国号についての駄文


 三国志という書名は「魏書」「蜀書」「呉書」の3つの歴史書を合わせたところから来ている、というのは別項で述べた。が、その書名がそのまま国の名前である、というわけではない。少なくとも「魏」「呉」「蜀」という国名は、現在の我々がそう呼んでいる名前というだけであって、そもそも国を建てた当事者である曹丕や劉備・孫權にとっては、意識は別であった。少し国号について整理してみましょう。

☆国号は他国との区別

 そもそも「国号」というのは何の為にあるのかというと、他国と自国を区別するためにある。また、自国民を一つにまとめるためのものである。ゆえに、世の中(天下)に国が1つしか無い時には必要が無い。複数の国家が並立したときに初めて必要となるものである。支那において、国号が最初についたのは「周」である。もっとも史書によれば、それより以前に唐・虞・夏・商(殷)という国があったことになっている。が、この辺の時代は半ば神話がかっていて真偽は分からない。真偽は分からないが、おおかた「偽」のほうであろう。結局、紀元前12世紀頃、西の方(現在の陜西省)に住んでいた周という民族が、中原(黄河の中流域)に都市国家を作っていた商という民族を滅ぼして作った国家が「周」であり、これが最初の国号である。商の支配を廃止して新たな国を建てたために国号が必要になったものだ。で、自分たちが滅ぼした商族の国を「殷」と呼んだ。実際のところ、この辺が支那における「国号」の始まりといえるだろう。

☆地域ごとの国号

 この周という国は、後の王朝のような強力な国家ではない。実際には部族国家の連合体のようなもので、我が国でいえば幕府と同じようなものである。幕府は一応、御料所なり天領なりという領土はあるが、全土を支配したわけではなく、国土の大部分は諸侯(日本では守護やら大名にあたる)に与えて(これを分封という)、支配を任せてしまう。というよりも、全土を支配するだけの力がないから、力のある諸侯の実力を認めて任命する立場になることで、かろうじて諸侯の中の盟主の立場を守っているような存在である。周の支配の場合、(名目上)封土を与えられた諸侯は、それぞれの国の格によって「公」とか「侯」という爵位を与えられ、その本拠とする地名をつけて呼ばれた。魯のあたりに封じられたのが魯公、斉のあたりに封じられたのが斉公といった具合である。春秋時代を経て、周の力が衰えた戦国時代以降、これらの諸侯は勝手に「王」を名乗り初め、彼らの封土(領土)はそれぞれ王国となった。こうなると、周からお墨付きを得たという建前の領土名が「国号」に昇格する。かくして、国号は一気に増えることになった。

 ちなみに、これらの国号はたいてい1文字である。単音節言語の支那語では、地方名は1字の漢字で表すことが多く、後の時代になって2文字・3文字の地名ができるようになっても別名として1字の名が残っている。現在でも広東省は「粤」、山東省は「魯」、安徽省は「皖」という風に別名を持っているなど、各地方に1文字の名が残っている。春秋戦国の列国も、「魯」「斉」「燕」「衛」「曹」「韓」「魏」「趙」「呉」「越」「楚」「秦」「宋」「蔡」…と、唯一2文字である「中山」(異民族による王国)の例外があるほかは、ほとんどが1字であった。

☆帝国の国号

 さて、支那史上初めて天下を統一した秦の始皇帝は、周の失敗に鑑みて、諸侯の存在を認めなかった。強力な中央集権体制を築くべく、各地に郡を置くことになる。各地の王国はいったんすべて廃止された。ここで建前上いったん国号はすべて無くなり、太陽の下、すべての土地が「秦」となる。現在、「支那」「Sina」「Chin」「China」と称するのはこの「秦」が西方に伝わって訛ったものとされる。「皇帝」の称号をも生み出した始皇帝はまた、秦の国威を大いに誇るべく「大秦」と号した。以後、諸王朝は自らの美称として「大」の字を国号の前に配することが慣例となる。「大英帝国」「大韓民国」などと同様だ。

