三国時代というのはとにかく異常な時代なのだ。

 皇帝が三人いる、というのは、そもそもの皇帝の定義からしてあり得ない。
 秦の始皇帝が定め、漢の時代に国教となった儒教が確立していった「皇帝」の概念は、ヨーロッパや日本で言うところの「皇帝」「天皇」とは全く違う。支那人の信仰の中心である「天帝」から、人間の住むこの世(宇宙全部)の支配を任されたもの、それが「皇帝」であり、そのために別名を「天子」という。文字通り天の子なのだ。
(余談だが「子」はむすこ、つまり男子のことである。むすめは「女」と書く。よく史書などで「無子」と書かれているのは「男の子がいなかった」というだけで、子供がいなかったということではない。「天子」も男であるべきなので支那史上それを唯一破って帝位についた周の武則天女帝は後世から非難されている。)
 天帝から支配を代行される存在はこの世で一人しかいない。同時に何人も皇帝がいてはいけないのである。「天に二日なく、地に二君なし」。歴代支那皇帝は諸外国の首長に対して王号を与えることはあっても、少なくとも建前上は支那以外の皇帝の存在を認めることはない(ちなみに「王」もヨーロッパの「王」(konig,king)とは全く違い、単に「公」の上の爵位のようなものでしかない)。三国時代にはそれが三人も現れたのだから異常なのだ。

 陳寿が著した史書『三国志』は「魏志」「蜀志」「呉志」の三部からなる。支那の正史は「紀」「伝」「表」などの部分から成るが、『三国志』には「紀」と「伝」しかない。戦乱の世で資料が少なかったせいだが、正史としては不完全である。しかも『三国志』では「紀」も「魏志」のみにしかない。後はすべて「伝」のみである。「伝」は「列伝」ともいい、その時期に活躍した人物の伝記が収められている。たいていは似たような数人が集められて一巻になっているが、特に重要な人物は一人で伝を立てられている人もいる。『三国志』では劉備・劉禅・諸葛亮・孫権・陸遜の5人がそうである。
 さて、一方「紀」の方だが、よく「紀(本紀)」は皇帝に関する「伝(列伝)」である、という人がいるがこれは全くの間違いである。皇帝の事績が「紀」に納められているのは確かだが、それだけではない。上記にあるように皇帝はこの世の支配を代行するものであり、具体的に支配するものは「空間」と「時間」である。皇帝は時間をも支配するから、皇帝の伝記はつまり、この世の中全体の時間の記録でもある。すなわち、「紀」には皇帝個人のことだけではなく、この世で起こった事件の内、列伝に書かれないことは原則としてすべて書き込まれるのである。ところで、上でも述べたように陳寿は史書を書くに当たって「紀」を「魏志」にしか設けなかった。これは当然である。空間(領地)は分割できても時間を分割することはできない。時間を支配する者が二人も三人もいてはおかしいのである。だから真の皇帝は魏の曹氏のみとし、後は「伝」にまわした。220年から284年までの期間は、土地こそ3つに分裂していたが、その間の時間は魏の皇帝が司っていたものである(と考えられていた)。となれば当然、その時間の 記録である「紀」は魏の皇帝のものしかあり得ない。
 ところが、実際には劉備も孫権も皇帝を自称している。皇帝の時間支配の象徴である年号と暦も独自に施行したのだ。年号や暦というのは皇帝が時間を支配している証として庶民に与えるものであるからこれも一つでなくてはならない。それがこの時代には三つもあったのである。まさに異常であったと言うほかない

 我々は後の時代のことを知っているから、それからのち、支那ではいくつも分裂期があり、何人もの皇帝が立ったことがあるのもあまり不思議に思わないが、この当時(三国時代)まではそんなことは皆無であったから、まさに一大事であった。いかに異常な時代であったかが分かろうものである。三国の主がそれぞれ「天子」を名乗る、その異常な事態は支那が古代帝国の時代から、さまざまな価値観を有する中世へ移り行く過渡期の幕開けを象徴するものであったと言えよう・・・




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Ookouti tajima(Nakamura,Akihiro)