗塞で倒れ政治活動が不可能となった。昭和62年には二階堂進後藤田正晴・小沢辰夫らと袂を分かち「経世会(竹下派)」を旗揚げ、同年中曽根首相の裁定により第12代総裁に就任し組閣する。持ち前の人情政治・根回し政治を駆使して大平・中曽根首相がなしえなかった消費税導入を断行したことは高く評価されている。しかし、強行採決による消費税導入で野党や国民の猛反発を買い、また年号の変わり目に起きたリクルート事件では重要閣僚が相次いで辞任し政治不信を招いて支持率が急速に低下した。秘書青木伊平が自殺し、竹下自身のリクルート事件の関与が明らかとなると退陣を表明。後継を伊東正義に託すが断られ、外相宇野宗佑を指名。平成元年4月消費税のスタートを見届けたのち、6月に総辞職した。平成4年、竹下派は小渕派と羽田小沢派に分裂したが、竹下は小渕派の重鎮として発言力を保ち続けた。平成11年入院し、体調が回復しないまま、翌年病院より"声だけの"議員引退宣言。その2ヶ月後、愛弟子の小渕恵三梶山静六の後を追うように死去。


武村正義


たけむら・まさよし(1934〜 )
滋賀県出身。東京大学教育学部・経済学部卒。自治省へ入り、のち滋賀県八日市市長を経て昭和49年から3期に渡って滋賀県知事。全国ではじめて合成洗剤追放条例・風景条例を出すなど琵琶湖の浄化運動に熱心で、住民との対話に重点を置いた県政で知られた。昭和61年に衆議院選に出馬、当選し安倍派に属すが、平成5年宮沢喜一内閣への不信任案に際しては賛成に回って可決させ、同志とともに「新党さきがけ」を結成。細川護煕の日本新党とは婚約関係といわれる連携で、非自民連立政権に参画。細川内閣の官房長官となる。しかし連立政権内で新生党の小沢一郎代表幹事の発言力が大きくなったことに不満を示し、細川日本新党とも袂を分かち、社会党村山富市委員長と組んで、今度は自民党と提携し村山内閣の蔵相となる。平成10年には与党を離脱。同年新党さきがけは解党した。


田中角栄


たなか・かくえい(1918〜1993)
新潟県出身。高等小学校卒業後上京。19歳で建築設計事務所を設立、田中土建に発展させる。戦後、昭和22年民主党総裁町田忠治・大麻唯男らの勧めで衆議院総選挙に出馬、当選。しかし民主党の内部抗争に愛想を尽かして自由党に移籍、総務となった。GHQの山崎首班論に対して強行に反対し第二次吉田茂内閣発足に一役買った。昭和24年総選挙では炭坑国家管理疑惑で逮捕されるが、拘置所から立候補届けを出して当選、のち無罪となる。第3次吉田内閣では吉田の女婿麻生太賀吉らと池田勇人を蔵相に推薦。池田との親交を結ぶが、派閥は佐藤栄作派に属し、池田派とのパイプ役となる。自民党結党後も他派や野党との人脈の広さから、保利茂らとともに佐藤派の大番頭として活躍し、内閣で郵政相として初入閣。池田内閣でも蔵相をつとめ、外相だった池田派の大平正芳と「大角盟友」と呼ばれる親しい関係を築く。佐藤政権では幹事長として総選挙大勝をもたらしたが、福田赳夫との後継争いが激化。角福戦争と 呼ばれた。しかし長年尽くしてきた佐藤や保利が福田を支持したため、自立を決意。昭和47年田中派を旗揚げする。同年の総裁公選では大平と結んで福田を倒し、自民党第6代総裁に就任。学歴も血縁もない男が一国の首相となったことで「今太閤」「人間ブルドーザー」と褒めそやされた。二ヶ月後大平外相と訪中して日中国交回復を達成。しかし持論の「日本列島改造論」の実現を急いだあまり急激なインフレを招き支持率は低下。昭和49年の参院選で敗北する。さらに文藝春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究」に始まった金脈政変により退陣を決意。あとを椎名副総裁に託す。昭和51年にロッキード社からの5億円の収賄疑惑が発覚し、逮捕起訴されて離党。しかしその後も自民党内に発言力を保ち続け、四十日抗争でも大平首相を全面支援、三福中非主流派と対峙する。その後も田中派は肥大化を続け、大平急死後の鈴木内閣成立、鈴木退陣表明後の中曽根内閣成立にも重要な影響を及ぼしたため「キングメーカー」「目白の闇将軍」の異名をとった。しかし自派閥から長年総裁候補を出さなかったことが派内の不満を生じ 、昭和60年金丸信竹下登らが竹下派の前身となる「創政会」を旗揚げ。これに激怒した田中は深酒となり脳梗塞で倒れて政治活動が不能となった。その後も議員として留まっていたが一度も登院しないまま平成2年引退。愛娘・真紀子の初当選を見届けて平成5年死去。


田中六助


たなか・ろくすけ(1923〜1985)
福岡県出身。早稲田大学政経学部卒。日本経済新聞に入社、政治部次長まで進み、当時の池田首相の薦めで昭和38年政界入りし池田派に属す。その情報収集力から「地獄耳の六さん」と評された。第1次大平内閣では官房長官に就任。四十日戦争では大角連合で非主流派に対抗。浜田幸一議員のラスベガス賭博事件では浜田に議員辞職を勧め、非主流派の矛先をかわす。昭和58年の大平首相急死の際には派内および党内各派をとりまとめ鈴木内閣成立の立役者となる。しかし鈴木内閣で官房長官となった宮沢喜一とは折り合いが悪く、鈴木派の「一六戦争」と呼ばれた。鈴木内閣改造後は政調会長に就任。中曽根政権発足に際し大・角・中の三派主流体制づくりに貢献した。また第2次中曽根内閣では新自由クラブとの連立も主導した。


