−七つの顔を持つ太守−
陳登(ちん・とう)字:元龍(生没年不詳)


 「三国志」にはどうも不可解な人物というのが結構いる。私が最初に腑に落ちない人物だと思ったのは前半に登場する徐州の陳珪・陳登父子だった。「三国志演義」によれば、彼らはもと徐州牧・陶謙に仕え、陶謙死後は劉備に仕えるが、呂布がこれに取って代わると、呂布に従っているように見せながら劉備のために呂布を追い落とし、逆にこれを滅ぼすことに尽力する。だがこれだけ劉備に尽くしながら(糜竺・孫乾ら徐州での同僚が劉備に従って臣下となったのにも関わらず)陳登は徐州にとどまり、曹操の配下となってしまうのである。まこと不可解といわざるを得ない。「三国志演義」で陳登が劉備陣営に加わらないのは、元になった史実での陳登が曹操陣営の人間(漢臣)だからなのだが、実は正史を読んでみてもこの陳登という人物、さっぱりとらえどころがない。

 彼が歴史上に登場したのは25歳の時。孝廉に推挙され、東陽県令に任命され、民をいたわり、老人を保護し、孤児を養うなど善政を布く人物であった。その評判を聞いた徐州牧・陶謙が典農校尉に任命した。彼は州内各地を見回り名産品を調べ殖産し、灌漑を行うなどの能吏ぶりを発揮する。これが彼の第一の顔であるが、これが本当の姿であるというわけではない。やがて陶謙が重病となり、劉備にその職を託すが、陳登は早速周囲の強力な豪族である袁紹への根回しを行っている。裏方での黒子ぶりも彼の一つの顔である。

 しかし、まじめな面ばかりでもない。劉備が呂布に攻められ、徐州が呂布の勢力下となると、陳登も呂布に仕えるが、これに心から従わなかった。呂布の勢力が盛んになることをおそれ父・陳珪とともに袁術との政略結婚を諫め、やめさせている。といって彼らは旧主・劉備についたわけでもない。彼は曹操のスパイとなったのである。陳登の裏の顔がここで登場する。呂布は曹操から左将軍に任ぜられたが、そのほかに徐州牧の職も望んでいた。そこで陳登を使いとして上洛させたのである。そのとき、陳登と曹操がスパイ契約を交わしたことが正史に記載されている。陳登は呂布が武勇だけで計画性がなく、まもなく滅びるだろう事を進言し、それを受けて曹操は、陳登に表面上は呂布に忠節を尽くすように見せて逐一呂布の様子を自分の所へ知らせるように命じた。まさにスパイである(このとき陳登は広陵太守に任命されたが、呂布が望んだ徐州牧は与えられなかった)。また、呂布を攻める布石として、機を見て軍をまとめておくようにとも命ぜられている。その後呂布攻撃に関して陳登が活躍したことは「三国志演義」でも語られている。呂布にとって陳登はまさに獅子身中の虫であり、陳登は埋 服の毒として活躍したスパイ太守でもあった。策謀家・陰謀家としての一面である。

 広陵太守としての彼は評判が非常に良かった。かつての能吏時代と同じく善政を布き、民に慕われている。彼が東城の太守に転任した際には彼を慕う民が密かに脱走して大挙彼に従ったという。というわけで、やはり立派な人物だった、と言いたいところだが、実は人間的にはかなり問題があったらしい。陳登が抜擢した逸材としては陳矯が知られているが、陳登は陳矯を曹操のもとに遣わした際、陳矯に許都での陳登の評判を聞かせたが、陳矯が正直に報告した内容によれば「殿は評判芳しくなく、驕慢なること甚だしい」という。陳登は「わしは陳元方(陳紀)の徳、華子魚(華[音欠])の礼、趙元達(趙イク)の品性、孔文舉(孔融)の学問、劉玄徳(劉備)の才略を尊敬しているのだ。どうして驕慢と言うことがあろう」と一笑して否定しているが、彼が驕慢な性格であったのは有名だったようである。呂布の配下で同僚として働いていた許[シ巳]が荊州の劉表に陳登の評価を聞かれた際も「彼は驕慢な気風が抜けきれない」と述べている(横にいた劉備がこれを否定しているが、上記の陳登の発言を見ても劉備と陳登は親交があり、彼をかばったものであろう)。善良な領主としての顔の一方で驕慢 な性格でもあった複雑な人物であったようだ。

 また、彼は意外な箇所でも正史に登場する。『魏書』「方技伝」のなかには天下の名医・華佗の往診カルテが記載されているが、その患者の一人が広陵太守陳登だった。刺身を食べて寄生虫に侵されて胸がつかえ、顔がてかりだし、重体に陥ったので名医華佗の診療を仰いだのである。華佗は即座に胃の中に寄生虫がいることを見抜き、特製の虫下し薬を処方して二升も飲ませたところ、陳登は果たして大量の寄生虫を三升ほど吐き出した。だが華佗は「この病は三年後に必ず再発するので安静に。」と予言して去る。果たして三年後に再び同じ状態となったが、このときは華佗がいなかったため、為すすべがなく亡くなったという。

 かといって、病弱で、か細い文弱体質の人だったわけでもない。呂布討伐の功績により彼は伏波将軍に任命されているが、かつてこの職にあり異民族征伐に大功あった馬援の名にも恥じない軍功を立てている。彼が太守を務めていた広陵は呉の孫氏との境界にある要衝だったが、彼はよく守り、よく戦った。孫策が挑んできた際には、陳登は自ら兵を率いて奇襲し、敵方の首級万単位を挙げて大勝した。再び攻めてきたときも陳矯を曹操の元に派遣して援軍を恃む一方、自ら兵を率い、火計をもって敵を脅し、城中で万歳を唱えさせて曹操の援軍が早く来たように見せかけ、敵が混乱したところに乗じて攻め入り、一万人の首級を挙げている。孫策が陳登攻めの最中に刺客に暗殺されたことから跡を継いだ孫権は弔い合戦としてやはり陳登を攻めたが、これもよく防いだ。彼が広陵から東城に転任した後、孫権が攻勢に転じ、曹操が嘆いたことからも陳登の軍事的才略が相当なものであったことが推測される。とても病中の人とは思えない活躍である。

 有能な官吏で、裏方外交官で、よき太守で、スパイで、病人で、驕慢で、優秀な軍人・・・彼の本当の顔がどれなのか。もちろん正史がすべて正しいことを伝えているわけではないから矛盾する記事があるのも不思議ではない。しかしやはり陳登は不思議な人物であった。だが、残念ながら華佗の予言通り寄生虫により三十九歳の若さで世を去った。七色の顔を持つ太守。長生きしていれば三国志物語により彩りを添える人物になっていたことは間違いない。(1998/11/18)


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