安達論文「神様は、貴方に何を期待しておられるか」

第1章、科学的真理の中に神様のお振る舞いを探す
第2節 生命の誕生と神様
1 生命の進化

(5) 自己改良の進化
[生態学と住み分] この宇宙が、エントロピー増大を大勢とするように、生物界の大勢は、やはり淘汰原理である。地球では炭素資源が多量に逃散して行き、地球生物は、少ない炭素資源を奪い合って生きてきた。そして、カンブリア紀以降は、地球表面の炭素は、殆ど生物体になってしまって、正に生物が生物を食って生きて行くというような状況になってしまっていたのである。そのように、淘汰原理が大勢であるこの地球上を、膨大な量の生物の種が多系進化状態で生息できる状態になるには、エントロピー増大を大勢とするこの宇宙にポテンシャルを創造する場合と同様、何らかのシステム(装置)が必要である。そして、嫌気性バクテリアは、正にそのシステムで命を繋いだのである。
 今西錦司は、そのシステムのことを《住み分け(ハビテイト・セグレゲイション)》と命名した。《種》が夫々一つの《生態的時空》を占有して棲息していることを《住み分け》というのである。視覚に頼る鳥は夜は飛べない。コーモリはその隙に付け込んで、超音波レーダー装置を装備して、夜間の空中を住処(すみか)にした。そのように《住み分け》は、空間だけではなく時間に関しても行なわれている……だから私は、それを《生態的時空》というように《時》の字を加えてそれを呼ぶのである……《住み分け》は地勢や気候でも行なわれるが、食糧に関するものが決定的なようである。
 なお、《住み分け》の考えは、ダーウィンにもあった。ダーウィンの強力な擁護者であったT・ハックスリー(ダーウィンのブルドックと呼ばれた人)は、ダーウィンのその考えを受けて、生物界に生態学的住み分けの状態が出現してくる様子を、次のように巧みに説明している。「まず樽の中にリンゴを入るだけ詰め込む。その場合、まだ小石の入る隙間がある。小石が隅々にまで入り込んだあと、まだ砂がその間に入るだろう。そして、最後にそれに水を注げば、なお相当の量の水がそこに注ぎ込めるはずである」
[1生態的時空に1種が君臨] 地球全体で、優れた生物が最後に唯1種だけ生き残るというような具合にはなり得なかった。だが、淘汰原理が大勢であるので、一つの生態的時空に関しては、そこに1種のみが君臨するという状態にはなった。桑の葉を食う昆虫は、蚕(かいこ)ただ1種しかいない。もちろん、1生態的時空に2種以上が棲息して争っている所もあるだろう。だが、それは一時的な例外現象で、そうした場所でも、早晩生存闘争の決着がついて、結局は優れた者の方が生き残り、1生態的時空に唯1種という状況になるだろう。いずれにせよ、現実には、生物界の大勢は《1生態的時空1種》なのである。 
[同種間の闘争] 《住み分け》によって1生態的時空唯1種という姿になっても、淘汰原理の方は、なお一向に遠慮はしない。淘汰原理は、同種の生物相互の間にもそのまま働く。そして、この地球上での生物の進化は、その1生態的時空を占有する1種の同種相互間に働いた淘汰原理によって齎(もたら)されたものなのである。前述したように、ダーウィンは、著書『種の起源』の第3章の[生存闘争]の項で「闘争は殆ど何時も、同種の個体間において最も厳しい。種を同じくする変種の場合でも、闘争は一般に殆ど同様に厳しい」と述べている。ダーウィンの『種の起源』は、世界中の生物を観察した上での事実の報告なのである。だから、実際に、異種間の淘汰は殆どなく、ダーウィンには、同種間の淘汰の実例ばかりが眼に入って来たのであろう。
[近親淘汰が主である] 「生物は、子孫の繁栄を第一の目的にして生きている」というテーゼがある。その常識的なテーゼと「淘汰は、近親間が主(おも)である」ということとは、形式論理的には、はっきりと矛盾する。だが、現実では、その矛盾は見事に弁証法的に統一されており「全ての生物は《近親淘汰》によって子孫繁栄を果たしている」というのが、実際であるらしい。
 一時巷間でもて囃(はや)されたコンラート・ローレンツの「動物は同種どうし決して殺し合わない。人間だけが自種を殺す唯一の種だ」という説は、マックス・ウェーバーの《価値自由の原則》を犯した、人を教化するための倫理教材作りの典型で、科学的真理ではない。今はそれは、曲学阿世の徒が売名的に行なった説として、厳しい批判の対象になっている。ライオンのハーレムで、雄(おす)どうしの争いでオナーの交代があった場合、新しいオーナーが、前夫の子を全て噛み殺してしまう様子を撮影した映画が、テレビで放映された。多くの進化論関係の書物に『セレゲンティーのライオン』というキーワードで、そのショッキングな映画のことが書かれている。ライオンは、有蹄類を狩りする場合は、食い尽しなどとても出来ない、かなりだらしのない猛獣だが、自種相互に関しては、えらく獰猛(どうもう)なのである。そして、そうした報告から、現在は、科学者の間では「淘汰は、近親淘汰が主」という考えが主流になっている。
[自己改良の進化] 前に「1つの生態的時空に、2種以上が住む状態になると、何れか一方が淘汰され、何時かは必ず、1生態的時空にだだ1種という状況になる」ことを述べた。ところで、1生態的時空に2種以上が住むというような状況は、同種の中に変種が現れた場合が殆どで、縁の遠い種が、そこに乗り込んで来て、同一生態的時空に、2種以上が住むような状況になることは、まず有り得ないのである。
