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フーロンは小さく溜息をつくと、もう何度も読み返した手紙をそっと畳んだ。 予想していた通りの言葉だけが端正な文字で綴られた手紙に、最初はとても落胆したのを覚えている。それでも他にすがるものがなくて、まるで祈りでも捧げるかの様に何度も何度もホウアンからの手紙を読んだ。 記憶を無くしたジョウイとの暮らしは、思った以上に長いものになっていた。 ツァイの小屋での暮らしの最初の一週間は、お互いに暗闇の中を手探りで進んでいるようだった。 あの日ジョウイには「今晩だけ待ってくれ」と言ったけれど、それで本当に動揺が収まるわけもなく、けれど約束をしたのだからと取り合えず最近の暮らしの事と、ジョウイが記憶を失うきっかけになったトラブルの事を話した。 キャロでフーロンの義姉のナナミと、もう一人、ゲンカクの道場を管理してくれていた男と4人で暮らしていること。その男に用事を頼まれて二人でトトの村に向かった事。その帰り道、一泊しようと立ち寄ったリューベの村で見知らぬ人に襲われたこと。他の村人を巻き込むことを恐れて山道に逃げ込んだこと。崖のそばでの戦いになり、ジョウイが足を滑らせて崖下に転落したこと。 たったこれだけのことを話すのにフーロンは三日かかった。 フーロンが考え考え話すのを、ジョウイは黙って聞いていた。時折何か聞きたそうなそぶりを見せたが、取り合えずフーロンが話し終えるまでと思ったのだろう、何も問い質したりはしなかった。 そして三日目、フーロンの話が一段落したところで「何故襲われたのか? 」と聞いてきた。 当たり前の質問だったが、フーロンは一瞬息を飲んだ。少しの間、本当の事を言おうかどうしようかと悩んで、結局半分だけ本当の事を言うことにした。 二人の手に宿っている紋章を探している刺客に襲われたと言うこと。そして二人の右手に宿っているのは27の真の紋章の中のひとつだと言うこと。 そう言うとジョウイは驚いたように手袋に隠された自分の右手を見ていた。じゃあ今ここに真の紋章の中の二つが揃っているのかと聞いてきたから「この紋章のことはジョウイのほうが詳しかったのに。」と泣きたいような気持ちで、この紋章は本来1つのもので、それぞれ別れた状態では不完全であることなどを話した。 「不完全なものでも欲しいと思う人がいるような物なんですね。」 とジョウイが言うのにあいまいに頷いた。その様子にジョウイは少し不思議そうに首を傾げていたが、それでも納得したように紋章についてはそれ以上何も聞いてこなかった。そのことに少し安堵しながら、フーロンは二人が襲われた本当の理由を隠していることに少し胸が痛んだ。 二人を襲った人の本当の狙いは紋章ではない。紋章は二人の、正確に言えばジョウイの身元を確認する手掛りのような物だ。 彼らの狙いはジョウイだった。 「その手紙、何度も読んでるね。」 物思い沈んでいるフーロンの耳にジョウイの声が聞こえた。顔を上げると湯気の上がるカップを持ったジョウイがフーロンの顔を覗き込んでいる。日が沈んだら少し冷えるね、そう言いながジョウイがカップを差し出す。 「うん……」 フーロンは少し苦笑しながら手を伸ばしカップを受けとるとそれを口に運んだ。香茶の良い香りが口の中に広がる。 これはフーロンの好きなお茶だ。 ホウアンに手紙を出す前にこの森に住むキニスンと少し相談し、日常の生活の中でジョウイが反応しそうなものには積極的に触れさせようと言うことになって、ニンジンを始めとする食材や雑貨に混じって数種類のお茶があった。キニスンに言わせると「気が張る毎日になるだろうから、少し気持ちをゆったりさせるものもあったほうが良い」と言う理由で、その中にこの香茶と、ジョウイの好きな紅茶もあった。ジョウイに記憶はなかったがそれは以前からの習慣で無意識に食事はフーロンの受け持ち、一息入れるときのお茶はジョウイに受け持ちとなり、どんなお茶を入れるかは完全にジョウイに任せる形になった。 それなのにジョウイがお茶を入れるといつもこの香茶を出してくる。記憶をなくしてからジョウイに自分がこのお茶を好きな事を伝えたことはなかったから、これは意識していないだけでジョウイの記憶がさせている行動なのだろう。ニンジン嫌いも、そしてそれをこっそり回避しようとする所も記憶をなくす前と同じで、それがジョウイが完全に以前の記憶を無くしているわけではないことを物語っている。 そのことを少し切なく思いながらフーロンは手紙をジョウイの方に押しやった。 「読んでみる?」 フーロンがそう言うとジョウイは少し戸惑った顔をした。 「でも……君宛の手紙だろう?」 そう言って手紙を返そうとする手を押しとどめる。 「君の事にについて聞いた手紙の返事だから……どうかとも思ったんだけど、君の今の症状がどんなものか、君自身が知っておくのもいいかと思う。」 フーロンの言葉にジョウイは躊躇いがちに手紙を開いた。読み進めるにつれ、その眉が微かに顰められてゆく。