安達論文「神様は、貴方に何を期待しておられるか」
第1章、科学的真理の中に神様のお振る舞いを探す
(4) 淘汰原理と生態学的相互扶助
第2節 生命の誕生と神様
1 生命の進化
進化システムというものが、遺伝子の自己複製や種の確立のような、その設計情報を維持伝承する機能(情報維持機能)と、突然変異や有性生殖のような、その設計情報を変化させる機能(情報変化機能)の、矛盾対立した二つの機能による弁証法的構造になったシステムであることは前述した。ところで、そうした《維持》の機能と《変化》の機能だけでは《進化》というポジティブな変化動態は実現して来ない。《進化》にはもう一つ《価値選択》というようなことが行なわれる必要がある。《進化》というのは、正しくは《維持と変化と選択》の三っつの機能が鼎立した構造(かたち)のシステムが出来上がって、初めて起こる動態なのである。そして《生物の進化》において、神様が専ら使用された《価値選択》の機能は、言うまでもなく《淘汰原理》であった。
生物の淘汰論的進化については「キリスト教のダウイニズム否定」「ダウイニズムを悪用した政治思想(ナチズム等)の出現」「淘汰原理による進化を肯定すると戦争を肯定することになる」等々のことがあって、今はそれは、かなり歪曲されて伝えられ、巷間で売られている生物進化に関するペーパーバック等は、マックス・ウエーヴァーの『価値自由の原則』を犯して、真理を曲げ、倫理教材化したイソップ物語的なものになってしまっているものが多い。そういうことで、ここでは、生物の進化において《淘汰原理》が、実際にどのような機能の仕方をして来たかを、改めて、覚(さ)めた頭で、検討して見ることにする。
[ダウイニズムの誤解] 淘汰原理による進化を、今でも、弱肉強食,優勝劣敗という価値選択で進展していく進化のように考えている人がいるらしい。20世紀初等には、生物の進化は、最後には「最も優れたものがただ一種のみ勝ち残り、それをもって進化が完了する」というような考え方(ネオ・ダウイニズム)が、かなり支配的だったようである。ニーチェの《超人》の思想にもそれが内包されている。ニーチェは、人類は未だ未完製品で、人類の中から、現生人類より更に進化した《超人類》が現れ、それが次の時代を支配するというように考えた。ドイツのナチズムは、それを受けて、ドイツ人こそが、ニーチェのいうその《超人類》的民族だとして「ドイツ人が世界を征服すれば、淘汰原理による進化が完了し、真の世界平和が訪れる」というように考えた。そして、その《超人類》による淘汰の手始めとして、イスラエル人の虐殺等が行なわれた分けである。
[生態学] 生物の進化の実際は、決してその様にはなってはいない。生物界には、いわゆる万物の霊長である人類もいるが、同時に、生物誕生の最初に現れた珪藻などの、構造が極めて単純な下等なタイプの生物も、厳然と生きているのである。そのように、あらゆる進化段階の生物が、同時に勢揃いして生存しているような状況になることを《多系進化》と呼んでいる。そして、そうした実際を見て、学術界には、新たに生物の相互扶助的側面を研究する生態学が現れてきた。
生態学(エコロジー)というのはE・ヘッケルの造語である。オイコス(住む)というギリシア語から作られたものである。
ところで、今度は、ナチズムを敵視するリベラリズムやソーシャリズムのシンパサイザーであった学者たちが、政治的にネオ・ダウイニズムを否定するための武器として、その生態学(エコロジー)を利用するということをやり始めたのである。その結果、生態学(エコロジー)にもまた、極端に平等主義,平和主義に偏し、淘汰論的進化を完全否定するような、行き過ぎた理論が現れてきた。そうした行過ぎの生態学を、私は、ネオ・ダウイニズムに準(なぞら)えて、ネオ・エコロジーと呼ぶことにしている。