中川一郎


なかがわ・いちろう(1925〜1983)
北海道出身。九州帝国大学農学部出身。北海道庁・北海道開発庁・大野伴睦秘書を経て昭和38年から衆議院議員。大野死去後は村上−水田派に属していたが昭和48年渡辺美智雄石原慎太郎らとタカ派の「青嵐会」を結成、田中内閣打倒をめざした。昭和52年福田改造内閣で農相として初入閣。四十日抗争でも福田を支持して非主流派の硬派として活躍。昭和56年青嵐会を「自由革新同友会」に改組、「中川グループ」の長となりニューリーダーの一角に割り込む。鈴木内閣では科技庁長官。しかし鈴木内閣の大角癒着を批判し「池の鯉は跳ねてもいい」と総裁公選立候補を表明。田中角栄は「跳ねたはいいが戻れなければ日干しだ」と諭したが、これが呼び水となって安倍晋太郎河本敏夫らの出馬を招き、鈴木首相は不出馬を表明する。しかしその公選では4位惨敗。中曽根内閣では中川グループとして閣僚一人(長谷川峻運輸相)を送り込むが昭和58年北海道のホテルで自殺。遺書もなく原因は未だ不明である。


中曽根康弘


なかそね・やすひろ(1918〜 )
群馬県出身。東京帝国大学法学部卒。内務省に入省、警視庁監察官となり昭和22年衆院選に民主党から当選。年齢も当選回数も田中角栄と同期、また選挙区は福田赳夫と同じである。民主党から改進党と当時の吉田政権を一貫して批判した北村徳太郎派に属し「青年将校」と呼ばれる。自民党結党後は河野派に属し、第2次改造内閣で科技庁長官として初入閣。河野死後は中曽根派を率いて森清派と袂を分かつ。中間派の若手実力者として佐藤内閣で防衛庁長官に就任。佐藤引退の際には福田との「上州連合」を期待した佐藤に総裁公選立候補を勧められるが田中角栄支持のため辞退。田中内閣では通産相。金脈政変で田中が退陣表明した後は椎名副総裁とともに事態の収拾に当たる。弱小派閥ゆえにときにより三木派・福田派・田中派とそれぞれ連携したため「風見鶏」と称された。三木政権では幹事長を務め少数主流派を形成、大福・挙党協と三木首相との調整をつとめ、四十日抗争では福田派・三木派と提携して大平の責任を追及。大平死後は田中派と接近し鈴木内閣の「和の政治」に協力して一転主流派となった。鈴木内閣では行管庁長官に就任。行政改革に積極的に取り組み第2次行革臨調を発足させて土光敏夫を会長に迎え、国鉄民営化などを柱とする答申案をまとめた。早くから総裁候補として名が挙がりながら三大福・鈴木に先を譲って党内のコンセンサスを得られるまで根気よく待った甲斐あって、昭和57年総裁公選で勝利し第11代総裁に就任。しかし幹事長に二階堂進、総裁派閥から出すのが慣例の官房長官も後藤田正晴と、両方とも田中派から採用したため「直角内閣」「田中曽根内閣」と評された。「戦後政治の総決算」をスローガンに3次まで組閣。昭和58年総選挙はロッキード事件の判決の一審判決の後で大敗、新自由クラブとの連立でこれを乗り切った。しかしレーガン米大統領と「ロン・ヤス関係」と呼ばれたような外交政策を軸とした強いリーダーシップを発揮、また派手なパフォーマンスを披露し、昭和61年の衆参同日選挙では300議席をこす圧勝。その功により総裁三選を禁じた党則が改正され三選を果たした。その後 の国会で国鉄民営化法案が成立。しかし売上税を導入しようとして「公約違反」と追求され昭和62年の統一地方選で敗北。売上税撤回後は支持率が復活し、同年11月退任。ニューリーダーと呼ばれた竹下安倍宮沢のうち竹下を後継に指名(中曽根裁定)。平成元年リクルート事件が発覚し、同派宇野宗佑外相を総裁に創立するため離党。翌年渡辺派に復帰。渡辺死後も同派の重鎮として発言力を保ち続ける。平成9年総選挙では、候補者調整で小選挙区から比例へ。しかし自民党が設定した比例定年制に抵触したため、橋本龍太郎首相が特別措置として北関東ブロック比例代表終身一位を約束。平成10年には山崎拓が山崎派を旗揚げして独立。中曽根派は分裂した。その後、亀井派と合流。平成15年総選挙でも立候補を目指したが、小泉首相は終身比例一位の約束を反故にし、中曽根に引退を迫ったため立候補せず。政界引退後も影響力は大きく、党憲法改正小委員会などで活躍。


