安達論文「神様は、貴方に何を期待しておられるか」

第1章、科学的真理の中に神様のお振る舞いを探す
第2節 生命の誕生と神様
1 生命の進化

(7) 追分道から神様の御意向を判読
 淘汰原理は、価値選択の機能である。だから、淘汰原理による進化の状況を検討すれば、生物の進化における神様の御意向が判明して来そうに思える。しかし、これ迄のところをお読みになってお気付きのことと思うが、どうもそうは行かないらしいのである。というのは、ハックスリーの樽を満杯にしている膨大な量の差異の全てが、数億年の年月を掛けて、淘汰原理の適者生存の機能で選ばれてきたところの適者そのものである分けで「ミミズだーって オケラだーって アメンボだーあって みんなみんな 適者なのだよ 友達なんだ」なのである。そういう風だから、そこからは、とても神様の御意向など見出しようがないのである。
 神様の御意向を探索する方法として、別途、追分道の分析があった。生物の進化における追分道は、既に適者として選ばれたものが、自己改良の進化で、道を追分けて進んでいくものばかりである。だから、その追分道の何れが本道で何れが脇道かを判別することができれば、既に適者となって生存しているその膨大な数の生物の内、どれが神様の御意向に沿った生物かが判然としてくるに違いあるまい。ところで、生物の進化は、多系進化や住み分け進化のため、全ての種が、追分道を歩んで行っている。教科書などに載っている進化の系統図を見れば、追分道ばかりになっている様子がよくお分り頂けると思う。それで、ここでは、その中の特別重要だと思われる追分道だけを選んで、そこから、生物の進化における神様の御意向の判読を試みたいと思う。
[神様は活動する生物がご入用であった] 生物の進化が始まってまず最初に現れる重要な追分道は、動物の登場である。動物の登場は、それ以前に、植物の進化が20数億年も行なわれ続けて来ており、そこで改めて起こったもので、前掲の判読方法(後法優先の原則)を適用すれば、やはり、動物の方が神様の御意向に沿った、更に一歩進化を進めた生物ということになる。
 前述では、動物の登場は、二酸化炭素が涸渇し、それを補給するためのものだとした。しかし、その意見を覆(くつがえ)して申し訳ないが、神様が動物をお作りになった本意は、ただそれだけのことではなかったのである。二酸化炭素の補給だけのことなら、植物が今でも行なっている《呼吸作用》をより強化すればそれで十分だったはずである。即ち、神様が、そこで改めて動物という構造的に全く異質な新しい生物をお作りになったのは、もっと重要な目的があってのことだったのである。動物の特徴(イデア=本質)は、呼吸して炭素を酸化させ、その酸化エネルギーを消費して《活動》をするところにある。そして、結論から先に言うと、どうやら神様は、その活動をする生物がお入り用だったのである。《活動》の価値については、後で詳述する。
[動物が同化作用をしない不思議] 動物が同化作用を行なわないということは、考えて見ると、些(いささ)か不思議なことなのである。炭酸同化は、大変高度な生体機能で、動物が、炭酸同化を止めたことは、進化というより、寧ろ退化というべき変化なのである。神様が、植物より更に進化した生物をとお考えなら、同化作用も行なえ、更に酸素呼吸も行なえる生物をお作りになった方がより合理的であったはず。だが、神様は、そうはなさらなかった。
 何故、神様は、動物に炭酸同化が出来ないようになさったのだろうか?……動物の活動は、専ら食料探しのときに行なわれている。そして、その生死に係わる食料探しのために、動物の活動能力は、今日まで進化し続けて来たのである。若し、動物に炭酸同化が行なえたら、そこにじっとしていても十分栄養が摂取出来、食料探しのために活動する必要などなくなる。活動の必要がなければ、活動能力の進化も殆ど行なわれず仕舞であったであろう。即ち、神様は、食糧探しで、動物の活動能力を鍛(きた)えるべく、動物には同化作用が出来ないようになさったのである。いずれにせよ、動物に同化作用が出来ないということは、神様が、《活動》する生物を作り出そうとしておられたことの、大きな証拠と言えると思う。