[生存闘争から最適者生存へ] ダーウィンは『種の起源』の第3章の生存闘争の項で「自然界を通じてのあらゆる動物の複雑な関係」という小タイトルを付けて、多量の観察例を上げ、生物界に相互扶助的な関係が存在することを説明している。生態学も、最初の提唱者は、やはりダーウィンだった分けである。ネオ・ダウイニズムというのは、そうした内容をも包含している『種の起源』を正しく熟読せず、その中の《生存闘争(Struggel for Existence)》という語だけを捕えて、そこから極論したところの、言わばダウイニズムの消化不良患者の思想だったのである。ダーウィンの『種の起源』は、生態学的メカニズムをも十分加味した、弁証法的な学術理論になっており……マルクスが『種の起源』を読んで、エンゲルスに、唯物弁証法的な理論の本だと称賛したという話は有名である……それは、デカルトの『方法序説』に照らしても、科学の手本ともいうべき書物なのである。
ダーウィンは、『種の起源』の初版から4版までは《生存闘争(Struggel for Existence)》の語を使用していた。その後、親友であったA・ウオーレスの奨めで、5版から、それを《最適者生存(Survival of the Fittest)》の語に訂正した。ダーウィンは、『種の起源』の第5版の6章に「ハーバート・スペンサー氏の用いておられる最適者生存の語の方が、正確であり、ときには便利でもある」と書き込んでいる。
[多系進化になった理由] 葉緑植物が現れて、地球の大気が遊離酸素でいっぱいになった。そこで、遊離酸素を吸って生きていく動物が出現してきた。生物の進化は、凡そそういう具合で行なわれてきている。即ち、通常は、後進の生物は、先進の生物の存在を前提にし、それに依存して出現してくるものなのである。そのように、後進者と先進者の間に依存関係があるとすれば、先進者は、それが如何に下等なものであっても、当然、その生存が保証されることになる。そういうことで、この地球上では、あらゆる進化段階の生物が勢揃いして生存しているという、いわゆる《多系進化》状態になったのである。
この依存関係についてネオ・エコロジストは、「獲物をとり過ぎて、獲物が絶滅したりすると、己も絶滅する羽目になる。だからライオンは、決して無闇矢鱈と獲物を捕ったりはせず、食うに必要な量しか捕らない」というように解説して、資源の取り尽くしなどをやらかす人間を戒めるようなことを言っている。だがこれは、マックス・ウェバーの価値自由の原則を犯した、道徳教育の教材造り的曲学の典型である。
ライオンには、獲物が絶滅することを心配するような心はない。また、己の絶滅を恐れるような心もない。ライオンは、捕れるものなら、もっと沢山獲物を捕りたいと思っている。しかしライオンにはその実力はなく、生きていくすれすれの量の獲物しか取れないのである。ライオンの獲物は、有蹄類の幼児か老獣である。成獣には、ライオンの足ではとても追い付けないので、それを捕(とらえ)ることはできないのである。なお、幼児や老獣を狙ってさえ、ライオンの狩猟の成功率は、6分の1というような状況だという。
人類の戒めに、動物のロマンを使うことは結構である。だがそれは、イソップ物語やわが国の歌舞伎の『連獅子』のように、科学としてではなく、文学や演劇で行なうべきことで、エコロジー(生態学)のような科学の分野でそれを行なうのは、甚だ好ましくない。
[食い尽しの心中的絶滅もあったはず] この捕食者と被捕食者の場合、かっての化石時代には、食い尽しをやらかして、両者諸共心中的絶滅をしてしまったものも沢山いたに違いない。多系進化のお陰で、生きている化石と呼ばれるようなものも沢山生き残ってはいるが、しかし、それより遥かに沢山の種が、化石だけを残して絶滅して行っている。そして、その中のかなりのものが、食い尽しによる心中的絶滅だったようである。