二階堂進


にかいどう・すすむ(1907〜2000 )
鹿児島県出身。南カリフォルニア大学卒。志布志中学卒業後に渡米。反日運動が高まる中、昭和16年帰国し外務省の嘱託となる。翌年翼賛会非推薦で衆院選出馬、落選する。雑誌『改造』で知られる山本実彦の秘書となり、昭和21年衆議院に当選。山本とともに日本協同党結成。自民党結成後は佐藤派に属し第2次佐藤内閣で北海道開発庁長官のち科技庁長官。「趣味は田中角栄」と公言するほどの田中の腹心となる。昭和47年の田中派旗揚げにも主導的存在となり、田中内閣が発足すると官房長官に就任。金脈政変後は幹事長として事態収拾に動いた。ロッキード事件で田中離党、派閥離脱後は同派の会長として田中軍団の結束を固める。しかし自身もロッキード事件の「灰色高官」とされ不遇が続いた。昭和55年総務会長。鈴木政権では幹事長に就任、大角連合の中核をなす。鈴木首相退陣後は話し合いと総裁公選に揺れる党内で鈴木首相・福田前首相らと会談を行い調整を試みる。続く中曽根内閣でも幹事長を務め「田中曽根内閣」と呼ばれるゆえんとなった。昭和59年には副総裁に 就任。しかし、田中派と中曽根の分断を図った鈴木前首相や福田・三木元首相が二階堂を総裁候補に擁立。田中の反対で失敗し、長老政治の終焉となった。竹下派旗揚げ後も旧田中派(二階堂グループ)として残留。のち無派閥となった。


二階俊博


にかい・としひろ(1939〜)
和歌山県出身。中央大学法学部卒。父は和歌山県議。代議士秘書を経て県議を2期つとめ、昭和58年衆議院議員として初当選。田中派に属する。竹下派旗揚げの際には当初参加しなかったが、のちに合流。平成4年竹下派の分裂に際しては羽田小沢グループに投じ、翌年の宮澤内閣不信任解散でも行動を共にし、新生党のち新進党に加わる。平成9年小沢党首による突然の新進党解党に際しても小沢に従って自由党に参加。自民党とのいわゆる「自自連立」に尽力し、平成11年小渕内閣で運輸大臣・北海道開発庁長官として初入閣。しかし、小沢が自自公連立で自分の意見が反映されないことを不満に連立を離脱すると、それには従わず野田毅・扇千景らと保守党を結成。続く内閣でも留任した。平成13年には保守党幹事長に就任。保守党から自民党へ復帰する議員がいたことにともない翌年保守新党を結成するが、平成15年総選挙で党首熊谷弘が落選し、議員数も減少したため、選挙後改めて自民党に合流。保守新党所属議員らで二階グループを結成した。


野中広務


のなか・ひろむ(1925〜 )
京都府。園部町議、京都府議、京都府副知事などを経て衆院議員に。竹下派内では反小沢系に属していた。平成6年自治大臣。翌年幹事長代理。平成10年、小渕内閣で官房長官を務め(のち沖縄開発庁長官も兼務)、かつての仇敵であった小沢一郎が率いる自由党および公明党との連立に尽力する過程で党内での発言力が上昇。国旗国家法案をはじめとする小渕内閣の立法ラッシュの立て役者でもあった。平成11年の内閣改造では官房長官留任の要請を断って副幹事長として党務に復帰。翌年4月、小渕首相が急病で入院し、幹事長が総理・総裁に就任するに伴い、幹事長となるが、同年暮れに突如辞任。翌年の森降ろし政局では中心となる。その後、小泉政権では小泉首相の「抵抗勢力」筆頭の烙印を押され、反小泉勢力・橋本派の束ね役となるが、マスコミの小泉人気に隠れて失速。平成15年総裁選では再選を目指した小泉に対し、橋本派から独自候補を立てるかどうかで同派実力者・青木幹夫参院幹事長と対立。結局橋本派のホープ・藤井孝男を擁立するが惨敗し、直後の総選挙に不出馬を宣言。議員引退したが、以後も古賀誠などを通じて政界に影響力を持つと言われる。


橋本龍太郎


はしもと・りゅうたろう(1937〜2006)
東京都出身(選挙区は岡山)。慶應義塾大学法学部卒。呉羽紡績社員から父で厚相の橋本龍伍の秘書となり、父の死後昭和38年衆院選当選。佐藤派に属す。田中派旗揚げの際には保利・佐藤らの意向に反して田中派へ参画。第1次大平内閣で厚相に就任。鈴木政権では行財政調査会長として行革の推進に尽力した。昭和60年竹下派旗揚げに参加、のちに「竹下派七奉行」と呼ばれる実力者となる。第3次中曽根内閣では運輸相。平成元年竹下退陣後、宇野政権で幹事長となるが参院選の歴史的大敗の責任をとって辞任。海部内閣では蔵相。平成4年佐川急便事件による金丸副総裁辞任に際し同派の小沢一郎と激しく対立(一龍戦争)、竹下派後継として小渕恵三を擁立して小沢グループを駆逐した。自民党下野後、平成7年総裁公選で小泉純一郎に圧勝して第17代総裁に就任。村山富市首相退陣に伴い、平成8年1月から首相。平成9年には4年ぶりに衆議院過半数を回復する。また平成10年には1府12省庁を柱とする行政改革法案を成立させ、またエリツィン・ロシア大統領との親密な関係を築いて日露平和条約への道筋をつくった。しかし、景気がいっこうに回復しないにも関わらず、財政改革を断行しようとしたことから国民の不信感を招き、同年の参議院選挙で自民党が大敗した責任を負って辞任した。平成12年、第2次森改造内閣で行政改革担当大臣に就任。宮沢蔵相とともに首相経験者の入閣として話題となる。小渕恵三の死後、派閥を継いで橋本派に。翌年、森降ろし政局に伴い、森首相が退陣したのを受けて、再び総裁選挙に立候補するが、かつての景気対策の失政から人気を得られず、6年前とは全く逆に、小泉純一郎の前に涙をのんだ。平成16年、日本歯科医師連盟から橋本派への1億円のヤミ献金発覚事件を気に派閥会長を辞任。翌年の郵政解散に際して、議員引退を表明。平成18年7月、死去。


