
旧暦の奇妙な細工
昔の人は訳の分からないことをしたものです…
前ページまでが、置閏法の基本です。
とりあえずの太陰太陽暦はこれで完成します。ところが、このような科学的な計算のほかにも暦にはさまざまな要素があったりします…
旧暦の説明については前ページのものまでで十分なのです。が、実際にはこの通りは造られていません。
以下は複雑なので読まなくても結構ですが、より深く旧暦を知るためのものです。
- (1)朔旦冬至
- ちょっと難しい言葉ですが、説明いたしましょう。
前項までに説明したとおり、閏月を置く間隔は、32〜3ヶ月に一度、つまり2〜3年に一度…もうちょっと正確に言うと19年に7度という説明をしました(235朔望月=6940.7388と、19太陽年=6939.6018日がほぼ同じことから、235−(19×12)=7つまり19年に7回)。
そのことから、19年という単位は旧暦において重要な単位ととらえられるようになりました。これを「一章」と言います(つまり1章=19年)。この1章の始まりをどこに置くかというと、今までにもさんざん出てきた最も重要な日=冬至十一月中が、ちょうど十一月の朔日になる年が選ばれました。これを「朔旦冬至」と呼び、一章の始まりであるため「章首」と称します。(当然その前の月は閏十月になります…理由は自分で考えてみましょう)
- で、その朔旦冬至は「一章」という重要な時間的区切りであるため、朝廷の儀式を行い、盛大に祝われるしきたりがありました。そのためにも暦は正確に計算されていきます。…が、正確に計算すればするほど一章は実はずれていきます。235朔望月と19太陽年は正確には一致しないからです(誤差は約二時間。覚えてますか?)。
- 暦に関する諸数値が研究によって緻密になっていくにつれて、この矛盾は増大していきました。そのため置閏法も従来の19年7閏ではなく、破章法と呼ばれる、もっと厳密な節気計算に基づくようになっていきます。
ところが、そうなると困ったことが起きました。章首から19年…つまり次の章首が回ってきたとき、冬至の日付が十一月朔日ではなく、後ろにずれて二日になったり、前にずれて十月末日になったりするようになったのです。そうすると盛大な儀式を行うことができません。そこで、全く非科学的ですが、朔の日付をずらして、朔旦冬至を人為的に合わせるようになりました。貞観二年(860)、永承五年(1050)などでこのような作為が行われました。 暦の計算上はまったく無意味で、儀式のために行われた作為と言えます。
- (2)閏八月を避ける
- 破章法によらない、19年7閏の原則だと、章首から始まった一章の最初の閏月は、32〜3ヶ月後ですから、3年後の六月か七月になります。
- ところが正確な計算をした結果、たまに八月に閏が置かれることがあったのです。別にどこに置いても構わないじゃないか、というのは今の感覚。いつの時代も官僚というのは前例のないことは嫌うもので、朝廷で暦を作っている陰陽寮の役人たちは前例のない章最初の閏八月を認めませんでした。そこで、これも人為的に朔日を一日ずらすことにより、閏七月にしてしまいました。これを「退閏(たいじゅん)」と言います。退閏は大治四年(1129)より応永二年(1395)に至るまで7回行われました。
- (3)四大を避ける
- 実は、一朔望月は29.53日であると説明してきましたが、これは平均値であり、実際の月の運行はもっと複雑で、時によって多少ずれたりします。暦の計算には二種類あり、平均値を用いる「定朔法」と厳密な計算で朔望月をはじき出す「経朔法」の二つでした。
- 定朔法によれば、29.53日つまり、29日の小の月と30日の大の月を交互交互に配置し、若干大の月が多い程度になりますが、経朔法では、まれに大の月が3ヶ月続くことがありました。さらにもっとまれに4ヶ月も大の月が続くことさえありました。これを「四大(しだい)」と言い、これも前例がないため不吉なものとされました。そこでこれも人為的に朔日をずらして三大にしたりしました。
- ただ、これはそれほど厳密ではなく、平安時代から江戸時代まで四大は8回ありましたが、四大を避けて朔をずらしたのが5回、そのまま四大を行ったのが3回ありました。
このように科学的には何の根拠もない作為的な「改暦」が行われたので、旧暦は複雑になり、素人の手に負えなくなっていきました。
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