大流星で絶滅したといわれている恐竜も、その流星で絶滅したのは、トリケラトプス等の有角恐竜で、プロントザウルスなどの草食恐竜は、流星落下よりも一千万年も前に絶滅している。丁度 その頃に、温暖な地域では、裸子植物が絶滅し、被子植物が繁栄を開始するという、植生上の革命が起こっている。ところで、何故そうした植生の革命が起こったのかが分からない。そうしたことから、一説には、草食恐竜は、温暖な地域の裸子植物を食い尽して絶滅したのではないかと言われている……被子植物は、恐竜には毒なので、それが食えなかった。トリケラトプス等の有角恐竜だけが、被子植物が食えるように進化した恐竜だった……そして、ティラノザウルス等の肉食恐竜の絶滅は、草食恐竜の絶滅による連鎖倒産的絶滅だったようである。連鎖倒産といっても、結局それも食い尽しの一種である。なお、病原体による絶滅の場合も、諸共に心中的絶滅になる。そして、これも食い尽しの一種と言えよう。
食い尽しをやらかす奴もいる。そいつらは心中的絶滅をして、淘汰されていなくなる。食い尽しをしたくても、その実力がなく、細々と生き永らえる者もいる。結局そうした者達だけが、後世まで生き残ることができた。それが、生物の進化の実際だったのである。
[依存関係のない場合] 《多系進化》を依存関係だけで説明するのは正確さを欠く。葉緑植物は、嫌気性のバクテリアより後進に属する生物だと思うが、葉緑植物は、嫌気性バクテリアには依存関係がなかった。だから、多分、多くの嫌気性のバクテリアが、葉緑植物の吐き出す遊離酸素で、絶滅させられたに違いない。しかし、その嫌気性バクテリアにも、現在まで生き続けて来た健(したた)かな者(メタノール菌,ボツリヌス菌等)がいる。彼等は、遊離酸素が一杯の地球上にも、そこだけには酸素が無いような場所が例外的に出現し、そうしたところに潜んで、今日まで生き続けて来たのである。メタンガスが吹き出してくるような、腐蝕した沼地の泥の中などが、彼等の恰好の住処(すみか)である。そうした場所は、酸素を好むバクテリアが、酸素の吸い尽くしをしてしまい、酸欠状態になっているのである。
いずれにせよ、嫌気性バクテリアの生き残り戦術は、いわゆる《生態学的な住み分け》によるものだったのである。
光合成を行うバクテリアは、嫌気性バクテリアの中の一つの種として現われてきたようである……遊離酸素(O2)を吐き出す者が嫌気性であるということは、一見可笑(おか)しく思える。しかし、考えてみれば、遊離酸素(O2)が皆無の水中に出現してくるのである。だから、嫌気性でなければならないのが道理なのである。
現世の嫌気性バクテリアには、遊離酸素に触れるとすぐ死滅してしまう偏性嫌気性バクテリア(ボツリヌス菌,破傷風菌,メタノール菌等)と遊離酸素があっても生きて行ける通性嫌気性バクテリア(大腸菌,乳酸菌等)とがある。そして、光合成を行う嫌気性バクテリアは、現在も生存しており、それは、驚くなかれ、前2者の内の偏性嫌気性バクテリアの方に属しているのである。
光合成を行うバクテリアが、嫌気性バクテリアであったとすると、彼等は、自ら吐き出す毒(遊離酸素)で、自からの身体を傷(きず)付けるという、何とも言いようのない馬鹿げた苦労をしていたことになる。当然、彼等は、次第に自己改良の進化を進め、自らを傷つけるようなことにならない生物に進化して行った。彼等は、原形質で出来た細胞膜の外を、頑丈な細胞壁で覆(おお)い、自らが吐き出した毒ガスである遊離酸素(O2)から身を守ったのである。だが、そのお陰で、植物は、硬直した身体を持つことになり、柔軟な行動が、全く出来なくなってしまった。なお、活動をその存在意義とする動物の細胞には、その細胞壁はない。そういうことで、動物は、植物からではなく、遊離酸素(O2)によって破壊されない細胞膜を持つようになった《通性嫌気性バクテリア》を祖先にして誕生して来たのであろうと言われている。
表紙へ