羽田孜


はた・つとむ(1935〜 )
東京都出身。成城大学経済学部卒業後、小田急バスに入社。昭和44年父・武嗣郎の地盤を継いで長野から衆院選に出馬し当選。田中派−竹下派に属し、「竹下派七奉行」の一人。昭和60年中曽根内閣で農相。昭和63年竹下改造内閣で再び農相。宮沢内閣では蔵相を務めるが、平成5年竹下派内の、小沢一郎とそれに反発するグループの対立で小沢側につき、「改革フォーラム21」(羽田派)を結成。同年の宮沢内閣不信任案には脱党して賛成し可決させた。新たに新生党を結党して党首に就任。非自民連立政権として細川護煕内閣を成立させ副総理に。翌年細川首相退陣により総理大臣となるが、社会党の連立離脱によりわずか二ヶ月で退陣した。その後新進党を結成。平成7年総裁公選に立候補するが小沢一郎に敗れ、脱党して太陽党を結成。新進党解党に伴い、野党再編が起こると、民政党党首を経て民主党幹事長に。平成12年、同党最高顧問のち特別代表。


鳩山一郎


はとやま・いちろう(1883〜1959)
東京都出身。東京帝国大学英法科卒。東京市議から大正4年衆議院総選挙に当選。政友会に属し、昭和6年犬養内閣の文相として入閣。戦後すぐ日本自由党を結成、初代総裁となる。戦後初の総選挙で第一党となり組閣を進めるが、認証式の直前GHQから公職追放令を受け、後任を吉田茂に託す。追放解除後政界に復帰するが、脳溢血に倒れ半身不随に。自由党に復党したあとは党内民主化同盟(鳩山民同)として吉田ワンマン体制に反抗。吉田のバカヤロー発言に対しては内閣不信任案可決に回り脱党する。しかし吉田が改進党の一部と連立して第5次内閣を組織すると復党。三木武吉河野一郎の働きかけにより、自由党鳩山派・派・改進党らが反吉田大同団結し、日本民主党を結成。鳩山が総裁となり、吉田内閣を総辞職に追い込み念願の首相となる。日ソ国交回復に全力を尽くしたが第一党とはいえ過半数の議席を持たない民主党の政権基盤は弱く、また閣内でも重光外相の親米政策と衝突し閣内不一致の二元外交・日ソ交渉ならぬ日日交渉と評された。昭和30年11月自由民主党 結成。総裁代行委員、のちに初代総裁に就任。自ら訪ソして実現した日ソ共同宣言を花道に引退。


浜田幸一


はまだ・こういち(1928〜 )
千葉県出身。日本大学農獣医学部中退。暴力団幹部から足を洗った後、千葉県連合青年団長・日本青年団協議会顧問・千葉県議を経て昭和47年自民党から衆院選に当選。昭和55年ラスベガス賭博疑惑により議員辞職。昭和58年の総選挙に再出馬、当選。政界引退後も著書で痛烈に政界を皮肉った。


福田赳夫


ふくだ・たけお(1905〜1995)
群馬県出身。東京帝国大学法学部卒業後大蔵省入り。主計局長まで進むが昭和22年に起きた昭和電工疑獄に連座して3年後退官。昭和27年総選挙に保守系無所属で中曽根康弘と同じ群馬3区から出馬し当選した。国会で席が隣だった岸信介の門下に入り、自民党結党後は岸派の番頭となる。岸政権では政調会長・幹事長・農相を歴任。池田政権時には大蔵相の先輩ながら正面から池田財政批判を行い、党風刷新連盟を組織して派閥解消を唱えた。岸派分裂後福田派を率い、佐藤内閣を幹事長・外相として支持する。田中角栄との後継争い(角福戦争)を演じ、佐藤派の大番頭・保利や佐藤の支援を得て有利を囁かれるが、昭和47年の総裁公選で田中に敗れて非主流派となる。愛知揆一蔵相の死去のあと後任として入閣するが、田中首相の金脈政変を批判して辞任。椎名裁定により三木が首相となったあとは副総理ながら非主流派として大平正芳と提携、「三木おろし」に活躍した。総選挙の敗退で三 木が退陣すると1期2年で大平に後を譲るという約束で念願の内閣を組織する。しかし衆議院での与野党伯仲、党務を大平幹事長に握られていたことなどから基盤が弱く、思い切った施策はできなかった。それでも園田外相らの努力により、昭和53年には日中平和友好条約を締結する。しかし長期政権を目指したことで大平が反発。新制度による総裁公選の予備選挙では福田有利と見られていたにも関わらず、まさかの敗北。「天の声も時には変な声もある」と捨て台詞を残し本選に出馬せずに退陣した。その後も「昭和の黄門」を自称して非主流派の重鎮として党内に発言力が大きく、昭和54年には総選挙で大敗した大平首相に退陣を求めて四十日抗争を演じ、妥協点が見いだせないまま首班指名に立候補し、一政党から二人の首相候補が出る異常事態となった。翌年野党が提出した大平内閣不信任案にも欠席して可決させた。大平死後は鈴木首相の「和の政治」に協力するが、鈴木の田中派への癒着に不満を示し、昭和57年鈴木首相の退陣表明に際しては田中派の推す中曽根康弘に反対し、二階堂幹事長・鈴木総裁と三者会談を持っ た。中曽根政権では再選を期した中曽根に対抗して鈴木前首相らと二階堂副総裁を擁立するなど健在ぶりを示したが、昭和61年派閥を安倍晋太郎に譲って第一線を退いた。その後も各国首脳経験者を集めたOBサミットを開催するなど存在を内外に示した。