 ところが、秦による平和は長くは続かず、いったん楚漢の興亡という乱世を経て、「大漢」帝国の下、安定時代に入る。漢もまた秦の中央集権をまねることになるが、建国の功臣や皇帝の親族を処遇するため、一部「王国」を復活させた。呉楚七国の乱、武帝の版図拡大を経て漢王朝は長期政権となっていくが、三国志の動乱を経てその後、支那は歴代王朝が変転する時代に入り、漢→魏晋南北朝→隋→唐→五代→宋→元→明→清→中華民国→中華人民共和国…と、王朝が交代していくことは周知の通りである。

☆国号のつき方のパターン

 これらの歴代王朝の国号の付き方というのは、だいたい決まった黄金パターンがある。前の王朝からその領土に封ぜられた地を国号として名乗るのである。たいがい新たに王朝を建てるような人には、その前の王朝で宰相なり将軍なりの地位にあって功績を挙げ、領土を与えられた者が少なくない。たとえば三国志における曹操もそうである。彼は、漢の最後の皇帝である献帝から「魏公」に封じられた。曹操が後半生に本拠地とした「鄴(ギョウ)」がある地方はかつて「魏」と呼ばれた地だったからである。その後、さらに「魏王」となり、漢という王朝の中にミニ国家「魏」を経営する権利を得たところで死亡する。魏王の位を継いだ曹丕が、献帝から正式な譲りを受けて、新たに帝国を建てた時、国号は当然のごとく「大魏」ということになった。
 振り返れば、「漢」王朝も、秦を倒した功績により劉邦が、楚の皇帝から漢中の地に封ぜられ、「漢王」となったことからスタートしているし、後の統一王朝「隋」も鮮卑族王朝の北周の将軍・楊堅が「随国公」になったことが由来であり、続く「唐」もまた同じく鮮卑族の李淵が「唐国公」の位を得ていたことから付いた王朝名である。三国志で言えば、孫権も「大魏」帝国から「呉王」に封ぜられ、その後独立した際もその国号を引き続き名乗って「大呉」とした。

 創業の地、つまりその王朝を建てた皇帝の出身地の名前を取った場合もある。三国の「大呉」も上記のごとく、魏から与えられた国号でもあるが、それは孫氏一族が呉郡の出身だったことも大きい。呉国の基礎となったのは、初代皇帝の兄・孫策が地元の呉郡を本拠として飛躍したことがきっかけであり、その名を記念した「呉王」の号もその延長といえるだろう。南北朝時代の蕭道成も山東省(昔の「斉」の地)出身であったことから宋王朝より「斉王」に任ぜられ、その後「南斉」王朝を築いた。

 また、あまり例は多くないが、君主の姓を国号とすることもある。春秋時代の終焉から戦国時代の幕開けとなった三晋の分裂によって生じた韓・魏・趙は、それぞれ晋の国で権勢を競っていた豪族の姓をそのまま国号にしたものだし、五代南朝の最後である「大陳」は創業者・陳覇先の姓である。


☆同じ国号の呼び分け

 さて、王朝名の由来については、たいてい上記のようなパターンが多いのであるが、途中で都を移したり断絶して復活した王朝に関しては、都のあった場所によって呼び名が変わることがある。古くは一番最初の王朝(もどき)である「周」が、異民族に圧迫されて、都を西の鎬京から、東の洛陽に移したので、それ以前を「西周」以後を「東周」と呼んで区別した。
 漢も王莽の簒奪でいったん滅んだため2つの漢があり、長安に都を置いた「西漢」と洛陽を都とした「東漢」に分かれる(日本ではなぜか「前漢」「後漢」と呼ぶことが多いが、原則から言えば東西で呼ぶ方が正しい。「後漢書」の書名に引かれたものか)。三国志の時代を統一した司馬氏が立てた「晋」も異民族の南下に伴い、都を洛陽から建康に移したためそれ以降を「東晋」と呼ぶ。後の「北宋」「南宋」も同様だ(それぞれ都は開封と臨安)。

 ただし、これらはすべて後から区別をつけるために呼び分けた呼称であって、その王朝を支配した本人たちは「周」なり「大漢」なり「大宋」を名乗っていた。後の世の人が勝手に呼び分けているだけである。都を移して王朝を継続させた本人たちは、前の王朝が続いていると思っていたので、自称は「大漢」「大宋」で変わりはない。実際のところは、とても同じ王朝とは思えないほど、制度や人事が変化していることも多いので、呼び分けた方が便利ではあるのだが。

