幹事長

【かんじちょう】
党三役の一つ。三役の中でも最も重要な役職であり、重要度では 総裁副総裁 に次ぐ。党運営・他党との折衝・国会対策・総裁の補佐など数々の役割を担う執行部の中枢・最高責任者であり、特に党の選挙活動も幹事長が中心となって行われるため、新人候補は幹事長に恩義を感じることが多く、将来の総裁を目指す政治家にとっては登竜門と見なされる役職でもある。初期は総裁との連携の上から総裁と同派閥の議員が幹事長に選ばれることが多かったが、田中角栄退陣の後、政局混乱の元であるとして総裁派閥からは幹事長を出さないと言う不文律ができ、以来大平政権の時に斎藤邦吉が就任した以外はほぼ守られている。派閥別に見ると田中派(竹下派)出身者が多く、同派の巨大化の原因にもなった。平成15年、小泉第二改造内閣で23年ぶりに総裁派閥から幹事長が出た。


<幹事長一覧>

幹事長 出身派閥 総裁 総裁派閥
岸信介 - 鳩山一郎 -
三木武夫 三木・松村派 石橋湛山 石橋派
三木武夫 三木・松村派 岸信介 岸派
川島正次郎 岸派 岸信介 岸派
福田赳夫 岸派 岸信介 岸派
川島正次郎 岸派 岸信介 岸派
益谷秀次 池田派 池田勇人 池田派
前尾繁三郎 池田派 池田勇人 池田派
三木武夫 三木派 池田勇人 池田派
三木武夫 三木派 佐藤栄作 佐藤派
田中角栄 佐藤派 佐藤栄作 佐藤派
福田赳夫 福田派 佐藤栄作 佐藤派
田中角栄 佐藤派 佐藤栄作 佐藤派
保利茂 佐藤派 佐藤栄作 佐藤派
橋本登美三郎 田中派 田中角栄 田中派
二階堂進 田中派 田中角栄 田中派
中曽根康弘 中曽根派 三木武夫 三木派
内田常雄 大平派 三木武夫 三木派
大平正芳 大平派 福田赳夫 福田派
斎藤邦吉 大平派 大平正芳 大平派
桜内義雄 中曽根派 大平正芳 大平派
桜内義雄 中曽根派 鈴木善幸 大平派
二階堂進 田中派 鈴木善幸 鈴木派
二階堂進 田中派 中曽根康弘 中曽根派
田中六助 鈴木派 中曽根康弘 中曽根派
金丸信 田中派 中曽根康弘 中曽根派
竹下登 田中派 中曽根康弘 中曽根派
安倍晋太郎 安倍派 竹下登 竹下派
橋本龍太郎 竹下派 宇野宗佑 中曽根派
小沢一郎 竹下派 海部俊樹 河本派
小渕恵三 竹下派 海部俊樹 河本派
綿貫民輔 竹下派 宮澤喜一 宮澤派
梶山静六 竹下派 宮澤喜一 宮澤派
森喜朗 三塚派 河野洋平 宮澤派
三塚博 三塚派 河野洋平 宮澤派
加藤紘一 宮澤派 橋本龍太郎 小渕派
森喜朗 森派 小渕恵三 小渕派
野中広務 橋本派 森喜朗 森派
古賀誠 堀内派 森喜朗 森派
山崎拓 山崎派 小泉純一郎 森派
安倍晋三 森派 小泉純一郎 森派
武部勤 山崎派 小泉純一郎 森派
中川秀直 町村派 安倍晋三 町村派
麻生太郎 麻生派 安倍晋三 町村派


五大派閥

【ごだいはばつ】
自民党政治の中で最も重要な要素であった派閥の内、総裁候補を擁して派閥間抗争に特に重要な影響を与えた五つの派閥を言う。各派閥自体は自民党成立初期から存在していたが、五大派閥が影響力を持ったのは昭和47年の「第一次角福戦争」(三角大福中時代の始まり)からで、原則的にこの五代派閥の流れは現在に至るまで続いている。

(1)池田→前尾→大平→鈴木→宮澤→加藤派堀内派→谷垣派丹羽・古賀派(宏池会)
五大派閥の内、もっとも伝統がある派閥。政策的にはハト派で官僚出身者も多く、吉田茂以来の「保守本流政治」の嫡流でもある。一方で、「お公家集団」とも言われるように政争に弱いという評価もある。その一方で常に政争の中心にいた派閥でもある。
もともとは池田勇人が作った政策研究グループ「宏池会」が始まり。池田死後、盟友の前尾繁三郎が跡を継ぎ、両度総裁公選に臨むが敗れた。佐藤総裁が四選に臨んだ昭和45年総裁選で前尾派は三度目の挑戦を促したが、弱気な前尾は佐藤首相の「総裁選後の内閣改造で前尾派を優遇する」という条件提示を飲んで立候補を辞退。しかし佐藤は総裁選後も内閣改造を行わなかったため面目を失った前尾は派内の糾弾を受け、大平正芳が後を襲った。大平は宮澤と同じく池田の秘書官から政界入りし、池田政権では外相となって蔵相の田中角栄と盟友関係を結んだため1970年代の派閥間抗争の中でも「大角」盟友関係だけは揺らがなかった。その田中派の援護を受けて大平は総裁となるが、派閥間抗争はこの時期頂点に達し、四十日抗争および翌年の内閣不信任案可決・初の衆参同日選挙と大平派は動乱の主役を演ずる。しかしその選挙戦さなかに大平が急死。後継には大平の盟友・伊東正義、ニューリーダー宮澤喜一、そのライバル田中六助など(一六戦争)が考えられたが、結局他派との折衝役として定評があり、田中角栄とも親しい鈴木善幸が跡を継ぎ内閣を組織した。鈴木は当初か ら後継者として宮澤喜一を念頭に置いており、昭和61年に宮澤派に衣替えした。宮澤は自民党単独政権時代に終止符を打った総裁となってしまったが、その後の”野党”自民党の総裁も宮澤派の河野洋平が選ばれ、橋本政権では河野のライバルといわれた(KK戦争)加藤紘一が幹事長として活躍。平成10年、他派の世代交代にあわせて宮沢が加藤に派閥を禅譲。それに反発した河野らは離脱して河野グループを結成した。平成12年、加藤は森内閣不信任案に同調する動きを見せて政界を騒がせ、加藤派は混乱に陥った。そのため、翌年早々加藤派は分裂し、堀内光雄を頂くグループが「元祖」宏池会を名乗って分派した。その後、加藤は秘書の汚職で議員辞職。小里グループとなっている