藤山愛一郎


ふじやま・あいいちろう(1897〜1985)
東京都出身。慶應義塾大学法学部卒。戦前からの財界人。大日本製糖・日本化学工業社長などを務め、昭和16年44歳で日本商工会議所会頭となる。昭和32年岸信介首相に請われて外相に就任。「絹のハンカチを雑巾にする」といわれた。翌年衆議院議員当選。日米安保条約改定に当たった。岸退陣後は分裂した岸派のうち藤山派を率いて3回総裁公選に出馬するが、いずれも善戦にも至らなかった。池田佐藤内閣で経企庁長官。


船田中


ふなだ・なか(1885〜1979)
栃木県出身。東京大学法学部卒。東京市助役から昭和5年衆議院議員に初当選。政友会に属す。第一次近衛内閣で法制局長官。戦後は自由党、自民党入り。昭和30年鳩山内閣で防衛庁長官。大野派に属したが大野の死後、派は船田派と村上派に分かれる。昭和52年から一年あまり副総裁となった。息子は栃木県知事の譲、孫は代議士の元。


細川護煕


ほそかわ・もりひろ(1938〜)
熊本県出身。上智大学卒。肥後熊本細川家18代目。朝日新聞記者を経て昭和46年参議院議員に当選。翌年の田中派旗揚げに参画。副幹事長など歴任、2期つとめた後、昭和58年から熊本県知事に。平成4年日本新党を旗揚げし、参議院選挙で躍進。新党ブームの先駆けとなる。翌年の総選挙では衆議院に転じ、政界再編の重要な役割を果たす。はじめは中間的な存在を主張したが、非自民連立側の小沢一郎新生党代表幹事に擁立され総理大臣に就任。しかし連立内部の紛争と自身のスキャンダルにより9ヶ月で退陣、その後新進党に属したが、平成9年、小沢党首への不満が党内で問題化すると、脱党。新党「フロムファイブ」を経て、羽田孜と民政党を結成。その後、民主党に合流した直後に突如議員を引退。


堀内光雄


ほりうち・みつお(1930〜)
山梨県出身。慶應義塾大学経済学部卒。富士急行オーナー一族出身であり、自身も社長を務めた。祖父・父も代議士となっている。昭和51年に衆議院議員に初当選。大平派(のち鈴木宮澤派)に所属。平成元年、宇野内閣の労働大臣として初入閣するも、宇野内閣は短期で崩壊。翌年の総選挙にも落選し不遇の時代を迎える。平成5年の総選挙で復帰するも、自民党は下野。党改革本部長・総務局長として同派閥の河野洋平総裁を支える。与党復帰後の平成9年には通産大臣。加藤紘一の派閥継承では加藤派に所属。しかし、平成12年のいわゆる「加藤の乱」に際しては、加藤らと行動を別にし、宮澤古賀らとともに堀内派として分裂し、いずれも「宏池会」を名乗る異常事態となった。以後、堀内派会長として小泉政権も支え平成14年には総務会長となる。が、平成17年の郵政民営化法案に対しては反対の意向を示して派閥会長を辞任。


保利茂


ほり・しげる(1901〜1979)
佐賀県出身。中央大学経済学科卒。報知新聞記者から山崎達之輔農相秘書官を経て昭和19年衆議院議員に当選。戦後は一旦公職追放となる。解除後は日本民主党幹事長となり、吉田茂内閣与党の民主自由党と合同、自由党となり、吉田学校門下に参ずる。第3次吉田内閣で労相、第4次で官房長官、第5次で農相に歴任。吉田退陣後は佐藤派に属し田中角栄とともに大番頭となる。池田政権の末期には一時落選するが、福田派の福田赳夫とともに佐藤に総裁公選出馬を勧めた。佐藤内閣では建設相・官房長官。佐藤後継を巡る角福戦争では福田を全面的に支持。佐藤派は田中系と保利系に分かれた。田中内閣成立後は対立が先鋭化する角福間の調整に当たった。昭和51年から衆議院議長。


前尾繁三郎


まえお・しげさぶろう(1905〜1981)
京都府出身。東京帝国大学法学部卒業後大蔵省入り。造幣局長まで進んだのち、昭和24年民自党から衆院選に当選。「吉田学校」に参じ、池田勇人の腹心となる。自民党結成後は内閣で通産相。池田政権下では幹事長を務めた。池田死後、その派閥・宏池会を引き継ぎ前尾派となる。佐藤政権下では総裁公選に2回出馬するも、いずれも3位敗退。3度目の正直で有力視された昭和45年の総裁選では佐藤に公選後の内閣改造で前尾派を優遇する条件で立候補を辞退する。しかし4選を決めたものの対立候補の三木武夫の意外な善戦にへそを曲げた佐藤首相は約束の内閣改造を見送ったため、派内から前尾の不甲斐なさを糾弾する声が高まり、大平正芳に派閥を譲った。現在のところ宏池会の長で総裁とならなかったのは彼ひとりだけである。昭和48年から3年間衆議院議長。昭和55年に党最高顧問。


松村謙三


まつむら・けんぞう(1883〜1971)
富山県出身。早稲田大学政経科卒。報知新聞社記者から富山県議、昭和3年の総選挙で衆議院議員に当選。戦後は農相となり、農地改革を行うが、のち改進党に属し、三木武夫とともに非主流派。吉田茂のワンマン政治に野党の立場から反抗する。自民党結成後も三木・松村派の領袖として重きをなすが、池田首相退陣の際、三木幹事長が佐藤栄作を後任に推したため、佐藤官僚政治を批判する立場から松村派として独立した。


