−西部戦線エキスパート−
郭淮(かく・わい)字:伯済(?-255) 出身:并州・太原郡陽曲県


 別項でも述べたが、「三国時代」と言っても、実質上天下の9割方は魏が支配しており、「魏時代」といってもいい。しかし、蜀や呉はそれぞれの存在意義のため、無謀ともいえる戦を魏に挑み続けた。呉はまだ魏の懐柔に乗るゆとりがあったが、蜀の方は魏を不倶戴天の敵と決めており、しばしば侵入してきたから、蜀と接する隴西・関中といった地域は国防上最重要地域となっていた。しかもこの西部戦線には異民族である羌・テイなどもしばしば侵入したため、魏軍の中でも重鎮クラスや猛将が多くこの地に駐屯してにらみを利かせていたのである。この地に軍司令官として赴いたのは夏侯淵・曹真・張[合β]・司馬懿など錚々たる面々だが、そんな中でも勲功第一の武将を挙げるとすればそれは間違いなく郭淮であろう。

 郭淮が「三国志」に登場するのはかなり遅い。既に三国の基礎が固まった時期、曹操が漢中征伐に向かった時である。元々郭淮は曹丕の近習であったが、このときの戦で活躍したのか、それとも司令官の夏侯淵と気が合ったのか、曹操が帰還した後も漢中にとどまるように命ぜられた。まさかこのとき彼もこの後40年間も故郷から離れたこの地に留まって蜀軍を防ぐことになろうとは思わなかったに違いない。
 さて、夏侯淵が蜀の黄忠軍に斬られたのは有名だが、そのときたまたま郭淮は病床にあって戦には出られなかった。しかし彼は病をおして全軍を指揮し、夏侯淵戦死で大混乱に陥る軍をまとめた。直後に劉備が攻めてきたときも諸将は群議で紛糾したが、郭淮は冷静に「ここは一歩も引かず、敵が川を半分渡ったところで攻撃すれば必ず勝てる」と主張。劉備はその陣を見てついに川を渡れずに撤退したという。戦においては大先輩に当たる劉備に対して一歩も引かず互角に持ち込んだことは彼の若い頃からの剛胆と知略を物語るのに十分なエピソードであろう。
 だが、彼の真価はむしろ曹操・曹丕死後の英雄不在時代にに発揮される。すでに文帝時代に関内侯・鎮西長史・征羌護軍・雍州刺史・射陽亭侯を歴任している。この間の彼の活躍は主に異民族・羌に対してのものである。たびたび反乱を起こす羌族に対し、彼はいちいち丁寧に鎮圧し、羌族が降ると情報を集めて親族・子供の数や年齢などをすべて覚えてから会ったため、心情を深く察することができ、羌族から慕われたという。こうして対蜀前線基地となるこの地域を平定した彼はついに諸葛亮の北征戦争と対峙することになる。

 諸葛亮やその後を襲った姜維にとって最大の邪魔者は曹真・司馬懿といった司令官よりも郭淮だったと思われる。それほど郭淮は堅く蜀の侵入を阻止したのだ。いわゆる第一次北伐は馬謖の失敗で蜀の敗北に終わったが、郭淮はこの戦いで馬謖の副将・高詳を討ち、蜀に荷担した羌の唐[足虎]を討っている。翌年の諸葛亮の出陣の際には形勢不利と見て撤退し、さらにその翌年、陽谿で魏延に敗れたが、彼の敗戦はこれくらいのものである。翌年(231)の諸葛亮の侵攻で兵糧不足に陥った際には羌族を手なずけて兵糧を充足させ、3年後諸葛亮が斜谷で司馬懿と対陣したときには、諸将の反対を押し切って司馬懿に「諸葛亮が北原を奪う前に先手を打って防塁を築くべきである」と進言し、果たして防塁建築中に蜀軍が現れてこれを迎撃した。さらに諸葛亮の陽動作戦を見抜いて陽遂を死守する働きを見せた。

 その後も幾度も蜀や羌の侵入を防いだ郭淮だが、その中でも最大の試練は247年の羌族大反乱とそれを利用して侵入してきた姜維の猛攻の連携攻撃だろう。隴西の餓何・南安の焼戈(この二人は小説「三国志演義」では餓何焼戈という一人の人物になっているが)・金城の伐同・西平の蛾遮塞・涼州蛮族の治無載が一斉に反乱を起こし、時を同じくして蜀の姜維が攻めてきたこの事件も彼の冷静な判断が光った。まず姜維を迎撃し、餓何・焼戈を斬った。次に陽動作戦を用いて治無載を破ると、すかさず治無載の妻子を人質にすべく西海に赴く。その途中に治無載に遭遇してこれを破った。だが、郭淮は敗走する姜維・治無載らを追わず、陰平にいた蜀将・廖化を討つべしと主張し、これを破ったため、この事態を全く予期していなかった姜維は大いに狼狽して撤退。それをまた夏侯覇に追わせ、散々にうち破った。まさに数十年間この地を守り抜いてきた郭淮の面目躍如といった場面だったろう。

 その後も幾度となく蜀や羌の侵入を防いだのち、郭淮は車騎将軍に任命されている。これほどの高官となっても彼は西部戦線に駐屯し続けた。これほどの長きにわたって最も重要な西部戦線を守ってよく防ぎ、しかも西部戦線でしか軍功のない将軍というのは郭淮くらいしかいない。まさに彼は魏の対西部戦線エキスパートであったといえよう。(1999/01/19)


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