[脊椎動物と節足動物] 追分道で重要なのは、脊椎動物と節足動物の追分けである。節足動物は、今でも隆盛を極めている。種(差異)の数量という点では、脊椎動物は、節足動物の足下(あしもと)にも寄れないだろう。だから、若し、生物の進化が種の数の増加(差異の増殖)を目的とするものだったら、当然、節足動物の進化の道が本道だったことになる。だが、どうもそうではなかったらしい。
 節足動物の身体の築造技術には、外骨格という構造が採用されている。どうやらそれが両者の明暗を分けたようである。外骨格では、脱皮ということを行なわないと成長できない。脱皮は、身体の何十%というような多量の部分をその都度捨てることになり、大層不経済である。そうした関係で、外骨格の動物は、大型化の進化で大きなハンディキャップを背負うことになった。大型化が出来なければ、体内の機械的機能の高度化にも、極めて不利である。量から質への転換の法則から、量が少なければ、質的高度化もすぐ限界に到達してしまう。小さな蜜蜂の頭の中には、人間の脳のような大容量のコンピュータはとても納(おさま)らない。そういうことで、節足動物には、多分神様も、最初はかなりの期待を持ってそれをお作りになったのだと思う。だが結局それは、神様の試行錯誤品の一つになってしまったのである。
 カンブリア紀(6億年前)には、脊椎動物を除く他の殆どの門段階の動物が登場している。脊椎動物一つだけが、どういう分けか、それから4千万年程遅れてオルドビス紀になって登場して来る。ひょとすると、神様は、最初は節足動物に御自身の目的を果たさせるお積もりでおられたのかもしれないのである。カンブリア紀の末期には、アノマロカリスの様な、恰(あたか)もこの地球の支配者のように振る舞っていた節足動物がいた。しかし、神様は、その後、外骨格等のミスに気付かれて、節足動物を見捨てて、改めて脊椎動物を作り出されたのではないかと思う。いずれにせよ、他の門の動物は、全部カンブリア紀に出現しているのに、オルドビス紀になって、改めて脊椎動物を作り足されたということ一つを見ても、脊椎動物の進化の道が本道であることは確かなようである(後法優先の原則)。なお、大型化は内骨格の脊椎動物の専売特許であった。恐竜やクジラのような超巨大な動物の出現も、脊椎動物なればこそのものである。量から質への転換の法則から、ある程度大型にならなければ、体内機能の高度化に期待が持てない。きっと、そういうことで、神様は、改めて、脊椎動物を作り足されたのである。
 この追分からは、神様の御意向が、かなりはっきりと判(わ)かって来る。神様は、質的に高度な(ポテンシャルの高い)機能を備えた動物を作り出そうとしておられるのである。
[生物の上陸] シルリア紀(4億年前)になって生物の上陸が始まった。嘘のようだが、陸上は、それまでは生物など全くいない赤裸かの砂漠状態だったのである。この生物の上陸に当っての追分道だが、これも先ず《改めてそこで》の論理で、上陸者の方を本道と考えて差し支えなかろう。ところで、上陸は、植物と動物の複数の種によって果たされている。その場合は、当然最後に上陸してきた脊椎動物(両棲類)の道が本道である(後法優先の原則)。
 生物の上陸の場合は、その後の進化を見ると、どちらが本道だったかは、更にはっきりする。海の脊椎動物は、その後も魚類だけで、それ以上の分化を全くせずに今日まで来てしまった。それに対して、陸上の脊椎動物は、その後一気に進化の速度を速めて、爬虫類,哺乳類,鳥類というよに、三っつに分化し、進化を重ねて今日に至っている。
[追い付け追い越せ] この生物の上陸に関しては、一つコメントをして置かなければならない重要な問題がある。というのは、上陸してきた脊椎動物が、その時点での海のエリートではなかったらしいということである。強い魚に追われて、飛び魚が空中を飛んで逃げるように、ハゼのような魚がしょっちゅう陸上に待避したりしていた。その待避時間が次第に長くなり、そのうち気嚢で酸素が摂取出来るようになり、遂に両棲類になったのである。上陸はそんな具合で行なわれた。即ち、上陸した脊椎動物は、その頃の魚類の中では、かなり進化の遅れた、いわば落ちこぼれ的動物だったのである。そうだとすると、そこでは、その進化の劣等生が、上陸後その遅れを取り戻し、更に海のエリートを追い越して行くという、ちょっと珍しいことが起っていることになる。生物の進化では、何か特別のことが無ければ、そうしたことは起らないはずである。その特別なことがなんであったかだが?