(2)佐藤→田中→竹下→小渕派→橋本派(七日会・木曜クラブ・経世会)
つねに自民党政争の中心にあった派閥。その代替わりにも必ずドラマがあった。
もともと吉田学校の優等生・佐藤栄作の率いる派閥で、番頭は田中角栄や保利茂であったが、佐藤が同じ官僚出身の福田赳夫を後継総裁に推そうとしていたことで田中の不満が爆発、昭和47年田中派が旗揚げして同派の三分の二がこれに従った。保利系は後福田派に合流する。田中派は田中角栄個人の魅力と資金力・人脈で瞬く間に膨れ上がり、田中が金脈政変で退陣後もその数の力で「キングメーカー」と呼ばれた派閥であった。しかし、長年総裁候補を出さず、他派を牛耳るという姿勢は次第に派内の不満を呼び、同派の後継者と目されていた竹下登と田中角栄の不和までが噂されるようになった。昭和59年の二階堂副総裁擁立劇で、「鉄の如し」と言われた同派の結束力もガタが来ていることが証明され、翌年ついに金丸信・竹下登らは政策研究グループ「創政会」を旗揚げした。田中はこれに激怒したが、直後に脳梗塞で倒れて政治活動ができない状態となった。創政会は二年後、「経世会」と名を代え、正式に「竹下派」となる。同年竹下は総理総裁となったが、リクルート事件によりわずか二年弱で退陣。しかし同派の数の力で続く宇野政権・海部政権は支えられた。竹下が第一線を退いたことで同 派の実権は金丸信・小沢一郎が握ることになったが、これに不満を抱く橋本龍太郎らが対立するようになる(一龍戦争)。平成四年金丸の佐川急便事件が発覚する(翌年議員辞職、脱税容疑で逮捕)に及んでついに同派は分裂、羽田孜・小沢一郎らは「改革フォーラム21」を結成して離脱、経世会は橋本龍太郎・梶山静六らが擁立した小渕恵三が跡を継いだ。翌年羽田・小沢らは脱党して新生党を結成、政界再編の主役となり、その後は橋本が総理総裁となるなど、現在でも「田中政治」の影響は色濃く残っている。小渕政権時には元同志の小沢率いる自由党と連立内閣を形成した。平成12年、小渕の急死に伴い、親友であった橋本元総理が派閥を束ねることとなった。

(3)岸→福田→安倍→三塚→森派→町村派(清和会)
党内ではもっともタカ派にであった岸→福田を中心とした派閥。
岸派は岸首相退陣後、岸が早々に池田支持を決したため、池田支持の川島正次郎系、池田財政を真っ向から批判する福田赳夫系、自ら後継総裁候補として立候補した藤山愛一郎系に分裂した。皮肉にも岸自身は直弟子である福田派に属した。福田は佐藤政権の中で幹事長・外相など次第に重きをなし、佐藤後継と見なされるようになっていたが昭和47年の総裁公選では田中角栄に敗れ、田中が金脈政変で退陣後も椎名裁定で三木が総裁の座に着くなど不遇を託った。そこで、福田は当面の敵である三木を倒すためライバル大平と手を組んで三木おろしを展開。ついに総裁となるが、一期二年で大平に後を譲るという暗黙の約束を無視したため、激怒した大平・田中派の攻勢で総裁予備選に敗れ、退陣。続く大平政権では反主流派の急先鋒として四十日抗争の際には大平に対抗して首班指名に立候補するなど片方の主役を演じた。福田派は岸以来の古参の議員とプリンス安倍晋太郎を中心とする若手議員の対立があったためになかなか代替わりが進まなかったが、昭和59年の二階堂副総裁擁立劇が失敗すると福田元首相の発言力も低下し、やがて安倍が派を継いだ。安倍はもと新聞記者で岸 の娘婿であり、攻撃的な福田と比べると穏和な人柄で竹下らとも親しく、「将来の総裁候補」と長年言われた存在であった。すでに派を継ぐ以前にポスト鈴木の総裁公選予備選に立候補しているが3位に敗退。竹下退陣後が最大のチャンスであったが自身もリクルート事件に連座して謹慎中と運がなく、平成2年に死去。同派の跡目を巡って三塚博と加藤六月が争ったが(三六戦争)、結局加藤グループが同派を離脱(平成5年には脱党)、三塚が後を襲った。三塚は海部退陣後の総裁公選で立候補したが、党内最大派閥の竹下派の支持を得られず、宮澤に敗れた。その後の総裁選も三塚自身は出馬せず同派の小泉純一郎が立候補することが2度もあり、結局総裁になることのできなかった三塚に批判が高まり、小泉らの支持を得た森喜朗が派閥を継いだ。これに反発した亀井静香らは中山・亀井グループとして離脱、旧中曽根派と大同団結して村上・亀井派(のち江藤・亀井派)を結成。平成18年小泉内閣から安倍内閣への移行に伴って森が会長を退き、町村信孝が継いだ。森・小泉・安倍・福田と4代続けて総裁を出す。

