正史と演義とは何か?
日本で言う「三国志」という書はおよそ2系統ある。 一つは西晋(265〜316)の史家・陳寿が著した歴史書「三国志」。ちなみに「三国志」という書名は別に陳寿がつけたものではない。彼が著したのは「魏志」「呉志」「蜀志」という3種類の書であり、後の人がそれらを一つにまとめて「三国志」と名付けたと思われる。これがいわゆる「正史」と呼ばれる三国志である。「正史」の名が示すとおり、「三国志」は「史記」から「元史」に至るまでの24種類の支那歴代正史の一つに数えられている。なお、「三国志」は正史の順番では4番目であるが、3番目の「後漢書」は実際には「三国志」より後にかかれている。
正史「三国志」の特徴はなによりもまず簡潔なところである。陳寿の性格もさることながら、戦乱の時代のために資料が少なすぎたためであろう。とにかく正史にはつきものの「志」(その時代の制度・文化・学問などを記した部分)が「三国志」には備わっていない(そもそも二十四史の中で「〜志」という名を持つのは「三国志」のみで、ほかの正史は中に「志」の部分を持っているのである)。あまりに叙述が簡潔すぎるため、150年後に裴松之という人物が注釈をつけた(裴注と呼ぶ)。これらは当時巷間に流布していた史書(ことの真偽性に関わりなく)を適宜挿入した注で、これがために「三国志」はかろうじて正史の体裁を整えたと言っても過言ではない。
もうひとつの「三国志」は元末明初の人、羅貫中が著した小説「三国志演義」で、こちらの方が一般的である。支那では「三国演義」と呼んで区別するが、日本では学者はともかく一般の読者は、この小説の方も区別せずにまとめて「三国志」と呼んでいる。これは上記の陳寿の「三国志」および裴注を下敷きに、当時までに蓄積されていた講談・小説・民間伝承・元劇などを膨らませて挿入し、一大叙事詩に仕上げた世界最高の文学作品である。よく「史実七分、創作三分」と言われるが、実際にはもっと創作部分が多いだろう。最近でこそ「史実を曲げて流布させた」だの「勧善懲悪を強調しすぎるあまり人間性に缺ける」だの言われているが、なんだかんだ言って面白さから言えば史実よりはずっと上である。これだけ偉大な作品を著した羅貫中という人物は実はよくわかっていない人である。もともと支那では立派な士大夫(知識階級)が学術書や歴史書ならともかく小説などを書くのは恥とされていたので、「羅貫中」もペンネームである可能性が高い。彼はこのほかにも「水滸伝」をはじめ、数多くの通俗小説を書いたことになっているが、もと
もと著作権などと言う考えのなかった支那のこと、この中でどれだけが本当の彼の著作であるかわからない。売れ行きがよければその作家の名前を冠して別の本を売ることは平気で行われていたからである。
要は「演義」は正史「三国志」に脚色を加え、話をおもしろくしたものであるから史実性は二の次である。当然嘘もいっぱい書いてあり、登場人物の中には必要以上に悪役にされた人もいれば、前任の鏡になっている人もいる。
しかしこれをもって「演義」は嘘を広めているだとか、「正史」こそが本当の歴史であるからこちらを読むべきだとか言わんばかりに「正史」の肩を持って「演義」批判をする人が(最近の「三国志ブームで)増えてきたが、それは大きな間違いである。「正史」とは「正しい(correct)」歴史書の略ではなく、「正式な(official)
」歴史書の略で、要は歴代の王朝が公認した史書というだけにすぎない。当然権力者にとって不都合なことについては筆を曲げている可能性もあり(というよりほとんどそう)、史料の少ない部分には史家の勝手な創作が多分に含まれている(前者はともかく、後者は特に悪事とは意識されていなかったらしい。むしろ潤色を加えて話に説得力を加えるのが史家の腕の見せ所といえる)。「三国志」でもたとえば諸葛亮が劉備と初対面の時に語った「隆中対」と呼ばれる長々とした献策が記されているが、同時にこれは人払いをした上で語られた内容とかかれている。では誰がこの二人の会話を記録していたのであろうか。もし後に誰かが伝え聞いて、それを陳寿に伝えたにしても、叙述は詳細にすぎ、またいかにも後の展開を見越した上の台詞であることから、この部分は陳寿の創作である可能性が高い。元々支那の史家には正確な歴史書を後世に残そうという現在の我々の常識はあまり意識されていなかった。むしろ儒家が説く「古代こそ理想郷」的な価値観によって前代の歴史を理想化することが当たり前になっており、士大夫層も実際の歴史よりも「幻想」の史実を重んじ、受け入れていたのである。よ
って「正史」が正確であるとはとても言い難い。「演義」よりは多少史実に近い、というのがほんとうのところだろう。私のページでも一応正史に基づいた文章を書いているが100%信用できるものではないことをあらかじめ明記しておく。