[交尾式生殖] 上陸に当って、新たに身に付けた機能として念頭に浮かぶのは、肺呼吸と足による歩行の二つだと思う。だが、この二つには、進化のスピードをアップするような機能は備わってはいない。上陸するに当って、どうしても身に付けなければならなかった機能で、あまり学術界で重視されない機能がもう一つある。《交尾》により体内受精させる生殖である。有性生殖を土台にして、各種の優性選択のシステム(性器内精子競泳,ハーレム式婚姻等)が構築できることは前述した。ところで、水中の動物の場合は、雌雄が同時に排卵と放精を行い、後は水任(まか)せの生殖である。水任(まか)せでは、例(たと)え有性生殖を行なっていても、確実性のある優性選択のシステムなど作り出せない。実は、優性選択のシステムは、《交尾式生殖》なればこそのものなのである。即ち、上陸した動物達は《交尾式生殖法》を身に付けて、優性選択のシステムをフルに使って、進化のスピードを一気に加速して行ったのである。なお、《交尾式生殖》は、脊椎動物では爬虫類,哺乳類,鳥類の三類だけである。節足動物では昆虫類,蜘蛛類,多足類等上陸したものの全てがそれを行っているようである。両棲類は、まだ生殖は水任(まか)せである。だから、両棲類は、山椒魚を見ても分かるように、他の上陸した脊椎動物に比較して、かなり進化が遅れている。魚の中でも、鮫だけは《交尾式生殖》を行なっている。だから、鮫にはジンベイ鮫や巨大なマンタのように、桁外れに大きく進化したものが現れている。
[定向進化] 6千万年の間、馬が只管(ひたすら)大きくなり続けてきたような進化や、マンモスの牙や孔雀の尾羽根のように、若干《行き過ぎ》の観がある進化のことを《定向進化》と呼ぶ。そうした進化は、突然変異と淘汰原理だけでは起るはずのない進化である。《定向進化》は、今は、雌(めす)の好みによって形成されるハーレム式婚姻によってのみ起る進化だとされている。孔雀は、雌(めす)が尾羽根の美しい雄(おす)のところに集まって、ハーレム式生殖を繰り返してきた。その結果、孔雀の尾羽根は、あのように美しいものになったのである。そうだとすれば、巨大化は《交尾式生殖》をやる者の専売特許ということになる(恐竜,鯨,バルキテリューム,マンモス,ジンベイ鮫,マンタ)。そして、その巨大化が、交尾式生殖の専売特許であるということは、優性選択の威力が絶大であることのよき証拠でもある。神様は、動物の最後の仕上げを《交尾式生殖》による優性選択の仕組みを活用して行なおうとなさり、生物に上陸をお命じになったのである。
[行き過ぎの進化] 交尾式生殖を基盤にした優勢選択は《行き過ぎの進化》を齎(もたら)す。この場合、行き過ぎの意味だが……孔雀の尾羽根などの場合、その美しさというようなポテンシャルの面には行き過ぎなど存在しない。行き過ぎは、尾羽根の効用に関してのことである。効用という価値には、極大の変曲点があり、そこを越えると、逆に効用が減ずることになるというような性質がある。だから、生存の効用には行き過ぎがあるのである。
 武器の用を成さなくなった、マンモスやサーベルタイガーの伸び過ぎた牙や大きくなり過ぎた大角鹿の角などが、その典型例である。
 即ち、ここでいう進化の行き過ぎは、生存の効用に関して言われているもので、ポテンシャルの高低に関して言われているものではないのである。
 ところで、神様は、その行き過ぎを起こす交尾式生殖を、一向に是正しようとはなさっておられない。神様は、中性子の場合には、すぐそれを陽子にお変えになった。外骨格の動物の場合には、4千万年で脊椎動物を作り出し、それを脇道(わきみち)に退けられた。だが、神様は交尾式の生殖の方は、3億年もそれをそのままにして置かれている。そうしたことから見て、我々は孔雀の尾羽根やマンモスの牙を進化のし過ぎと考えるが、神様は、それを進化のし過ぎなどとは思っておられないのである。即ち、生物の進化で、神様が求めておられるのは、生存にとっての効用ではなく、孔雀の尾羽根のような、ただ純粋に、質的に高度なもの、即ち《ポテンシャル》なのである。

表紙へ