 そもそも何でこう呼び分けなければいけないのかというと、由来のところで説明したように、たいがいは昔の地名に従って王位に任命される(もしくはその後独立して皇帝になる)ため、過去に使われた地名が何度も使われることが多いからだ。

 たとえば「周」という国号(自称だと「大周」)。
 一番始めの王朝「周」も「西周」と「東周」で区別しているが、556年に南北朝時代の北朝「魏」が東西に分裂した際の西側も「周」と名乗り、690年に大唐帝国の高宗皇帝の皇后・武則天(則天武后)が建てた王朝も「周」。10世紀の五代の混乱の中で最後に郭威が建てた王朝も「周」だ。
 「周」というのは本来、だいたい今の西安を中心とした陝西省を含む地域で、この地の出身とかこの地に勢力を持った者が周王に任命されて王朝を建てると、いっつも「周」になってしまうのである。名乗った本人たちはそれで満足だろうが、後世から歴史を学ぶ立場からすると、同じ「周」を名乗る王朝がたくさんあるのは非常に不便なので、区別する必要が生じる。そこで上記のうち、北朝の周は「北周」、武則天の建てたのは「武周」と呼ぶことにし、また五代の王朝は「後周」として区別している。周だけでも元祖の東西2つと合わせて、計5つも王朝がある勘定になる。しばしば登場する王朝名として「漢」「秦」「涼」「燕」「宋」も多いので「後秦」とか「西燕」とか「南宋」とか「成漢」等々たくさんの王朝を呼び分けている。「漢」については後述しよう。

☆脱線〜その後の国号

 ここで三国志からすこし脱線。上記の命名法はだいたい10世紀の「宋」(北宋)までは、同じように続いてきた。しかしその後に「いわゆる漢民族」が立てた王朝でない「遼」や「金」が増えてくる。いや、それ以前も上記の鮮卑族をはじめ、漢民族以外が建てた国なんぞいくらでもあるのだが、たいていは漢民族の文化に染まってしまい、最終的には区別がつかないほどに同化してしまった。しかしこれ以後の王朝は、少し事情が変わっていて、単純に漢民族化せずに独自の民族文化を保ったまま国を運営している。国号のつき方にしても漢民族風以外の命名法が増えてきても不思議はない。
 「大遼」は、本来の国号は「キタイ」(もしくはキタン)という。漢字で書くと「契丹」だ。キタイ族の耶律阿保機(太祖)が建てた帝国である。あくまで彼の名乗った国号は「契丹」なのだが、息子の太宗(耶律堯骨)の代に、「大唐」の正統を継いだと自称する沙陀族の王朝・「後唐」王朝との間で支那支配の正当性を争う必要上、漢風の国号を追加した────なんせこの時期、純粋な漢民族の王朝そのものが無い。まあそれを言うとそもそも唐の太祖・李淵も鮮卑族出身なのだが────。
 で、その漢風の号が、なぜ前例の無い「遼」なのかというと、彼らキタイ族の本拠地を流れる大河「シラ・ムレン」を漢字で「遼河」と書くし、彼らの本拠は漢人の土地から「遼(はるか)に遠い」ため昔から「遼東」とか「遼西」などの地名がつけられてきたから、それを国号としたものだ。以後、この王朝は「キタイ」と「大遼」2つの国号を使用することになった。

 そして、アルチュフ川流域で、その遼国に従っていたジュシェン(女真)族の完顔阿骨打が、遼を打倒して作った王朝が名乗ったのは「大金」である。女真語で金(gold)を意味する「アルチュフ」を直訳した国号という、初めてのパターンだ。

 その後の王朝(大元・大明・大清・中華民国・中華人民共和国)もルールがちょっと変わってくる。まず、大元はダヤンと読み、モンゴル人の皇帝(大カアン)であるクビライ・カアンがつけた王朝名であり、宇宙の大いなる根元の意である。「金」まではまだしも地名からつけられてきた国号だが、ここでついに地名とは関係の無い、抽象的な概念から命名されるようになったのである。