三木武夫


みき・たけお(1907〜1988)
徳島県出身。昭和12年明治大学法律学科卒業後、全国最年少議員として衆議院当選。以後半世紀に渡って代議士を務める。戦時中は翼賛会非推薦候補ながら当選。戦後は協同民主党・日本協同党結成、翌年に国民協同党を創立し書記長。委員長空席のため40歳にして事実上の党首となる。社会党・中道連立の片山内閣では逓信相として初入閣。その後も改進党、民主党、自民党と小政党・小派閥を率いて「バルカン政治家」と評された。昭和31年自民党総裁選では石橋湛山を支持。石橋政権では幹事長となるが石橋病気退陣のため党内調整を行い岸信介を後継に。昭和39年には池田勇人の病気退陣に際し、再び幹事長として党内調整に乗り出し、岸の弟佐藤栄作を推薦した。このため盟友松村謙三が派閥を離れている。佐藤内閣では通産相・外相を歴任するが、四選を目指した佐藤を阻止するため総裁公選に出馬したことから非主流派に。昭和47年の総裁公選にも出馬するが田中福田大平に続く4位の惨敗。田中 内閣では副総理・環境庁長官を務めるが、参院選の徳島選挙区公認問題で田中と対立、選挙後閣僚を辞しまたしても非主流派となる。昭和49年に田中首相が金脈問題で退陣したあと、椎名副総裁の裁定により後継総裁に推薦され「青天の霹靂」と言ったのは有名。しかし、組閣などで椎名を重んじなかったため椎名が反三木にまわり、さらに昭和51年に起きたロッキード事件では田中派からも恨みを買って「三木おろし」が活発となる。反三木側の田中派・大平派・福田派は挙党体制確立協議会を結成して三木首相の退陣を迫ったが、三木総裁・中曽根幹事長の主流派はこれを退けた。しかし党内の反対を押し切って行われた解散・総選挙で惨敗したため退陣。昭和54年の四十日戦争では福田とともに大平退陣を求めた。昭和55年に派閥を河本敏夫に譲ったが、その後も非主流派の大御所として発言力を保った。「信なくば立たず」というモットーが有名。「クリーン三木」「保守傍流」などと形容された。


三木武吉


みき・ぶきち(1885〜1956)
香川県出身。東京専門学校(早稲田)卒。弁護士から牛込区議を経て大正6年から衆議院議員。憲政会−民政党に属し、「野次将軍」の異名をとる。また東京市政でも辣腕を振るう。昭和14年報知新聞社社長。翼賛選挙で鳩山一郎と知り合い政友会系・民政党系と立場が異なるものの、盟友となる。戦後、鳩山を総裁に日本自由党を結成。鳩山が組閣の大命を受けるのと同時に衆議院議長に選ばれたが就任直前にGHQにより公職追放。追放解除後は吉田茂に乗っ取られた自由党に代わり鳩山新党を画策するが、鳩山が脳溢血で倒れたことにより断念、自由党に復党し反主流派となる。石田博英・倉石忠雄ら「反乱軍」を挑発して吉田主流派体制に揺さぶりをかける。「抜き打ち解散」による主流派・反主流派の分裂選挙後、吉田・鳩山提携の申し入れに対し、憲法改正準備・党内民主化・河野一郎石橋湛山(選挙戦最中に党籍除名)除名解除を求めた。党内民主化の約束により総務会長に就任。昭和28年国会での吉田の「バカヤロー」発言に対し、社会党に懲罰動議を提出させ、主流派内最大の実力者・広川弘禅を寝返らせ可決させる。内閣不信任案に対しては脱党して賛成にまわり鳩山自由党結成。吉田派の策動により鳩山が自由党復党後も「日本自由党」党首として河野一郎らとともに「八人の侍」と呼ばれた。自由党内鳩山派 ・派・石橋派・改進党・日本自由党合同で反吉田勢力を結集、「日本民主党」を結成し総務会長に就任。念願の鳩山内閣を成立させる。しかし民主党の政権基盤の不安定さにより衆議院議長選挙に敗れ、議長となる夢は果たせなかった。その後はかつての仇敵・自由党との保守合同を自由党総裁・緒方竹虎とともに画策、昭和30年自由民主党が結成されると4人の総裁代行委員のひとりとなる。その直後、盟友鳩山の日ソ国交回復実現を見ずして死去。


水田三喜男


みずた・みきお(1905〜1976)
千葉県出身。京都帝国大学法学部卒。東京市職員、会社役員などを経て昭和21年衆議院議員に当選。自由党時代から大野派に属す。第3次吉田改造内閣で自由党政調会長、第4次内閣で経済審議庁長官として入閣。自由民主党結党の際には初代政調会長。石橋内閣で通産相、池田内閣で蔵相となり「所得倍増計画」を支える。大野の死後は船田派に属したが、やがて村上派を継ぎ藤山派とあわせて水田派を結成。中間派の実力者となった。


三塚博


みつづか・ひろし(1927〜2004)
宮城県出身。早稲田大学法学部卒。代議士秘書などを経て昭和38年から衆議院議員。福田派安倍派に属す。昭和60年第2次中曽根第2回改造内閣で運輸相。その後通産相、外相など歴任。海部内閣では政調会長をつとめるが、安倍晋太郎の死去によりその派閥を継いだが、加藤六月らと対立(三六戦争)。加藤らは離脱した。平成3年には総裁公選に立つが、竹下派の支持を得られず敗北。その後、第二次橋本内閣の蔵相となるが、戦後最悪といわれた景気悪化の責任を問われて辞任。何度か訪れた総裁選も、自身が出るより、同派の小泉純一郎が出馬することが両度に及び、平成10年各派の世代交代に伴い、派閥を早大後輩の(政界入りは先輩の)森喜朗に譲る。平成15年議員引退。翌年死去。


