裴松之注について



 正史「三国志」は歴代正史中でも簡略な記述で知られる書で、それだけではわからないことが多い。そんな正史本文を補ってくれているのが裴注と呼ばれる、裴松之が注釈した部分である。逆に言うと、裴注が無ければ「三国志」の正史としての価値はほとんど無いといっても過言ではない。

 裴松之(372〜451)は三国時代からおよそ一世紀半後の東晋末から宋代にかけての史家である。宋の文帝の命を受けて「三国志」に大量の注釈をつけた。注釈の出典となった書物はそれまでに流布していた後漢末・三国時代についての史書・噂話集などで真偽もわからないまますべてを収録している。つまり、裴松之の意志としては「三国志」に冠する史料はこれだけあって、本伝と違っている部分・本伝よりも詳しく載っている部分としてはこういう本にこう書いてありますよ、とすべて提示しておいて真偽の判断は読者に任せるという姿勢なのである。よってどう考えても信じられないような記述でも平気で載せてある。これらの玉石混淆の中から真実の情報を引き出すのはまさに至難の業といえよう。

 たとえば有名な曹操の呂伯奢殺しの件がある。「三国志演義」では董卓のもとを去った曹操が逃亡の途中、叔父の呂伯奢の家に行ったところ、主人呂伯奢が酒を買いに行っている間に家人がもてなしのために豚を殺そうとしていたのを曹操が自分を殺すためと勘違いして家人をすべて殺し、逃げる途中会った呂伯奢までも殺してしまうという内容だが、正史「三国志」にはそんなことは一字もでていない。だが、裴松之の注に3つの書物を載せている。王沈の「魏書」には呂伯奢が留守でその子たちが曹操を脅して身ぐるみ剥がそうとしたのを逆に殺したと記す。郭頒の「世語」は呂伯奢の留守中、曹操が呂の子たちが自分を役所に突き出すのではないかと疑い殺したとある。また孫盛の「雑記」には「三国志演義」とだいたい同じような記述になっている。「三国志演義」の作者・羅貫中はおそらくこの「雑記」の内容を小説に取り入れたのだろう。このように裴注には様々な説が載せられているのである。

ちなみに上記のように様々な説を取り上げているため、裴注の分量は非常に多い。正史の本伝よりもよほど詳しく述べられているので体感では本伝の倍くらいの量があるような気がする。しかし実際に数えた人によると実は本伝の方がわずかに長いらしい。もっとも確かめようと思っても実際に数えたくはないけど…。


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