 つづく「大明」も、もともとは「明王」という神様からついた名だ。明王といっても、仏教のそれではなく、白蓮教という当時流行した民間宗教の神様の名前だ。大元王朝はこの白蓮教徒に追い出されて、遠く故地モンゴル高原に退却してしまった。明の建国者である太祖・朱元璋もまたこの蜂起した白蓮教徒の下っ端から頭角を現し、ついに天下を取った人物である。もっとも、皇帝の座に就いた後は、手のひらを返して白蓮教を禁じてしまうのだが。

 「大清」はダイチンと読み、満洲語である。民族興隆の祖となったヌルハチは自らの姓「アイシンギョロ」から「アイシン国」を名乗った。アイシンは金(gold)を表すので、漢字では「金」。以前存在した金国と区別するために「後金」と呼ばれた。ヌルハチの子・ホンタイジの時に、民族名を「マンジュ(満洲)」とし、国名を「ダイチン・グルン」、漢字表記を「大清」とした。満・洲・清と、すべて「さんずい」偏の字が選ばれている。

 はじめて中華王朝らしくない国号を称したのは「太平天国」だ。もちろん天下統一はしていないし、短期間で終わってしまったので王朝国家として認めたくない向きもあるとは思うが、歴代王朝として数えられる中にはもっと狭い領土や短い国もあったのだから、これもれっきとした王朝である。この国は、キリスト教もどきに染まった洪秀全という落第書生が起こした反乱が元でできた国であるから、名前もキリスト教っぽく「天国」とし、「太平」をくっつけたのである。ここではじめて、国号は1字(「大」をつけると2字)という大原則は崩れた。

 中華民国もまた王朝と言っていい。皇帝の代替わりの方法が、これまでの世襲から、有徳者(?)による禅譲に代わっただけのことである。「中華」は「中夏」とともに「漢族の支配する地、またその民族」の意味で用いられた、古くて由緒正しい言葉である。初代の臨時大総統・孫文が政争に敗れて放り出された後、二代目の袁世凱が、一時期本当に皇帝を名乗ったため「中華帝国」になったが、反撥の大きさから形式的な帝国式をあきらめ、失意の死を迎えた。その後「中華民国」に戻している(形式は戻したが実態はさほど変わっていない。各地で軍閥が割拠する乱世に戻っただけだ)。
 この「民国」は「共和国(Republic)」の訳語であるが、孫文の唱えた「三民主義」の国、の意味も込められている。「三民主義」というのは、民族主義、民権主義、民生主義を合わせたものである(ちなみに民主主義は入っていないところがミソ。支那大陸では有史以来、現在にいたるまで民主主義政権なるものは成立したことがない)。民族主義は漢民族が支那を支配すること、民生主義は漢民族が自立した経済活動を行うこと、そして民権主義は民主主義と似ているが(実際混同している人もいるが)かなり違う。ヨーロッパの三権分立(立法・行政・司法)に、考試・監察という普通の国では三権の下に置く2つを同列に並べた「五権分立」による「共和制独裁」を意味する。この手前勝手な解釈による「三"民"主義」を掲げる国ゆえに「民国」なのである。現在でも「中華民国」は台湾に存在しているが、いい加減時代に合わないこの国名を修正した方が良いとして「台湾共和国」に直そうという正名運動(名をただす運動の意味)が起きている。

 中華人民共和国も「人民」とか「共和国」とかいう単語がくっついているので、近代国家と勘違いしてしまいそうだが、本質的には王朝であることにはさほど変わりない。この国は国教として一応マルクス主義(共産主義)という宗教を採用したため、その教義で革命の主体とされる「人民」を国家名につけただけの宗教独裁王朝みたいなものである。「共和国」とは「君主がいない」ことを意味する用語であるが、実際には中国共産党総書記(中華人民共和国国家主席ではない)が皇帝にあたる。