(4)三木・松村→三木→河本→高村派(新政策研究会)
五大派閥の中ではもっとも議員数が少ない。「クリーン」と言われた三木武夫だけあり、党内では白眼視されながらも国民の人気は高かった。しかし一方で「理想主義にすぎる」「何でも他派のやっていることの反対を主張する」という批判もある。
三木武夫は終戦後国民協同党幹事長を経て改進党、日本民主党そして自由民主党とつねに弱小派閥を率いて政党間・派閥間を渡り歩いていたことから「バルカン政治家」と言われた。松村謙三はその同志であったが、石橋湛山総裁病気退陣後の岸信介指名、池田勇人総裁病気退陣後の佐藤栄作指名に三木がともに幹事長として関わっていたことから、「官僚政治打破(岸・佐藤はともに官僚出身)」を標榜していた同派の中で松村は批判を強め離脱した。三木は佐藤官僚政治に対抗して三度総裁公選に出馬したがいずれも敗退し、少数派閥の悲哀を味わわされた。しかし田中角栄が金脈政変で退陣すると椎名悦三郎副総裁は政権の安定上福田や大平に後を任せられないとして三木を指名、ついに三木が総裁となる。しかしロッキード事件の徹底解明を謳った三木政権は党内の猛反発を呼び二度の「三木おろし」が起こる。党内抗争で力を費やした三木政権は昭和51年の総選挙に惨敗して退陣した。退陣後はつねに反主流派として大角体制を批判した。同派は三木が「クリーン」と称して政治献金などを縮小させるよう呼びかけていたため資金力が乏しく、派閥のカネは三光汽船の社長を務めていた河本敏夫に負っ ていた。そのため三木の後継は河本と目されており、大平政権の時三木派は河本派に衣替えする。派閥継承前にも福田が再選をねらった総裁公選に立候補したが4位敗退。ポスト大平を巡る総裁公選予備選では有力視されたが、田中・鈴木両派の支持を得た中曽根康弘に敗れた。リクルート事件で竹下が退陣した際にも総裁候補に名が挙げられたが、三光汽船は倒産し、また既に高齢となっていたために果たせず、同年の総裁公選では自派の海部俊樹を擁立、海部政権を実現させた。その後も同派の長は河本のままであった。後継者としては海部が有力であったが、海部が平成6年に新生・公明・民社党などの連立に擁立されて首班指名に臨むため脱党した(海部は後その年に結成した新進党初代党首となる)のでそれもならないまま、平成8年の総選挙で河本は議員を引退。その後も長らく「旧河本派」と呼ばれていたが、平成13年、高村正彦が長に就任。

(5)河野→中曽根→渡辺→旧中曽根派→亀井派/山崎派
弱小中間派閥の中から成長し、五大派閥に入った派。
鳩山一郎・三木武吉・河野一郎らは自由党内にあって吉田茂体制に反対し、ついに鳩山政権を作り上げた。鳩山・三木死後は河野が派閥を率いることとなる。同じように野党民主党・改進党にあって吉田を批判し続けた中曽根らも自由民主党結成後は河野派に参じた。河野は有力な後継総裁候補といわれたが池田勇人が病気退陣の際にも名が上がったが、党内には反発も強く、結局佐藤栄作が指名され翌年失意の内に急死した。同派は森清系と中曽根康弘系に分裂。以後中曽根派は中間派閥として歩むことになった。昭和47年の三角大福が立った総裁公選では中曽根も立つかと思われたが、立候補せず、田中に票を入れ、続く三木政権では幹事長となって三木派と少数主流派を形成した。そのため、三木退陣後の福田・大平政権下では反主流派に転じ、四十日抗争でも三木・福田両派とともに大平退陣を求めた。しかし、このまま反主流派を続けていたのでは総裁の目がなくなるとの判断から次第に大角主流派に近づき、「政界の風見鶏」などと揶揄されている。鈴木政権では行政管理庁長官と冷遇されたが、行政改革に意欲を燃やして鈴木・田中派との協調を深め、ポスト鈴木を巡る総裁公選で両派の支持を受 けてついに総裁となった。再選の際は多少のごたごたがあったものの、昭和61年の総選挙で自民党は300議席の圧勝で中曽根は三選を果たした。その後中曽根はリクルート事件で一時脱派し、派は桜内義雄が預かったが、宇野宗佑がわずか2ヶ月ながら総理総裁となっている。中曽根の後継者は渡辺美智雄と目されていたが、渡辺は四十日抗争の際、派の意向に反して大平支持を主張したため、派内強硬派から同派を一時除名された経緯があり、なかなか衣替えは進まなかった。しかし、ポスト海部の総裁公選では正式に渡辺派として立候補する。また宮澤内閣に対する不信任案可決され、選挙に敗れた自民党が下野すると、渡辺は再度立候補するが、今度は河野洋平に敗れた。その後渡辺は野党新進党との保保連合を策していたが平成7年に急死。後継者がいないため同派は中曽根が束ねていたが、同派の後継総裁候補である山崎拓は長老派議員の支持を得られなかったため、平成10年離脱・独立して山崎派を旗揚げした。残った半数は三塚派を離脱した亀井静香らのグループと結び、村上・亀井派を形成し、のち江藤・亀井派と名を変えた。平成17年の郵政選挙において亀井・平沼赳夫が離党し、伊吹文明が派を継いだ。



