−南国の巨魁−
士燮(し・しょう)
字:威彦 (137〜226)
「三国志」という言葉に対して、幽州の公孫氏政権を加えて「四国志」という言い方をする人がいる。しかし、これは半分しか合っていないような気がする。実は北方に公孫氏の半独立政権があったのと同様、いやそれ以上の存在として南方の交州には士燮の半独立政権があったのである。
士燮の祖先は元々魯の出身だったが、王莽の乱の際に交州に逃れ、その地に土着したらしい。若い頃は洛陽に遊学して知識人と交わっていたが父が死ぬと、茂才に推挙され交趾太守として故郷に赴任した。弟の士壹は合浦太守に、士[黄有]
は九真太守に、士武は南海太守となり、まさに交州は士氏一色となったのである。
当時、交州は支那の中央からは遠く離れた地であり、その政治的な重要性はほとんどなかった。しかしすでに始まっていたと思われる南海交易ルートの要地として経済的な重要性は大きかったといえる。その地を士燮が独占していたのである。当然そのほかの実力者たちもこの地をねらっていた。荊州の劉表・劉備、呉の孫権といった面々である。荊州牧劉表は蒼[木吾]太守朱符が異民族の反乱によって殺され、その後任となった張津もまた部下に殺されたのをみると、配下の頼恭・呉巨をそれぞれ刺史・太守として派遣し、交州に進出しようと試みた。これに対し、士燮は朝廷(すなわち曹操)に働きかけ、交州七群の支配を後任させて安泰をはかった。のち呉巨は頼恭を追放し、蒼[木吾]を中心に地盤を広めようとして士燮と対立する。そんな中で交州に進出してきたのが孫權の勢力であった。
孫權は建安十五年(210)、配下の歩隲を使わして交州を支配下に入れようと画策した。長いものには巻かれろ、士燮はあっさりこれを承諾して孫権の支配を受け、それに対し呉巨はあくまで自立を選んで歩隲に殺されたのである。しかし、呉からも遙かに遠い交州の地を直接孫権が納めることはほぼ不可能であり、その意味において士燮の半独立性は守られた。交州の地は士燮が死ぬまで士氏の天下となったのである。士燮の死後、孫權は合浦以北を分割して広州とし、刺史となった呂岱によって士氏政権は滅ぼされてしまった。正式に孫權がこの地を支配し、南海交易ルートを手に入れることになったのである。
彼が拠っていた交州の地は現在のヴェトナムをも含む広大な地域であった。現在でもヴェトナムでは士燮(シー・ヒェップ)の名は漢字や儒学をもたらした恩人として知られている。千何百年も支那に圧迫されてきたヴェトナムの人々にとって、多くの支那人は憎しみを持って語られるのに比べると、彼は珍しい方である。(1996/02/11)