参議院を廃止して貴族院を復活させよ


 バカ騒ぎで終わった7月の参議院選挙。今回もまたある言説が毎度のように叫ばれた。いわゆる「参院不要論」である。「そもそもなぜ衆議院のほかに参議院が必要なのか」「参議院は衆議院のカーボンコピーでよいのか」など、疑問は呈されたが、結局何事もなく参院選は行われ、終わった。
今回落選したものの、非常に良い主張をしていた候補がいた。前東京都知事の青島幸男である。「本来、参議院は衆議院と同じでない。政党や組織に関わりなく、衆議院のチェック機関として存在すべきであり、自ずから選挙のスタイルも総選挙とは違ってしかるべきである」と主張し、該当での選挙演説などはまったく行わず、自宅で政策の勉強をしていたという。この選挙活動は、彼が東京都知事選に出馬したときと全く同じスタイルである。彼の「主張」自体はまったく正しかった。が、選挙活動に関しては、一つ本質を勘違いしていた。現行の選挙法に則る限り、候補は有権者から離れて当選することはできない。有権者との接触を避けていては現在の参議院選挙に当選することはできないのである。今回、非拘束名簿式比例代表選挙が行われ、ますます選挙は人気投票の側面が大きくなった。大橋巨泉・大仁田厚・田嶋陽子…連なるタレント議員たち。青島氏自身もかつてはその中にあり、人気をバックに当選を果たしていた。人々は彼らに政治的役割を期待していない。知名度ゆえに「何かをやってくれそう」という実に曖昧漠然とした期待感により投票しているだけなのだ。だから後から、より人気を持つ候補が出てくれば以前の人気者は落選する。青島氏の落選は人気者の凋落という一現象に過ぎない。ただし、青島氏の主張は正しい。参院は、衆院のチェック機関であり、衆院とは違った性格を求められるべき者である。同じものなら二つある意味は無いのだ。

 さて、上記のような人気投票は衆議院の総選挙でも同様である。が、ここでは総選挙の人気投票的側面は問わない。問題は、参議院が衆議院と全く同様の選挙を行うことに、果たして少しでも意味があるのかということである。私に言わせると、現在の参議院選挙には全く意味はない

そもそも、なぜ日本は二院制を採っているのか。それは、戦前の帝国憲法が定めた衆議院・貴族院の二院制を引き継いだものであり、帝国憲法の二院制は英国の二院制を模倣していたからである。では、貴族院とは何だったのか。現行の参議院とどう違うのか。これを知らない人があまりにも多い。

 貴族院とは、衆議院が人民の投票による選挙で任命されるのに対し、天皇の名で政府が選挙し任命する議員からなる議院である。「貴族院」というと、その言葉の印象から、庶民の実情など全く知らない特権階級の貴族たちがお飾りの地位につき、たいした仕事もせずに高い給料をもらっている、といったような誤ったイメージを抱いている人が多い。が、これは甚だしい誤解である。戦前の貴族院は、衆議院と同等の権限を持ち、堂々と衆議院に対峙し、政党や軍部・財界などの諸勢力を超越した立場から、党争に明け暮れる衆議院の暴走を止める、文字通りの「良識の府」だったのである。断じて「お飾り」でも「特権階級の集まり」でもない。この誤解の元には戦前の「ノーブレス・オブリージュ」と戦後の「悪平等主義」という、「知性」に対する根本からの考えの違いがある。

