−中央に反抗し続けた男−
韓遂(かん・すい) (?-215) 字:文約


「演義」と「正史」でまるっきり人物像が違う人は少なくない。魏の華[音欠] 、徐州の陶謙、演義の主人公劉備・・・西涼の地で反乱を起こし続けた男・韓遂もまたその一人である。
演義での韓遂は出番が至って少ない。并州刺史として登場し、董卓亡き後無法地帯となった長安に攻め込み、また、曹操の漢中征伐の際に馬超とともに反乱し、最後には曹操の離間の計で馬超と仲違いして曹操に降伏することになっている。いずれも主役は馬騰・馬超親子で韓遂は脇役のように見えるが、正史における扱いはどうだったのだろうか。
韓遂が初めて反乱を起こしたのは中平元年(184)で、以来部下に殺された建安二十年(215)にいたるまで実に三十年以上反乱を繰り返した男であり、そのしぶとさは一方の雄・劉備に勝るとも劣らないといえる。だが、この男が劉備と違ったのは常にナンバー・ツーの地位にあり、トップの首をすげ替えては反乱を起こした点である。元々彼は金城郡の名士であったが、どういうわけか西方の異民族・羌族の酋長である北宮伯玉らに担がれて反乱を起こした。このとき韓遂は自らはトップにたたず、同じ金城の名士・邊章をトップに据えて自らはナンバー・ツーに甘んじた。しかしこの反乱軍を牛耳っていたのが韓遂(当時は韓約という名だったらしい)であったことは2年後、彼が邊章・北宮伯玉らをことごとく殺していったことで明らかである。
次に韓遂が頭に据えたのは王國(姓が王、名が國)。涼州刺史・漢陽太守らを惨殺したが、どういうわけかまもなく王国も韓遂に殺されてしまった。
その次に韓遂とコンビをくんだのは馬騰であった。馬騰は右扶風を本籍とする漢人だが、実際には隴西の生まれで、父は漢人だが、母は羌族の出身であるという。この二人、「演義」では義兄弟のちぎりを結んでいるほど仲がいいと書かれているのだが、「正史」ではしばしばいがみ合っていたらしく、何遍も諍いを起こしている。建安十三年(208)に馬騰が引退すると韓遂は息子の馬超を新たなパートナーとした。
曹操の漢中攻めは建安十六年(211)のことである。曹操の真の目的は周瑜が劉備軍に用いようとした計画と同じ「途を借りてカクを滅ぼすの計」(あるいはカクを討って虞を取るの計)にあった。つまり、漢中を攻めるふりをして実のねらいは韓遂らの拠る関中においたのである。当時関中十部軍と言われた韓遂・馬超を始め李堪・楊秋・馬玩・成宜・梁興・程銀・張横・侯選ら(「演義」では馬騰配下になっている)は関中の地に割拠し、これをいちいち征伐するよりはいっぺんに始末してしまう方がよいという曹操の計略であった。この戦いにおいて韓遂は曹操と有名な「交馬語」を交わしている。戦場でお互い単身馬上にて会談することである。史書によれば韓遂の父と曹操は同じ年に孝廉にあげられた(役人に推挙された)というが、年齢的に考えれば無理がある。ともあれ、この「交馬語」によって馬超は韓遂に対して疑いを抱くようになった。果たして、韓遂・馬超らの連合軍は曹操に敗れている。その後、凱旋した曹操は人質にとっておいた韓遂の子・孫を容赦なく殺したという。
建安十九年には夏侯淵が派遣されて韓遂を攻めた。夏侯淵は直接韓遂を攻めずに西の羌族を攻めたので、羌族を主体とする韓遂軍はたちまちおびき出され、さんざんに破れたという。最後には韓遂の部下が韓遂の首を持って降伏した。病死したのか、部下に背かれたのかは不明であるが、三十年間中央に反抗し続けた男の最後にしては実にあっけない幕切れであった。(1996/01/22)


←それとも三国志のページに戻る