宮沢喜一


みやざわ・きいち(1919〜)
広島県出身。東京帝国大学法学部卒業後大蔵省へ入省。先輩の池田勇人が代議士(蔵相)となると大平正芳とともに秘書官となる。池田蔵相とワシントンへ渡り対日講和交渉を進める。昭和28年参議院議員に当選、昭和42年に衆院に転向。その間池田内閣の経企庁長官を皮切りに通産相・外相・官房長官などのポストを歴任。早くから池田派−大平派の後継者と目され、派内の田中六助らと対立(一六戦争)。また政策通としても知られ他派の実力者とも親しかった。昭和61年鈴木善幸から派閥を譲られ宏池会4代会長となる。総裁候補と呼ばれたが、昭和63年リクルートコスモス社の非公開株売買問題の責任をとって蔵相を辞任。一時政界の表舞台から身を引く。しかしその後平成3年海部内閣退陣に際して竹下派の支持を受け第15代総裁に就任、組閣する。しかし竹下派の分裂、PKO法案・政治改革法案の審議のつまづきなどから支持率が低下。平成5年内閣不信任案が自民党一部の賛成により可決。解散したが自民党結党以来の大敗の責任をとって辞任。その後、平成10年小渕内閣に請われて蔵相として入閣。元首相の蔵相就任は高橋是清以来約70年ぶり。同年暮れに派閥を加藤紘一に譲る。小渕首相急死を受けて成立した森内閣でも蔵相を留任し、そのまま平成13年、初代財務大臣となる。平成15年総選挙で、比例代表から出馬を宣言するが、自民党が設定した定年制に引っかかったため、小泉首相から引退勧告され、議員引退。


村上勇


むらかみ・いさむ(1902)
大分県出身。早稲田工手校卒。村上土建社長から昭和21年衆議院当選。自由党大野派に属し、昭和30年保守合同で自民党入党・鳩山内閣郵政相となる。その後建設相など。大野死後、大野派分裂の際には村上派を結成。


森清


もり・きよし(1915〜1968)
千葉県出身。京都帝国大学理学部卒。父は森コンツェルンを創始した矗昶。日本冶金工業取締役・昭和火薬社長を経て昭和27年から衆議院議員。河野派に属したが河野死後中曽根と袂を分かって森派を形成。昭和41年佐藤内閣で総理府総務長官として初入閣。妹は三木武夫夫人の睦子。弟は代議士の美秀。


森喜朗

もり・よしろう(1937〜 )
石川県出身。早稲田大学商学部卒。産経新聞記者・議員秘書を経て昭和44年無所属で衆院選に初当選。自民党入党後は福田派に属し、福田改造内閣で官房副長官。昭和58年の中曽根内閣に文部大臣として初入閣。その後、通産大臣・党幹事長など歴任。安倍派では、三塚博や塩川正十郎、加藤六月らと「四天王」と称される実力者となったが、平成2年安倍の死去に伴い、三塚が派閥を継承した。平成10年小渕政権発足とともに2度目の幹事長に就任。その直後、小泉純一郎らの支持を受け、三塚から派閥を譲り受けて森派となった。平成12年、小渕首相の突然の脳梗塞・入院に伴い、第19代自民党総裁に指名される。同日、官房長官も含めた全閣僚を留任して森内閣を発足。しかし、なぜか発足直後から新聞・テレビ一体の反森キャンペーンが展開されて支持率が急降下。同年総選挙でも連立与党で絶対多数を確保しながら、マスコミから「惨敗」と書かれるなど、マスコミは森政権にことごとく反発した。翌年にはついに、朝日新聞の記事で勝手に辞任表明したことにされ、森降ろし政局が加速。4月に無念の退陣。首相退任後、同派会長に復帰。小泉政権では首相の後見人として無役ながら、党内調整などで参院の青木幹雄らとともに首相を支えるが、しばしば暴走する小泉首相に手を焼く。


山口敏夫


やまぐち・としお(1940〜)
埼玉県出身。明治大学法学部卒業後、労働省入り。石田博英労相の秘書官を経て昭和42年全国最年少議員として衆議院当選。最初自民党三木派に属したが、昭和51年のロッキード事件で金権体質を批判、河野洋平らとともに脱党して新自由クラブを結成した。昭和58年中曽根政権のとき、過半数割れした自民党との連立を実現。自身も翌年の内閣改造で労相として初入閣。しかしその後昭和61年自民党に復党。中曽根派−渡辺派に属す。平成5年には自民党を再び離党。