 現在でも東南アジアやアフリカの民主化途上の諸国では、一般的な選挙が行われず、大統領の独裁や国軍による軍政が行われている国が少なくない。平和民主国家日本から見れば、このような独裁・軍政国家は民主化されていない未熟な国と映るかもしれない。しかし、民度が十分に発達していない社会においては、民衆が選挙で正統な指導者を選ぶ能力があるかどうか疑問なのである。教育をまともに受けられなかった環境で育った民衆にとって、自分たちの政治的代表を選ぶというのは、至難の業だ。まさにわかりやすい候補=人気のある候補をたやすく当選させてしまうポピュリズム(大衆迎合主義)に陥ってしまう。大衆の支持を受けた人気者は、しばしばその人気を背景に暴走する。アドルフ・ヒトラーがその好例である。だが、高度な教育を受けた層であれば、長期的視野に立った比較的正常な判断が期待できるはずである。これが上院(貴族院)の考えの元である。つまり貴族院の資格とは「金がある」「特権を持っている」ことではなく、金がある者にしか期待できない「高度の教育を受けている」という点にある(逆に言えば十分な教育を受けてさえいれば特権階級でなく高収入でない者でも構わないのである)。これら十分な教育を受けた者には「教育を受ける機会に恵まれた者・幸いにして収入を多く得られた者は、その境遇に感謝し、貧しい者・十分に教育を受けられぬ者を含む社会全体に対して、自らの知識・知恵・財産などを提供して奉仕しなければならない」という人生訓が幼少の頃からたたき込まれていた。いわゆる「ノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」である。この精神が貴族院を支えていた。
 だが、こう言うとエリート嫌いの戦後日本の風潮では「差別的」「傲慢だ」という批判があるかもしれない。が、それは単なる「ひがみ」でしかないのである。戦後日本人が「平等」の観念をはき違えてきたことは、今日様々なところで指摘される。特に教育問題について、それは顕著である。勉強ができる子・できない子、勉強をしない子・する子を同様に扱うという「結果の平等=悪平等主義」が、日本の児童全体の学力低下を招いていることはつとに指摘されている事実である。戦前のエリート教育は、そうではなかった。戦前のインテリは、最初から「ノーブレス・オブリージュ」を果たすべき人間を育てるために徹底的なエリート教育されたのである。現在においても、先進国・途上国問わず、このようなエリート養成が重視されているのに、日本だけが「悪平等」という思考停止に陥ってエリートを嫌う不気味な体質となってしまっているのだ。だが、国家の将来を担うべきエリートの育成は、国にとっての重大事項である。このような人物たちこそ「良識の府」にあって、人気投票で選ばれた代議士の暴走をチェックするのにふさわしいと考えられたのは少しも不思議でない。だからこそ貴族院には特権貴族だけでなく、学者なども議員として任命されているのである。

 もちろん、戦後の現代に「貴族」はいない。しかし政治意識も低く、政治への興味もなく、マスコミにすぐに影響されて政治家に不信を抱く(メディア・リテラシーすら知らぬ)ような大衆が選ぶ衆議院は、ポピュリズムにたやすく陥る。それに対して、政治・経済・国際関係に広汎な知識を持つ有識者がチェックを行う機関は必要である。それこそが「貴族院」に他ならない。今、必要なのは衆院と同じシステムで人気投票を行う参議院ではなく、真の意味でのチェック機関たる貴族院なのである。政府もしくは第三者機関によって、学者・財界人・官僚・言論人等々を選任し、あらたな貴族院(上院)を設置し、ただちに参議院を廃止すべきであろう

 もし、参議院が本当に衆議院とは別の、チェック機能を持った「良識の府」になろうとしているなら、衆議院と同じ選挙で選ばれた議員にその資格はない。もし、参院廃止・貴族院設置が無理なのであれば、せめて参院と衆院の選挙法を変えるべきである。上記のように、チェック機関としての上院議員にもっとも必要とされる能力は知識である。であるから、参議院議員の立候補資格に、国家試験を導入するのが良策であろう。もちろん、現在行われている国家公務員試験とは別体系の試験である。政治・経済のみならず日本史・世界史の知識、最新技術の動向、最低限の外国語(英語である必要はない)などの能力を広汎に問う資格試験に合格した(一定水準を満たした)者のみが参議院議員選挙に立候補できる、といったようなシステムに変更することが肝要である。こうすれば政治知識のなく意識も低いタレント議員が乱立することもなかろう。これは、決してエリート優遇ではない。日本の未来にとって、必要にして不可缺な措置である。(01/09/08)