手紙を読み終えるとジョウイは先ほどのフーロンを同じような小さな溜息をついて丁寧に手紙を畳み、フーロンに返した。 「つまり僕は難しい状態なんだね?」 静かなジョウイの問い掛けにフーロンは目を反らしながら頷いた。 「この先記憶が戻るかどうかも分からない……その手紙によると……」 ジョウイが視線をフーロンから手紙に移しながら言葉を続けた。 「ここにじっとしているよりも旅に戻った方が良さそうだけど……」 ジョウイから視線をそらし、目を閉じていたフーロンは少しの間黙って考えていたが小さく息をついた。 「君もそう思うんだね……?」 呟く様にそう言うと手の中のカップを揺らしながら更に何か考えるように首を傾げ、お茶が冷たくなる頃になって漸く口を開いた。 「君の記憶はまだ戻っていなくて……本当を言えばここを動かないほうが良いように思う……キニスンがシロと調べてくれた限りでは、もうこの辺に怪しいやつはいないらしいし……ただ……」 次の言葉を紡ぐのを僅かに躊躇ったあと、溜息をつくように「ここにいても記憶は戻らないと思う」そう、フーロンは言った。 「……うん 」 「だから……物凄く危険だけど……ミューズ……ホウアン先生の所に行ってみようと思う。」 頷くジョウイに、まるで自分の気が変わる前言ってしまおうというようにフーロンはそう言った。 「この手紙の人?」 「うん……手紙には書いてないけど、ホウアン先生はジョウイとも会った事があるんだ、だから……」 診察を受ける以上に、ホウアンに会うことがジョウイが記憶を取り戻す切っ掛けになるかもしれない、フーロンはそう言った。 「でも、危険なんだろう……?僕が記憶を無くしてるから……」 「うん、だけど……なんとか出来ると思う……」 ジョウイの言葉にフーロンはぎゅっと目と瞑りながら言った。 「本当にどうしようもなく危険ならホウアン先生は僕に遊びに来いなんて言わないから……そうだよ、あの先生なら僕が何を避けようとするか分かってるはず……」 目を閉じたまま言った言葉の後半はむしろフーロンが自分自身に言い聞かせているようだった。ジョウイはそんなフーロンの様子をじっと見つめ、自分も何か考えているようだったが、一つ小さく頷くと言った。 「君がそう思うんなら、その…ミューズだっけ?そこに行ってみようよ。ただちょっと聞いてもいいかな?」 「何? 」 「記憶のない僕が街に行くと危険なのは何故だい? 」 ジョウイの言葉にフーロンは何度か口を開きかけて、それから思案するように口を閉じた。それから暫く黙り込み流石にジョウイが焦れ始めた頃になってようやく 「今の君には自分を狙っている人を見分ける事ができないから。」 とだけ言った。フーロンの言葉にジョウイも何か言おうとしたが結局は 「じゃ、君の側を離れないようにする。君なら見分けられるだろう?」 とだけ返した。 「じゃ、さっそく準備しないとね、遠いんだろう?朝早くに出ないと……」 ジョウイがそう言いながら立ち上がると、それまで俯いていたフーロンは流石に顔を上げ苦笑を浮かべた。 「遠いよ、一晩じゃ準備が終わんない位に……この小屋のこともキニスンに頼まなきゃいけないから……早くて明後日だよ、出発。」 フーロンがそう言うとジョウイは僅かに顔を赤らめた。 「気が急くのは分かるけど……今晩は休んで、明日早く起きて準備を始めて、それから一晩休んで出発しようよ。」 「………ごめん………」 ジョウイは恥ずかしそうに言うとフーロンのカップを奪い取った。 「これ、洗ってから寝るから、フーロン君は先に休んでて。」 そう言うのにフーロンは苦笑を浮かべたままカップを取り戻すと「今日の洗い物の当番は僕だよ」と言ってジョウイを寝床の方に追いやった。 カップを奪われたジョウイは僅かに逆らうように後ろを振り返ったが、既に水場で洗い物を始めたフーロンを見て小さく肩を竦めた。簡単に寝る支度をし、寝床に身体を横たえかけてから、こちらに背を向けているフーロンに向かって何か言おうとし、微かな息をつくとそのまま布団の中に潜り込んだ。 眠りにつくまでの僅かの間、ジョウイは胸に浮かんだ微かな疑問の事を考えた。 ホウアンからの手紙には戦争と言う言葉があり、それを見たときに妙に胸が騒いだ。文面からフーロンがその戦争中、ホウアンと言う医師と一緒にいたことは分かるのだが、自分もそこにいたと思える文面ではなかった。ジョウイの記憶について語る時、フーロンはかなり考え躊躇しながら話していたし、その雰囲気から全てを語っているわけではないのだろうと薄々感じていた。ただ漠然とずっとフーロンとその義姉のナナミと言う少女と一緒にいたと考えていた。しかしあの手紙を読んだとき、その考えに少し疑問が生じた。 (フーロン君は一体、僕に何を隠してるだろう……) そんなことを考えながらジョウイは眠りに落ちていった。 そしてその晩から、ジョウイは恐ろしい夢を見るようになった。 |
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続く
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