| 1890年 | ベッテルハイムの沖縄伝道に多くの関心を持ち、熱心に祈り献金しておられたアラン夫人一家が世界一周旅行途中神戸に立ち寄られた。その時アラン夫人は、同じスコットランド出身バプテスト派の宣教師タムソン師と出会い、琉球伝道に関心を持って尋ねられた。帰国後のアラン夫人の支援の約束に促されて宣教師会は沖縄伝道に着手することを決議し日本人の伝道者を派遣することになった。 |
| 1891年 | 同年12月25日 原三千之助師沖縄講義所を開設 |
| 1899年 | 那覇バプテスト教会、教会組織 |
| 1911年 | 糸満と那覇以外にも首里、嘉手納、西原、垣花と各地に講義所が開かれ、会堂が建てられ,教会として進展していったが、太平洋戦争の戦況が厳しくなるにつれ、活動は縮小され、戦火により全ての会堂は失われることになった。 |
| 1945年 敗戦 |
信徒は四散し戦後復興を果たすことが出来たのは那覇教会のみとなってしまった。灰燼に帰し、全島が収容所状態の中から福音宣教の芽生えが始まった。教会への帰属意識もなく、信徒たちは讃美を捧げ、御言葉を読み、戦争の傷を癒していたのであった。県内に残っていた教職者たちのほとんどは戦死し、長老や執事たちの手で礼拝が行われ牧会がなされる時代が続いた。バプテスト教会にとって、廃墟の中疎開しておられた照屋寛範師の帰郷は大きな励ましとなり教会復興が進められることになった。1946年照屋寛範牧師は前原(現在の前原バプテスト教会)で伝道を開始、伊波盛次郎牧師は金武(現在の金武バプテスト教会)において開拓、近隣に多くの集会が持たれ、今日までにいくつかの群れは教会(数カ所の群れは教団の教会として存続)となっている。 |
| 1953年 沖縄キリスト教連盟からバプテスト派の離脱 |
キリスト教連盟の単一教会法人化の作業が進められる中、教会観の相違から多くの反対を押して照屋寛範、伊波盛次郎の両師は離脱を決意し、バプテスト派としての再出発となる。しかし,離脱は直ちに経済的な困難をもたらすのであった。半年後、思いがけないところから援助の手が延ばされてきた。それは関東学院の幼稚園から大学までの全生徒の10円献金がなされ、3年も続けられたことである。 |
| 1954年 3月 那覇バプテスト教会の復興 |
1944年10・10空襲で那覇市が灰燼に帰した後、那覇の旧市街地は長い間、米軍の管理の下に置かれていたが、開放され、区画整理された教会跡地に仮会堂兼牧師館が建築され、那覇市での伝道が再開され那覇バプテスト教会は復興されることとなった。 |
| 1955年 1月 沖縄バプテスト連盟結成 |
アメリカ・バプテストの宣教師ボーリンジャー師と関東学院を卒業されたばかりの山路一師が沖縄伝道のため赴任され、本格的なバプテスト教会としての伝道が展開され「沖縄バプテスト連盟」が結成されるに至った。同年12月には日本バプテスト連盟から調正路牧師一家が加わり、各地に伝道の拠点が形成された。駐留米軍のチャプレンや軍人の中には米国・南部バプテスト派の信徒が多く,英語教会も連盟に加わりその後の連盟活動への励ましに多大なものがあった。沖縄におけるバプテストの働きは、アメリカ・バプテスト教会と日本バプテスト同盟の共同の努力によって始められ戦前戦後の教会形成がなされ、1955年以降日本バプテスト連盟の支援、また、米国・南部バプテスト連盟の協力もあり、今日多くの教会・伝道所が生み出された。 |
| 1970年 本土復帰に伴う沖縄バプテスト連盟の存続決議 |
日本復帰が決まり復帰準備が具体化する中、各政党,企業等の団体は系列化の準備が進められていた。沖縄のバプテストもその方向性を論議することとなった。特殊な事情の中での宣教活動ではあったが、アメリカの二つの宣教団と日本バプテスト同盟、日本バプテスト連盟の支援を受けての伝道であり、復帰に伴う「沖縄バプテスト連盟」の帰属問題は真剣に論議が繰り返されたが分離帰属も困難な諸事情の中にあるとして、両宣教団、両同盟・連盟のご理解をいただき現状のままでの存続を決議し、その後も関係を維持しつつ今日に至っている。 |
| 1991年 | 1891年沖縄講義所開設以来紆余曲折はあったが宣教が続けられたことを感謝し、沖縄バプテスト宣教100周年記念式典が挙行され第2世紀への決意を新にして感謝の礼拝が捧げられた。 |