椎名裁定

【しいなさいてい】
昭和49年、金脈政変で退陣した田中角栄総裁の後継を椎名悦三郎副総裁が指名した事を指す。当時の後継総裁候補者は田中の盟友・大平正芳、田中のライバル・福田赳夫、副総理を辞任した三木武夫、それに田中角栄と同い年の中曽根康弘の4人であった。
田中は政局の混乱を回避するために、後継総裁選びを椎名悦三郎副総裁(椎名派)に一任した。さしあたって当面の問題は次期総裁を公選で決めるか、それとも話し合いで決めるか、という点であった。自ら後継となる意志のなかった中曽根を除けば、公選を主張していたのは大平一人であり、福田・三木は大角の数の力に抗するには話し合いしかなかった。椎名副総裁は各実力者と会談し、大平を説得して話し合いにより後継を決める方針を定めることに成功する。そして椎名・福田・大平・三木・中曽根の五者会談によって後継総裁を決することになったが、大平・三木・福田はそれぞれの主張を譲らなかったため、指名を椎名副総裁に一任することを決定。翌日、椎名副総裁は一番可能性が低かった三木武夫を指名、三木も「青天の霹靂だ」と呟いたという。もし大平を指名すれば、福田・三木が完全に反主流に回り、福田を指名すると大角が反主流となる。中曽根が総裁となるにはまだ党内のコンセンサスは得られていない、という判断から、椎名副総裁は三木を指名せざるを得なかったのである。福田・大平も渋々これを納得し、三木政権が成立した。しかし、その後椎名と三木は折り合いが会わず、 後に第一次「三木おろし」が起きたときの中心人物はほかでもない椎名副総裁だったのである・・・



自民党単独政権時代

【じみんとうたんどくせいけんじだい】
成立当初から与党であった自由民主党が結成された昭和30年11月15日から、総選挙で大敗した後野党に下った平成5年8月9日までを言う(この間自民党が単独与党として政権を担っていたことから)。その後、政界再編による非自民非共産7党連立政権の成立を経て翌年再び自民党は与党に返り咲くが、日本社会党(のちに社会民主党に改名)および新党さきがけとの連立(その後、自由党・公明党と連立)であったため、これと区別するため用いる呼称。しかし、上記期間中でも実際には昭和59年から2年間は新自由クラブ(のち自民党に合流)との連立内閣であったし、それまでにも公明・民社などの閣外協力もあり、厳密な意味での単独政権とはいえない。



政調会長

【せいちょうかいちょう】
正しくは政務調査会長。自民党の政策機関である、政務調査会の長で、いわゆる党三役の一つ。その職掌・役割から、党の実力者の中でも政策通・良識派として知られる人物が任命されることが多い。

<歴代政調会長一覧>

政調会長 出身派閥 総裁 総裁派閥
水田三喜男 大野派 鳩山一郎 鳩山派
塚田十一郎 石井派 石橋湛山 石橋派
塚田十一郎 石井派 岸信介 岸派
三木武夫 三木・松村派 岸信介 岸派
福田赳夫 岸派 岸信介 岸派
中村梅吉 河野派 岸信介 岸派
船田中 大野派 岸信介 岸派
椎名悦三郎 岸派 池田勇人 池田派
福田赳夫 岸派 池田勇人 池田派
田中角栄 佐藤派 池田勇人 池田派
賀屋興宣 池田勇人 池田派
三木武夫 三木・松村派 池田勇人 池田派
周東英雄 池田派 池田勇人 池田派
周東英雄 池田派 佐藤栄作 佐藤派
赤城宗徳 川島派 佐藤栄作 佐藤派
水田三喜男 船田派 佐藤栄作 佐藤派
西村直己 佐藤派 佐藤栄作 佐藤派
大平正芳 前尾派 佐藤栄作 佐藤派
根本龍太郎 前尾派 佐藤栄作 佐藤派
水田三喜男 村上派 佐藤栄作 佐藤派
小坂善太郎 大平派 佐藤栄作 佐藤派
桜内義雄 中曽根派 田中角栄 田中派
倉石忠雄 福田派 田中角栄 田中派
水田三喜男 水田派 田中角栄 田中派
山中貞則 中曽根派 田中角栄 田中派
松野頼三 福田派 三木武夫 三木派
桜内義雄 中曽根派 三木武夫 三木派
河本敏夫 三木派 福田赳夫 福田派
江崎真澄 田中派 福田赳夫 福田派
河本敏夫 三木派 大平正芳 大平派
安倍晋太郎 福田派 大平正芳 大平派
安倍晋太郎 福田派 鈴木善幸 大平派
田中六助 鈴木派 鈴木善幸 鈴木派
田中六助 鈴木派 中曽根康弘 中曽根派
藤尾正行 福田派 中曽根康弘 中曽根派
伊東正義 鈴木派 中曽根康弘 中曽根派
渡辺美智雄 中曽根派 竹下登 竹下派
村田敬次郎 安倍派 宇野宗佑 中曽根派
三塚博 安倍派 海部俊樹 河本派
加藤六月 安倍派 海部俊樹 河本派
森喜朗 三塚派 宮澤喜一 宮澤派
三塚博 三塚派 宮澤喜一 宮澤派
橋本龍太郎 小渕派 河野洋平 宮澤派
加藤紘一 宮澤(加藤)派 河野洋平 宮澤派
山崎拓 旧渡辺派 橋本龍太郎 小渕派
池田行彦 加藤派 小渕恵三 小渕派
亀井静香 江藤・亀井派 小渕恵三 小渕派
亀井静香 江藤・亀井派 森喜朗 森派
麻生太郎 河野グループ 小泉純一郎 森派
額賀福志郎 橋本派 小泉純一郎 森派
与謝野馨 無派閥 小泉純一郎 森派
中川秀直 森派 小泉純一郎 森派
中川昭一 伊吹派 安倍晋三 町村派
石原伸晃 無派閥 安倍晋三 町村派

総裁

【そうさい】
自由民主党党首の職名。言うまでもなく自民党のトップである。現在の任期は一期二年で原則的に二期まで務めることができる。元々日本自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結成された際には総裁は置かれなかった。鳩山一郎を推したい旧民主党鳩山系・緒方竹虎を推したい旧自由党系・重光葵を推したい旧民主党旧改進党系(えらく複雑だが)などがおり、一本化されなかったためである。発足時は旧自由党系から緒方竹虎・大野伴睦、旧民主党から鳩山一郎・三木武吉の計四名が総裁代行委員となった。結局最初の総裁公選までに有力候補者であった緒方・重光らが急死したため鳩山が初代総裁となった。以下現在の橋本龍太郎総裁まで十七代の総裁を数える。

