★戦国時代を始めた男
細川右亰大夫政元
戦国時代は乱世であるので、常人ばかりでなく奇人にも面白い人間はたくさんいる。しかし、この細川政元ほど面白い奇人はそうはいないだろう。彼こそ「戦国時代を始めた男」の名にふさわしい変人である。
彼の父は中世きってのマキャベリストとして有名な細川勝元である。言わずとしれた応仁の乱・東軍総大将だ。ところで、彼は西軍総大将といわれた山名宗全入道の娘婿であったことはあまり言及されない。なぜなら、この夫婦には子供が生まれなかったからである。武家の女は、嫁いだ先で子をもうけるのが最大の仕事であった時代である。「嫁して三年子を作さざるは離縁」とも言われていた世である。結局、勝元は側室との間に一子・聡明丸をもうける。正室・山名の方が面白かろう筈がない。結局夫婦仲は不和となり、実家に追い返されてしまう(j事実関係が確認されないので保留)。応仁の乱の東西の両大将・細川勝元と山名宗全という婿・舅の亀裂はこのとき始まったとも言える。そしてこの聡明丸こそ、後の細川政元である。応仁の乱が戦国時代の始まりであったことはよく知られている。とすれば、この細川政元は、誕生からしてすでに戦国時代開始のきっかけになっていたといえる。
時は移り…細川勝元も山名宗全も死に、それでも無益な応仁の乱は続いた。結局、東西両軍が争った九代将軍の座は、最初西軍に担がれ、いつの間にか東軍が擁立していた足利義尚に決まった。が、この九代将軍は酒と女におぼれ、六角家討伐の陣中にあっけなく死んでしまう。代わって十代将軍となったのは、最初東軍に担がれ、いつの間にか西軍に擁立されていた足利義視の子・義材であった。しかし、政元はこの同い年の十代将軍とそりが合わなかったようである(それどころか将軍就任に猛反対した)。いや、政元だけでなく義材とそりが合うのは、かつての細川勝元の盟友であった畠山政長などを除けば、そんなにいなかった。特に嫌っていたのは元将軍夫人にして当時最大の実力者・日野富子である。じつは義材が将軍になれたのは、富子の推薦のおかげであった。しかし義材は、かつて応仁の乱で父・義視と敵対した富子に、何の相談もせず、父と共謀して独断で幕府人事を押し進めていったのである。無視された富子が面白かろう筈がない。結局、富子と政元は手を組み、将軍追放のクーデタを決行する。いわゆる「明応の政変」である。明応二年(1493)、将軍・義材と老管領・畠山政長のコンビは、政長の宿敵・畠山義就の子・基家を攻めるため、河内に出陣した。富子と政元のコンビはその隙に、鎌倉公方・足利政知(義政のもうひとりの弟)の子・清晃を還俗させ、義遐(のちに義高)と名乗らせ、十一代将軍として擁立したのだ。以後義材は各地を転戦しながら将軍復職を狙うようになる。将軍家の分裂は諸国大名の動揺を誘い、また将軍の首すげ替えは室町幕府の権威を失墜させた。この政変をもって畿内の戦国時代が始まったとする論者も多く、その首謀者・細川政元が「戦国時代を始めた男」の名を言われる所以である。
しかし、政元自身はこれほど執着して政権を握ったにもかかわらず、政治にはほとんど興味はなかった。むしろ、怪しげな修験道にのめり込み、空を飛ぶ法を学ぼうとしたと言われている。奇人・狂管領と言われるのはそのためである。修験道の修業のためには女人を近づけてはならないとされ、よって子供は産まれなかった。天下の諸事を司る管領ともあろうものが跡継ぎのことを考えないという非常識は当時としてはかなり異常で、政元は後先考えず一族や摂関家から澄之・澄元という養子を次々と迎え、それぞれが争うようになる。ついには政元自身も、澄之派の放った刺客により暗殺された。享年四十二。その後も細川家は内紛を続け、畿内の動乱、ひいては全国の動乱に影響を与えていったのであるから、まさに「戦国時代をはじめた男」にふさわしい生涯と言えるだろう。
細川政元の破天荒な性格は言動にも現れている。後柏原院の即位礼に対し、幕府へ資金援助が求められた際には「即位礼を挙行しても、実体のないものは王とは思わない、挙行しなくても自分は国王であると認めている」と言って支出を拒んでいる。当時としては驚くほど朝廷権威に対し無頓着であったといえる。政元は、朝廷の権限の一つである改元にすら口を出している。先に述べた「明応の政変」の「明応」年号は、新年号の候補選出・改元の日時・使用開始日限に至るまで、すべて細川政元が差配したのである。彼の権威無視は、公家だけではない。寺社にも向けられた。織田信長が比叡山延暦寺に火をかけ、根本中堂以下伽藍のすべてを焼き尽くしたことはよく知られているが、その70年前、明応八(1499)年に細川政元も、延暦寺根本中堂を焼き払ったことはあまり知られていない。(もっともその前に六代将軍義教もやっているが) 一方で、政元は新しく興隆してきた本願寺など一向一揆勢力をとことん利用している。政元は、自ら信ずる修験道は深く信仰したが、仏教勢力は利用する道具か打倒する敵としか認識していなかった。
修験道に凝って政治をおろそかにしながらも政権を手放そうとせず、彼自身が擁立した将軍・義高ともやがて対立する。当然、政元に反撥する諸大名との抗争も続いた。彼は何のために、自らは興味のない政権の座に執着したのだろうか? 細川家の血筋の故か、それとも自分を脅かす存在を認めたくなかったためか。とにかく、彼はさまざまな権謀術数を駆使して基盤を保持し、内部から滅ぼされた。破綻的な人格の典型といえるかもしれない。が、それだけに魅力的でもある。(01/12/24)
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大河内但馬守(中村彰宏)