☆三国志における国号

 脱線が長くなりすぎたので元に戻って、三国志に登場する国号について説明しよう。

 まずは「漢」(三国志の時代には「東漢」)。
 秦の朝廷を倒した劉邦が、当時彼が属していた「楚」の皇帝から「漢中王」もしくは「漢王」に任ぜられたのが元である。楚としては、危険な劉邦を遠い田舎の漢中から巴蜀の地に閉じこめたつもりだったのだが、結局劉邦は目の届かない遠方で力を蓄え、やがて楚を滅ぼして天下を統一して、創業の地「漢」をそのまま選び「大漢」と称した。
 外戚の王莽が一時期、王朝を横取りして(新都侯に任ぜられていたため国号を「新」とした)滅びるが、やがて皇族の末裔・劉秀が王莽を倒し、光武帝として即位し、再興した。都の位置で区別して「東漢」と呼ばれるようになったのは既述の通りである。日本では「後漢」と呼ぶことが多いが、これは歴史書「後漢書」の名に引っ張られたものだろう。しかし「後漢書」という書名は「後漢の書」ではなく「後の漢書」の意味だから、後漢という王朝名はあまりよろしくない。何より、後漢という王朝が他にもあるのがいただけない。五代十国時代(10世紀)に同じ名の王朝がある。そのため日本では「ごかん」と「こうかん」と呼んで区別しているが、字に書いてしまえば同じなので紛らわしい。「東漢」と呼ぶ方が紛れがなくて良いだろう。もっとも五代の後漢は短命(実質4年)かつ弱小な王朝なので、そっちを変えちまえばいいという言い分もあるかもしれないが。

 さて。ではいよいよ三国志において曹丕・孫権・劉備が立てた王朝について。

 魏の国を作ったのは、実質的には曹丕の父・曹操であることは言うまでもない。曹操は乱世の中、流浪する皇帝を引き取って、自分の拠点であった許に遷都させている。しかし、最大のライバルである袁紹を葬った後、その拠点であった鄴を気に入り、以後は首都つまり皇帝の所在地であった許ではなく、鄴の方を本拠とした。
 功績多い曹操に対して漢皇帝は、曹操に「公」の位を授け、封土を与えることとなったが、当然その領土は鄴を中心都市とする魏郡が基となったため「魏公」とされた。のち、さらに王号を与えられて「魏王」となり、その領土は大漢帝国内のミニ国家「魏王国」となった。曹操の死後、跡を継いだ曹丕も当然魏王を継承したが、「禅譲」という手段(茶番)を経て、漢王朝から皇帝の座を譲られるに伴って(都は洛陽に移したものの)国号をそのまま「大魏」としたのである。「前王朝から与えられた地にちなむ国号」でもあるし、「創業の地にちなむ国号」ともいえるかもしれない。

 孫権もまた同様である。孫権は、内実は独立した政権を築きながら、表向きは曹丕の「大魏」帝国への臣従を続け、魏から「呉王」に封ぜられる。大漢帝国の中に魏王国があったのと同様に、大魏帝国の中に呉王国があったわけだ。やがて227年孫権は、しれっと魏からの独立を果たして、皇帝の座についた時、そのまま呉を国号とし「大呉」と称した。これもまた「前王朝からのネーミング」であり、孫氏一族の本籍は呉郡であるから「創業の地にちなむ国号」でもある。

 ところが、劉備の場合はちょっと事情が異なる。劉備が立てた王朝は、現在「蜀」と呼ばれることが多いが、彼は別に「大蜀」という国号を称したわけではない。それどころか新王朝を建てたわけでもない。曹丕が皇帝の位を奪ったという報が蜀に伝えられた際、漢王朝最後の皇帝(献帝)が殺されたという誤報を受け、漢王朝の血縁を引くと自称していた劉備が、漢の皇統を受け継ぐ形で帝位についたのである。従って当然、国号は「大漢」のままであり、劉備は献帝の次代の皇帝ということになる。またそれ以前に劉備は、劉邦の故事にならって「漢中王」となっていたから、その意味でも「漢」を名乗るのは当然であったろう。劉備や劉禅・諸葛亮らが称した彼らの国号はあくまで「大漢」であり、「蜀」ではなかった。
 では、なぜ今日この王朝が「蜀」の名で呼ばれるのか。都を移して復活した王朝には、都の位置による呼び名の区別をする、という原則があった。また元の王朝名と紛らわしい場合、区別するという意味もあった。それらの意味でこの王朝は「西漢」と言ってもいいが、「西漢」はすでにある。劉邦が建てたそもそもの漢帝国はその後光武帝が建てた王朝と区別するため「西漢」と呼ばれているのである。末っ子という意味の「季」をつけて「季漢」という呼び名もあるが、他に例が無いのであまりしっくりこない。そこで一番無難なのは「蜀(四川省)に移った漢」の意で「蜀漢」と呼ぶことである。それで後世から「蜀漢」と呼ばれることとなった。この「蜀漢」をさらに略したのが「蜀」である。