<歴代総裁一覧>

氏名 派閥 就任
1 鳩山一郎 鳩山派 昭和31年
2 石橋湛山 石橋派 昭和31年
3 岸信介 岸派 昭和31年〜
4 池田勇人 池田派 昭和35年〜
5 佐藤栄作 佐藤派 昭和39年〜
6 田中角栄 田中派 昭和47年〜
7 三木武夫 三木派 昭和49年〜
8 福田赳夫 福田派 昭和51年〜
9 大平正芳 大平派 昭和53年〜
10 鈴木善幸 大平派→鈴木派 昭和55年〜
11 中曽根康弘 中曽根派 昭和57年〜
12 竹下登 竹下派 昭和62年〜
13 宇野宗佑 中曽根派 平成元年
14 海部俊樹 河本派 平成元年〜
15 宮澤喜一 宮澤派 平成3年〜
16 河野洋平 宮澤派 平成5年〜
17 橋本龍太郎 小渕派 平成7年〜
18 小渕恵三 小渕派 平成10年〜
19 森喜朗 森派 平成12年〜
20 小泉純一郎 無派閥(森派) 平成13年〜
21 安倍晋三 森派→町村派 平成18年〜
22 福田康夫 町村派 平成19年〜

このうち総裁となりながら総理大臣になれなかったのは16代河野洋平ただ一人である。自民党単独政権時代には自民党総裁=内閣総理大臣であった。19代からは森・小泉・安倍・福田と4代続けて同じ派閥から総裁を出ている異例な状態となった。


総裁公選

【そうさいこうせん】
自由民主党総裁を選ぶ選挙のこと。時代とともに形式は変化した。はじめは自民党所属の国会議員によって選挙されたが、後に全国の自民党員の投票(予備選)も加味されたりしている。狭義では候補者が2人以上の場合を言う。候補者が一人しかいない場合は信任投票となる。
◎は過半数を得た候補。○は一位になったが過半数には達しなかった候補。

<総裁公選一覧>

年月 結果 備考
昭和31年4月 ◎鳩山一郎 信任投票
昭和31年12月 ○岸信介 石橋湛山 石井光次郎 この総裁選で派閥が誕生した
同決選投票 ◎石橋湛山 岸信介 決選投票の結果石橋が7票差で逆転
昭和32年3月 ◎岸信介 石橋病気退陣後の信任投票
昭和34年1月 ◎岸信介 松村謙三
昭和35年7月 ○池田勇人 石井光次郎 藤山愛一郎 投票前日に大野伴睦が立候補を辞退
同決選投票 ◎池田勇人 石井光次郎
昭和37年7月 ◎池田勇人 佐藤栄作
昭和39年7月 ◎池田勇人 佐藤栄作 藤山愛一郎 池田対佐藤の全面対決
昭和41年12月 ◎佐藤栄作 藤山愛一郎 前尾繁三郎 灘尾弘吉 野田卯一
昭和43年11月 ◎佐藤栄作 三木武夫 前尾繁三郎
昭和45年10月 ◎佐藤栄作 三木武夫 佐藤長期政権への反発が三木票へ
昭和47年7月 ○田中角栄 福田赳夫 大平正芳 三木武夫 三角大福戦争の始まり
昭和53年11月(予備選) ○大平正芳 福田赳夫 中曽根康弘 河本敏夫 初の予備選。福田が本選を辞退
昭和57年11月(予備選) ◎中曽根康弘 河本敏夫 安倍晋太郎 中川一郎 河本・安倍が本選を辞退
平成元年8月 ◎海部俊樹 林義郎 石原慎太郎 候補全員が派閥の長ではない異例の選挙
平成3年10月 ◎宮澤喜一 渡辺美智雄 三塚博 小沢面接で竹下派の支持を得た宮澤
平成5年7月 ◎河野洋平 渡辺美智雄 初めて野党となった自民党の総裁
平成7年9月 ◎橋本龍太郎 小泉純一郎 派閥対立から政策対立へ
平成10年7月 ◎小渕恵三 梶山静六 小泉純一郎 梶山は小渕派を離脱して立候補
平成11年9月 ◎小渕恵三 加藤紘一 山崎拓 その後加藤派・山崎派は反主流へ
平成13年4月 ◎小泉純一郎 橋本龍太郎 麻生太郎 地方予備選で小泉圧勝。亀井静香が前日に立候補辞退
平成15年9月 ◎小泉純一郎 亀井静香 額賀福志郎 高村正彦
平成18年9月 ◎安倍晋三 麻生太郎 谷垣禎一
平成19年9月 ◎福田康夫 麻生太郎 安倍の突然の辞任による。

総裁公選は派閥間対立の一番の原因であり、カネも動くため、つねに改革が叫ばれている。そのためルールが毎回変わる。



総務会長
【そうむかいちょう】
自由民主党の党としての最終意志決定機関である総務会の議長。総務会は20名〜30名の総務からなる。総務会長はその役割柄、とりまとめ・調整役として適した人物が任命されることが多く、それなりの実力者が名を連ねている中、鈴木善幸(池田→前尾→大平派)が実に8期も務めているのが注目される。