山崎拓

やまさき・たく(1936〜 )
福岡県出身。昭和47年に初当選。中曽根派に属し、昭和59年に中曽根内閣官房副長官。平成元年に宇野内閣の防衛庁長官として入閣。平成3年宮澤内閣では建設大臣。その後、国会対策委員長・政調会長などを歴任。小泉純一郎加藤紘一などと「YKK」と呼ばれる盟友関係を築く。渡辺美智雄の死後、旧渡辺派の総裁候補を目指していたが、中曽根派時代からの長老議員がこれに反発し、山崎の総裁候補を認めなかったため、平成10年旧渡辺派から離脱・独立して山崎派を旗揚げした。翌年の総裁選挙に出馬するが、現職の小渕に破れる。総裁戦中の反執行部批判的言動により、内閣改造では冷遇され、非主流派となる。平成12年に盟友の加藤紘一が森内閣に対する批判から内閣不信任案に同調する動きを見せると、直ちにこれと同調しいわゆる「加藤の乱」の副主人公となるが、支持を得られず結局本会議缺席にとどまった。翌平成13年森降ろし政局を受けて森首相が降板したのを受けて、もうひとりの盟友・小泉純一郎が総裁に就任したため、幹事長に抜擢される。しかし、総裁との個人的紐帯を基盤とした独断的な党内運営に批判が相次ぎ、また週刊誌報道による女性スキャンダルもあって辞任要求が高まった。平成15年小泉内閣改造(第二)に伴って幹事長から副総裁に昇任。直後の総選挙でまさかの落選。自民党にとって現役副総裁の落選は昭和55年総選挙での西村英一以来23年ぶりの不名誉であった。議員落選後も山崎派の領袖として活動。首相補佐官に任命される。平成17年補缺選挙により議員復帰。


吉田茂


よしだ・しげる(1878〜1967)
高知県出身。自由民権運動の雄・竹内綱の五男として生まれる。東京帝国大学法科卒業後、明治39年外務省に勤務。外務次官・イタリア公使・駐英公使を歴任し、昭和14年退官。戦後は自由主義者として東久迩内閣・幣原内閣の外相に就任。GHQとの交渉に当たる。昭和21年鳩山一郎の突然の公職追放により請われて後任の自由党総裁となり組閣。総裁就任の条件として鳩山に金(政治資金)は作れない・内閣人事に口は出させない・辞めたくなったらいつでも辞める、という身勝手な3条件を出したという。第一次内閣では日本国憲法公布・農地改革などを実施するが、総選挙の敗北により一旦下野。社会党・民主党の連立政権が倒れるとGHQの山崎幹事長首班論を覆して再び総理大臣に。直後の総選挙で官界から大量の候補を擁立し「吉田学校」と呼ばれる勢力を築く。昭和26年サンフランシスコ平和条約で日本の独立を達成。しかし追放解除となった鳩山派との抗争により支持率は低下。「ワンマン首相」の異名をとる。昭和28年には国会で「バカヤロー」発言。懲罰動議と続く内閣不信任案が、鳩山派と吉田派内最大の実力者・広川弘禅の裏切りによって可決。解散した。 昭和29年には造船疑獄が起こり、世論も長期政権に飽いてきており、三木武吉が中心となり反吉田大同団結の民主党が結成され、吉田内閣は総辞職。以後も元老的存在として政界に影響力を持った。


渡部恒三


わたなべ・こうぞう(1932〜)
福島県出身。早稲田大学卒。福島県議を経て昭和44年総選挙で当選。佐藤派に属し、昭和47年田中派旗揚げに参加。昭和58年第2次中曽根内閣で厚相として初入閣。昭和62年竹下派を旗揚げし、「七奉行」の一人といわれた。海部内閣では自治相。しかし、平成4年竹下派内での内紛では羽田小沢グループに属して経世会を離脱。翌年の内閣不信任案に賛成して離党、新生党を結成。その後新進党を経て衆議院副議長。党籍を離脱している期間に新進党が解党してしまった。以後、無所属の会に所属。


渡辺美智雄


わたなべ・みちお(1923〜1995)
栃木県出身。東京商科大学付属商学専門部卒。栃木県議をへて昭和38年から衆議院議員。河野派−中曽根派に属す。テレビやマスコミによく顔を出し、失言も多かったが「ミッチー」の名で親しまれる。昭和51年福田内閣の厚相として初入閣。その後農相・蔵相・通産相・党政調会長など歴任。大平政権時の四十日抗争では中曽根派の動向を無視して大平支持に回ったため同派を除名された。その後中曽根派に復帰。鈴木内閣では蔵相として財政再建を手がける。平成2年旧中曽根派を継ぎ渡辺派に。平成3年総裁公選に出馬するも竹下派の支持を得られず宮沢に敗北。宮沢政権では副総理に就任。平成5年自民党大敗後の総裁公選に再出馬するが河野洋平に敗れた。自民党が再び与党となった後も野党新進党と保保連合を模索したが平成7年急死。その後総裁候補を持たない同派はしばらく「旧渡辺派」と呼ばれていた。


綿貫民輔


わたぬき・たみすけ(1927〜)
富山県出身。慶應義塾大学経済学部卒。鐘ヶ淵紡績(現カネボウ)勤務を経て、砺波運輸(現トナミ運輸)取締役、さらに富山県議となる。昭和44年衆議院総選挙に出馬、初当選。当初は川島派→椎名派に属すが、椎名の死後田中派に移籍する。昭和61年議院運営委員長。同年の第3次中曽根内閣で国土庁長官として初入閣。竹下派旗揚げにも加わる。平成2年建設大臣。翌年党幹事長に就任。竹下派の重鎮となり、平成4年の同派分裂に際しては小渕恵三を支え、小渕派に属す。平成10年小渕の首相就任に伴う派閥離脱にともない、同派会長に就任。平成12年には第70代衆議院議長に就任、1期を務める。平成17年小泉内閣提出の郵政民営化法案に対する反対派の盟主となり、亀井静香らとともに反対運動の中心となる。そのため、参院で同法案が否決され、小泉首相は解散を決断。報復として自民党の公認を認めず。やむを得ず国民新党を結成、党首となる。


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