−「転職」の美学−
孟達(もう・たつ)字:子敬のち子度(?-227) 出身:涼州・扶風郡
黄權(こう・けん)字:公衡(?-240) 出身:益州・巴西郡[門/良]中県
平和な時代には忠義の士の伝説がもてはやされる。一方、戦乱続きで各地に群雄が割拠した「三国志」の時代には、忠義にこだわらず裏切りの人生を送った者も少なくない。典型的なのは呂布や劉備だろう。現在のサラリーマンがトラバーユするのと同じで、強い群雄(企業)についていきたい、今使えている君主(会社)はもうイヤだ、そんな感覚だから、裏切りと言うよりは転職といった方がよいかも知れない。しかし、そんなときももっとも重要視しなければならないのは、転職した後の方が今の境遇より良くなるかどうかと、転職するのに一番良いタイミングはいつか、ということである。上記の劉備や呂布はそういったビジョンがなかった(薄かった)。行き当たりばったりの裏切りを繰り返している。呂布が袁術の使者を斬ったとき、劉備が汝南で挙兵し曹操と決別したとき、彼らに明確なビジョンがあったとは思えない。
そんな中で、転職を重ねるという処世術でこの戦乱の時代を生きていた人物の中から2人の対照的な男を取り上げよう。孟達と黄權である。前半こそ、「劉備」というキーパーソンをはさんで二人は同じような転職人生を送るが、「司馬懿」という後半のキーパーソンをはさんで末路の運命は全く分かれてしまうのである。
二人とも三国志に初登場したときは益州の劉璋の配下である。孟達の父・孟他は「三国志演義」の冒頭に登場する十常侍・張譲と親しく、彼に賄賂を大量に贈って涼州刺史の座を獲得した人物。その子孟達は、建安元年(196)の飢饉の際、同郷の秀才・法正とともに蜀へ赴き劉璋に身を寄せた。だが、この二人は、劉璋が覇気のない上に見栄張りで乱世に生き抜く資質を持ち合わせていないということをすぐに見抜き、不遇を託っていた張松と謀議して新たな主を捜し求めた。三人の眼鏡にかなった人物は歴戦の勇者・劉備であった。法正や張松は言葉巧みに劉璋を説き伏せ、劉備を益州に招くことに成功する。
いっぽう、劉備が稀代の梟雄であることを理解していた黄權は、王累とともに劉璋に熱心に諫めている(「三国志演義」でも同様)。しかし、劉璋は聞き入れず、案の定益州は劉備に乗っ取られる。裏切り三人組のうち、張松は事前に露見し処刑されたが、法正はその知略により、孟達は兵馬の才により劉備政権で重きをなす。だが、諸城がこぞって降伏する中、黄權は自分の城を堅く守って抵抗し、劉璋が降伏した時点で初めて門を開いて降伏した。そうした黄權を見て劉備はこれも重く遇した。二人とも質は違うが、劉備にアピールする意味ではベストタイミングでの転職であるといえる。
裏切りに躊躇のない孟達とくらべ、黄權は忠義の硬骨漢に見える。黄權は劉備にも忠義を尽くすつもりだったようである。曹操が漢中の張魯を攻めようとした際、劉備の使者として自ら志願して黄權は漢中へ赴いたが、すでに張魯は降伏した後だった。そこで黄忠と合流し、策を以て夏侯淵を斬るという勲功を挙げる。黄權はそこで孟達とともに対魏最前線の太守を任され、防備に当てられた。
二人の運命がともに大きく動くのは、關羽が殺され、衝撃のあまり劉備が無謀にも呉に戦を仕掛けた際である。ここで二人は全く違う理由ながらほぼ同時に魏に転職するのだ。孟達は、関羽が曹仁・呂蒙連合軍に攻められて救援を求めた際、劉封とともにこれを無視した。劉封はもともと孟達と仲が悪く、孟達は身の危険を感じてあっさり魏に降る。一方黄權は、劉備が陸遜に敗れた後、退路を全く断たれてしまったため、やはりあっけなく魏に降る。魏では曹操から曹丕への代替わりの直後で新たに有力太守が降伏してきたことに大喜びした。それでも疑い深い曹丕は監察官を派遣し孟達を観察させたが、その報告が「将軍の器です」「大臣にもなれる器です」とあるのを聞き、大いに喜んで直ちに謁見を許した。曹丕は孟達に「君はまさか劉備の刺客ではあるまいな」と冗談を言ったという。ちなみにこのとき、以前やむを得ず魏から蜀に転職していた申耽・申儀兄弟が魏に再就職している。この大転職劇で一番割を食ったのは劉封だろう。孟達・申儀が裏切った責任を問われ、関羽を見捨てた罪を問われ、諸葛亮には讒言され、無惨にも処刑されてしまった。かつては劉備の養子であったのに… その一方で黄權は劉備にとっては大事な人材だったらしく「黄權がわしを裏切ったのではない。わしが黄權を裏切った(黄權は呉攻めを諫めていた)のだ」と、蜀に残された黄權の妻子は処刑しなかった。ここでも結果的にはこの転職は二人にプラスに働いたといえるだろう。
しかし、魏に降った後の二人は対照的な経歴をたどった。ここでのキーパーソンは司馬懿である。孟達の愛すべき主・曹丕がわずか四十で崩御し、親しかった桓階・夏侯尚らまで死去したことで魏国内での自分の立場が不安になってくる。隣の太守・申儀とも折り合いが悪い。蜀の諸葛亮はそこに乗じて、孟達を再び蜀へヘッドハンティングしようと試みる。ここで再転職を決断した孟達は、彼個人にとっては正解だったかも知れない。タイミングは間違えていなかった。しかし、魏にはその動きをいち早く察知した司馬懿という天才がいたのである。
司馬懿は孟達を魏にに引き留める手紙を出しつつも、明帝(曹叡)の許可も後回しにし、たった8日という電撃的速さで密かに孟達の新城郡に進軍し、これを急襲。わずか16日にして落城させたのである。哀れ孟達は処刑され、その首は都・洛陽の市中で燃やされた。
いっぽう、黄權はその司馬懿にたいへん高く評価され、親交を結んでいた。魏で、蜀に残された黄權の家族が殺された、という噂が立ったことがあった。しかし黄權は「私は劉備・諸葛亮と誠実を以て信頼しあった仲です。どうしてそんなことがあるでしょう」とまったく信用しなかった。そのようなことからも司馬懿は黄權を高く評価したのだろう。黄權に「君ほどの者は蜀にどれくらいいるのかね」と尋ねたことがある。黄權はすかさず「殿がそれほどまでに私を高く評価してくださるとは」と答えたという。司馬懿は大いに喜び、諸葛亮への手紙の中で「黄公衡(黄權の字)は快男児なり」(原文:黄公衡快士也)と書いて賞賛した。黄權にとって魏での暮らしは、実力者にも認められ、快適なものだっただろう。
似たような転職生涯を歩みつつ最後に運命を分けた二人の将星。様々な要素の判断を誤ればすべてが無駄になるという教訓なのだろうか…?(2000/06/11)
(*注1)孟達の字は「三国志演義」では子慶となっている。正史では子敬。劉備の叔父・劉敬の名をはばかって子度に改めたという。
(*注2)ちなみに黄權が蜀に残した子・黄崇は、のち蜀が魏軍に滅ぼされる際に、諸葛瞻(諸葛亮の子)の副将として力戦した。が、命を懸けた献言が容れられず、涙を流し、決死の戦いの末、戦死した。