総務会長 出身派閥 総裁 総裁派閥
石井光次郎 緒方派 鳩山一郎 鳩山派
石井光次郎 緒方派 石橋湛山 石橋派
砂田重政 河野派 石橋湛山 石橋派
砂田重政 河野派 岸信介 岸派
佐藤栄作 佐藤派 岸信介 岸派
河野一郎 河野派 岸信介 岸派
益谷秀次 池田派 岸信介 岸派
石井光次郎 石井派 岸信介 岸派
保利茂 佐藤派 池田勇人 池田派
赤城宗徳 岸派 池田勇人 池田派
藤山愛一郎 藤山派 池田勇人 池田派
中村梅吉 河野派 池田勇人 池田派
中村梅吉 河野派 佐藤栄作 佐藤派
前尾繁三郎 前尾派 佐藤栄作 佐藤派
福永健司 前尾派 佐藤栄作 佐藤派
椎名悦三郎 川島派 佐藤栄作 佐藤栄作
橋本登美三郎 佐藤派 佐藤栄作 佐藤派
鈴木善幸 前尾派 佐藤栄作 佐藤派
中曽根康弘 中曽根派 佐藤栄作 佐藤派
鈴木善幸 大平派 田中角栄 田中派
灘尾弘吉 無派閥 三木武夫 三木派
松野頼三 福田派 三木武夫 三木派
江崎真澄 田中派 福田赳夫 福田派
中曽根康弘 中曽根派 福田赳夫 福田派
倉石忠雄 福田派 大平正芳 大平派
鈴木善幸 大平派 大平正芳 大平派
二階堂進 田中派 鈴木善幸 大平派
田中竜夫 福田派 鈴木善幸 鈴木派
細田吉蔵 福田派 中曽根康弘 中曽根派
金丸信 田中派 中曽根康弘 中曽根派
宮澤喜一 鈴木派 中曽根康弘 中曽根派
安倍晋太郎 安倍派 中曽根康弘 中曽根派
伊東正義 無派閥 竹下登 竹下派
水野清 宮澤派 宇野宗佑 中曽根派
唐沢俊二郎 中曽根派 海部俊樹 河本派
西岡武夫 宮澤派 海部俊樹 河本派
佐藤孝行 渡辺派 宮澤喜一 宮澤派
木部佳昭 渡辺派 河野洋平 宮澤派
武藤嘉文 渡辺派 河野洋平 宮澤派
塩川正十郎 三塚派 橋本龍太郎 小渕派
森喜朗 三塚派 橋本龍太郎 小渕派
深谷隆司 山崎派 小渕恵三 小渕派
池田行彦 加藤派 小渕恵三 小渕派
池田行彦 加藤派 森喜朗 森派
小里貞利 加藤派 森喜朗 森派
村岡兼造 橋本派 森喜朗 森派
堀内光雄 堀内派 小泉純一郎 森派
久間章生 橋本派 小泉純一郎 森派
丹羽雄哉 丹羽・古賀派 安倍晋三 町村派
二階俊博 二階派 安倍晋三 町村派

党三役

【とうさんやく】
自民党でもっとも重要な役割を担う三つの役職。 幹事長総務会長政調会長 の三役を言う。この三つは総裁・副総裁に次いで自民党内で最も重要な役割であるため、三役の選定は総理・総裁となった人物にとって内閣の組閣と並ぶ重要な作業となる。三役はそれぞれ別の派閥から選ばれるのが慣例となっている。なお、このほかに党四役、党五役、党七役などの呼称もあり、たとえば党四役は(副総裁+党三役)を指す場合、(党三役+参院議員会長)を指す場合など一定しないが、三役と言った場合には必ずこの三職を指す。



内閣不信任案可決

【ないかくふしんにんあんかけつ】
自民党単独政権時代に内閣不信任案が可決したことは2回あり、いずれも内閣総辞職ではなく衆議院解散が行われている。

【1】昭和55年5月16日 第二次大平正芳内閣不信任案可決
 前年の四十日抗争以来、自民党は主流派の大平派・田中派と反主流派の三木派・福田派・中曽根派に真っ二つに分かれ、冷戦状態にあった。かねてから主流派執行部に不満を持つ反主流派の強硬派は野党が提出した内閣不信任案に対して本会議を欠席して可決させる構えを見せた。当初これは主流派に対する脅しであったが、大角主流派はこれに屈することなく強硬な態度をとり続けたため、反主流派は激昂。ついに不信任案は三木派・福田派および中曽根派の一部の欠席により可決。田中派の強力なバックアップを背景に大平首相は即刻衆議院を解散、総選挙を強行した。自民党は主流派と非主流派であわや分裂選挙になるかと思われたが、ここで思わぬ事件が発生した。選挙戦さなか、大平首相が急死したのである。弔い合戦と称して一転、団結した自民党は前回選挙の248議席とは打って変わって284議席の大勝を得たのである。
【2】平成5年6月18日 宮澤喜一内閣不信任案可決
 宮澤政権の支持基盤であった竹下派がこの前年、同派代表の金丸信による佐川急便事件をきっかけに小渕派と羽田派に分裂したことは宮澤にとっては幸せでもあり不幸でもあった。平成5年、野党が提出した内閣不信任案に対して、かねてから政治改革法案の早期可決を主張していた羽田派はいっこうに政治改革に意欲を見せない宮澤首相に不満を感じており、不信任案に賛成の構えを見せた。宮澤執行部はしきりに羽田孜や同派の有力者小沢一郎の説得に努めたが、結局本会議で羽田・小沢派は不信任案に賛成(数日後離党して新生党を結成)、また武村正義率いる10名(数日後新党さきがけを結成)も離党し、不信任案は可決された。宮澤首相はすぐに衆議院を解散したが、折柄の新党ブームもあって翌月の総選挙で自民党は第一党ながらも228議席と大敗し、政界再編の波を経て、結党以来初めて野党となったのである。



