日本の暦の変遷(3)〜そして太陽暦


今の暦になるまで


(1)明治五年改暦の儀

 明治維新を経て、日本は近代的な国家に生まれ変わりました。政府の機関も諸制度も西洋の先進国の制度を導入したのです。当然、国家予算も近代的な制度になります。そうすると、どうしても1年の長さを一定にして、欧米先進国に合わせる必要が出てきました。そりゃそうです。太陰太陽暦のままでは、閏月が2〜3年にいっぺんやってきて、その月は13ヶ月、385日になってしまいますから、予算編成に不都合です。また、欧米諸国との外交文書も日付がずれていると不便です。そこで、西洋諸国と同じ太陽暦を採用することが求められたのでした。

 太陽暦が採用されたのは明治五年十二月のことでした。暮れも押し迫った時期の改暦だっただけに反撥はかなりありました。暦を印刷する業者ももう来年の分を刷っちゃった後だったりしますし、準備も万端ではありません。しかし、新政府にはこの時期に新暦を採用せざるを得ない事情があったのです。その原因は新政府の予算不足と言われています。
 新政府は薩摩・長州などの藩閥と旧朝廷の政権であり、金がつねに不足していました。しかし、様々な制度を整えるために大量に官僚を補充したために給料が払えなくなりました。そこで、明治五年十二月二日の次の日を新暦の明治6年1月1日とすることで、十二月分の給料を払わなくてすむ、という工夫をしたのでした。

(2)新暦への反対

 新しい暦は、日本でそれまで千二百年にわたって使われてきた太陰太陽暦とは、全く性質の違う太陽暦だったため、違和感が大きく、さまざまな反対が生まれました。
 明治初年には「新暦反対一揆」などの農民一揆が起きています。農家が一年の農業のサイクルに使ってきた農事暦は旧暦が元になっているため、新暦では農業ができないというのです。しかし、農業にとっては本来、月より季節の方が重要なはずで、実際旧暦を使っていたといっても太陽暦要素の二十四節気が元になっていたはずですから、実は太陽暦にしても大差ありません。しかし、様々な制度が変わったことに対する新政府への批判は根強く、わかりやすい暦の改革がやり玉に挙げられたと言うべきでしょう。

 ほかにも新暦に反対する勢力はありました。それまで暦を作っていた連中です。実際、旧陰陽寮の役人などは幕府天文方がなくなり、暦も変わったために再び造暦権を我が手に取り戻そうという動きをしましたが、太陽暦は誰にでも計算できる簡単なものですし、暦の支配権は特定の誰かに授けるべきではないという方針から新政府はこれを許しませんでした。さらに旧来の日本的な迷信を取り除こうとしていた政府は、暦に大量に書き込まれていた暦注(次ページ参照)もすべて廃止するよう命令を出したのです。旧暦を造っていた人々の存在価値は完全になくなりました。暦はカレンダー業者になれば誰でも発行できるようになりました。


(3)グレゴリオ暦への変更

 明治五年の改暦は、上で見たようにドタバタしたなかで行われたため、肝心なことを忘れていました。閏日(閏年)のことです。皆さんご存じのように、太陽暦では4年に1回の割合で閏日を置きます。これは、1太陽年が365.2422日であり、約4分の一日ほど余ってしまうことから、4年分集めて1日余った分を挟み込む必要があるためです。
 ところが、正確には余った分0.2422×4だと0.9688日。正確な1日ではありません。0.0312日(=約45分)逆に足りなくなってしまうのです。このため、西洋で行われていたグレゴリオ暦では、400年に3回は閏日を置かないことにしてありました(それまでのユリウス暦ではこの措置がなかったために、1000年の施行期間のあいだに季節が10日ほどずれていました)。具体的には100年に1回(西暦が100で割り切れる年)は閏日を置かない、ただし400年に1回(西暦が400で割り切れる年)には閏年をおく、ということで400年に3日差し引くことにしたのです。しかし、明治五年の改暦ではこのことが考慮に入っていませんでした。

 明治も30年代に入ると19世紀もそろそろ終わる頃です。そのときになって、ようやく気づいた人が現れました。このままでは明治33年(1900)が閏年になってしまい、閏年にしていない西洋の諸国と1日ずれてしまいます。そこであわてた明治政府は、ギリギリになった明治31年(1898)、それまでの単純な太陽暦から、グレゴリオ暦に改暦する旨を公布し、翌年から施行されました。ここに、我々が現在も使用しているグレゴリオ暦がわが国で始まったのです。今の暦になってから、まだわずか100年あまりしかたっていないのです。


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