 ある生態的時空に、先従者がいる場合は、侵入者より、先従者の方が、遥かにその生態的時空によりよく適応している。だから、後からそこに侵入して行くというようなことを試みて見ても、それは必ず失敗に終わるのである。他者の占有する生態的時空への侵入には、ニコ・ティンバーゲンが刺魚(とげうお)による実験で証明した「テリトリーでの闘争では、オーナーが必ず勝つ」という鉄則が、そのまま適用されると思う……ティンバーゲンは、その研究で、ノーベル賞を受賞した……コーモリが大空に侵出することができたのも、夜間という生態的時空の隙間に忍び込んで行ったからで、鳥の占拠している生態的時空に侵入出来た分けではない。
 そういうことで、同一生態的時空に2種が同居して争うということは、異種の侵入によって起こるのではなく、その種の変種が現れて、それで起こる場合が殆どなのである。そして、原種と変種が争って優れた方が他を淘汰するという具合で(近親淘汰で)、種がそれぞれの系で、他の種とは無交渉で、独立して自己改良的に進化をして行く。そうした進化が、淘汰論的進化の実際なのである。なお、近親淘汰は、そのように種の自己改良に繋がる分けで、近親淘汰と子孫繁栄は、決して矛盾せず、むしろ逆に、近親淘汰こそが、子孫繁栄の最良の手段なのである。
[遺伝子淘汰論] 新しい資質は、突然変異によって備わる。ところで、突然変異は、いずれか一つの個体にしか現れてこないので、群れ全体が優れた資質をもったものに進化するには、暫く時間が掛かる。群の中の或る一つの個体が、突然変異によって他者とは異なった資質をもって生まれてくる。その新しい資質が、群れの中で有利なものであれば、その変移した個体の子孫が、その群れの中で次第に増加して行き、遂にはその群れの構成員全員が、その変異遺伝子のキャリアになる。もちろん、逆に不利なものであれば、子孫が残り難(にく)いので、その変異遺伝子は、その群れの中からすぐ淘汰されて消えてしまう。そういう具合で、進化はまず《近親淘汰》による群れの資質改善から始まるのである。
 世の中は、1生態的時空に唯1種という状態にある。その唯1種君臨しているその種の中に、そういう具合で、優れた資質を持った1群(変種)が出現してくる。その群れ(変種)と、資質改良の行なわれていない他の群れ(原種)との間に生存競争が起こる。当然、資質改良に成功している群れ(変種)が勝利して、将来に向けてポピュレーションを増加して行き、他の群れ(原種)が、淘汰されて消え失せる。そのようにして、種が、他種とは無関係無交渉で、自己改良的に進化して行く分けである。
 上記の進化経過の内、個体の突然変異で始まり、群れの資質改良が行なわれるまでの進化を《遺伝子淘汰論》と呼び、群れ(変種)が群れ(原種)を淘汰して進展して行く段階の進化を《群淘汰論》と呼んでいる。《群淘汰論》の方は、従来からの常識的な淘汰論だが《遺伝子淘汰論》の方は、動物行動学者(エソロジスト)のR・ドーキンズによって1980年代に提唱されたものである。最初は、ショッキングな理論のため反対者も多かったが、ゲームの理論によるシュミレーションが繰り返され、かなりシビアーな吟味が重ねられて、現在では、それを真理とする学者が殆どである。なお《遺伝子淘汰論》が真理であるなら、当然、淘汰では《近親淘汰》が主軸になるはずである。
[有性生殖を基盤にした進化のための仕組] 前述した《蟻の結婚飛行》《哺乳類等のハーレム制婚姻》《生殖年齢前淘汰》《性器内精子競泳》等の有性生殖を基盤にして構成される種々の進化のための仕組は、つまりはどれも種の資質を自己改良して行くためのものであり、それは《近親淘汰》の具体例の一つでもある。生物が上陸して以降、脊椎動物の進化では、この有性生殖を基盤に据(す)えた進化システムが極めて重要な役割を果たすようになる。そのことについては、この後、追分道の分析の所で詳述するが……いずれにせよ、上陸後の脊椎動物では、淘汰は殆ど《近親淘汰》だったようである。
[ミッシング・リンクは最初から無かった] 種と種の間に位置する中間的種の化石が中々見つからない。古生物学では、それをミッシング・リンクと呼び、そして、何時かわそれが見つかるだろうと期待している。だが、そのように、近親淘汰で自己改良の進化を進め、夫々の種が系統を作って追分的に特殊化の進化を遂げて来たとすれば、中間種の化石が見つからないのも当然で、それは、ミッシング・リンクなどではなく、始めからそれは有りはしなかったのである。
 理科の教科書等に、よく進化の系統樹という絵が描れている。昔のそれは、樅(もみ)の木のような格好をしており、新種が次々と現れて来たように描かれていた。しかし、現在のそれは、根元で一斉に分蘖(ぶんげつ)している禾本科の雑草の絵のようなものに描き変えられている。即ち、種の分化は初期の内に一斉に行なわれ、その後は夫々の系が《近親淘汰》で特殊化の道を歩んで行ったことを示すべく、そのように描かれるようになったのである。例えば、旧世界ザル(狭鼻猿類)と新世界ザル(広鼻猿類)のような近縁な種でも、その分岐は、始新世(哺乳類時代に入って最初の1千万年以内)に行なわれたのである。

表紙へ