中曽根裁定

【なかそねさいてい】
昭和62年、ポスト中曽根を巡るニューリーダー、安竹宮の中から中曽根総裁が後継を指名した事を指す。
中曽根自民党は昭和61年の総選挙で300議席を超える圧勝となり、その功績を認められて、同年任期切れであった中曽根総裁の任期が一年延びることとなった(総裁は二期四年まで、という党則が変更された)。中曽根は佐藤内閣以来の政権5年目を迎えたが、最後にやろうとしていた売上税導入構想は「公約違反」と指摘され(選挙戦中に「大型間接税は導入しない」と宣言していた)、果たすことはできなかった。ポスト中曽根を巡ってはニューリーダーとして中曽根長期政権中に派閥の代替わりを済ませた安倍晋太郎総務会長・竹下登幹事長・宮澤喜一蔵相の三人が名乗りを上げた。中曽根は各候補と会談、昭和62年10月20日の四者会談で中曽根総裁の裁定という形で後継に竹下登が指名された。中曽根の狙いは自身が成し遂げられなかった間接税導入を竹下の人材操縦術と竹下派の数の力で成立させようと期していたとも言われ、事実、竹下内閣で平成元年ついに消費税が導入されるに至ったが、竹下政権自体はリクルート事件によりわずか2年弱で崩壊することとなった・・・



二階堂副総裁擁立劇

【にかいどうふくそうさいようりつげき】
昭和59年、中曽根康弘総理・総裁の再選を阻止するため、鈴木善幸前首相・福田赳夫元首相らが野党も巻き込んで田中派の二階堂進副総裁を擁立しようとした事件。
昭和59年の総裁公選を前に中曽根総裁の国民人気は徐々に高くなっていったが、中曽根内閣はその成立当初から田中派の影響を色濃く受けており「直角内閣」「田中曽根内閣」などと呼ばれていたため、鈴木・福田・河本派らはこれに不満を持っていた。さらにこの年、田中派の二階堂進が副総裁に起用されたことで非主流派の不満はますます高まりを見せる。そんな中、鈴木前首相は田中邸を訪れ、次の総裁公選で二階堂を擁立することを提案した。田中派は党内最大の勢力でありながら、田中自身が政権回復の望みを捨てなかったため、竹下登という後継者がいながら長きにわたって総裁候補を出せない派閥であり、その隙をついた計画であった。鈴木の狙いは田中と中曽根の間を分断し、暫定的に二階堂に政権を預けてゆくゆくは自派の宮澤喜一を総裁にすることにあったと言われ、またかねてから田中・中曽根両派の癒着に不満を持っていた福田元首相や三木武夫元首相らもこれに同調、一時は野党の公明党・民社党もこれに同調する動きを見せ、中曽根再選は危ういかと思われた。しかし、この二階堂擁立構想は当の田中角栄の反対にあって失敗する。田中の意向は中曽根再選支持で固まっていた。
この一件により、自民党の長老政治はいったん終わりを告げる。それまで党内で多大な発言力を持っていた長老たち〜福田・岸・鈴木・三木ら〜はこの計画失敗により発言力を失っていき、派閥の代替わりを促すことになった(鈴木派→宮澤派、福田派→安倍派)。またこの事件は鉄の結束を誇っていた田中派のほころびも示すものであった。田中の最大の忠臣と言われた二階堂が総裁公選に意欲を示したことは田中派内部の動揺を示すものでもあり、また最大の数を誇りながらも長く総裁候補を出していない田中派の不満を表すものでもあった。そして、この翌年竹下が創政会を旗揚げし、田中派は終焉を迎えることとなる・・・


派閥

【はばつ】
自民党にいわゆる”派閥”が誕生したのは昭和31年、鳩山総裁退陣後の第2代総裁を決する総裁公選だったといわれている。このとき総裁候補となったのは岸信介・石橋湛山・石井光次郎だが、この三候補の誰を支持するかで自民党は8つの派閥に分かれ「八頭立ての馬車」と呼ばれた。
このときの派閥を見るとまず旧自由党系は、吉田茂直系で「吉田学校の優等生」と言われた池田勇人と佐藤栄作が率いる(1)池田派、(2)佐藤派。後継総裁候補といわれたが急死した緒方竹虎の跡を継いだ石井光次郎の(3)石井派、元々は鳩山支持だが自由党にとどまった大野伴睦らの(4)大野派の4派。旧民主党系は鳩山一郎・三木武吉らの盟友を失ったものの依然力を誇る河野一郎ら(5)河野派、総裁候補最有力といわれた岸信介率いる(6)岸派、不屈の精神で総裁の座をねらう石橋湛山の(7)石橋派、旧改進党系で党内左派と呼ばれた松村謙三・三木武夫らの(8)三木・松村派である。
初期の派閥はこのように「この人物を総裁に」という同志が集まった人脈であったが、自民党が安定期にはいると派閥も変化していった。石橋派は石橋の病気退陣後に消滅、岸派は岸退陣後に川島系・藤山系・福田系に分裂、また大野派・河野派も両氏の死後に分裂して淘汰されていった。第二期(昭和40年代)には総裁候補を持つ4派閥(佐藤・前尾・福田・三木)と独自の総裁候補をもたない中間派閥(船田・中曽根・川島など)に分かれていき、第三期(昭和47年〜昭和60年頃)の五大派閥時代(三木・田中・大平・福田・中曽根)に突入する。この時期は派閥がもっとも重要な意味をなした時期で、派閥間抗争も激烈化していった。派閥の長は「領袖」と呼ばれ、圧倒的な資金力と人脈で子分たちの面倒を見、子分たちは「陣笠」と呼ばれ領袖への忠誠を誓うと同時に選挙資金は派閥から給与されていた。また派閥によっては「部屋住」「プリンス」などと呼ばれる派閥の後継者と目される人物や、「番頭」「家老」と呼ばれる世話役も存在し、さながら女王アリを中心とするアリ社会の様相を呈していた。もっとも典型的な例が「田中軍団」と呼ばれた田中派。領袖はも ちろん田中角栄(もっとも田中自身は昭和51年ロッキード事件により自民党および田中派から抜けている)。プリンスは竹下登。番頭役に西村英一・橋本登美三郎・木村武雄・二階堂進・金丸信・江崎真澄・小沢辰男・後藤田正晴など錚々たる面々が顔をそろえた。強固な団結力を誇った派閥であったが、ニューリーダーと呼ばれた安倍・竹下・宮澤・渡辺といった面々が派閥の領袖となっていくと激烈な派閥間抗争は影を潜め、またリクルート事件により相次いで派閥の領袖以外の人物が総理・総裁につくなど、次第に派閥の形態も変質・弱体化する(第四期、昭和末期〜)。さらに自民党が野党に下野した後、派閥はさらに形骸化していった。そもそも自民党に五つの派閥があったのは中選挙区制に依存しており、一選挙区に各派閥から一人づつ、最大五人の候補を建てることで選挙戦を活発化させる意味もあったが、小選挙区制の導入により、この意味がなくなってきたのである。しかし、再び政権につき、衆院単独過半数を回復した頃から派閥のもつ意味が重要視され、派閥の力が復活した。平成10年には橋本総裁が参院選敗退の責任を負って辞任したのに伴う総裁選挙の前後に、大規模な派閥再編が行 われ、現在は6派2グループが乱立する状況になっている(数え方はメディアによって異なる)。