要するに、我々が今「魏」「呉」「蜀」と呼んでいる国々は、当事者の自称によれば「大魏」「大呉」「大漢」であったということである。

☆余談:自称皇帝・袁術の国号

 なお、これら三国以外にもこの時代、皇帝を自称した者がいる。袁術である。袁術が立てた国号については、正史の本文には記載が無い。そのためか誤解が多く、「成」という国号であったという説が、最近になって流布している。しかし、根據はどうも分からない。実際、彼の立てた国号はどうも「仲」であるらしい。らしい、としか言えないのは、「仲」という前後に例が無い名が、本当に国号なのかはっきりしないからでもある。ただし「成」とは違って根據はある。『三国志集解』によれば────

────(余話)歴史書「三国志」は、実にシンプルな本で、余分な説明や講釈が何もない。ある意味客観的ではあるが、必要な事柄が書いていない場合も多く、史書としては不十分である。そこで150年後、裴松之という人物が、本文に対して大量の注釈をつけた。それまでに流布していた(現在は散佚しているものも多い)この時代を扱った史書の記述を関連項目に挿入したものである。これが非常に有用で、実際現在通行する「三国志」のテキストには必ずこの「裴注」が加わっている。しかし、三国時代というのは非常に面白い時代であるゆえに、裴松之の後も同じように注釈を加えたり、論考したりする史家が多かった。それら三国志に関する古今東西の註釈を清朝の時代の盧弼という人が、集められるだけ集めて編んだ本が『三国志集解』である。────

 そこでは、もとの三国志の魏書・袁術伝にある「遂僭號」(勝手に皇帝を称した)という本文に対する註釈の中に以下のような文章がある。

范書術傳建安二年術因河内張炯符命遂果僭號自稱仲家、章懐注仲或作沖、錢大マ曰沖家猶沖人沖子也、當以沖爲是、沈濤曰仲乃術所僭國號其稱曰家漢氏之稱漢家耳、公孫述傳遂自立爲天子號成家亦是僭國號曰成也、云々…」

これでは何のことかさっぱり分からないと思うので、私が勝手に意訳すると...

(魏書袁術伝に引く『典略』では国号は「仲氏」とあるが)范曄の『後漢書』袁術伝には「建安二年、袁術は河内の張炯が差し出した天のお告げ文を根據として帝位を僭称し、"仲家"を称した」とある。
また、唐の章懐太子(李賢)の註釈では「『仲』は書写本によっては『沖』に作る」とある。
清の学者・銭大マは「沖家とは沖人・沖子の意味である(沖人とは天子のこと。出典は書経(尚書)盤庚篇。沖子も同じ)から、仲ではなく沖の方が正しい」という説を出している。
いっぽう、清の学者・沈濤の説では「仲は袁術の立てた国号である。国号を"家"とするのは漢代のみであり、後漢書の公孫述伝に『自ら立って天子となり、成家と号す』とある。これは国号を僭称して『成』としたものである」という。

 つまり、袁術が立てた号は「仲」もしくは「沖」であるらしい。しかし「沖」というのは天子のことを指す普通名詞でもあるから厳密に「国号」と言い切るのも無理がある。そこで「どうも『仲』だったらしい」という表現にしたわけである。
 なお、「成」であったという説は、おそらく上記の『三国志集解』(三国志研究の書としてもっともポピュラーなものである)の、ここの最後の部分を早とちりな人が読み違えて、袁術の国号が「成」だったと勘違いしたものであろう。正しくは「成」を称したのは袁「術」ではなく、その200年前に劉秀らと覇を争った公孫「述」の方であった。公孫述は成都を本拠として皇帝を自称した後、後漢の初代光武帝に滅ぼされた人物である。袁術と名前も境遇も似ているが、場所と国号はまるで違う。

以上、国号に関するつれづれでした。
(2006.12.09)


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