副総裁

【ふくそうさい】
総裁 の補佐役として臨時に置かれる役職。発言力も高く、派閥間調整のとりまとめ役などで活躍する。中間派閥の長老が任命されることが多かったが、やがて最大派閥の田中派(のち竹下派、小渕派)の実力者が副総裁として党内に重石をきかせるようになった。

<副総裁一覧>

名前 派閥 任期
大野伴睦 大野派 昭和32年〜昭和35年、昭和36年〜昭和39年
川島正次郎 川島派 昭和39年〜昭和41年、昭和42年〜昭和45年
椎名悦三郎 椎名派 昭和47年〜昭和51年
船田中 船田派 昭和52年〜昭和54年
西村英一 田中派 昭和54年〜昭和55年
二階堂進 田中派 昭和59年〜昭和60年
金丸信 竹下派 平成4年
小渕恵三 小渕派 平成7年〜平成8年
山崎拓 山崎派 平成15年


四十日戦争(四十日抗争)
【よんじゅうにちせんそう/よんじゅうにちこうそう】
昭和54年(1979年)10月7日の衆議院総選挙から11月9日の第二次大平内閣組閣までの約四十日間にわたる自民党内部の主流派・非主流派の抗争。いわゆる三角大福戦争のクライマックスであり、自民党は分裂寸前に陥った。当時の主流派は総裁派閥の大平派(大)、および盟友関係にあった田中派(角)。一方非主流派は大角を真っ向から批判した福田派(福)、および三木派(三)・中曽根派(中)である。三木政権の時に起こったロッキード事件により、田中派は三木派に恨みを抱き、三木おろしによって三木派・中曽根派は大平派・福田派に恨みを抱いた。また福田政権の時には大福提携といわれた大平派・福田派だったが、総裁公選予備選で田中・大平両派の露骨な物量作戦に敗れた福田派は大角に恨みを抱き、当時の政治状況は「怨念の政治」と呼ばれる有様であった。その一つの頂点が四十日抗争という形になって現れたのである。
【1】大平首相は田中派の全面的な支持を受け、非主流三派の猛反対にもかかわらず衆院解散を断行。選挙戦のさなかに大平首相が一般消費税導入を示唆したため自民党は惨敗。511議席中248議席と過半数割れとなった。
【2】非主流三派は大平首相の責任問題を追求し、辞任を求めたが、大平首相は辞職を認めなかったため、全面的な対決となった。非主流三派は「自民党をよくする会」を結成。一方大角主流派は西村英一副総裁(田中派)に調整を求めた。
【3】西村副総裁は非主流派幹部の三木・福田・中曽根らとの会談を繰り返し、党機関への大平首相の進退の一任でまとまりかけたが、辞職という結果が出る可能性もあることから大平首相はこれに難色を示した。またここで言う党機関が代議士会(党衆議院のみからなる。非主流派が優勢)なのか、両院議員総会(衆参両院の議員からなる。大角優勢)なのかもあいまいで、事態は紛糾し憲法で定められる特別国会召集(首班指名を行う。総選挙から30日以内に召集しなければならない)の期限も過ぎていった。
【4】党内からは事態を解決するため総理総裁分離案(大平総理・福田総裁)の案も出たが田中・大平派これを承知せず、また園田直らは次の総裁公選を翌年一月に繰り上げ、それまでは大平体制でいくという妥協案を提出し、一時は主流派・非主流派ともこれを承知して解決の方向に向かうかに見えたが、結局一月公選で「新総裁」を選出するのか、大平再出馬は可能なのかを巡って最後に両者の思惑が食い違い、妥協点のないまま時間切れの特別国会に突入した。
【5】非主流「自民党をよくする会」は統一候補として福田赳夫を推し、主流派は多数派工作として野党新自由クラブとの連携を図り、特別国会に臨んだ。首班指名ではついに大平正芳・福田赳夫と一党から2人の総理候補が立候補する異常事態となった。一回目の投票では大平135、福田125票で飛鳥田一雄社会党委員長ら野党党首をかろうじてしのぎ、第2回投票(過半数に達しなかったため)では新自由クラブ以外の野党は全員棄権して大平138票、福田121票となり、何とか大平が内閣総理大臣に指名された。
【6】首班指名後、非主流強硬派からは脱党論も出たが、一応分裂は回避された。しかし、大平の組閣に非主流派は完全に非協力姿勢をとったため難航し、それに業を煮やした大平も人事で非主流派を冷遇するなど、党内にまだ抗争を残しつつ、翌年の内閣不信任案可決、衆参同日選に突入していく・・・・



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Ookouti tajima(Nakamura Akihiro) e-mail:VYL03226@niftyserve.or.jp